いつもと同じ通学路。同じ時間、同じ改札。
駅のアナウンスも、パン屋の匂いも、前を歩く学生の背中も、昨日までと何一つ変わらないはずなのに――なぜか、胸の奥だけが、いつもより少しだけ騒がしかった。
理由なんて、考えなくても分かっている。
分かっているからこそ、無意識に、いつもより足取りが重くなっていた。
教室に入ると、もうみんな揃っていて、相変わらず朝から騒がしい。
「伊織、おはよーさん」
「今日の数学、小テストやって。死亡確定やわ」
「保護者召喚フラグ立ってんねんけど」
「修学旅行もうすぐやのに! それは避けなアカンで」
くだらない叫び声と笑い声が、教室を満たす。
いつも通りの声。
いつも通りの光景。
ちゃんと“日常”に戻っている、はずなのに――
俺は、無意識のうちに久保を探していた。
窓際の席。椅子に浅く腰かけて、片手でスマホをいじっている後ろ姿。
いつもと変わらない仕草のはずなのに、久保が居るだけで、嬉しさを覚えた。
ふと、久保が顔を上げた瞬間、目が合った。
……やば。
ほんの一瞬だったのに、心臓がどくんと跳ねる。
昨日の夜のことが、フラッシュバックみたいに一気に頭をよぎって、慌てて視線を逸らした。
「おっす、久保。なんか顔色ええな」
田中が、何気ない調子でそう聞く。
「いや、別に普通だけど――」
「伊織とは、夫婦喧嘩の仲直りしたん?」
山根もくすくす笑いながら言ってきて、俺は「夫婦」というワードに一気に顔が熱くなる。
みんなは本当のことを知らないけど、その冗談だけはマジで笑えない。
そう思ったのは、久保も同じだったみたいで。
「何それ……うぜぇんだけど、まじで」
「うぜぇじゃねーだろ! 不機嫌大魔王! 俺らがこの数日、どんだけ胃薬飲んだ思てんねん!」
ぎゃはは、と周りが笑う。
「でも、まぁ……ちゃんと仲直りしたっぽいしな?」
「昨日より空気いい感じじゃん」
そう言われて、俺と久保は、ほとんど同時に顔を上げた。
目が合う。
一秒。
二秒。
時間にしたらほんのわずかなのに、すごく長く感じる。
結局、どっちからともなく、気まずそうに視線を逸らした。
「ほらほら、やっぱなんかあるやん!」
「なん? 正直に言えや」
またからかわれて、俺は「やめて」と言い返しながらも、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
仲直り――
確かに、喧嘩はしてない。
確かに、もう避けてもいない。
でも、昨日の夜を知る前と、まったく同じ関係には、もう戻れていない気がした。
*
授業中も、黒板の文字を追いながらも、意識は何度も隣へ引っ張られる。
久保は隣の席。
シャーペンを回す指。ノートに走る文字。
たまに小さく伸びをする肩。
ただそれだけの、何でもない動作なのに、全部がやたらと目に入る。
――意識しすぎ。
自分で分かってるのに、どうしても止まらなかった。
チャイムが鳴って、次の授業へ移動する時も。
廊下は人でごった返していて、流れに押されるみたいに歩いていたら、ふいに、肩がぶつかった。
「あ、ごめ……」
言いかけて、相手が久保だと気づく。
「……」
「……」
一瞬、言葉が詰まる。
周囲のざわめきが遠のいて、意識を全部持っていかれる。
俺のぽかんとした顔を見て、久保は小さく笑って言った。
「急いでた?」
「……うん、ちょっと」
「そっか」
それだけ。
それだけのやり取りなのに、胸の奥が、さっきよりも少しだけあったかくなった。
*
昼休みになると、今度は修学旅行の話題一色だった。
行動班、ホテル、沖縄そば、シーサー、海。
「なあなあ、キャリーにカップ麺忍ばせて、夜なったら皆で部屋で食おうや」
「え、それ空港の検査で引っかからん? バレたら没収のやない?」
「液体類の話やのうて? 伊織、空港のルール知っとる?」
またいつもの調子で絡まれて、俺も笑って返す。
久保は呆れた様に、田中と山根を見てい言った。
「……お前ら、浮かれすぎ」
「久保だって内心楽しみなくせに〜」
「お前らと違って、修旅で騒ぐほどガキじゃない」
