駅前のコンビニの前は、いつもと変わらず明るいのに、やけに静かだった。
俺は入口の横に立ったまま、ポケットから何度もスマホを取り出しては、ロック画面を確認した。
――まだ、来ない。
たった数分のはずなのに、やけに長く感じる。
心臓の音だけが、大きく耳に響いていた。
「久保……」
無意識に名前が零れた、その瞬間だった。
遠くの方から、アスファルトを蹴る少し乱れた足音が聞こえてくる。
息を切らした久保は、俺を見つけた途端、ほんの一瞬だけ足を止めた。
まるで、近づいていいのか迷っているみたいに。
その様子は、いつも学校で見せる“生徒会長の久保”と違っていた。
いつもきちんと整っている前髪は乱れ、顔色は青白い。
そして何より――生気がなくて、死んでいるみたいに目に光がなかった。
「……ごめん、急に呼び出して」
声をかけると、久保は小さく頷いて、俺の前まで歩いてくる。
でも、最後まで視線は上がらなかった。
「いや……」
短く、それだけ。それきり、会話は続かなかった。沈黙が、肩に圧し掛かるように重かった。
コンビニの蛍光灯が、二人の影を地面にくっきり落とす。
白っぽい光に照らされた久保は、いつもより頼りなく見えた。
「……さっきの電話」
俺がそう切り出すと、久保の肩が小さく揺れた。
「聞こえてた?」
「……うん」
それだけで、全部伝わった気がした。
久保は小さく息を吐き、ポケットに手を突っ込む。
「ごめん。ああいうの……聞かせたくなかった」
「そんなの、どうでもいいよ」
思わず、きつい声が出た。
自分でも驚くほど、感情が乗っていた。
「それより、久保……顔、ヤバいよ」
久保は一瞬きょとんとした顔をして、
それから、少しだけ困ったように笑った。
「……そう?」
その笑顔が、無理して作ったものだって、痛いほど伝わってきて――胸の奥で、何かがぷつんと切れた。
「新田?」
名前を呼ばれたけど、止まらなかった。
理由も、説明も、正しさも、今はどうでもよかった。
久保が、ここにいる。
それだけで、もう十分だった。
両手で久保の背中を引き寄せて、そのまま、強く抱きしめた。
「……っ」
驚いた息が降ってくる。
「新田、人が――」
「いいから」
遮るように、さらに腕に力を込める。
秋の夜の空気は、吐く息が白くなるほど冷たくて。
でも、その中で触れた久保の体だけは、はっきりと温かい。
「……っ、ごめん……」
低く震える声が聞こえて、すぐに俺は背中を何度もさすった。
逃げ場を探すみたいに、俺のパーカーの裾を掴む指先。
その弱々しい仕草を見ただけで、もっと強く抱きしめたい気持ちでいっぱいになる。
助けたいとか支えたいとか、そんな言葉すら追いつかない、本能みたいな衝動が湧き上がる。
さっきまで俺の中でくすぶっていた蟠りなんて、もう影ひとつ残っていなかった。
「我慢しなくていいよ。
全部……今、吐きだしてよ。俺が聞くから」
その言葉が、最後の支えだったみたいに。
久保の体から、ふっと力が抜け落ちるのが分かった。
「……っ、く……」
喉の奥で押し潰したみたいな嗚咽が、何度も漏れる。
久保は俺の肩口に額を押しつけ、そのまま崩れ落ちないように縋るみたいにしがみついてくる。
腕にかかる力は弱いのに、どこか必死で、切実だった。
「……もう……嫌だ……」
その声は、聞いたことがないほど弱々しくて、ひどく幼くて。
全身が震えたまま、久保の体重がゆっくり俺に預けられていく。
なんとか立っていたのは、本当に気力だけだったんだ、と分かった。
「家も……学校も……ちゃんとしてるつもりなのに……
俺……全部、完璧にやってるのに……なんで、こんな……っ」
言葉の合間に苦しそうな息が混じり、喉が詰まるように震えている。
俺は何も言わず、ただ久保の背中をゆっくり撫で続けた。
触れている手から、少しでも温度を渡したかった。
「そうだよね。久保……今は大丈夫だから、安心して。俺が側に居るから」
どれくらいそうしていたのか、時間の感覚は完全に消えていた。
冷たい風も、周りの雑音も、すべて遠くに追いやられて、俺たちの間にあるのは体温と息づかいだけだった。
やがて、久保の呼吸が少しずつ、ゆっくりと整っていく。
さっきまで震えていた肩も、次第に静かになり、ようやく自分で立てるくらいには落ち着いたようだった。
「……場所、変えよっか」
そう声をかけると、久保は小さくうなずいた。
俺たちは人通りの少ない方向へ歩き、コンビニの横にある、小さな公園へ移動した。
外灯がひとつだけ、ぼんやりと夜を照らしている。
時折、車のライトが道を横切るのを、何回か見送った頃。
しばらくして――夜風に揺れた落ち葉が鳴るのと同じくらい小さく、久保がぽつりと呟いた。
「……あのさ」
その声に、自然と背筋が伸びる。
「うん」
返事をすると、久保は何かを