口ではそう言いながら、久保の口元は――ゆるんでいた。
ほんの一瞬、笑いを堪えきれずにこぼれた小さな笑み。
「あぁ? 誰がガキやって? このスカシ、ええ加減にせぇよ」
「そない言う奴は捕まえて、こうしたるわ!」
田中と山根が、獲物を見つけたみたいに飛びつき、
そのまま久保を羽交い締めにして脇腹を容赦なくくすぐり始めた。
「やめろっ……ば、バカ、死ぬ……っ!」
珍しく声を上げて笑う久保。
くすぐられて、ぐしゃぐしゃになった顔のまま、それでも必死に笑いながら抵抗している。
――あれ。
その表情を見た瞬間、胸が、きゅっと縮む。
理由なんて分からない。
苦しいような、温かいような、息が吸いづらいような――そんな感覚だけが残る。
なんだよ、これ。
本当に、どうかしてる。
「今から、ナンジャモンジャやろうや〜!!」
田中が叫ぶと、川内と山根は「うおおお!」と一気に沸き上がった。
机を叩く音、ふざけた声、意味のない雄叫び。
「あの、やたら脚長いやつおるやん? あれは『クボっち』で永久固定な」
「当たり前やんそんなん。 半目で寝てるみたいな顔のは『ウミノ』やで」
「折角やし、『イオリ』も追加しようや、伊織に似とるキャラおる?」
その喧騒の真ん中で、ふと視線を上げると――久保と目が合った。
今度は、逸らさなかった。
久保も逸らさなかった。
笑っているわけでもない。
照れているわけでもない。
ただ、まっすぐに見てくる。
そして――俺達は同時に、ふっと笑った。
久保が、俺のことをどう思っているのかは気になるけれど。
それ以上に、今はこうして過ごす時間が好きで。
俺は……久保が笑ってくれていれば、嬉しくて。
今はそれでいいし、それ以上先に進むことも、想像がつかなかった。
教室の黒板のすぐ横。
白いチョークが何度も上書きされたせいで、数字の部分だけがやけに白く濁っている。
『修学旅行まで あと九日!』
指でなぞれば粉が落ちそうなくらい、何度も書き直された跡。
薄暗くなり始めた夕方の光が、その文字をぼんやり照らしていた。
駅のアナウンスも、パン屋の匂いも、前を歩く学生の背中も、昨日までと何一つ変わらないはずなのに――なぜか、胸の奥だけが、いつもより少しだけ騒がしかった。
理由なんて、考えなくても分かっている。
分かっているからこそ、無意識に、いつもより足取りが重くなっていた。
教室に入ると、もうみんな揃っていて、相変わらず朝から騒がしい。
「伊織、おはよーさん」
「今日の数学、小テストやって。死亡確定やわ」
「保護者召喚フラグ立ってんねんけど」
「修学旅行もうすぐやのに! それは避けなアカンで」
くだらない叫び声と笑い声が、教室を満たす。
いつも通りの声。
いつも通りの光景。
ちゃんと“日常”に戻っている、はずなのに――
俺は、無意識のうちに久保を探していた。
窓際の席。椅子に浅く腰かけて、片手でスマホをいじっている後ろ姿。
いつもと変わらない仕草のはずなのに、久保が居るだけで、嬉しさを覚えた。
ふと、久保が顔を上げた瞬間、目が合った。
……やば。
ほんの一瞬だったのに、心臓がどくんと跳ねる。
昨日の夜のことが、フラッシュバックみたいに一気に頭をよぎって、慌てて視線を逸らした。
「おっす、久保。なんか顔色ええな」
田中が、何気ない調子でそう聞く。
「いや、別に普通だけど――」
「伊織とは、夫婦喧嘩の仲直りしたん?」
山根もくすくす笑いながら言ってきて、俺は「夫婦」というワードに一気に顔が熱くなる。
みんなは本当のことを知らないけど、その冗談だけはマジで笑えない。
そう思ったのは、久保も同じだったみたいで。
「何それ……うぜぇんだけど、まじで」
「うぜぇじゃねーだろ! 不機嫌大魔王! 俺らがこの数日、どんだけ胃薬飲んだ思てんねん!」
ぎゃはは、と周りが笑う。
「でも、まぁ……ちゃんと仲直りしたっぽいしな?」
「昨日より空気いい感じじゃん」
そう言われて、俺と久保は、ほとんど同時に顔を上げた。
目が合う。
一秒。
二秒。
時間にしたらほんのわずかなのに、すごく長く感じる。
結局、どっちからともなく、気まずそうに視線を逸らした。
「ほらほら、やっぱなんかあるやん!」
「なん? 正直に言えや」
またからかわれて、俺は「やめて」と言い返しながらも、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
仲直り――
確かに、喧嘩はしてない。
確かに、もう避けてもいない。
でも、昨日の夜を知る前と、まったく同じ関係には、もう戻れていない気がした。
*
授業中も、黒板の文字を追いながらも、意識は何度も隣へ引っ張られる。
久保は隣の席。
シャーペンを回す指。ノートに走る文字。
たまに小さく伸びをする肩。
ただそれだけの、何でもない動作なのに、全部がやたらと目に入る。
――意識しすぎ。
自分で分かってるのに、どうしても止まらなかった。
チャイムが鳴って、次の授業へ移動する時も。
廊下は人でごった返していて、流れに押されるみたいに歩いていたら、ふいに、肩がぶつかった。
「あ、ごめ……」
言いかけて、相手が久保だと気づく。
「……」
「……」
一瞬、言葉が詰まる。
周囲のざわめきが遠のいて、意識を全部持っていかれる。
俺のぽかんとした顔を見て、久保は小さく笑って言った。
「急いでた?」
「……うん、ちょっと」
「そっか」
それだけ。
それだけのやり取りなのに、胸の奥が、さっきよりも少しだけあったかくなった。
*
昼休みになると、今度は修学旅行の話題一色だった。
行動班、ホテル、沖縄そば、シーサー、海。
「なあなあ、キャリーにカップ麺忍ばせて、夜なったら皆で部屋で食おうや」
「え、それ空港の検査で引っかからん? バレたら没収のやない?」
「液体類の話やのうて? 伊織、空港のルール知っとる?」
またいつもの調子で絡まれて、俺も笑って返す。
久保は呆れた様に、田中と山根を見てい言った。
「……お前ら、浮かれすぎ」
「久保だって内心楽しみなくせに〜」
「お前らと違って、修旅で騒ぐほどガキじゃない」
口ではそう言いながら、久保の口元は――ゆるんでいた。
ほんの一瞬、笑いを堪えきれずにこぼれた小さな笑み。
「あぁ? 誰がガキやって? このスカシ、ええ加減にせぇよ」
「そない言う奴は捕まえて、こうしたるわ!」
田中と山根が、獲物を見つけたみたいに飛びつき、
そのまま久保を羽交い締めにして脇腹を容赦なくくすぐり始めた。
「やめろっ……ば、バカ、死ぬ……っ!」
珍しく声を上げて笑う久保。
くすぐられて、ぐしゃぐしゃになった顔のまま、それでも必死に笑いながら抵抗している。
――あれ。
その表情を見た瞬間、胸が、きゅっと縮む。
理由なんて分からない。
苦しいような、温かいような、息が吸いづらいような――そんな感覚だけが残る。
なんだよ、これ。
本当に、どうかしてる。
「今から、ナンジャモンジャやろうや〜!!」
田中が叫ぶと、川内と山根は「うおおお!」と一気に沸き上がった。
机を叩く音、ふざけた声、意味のない雄叫び。
「あの、やたら脚長いやつおるやん? あれは『クボっち』で永久固定な」
「当たり前やんそんなん。 半目で寝てるみたいな顔のは『ウミノ』やで」
「折角やし、『イオリ』も追加しようや、伊織に似とるキャラおる?」
その喧騒の真ん中で、ふと視線を上げると――久保と目が合った。
今度は、逸らさなかった。
久保も逸らさなかった。
笑っているわけでもない。
照れているわけでもない。
ただ、まっすぐに見てくる。
そして――俺達は同時に、ふっと笑った。
久保が、俺のことをどう思っているのかは気になるけれど。
それ以上に、今はこうして過ごす時間が好きで。
俺は……久保が笑ってくれていれば、嬉しくて。
今はそれでいいし、それ以上先に進むことも、想像がつかなかった。
教室の黒板のすぐ横。
白いチョークが何度も上書きされたせいで、数字の部分だけがやけに白く濁っている。
『修学旅行まで あと九日!』
指でなぞれば粉が落ちそうなくらい、何度も書き直された跡。
薄暗くなり始めた夕方の光が、その文字をぼんやり照らしていた。



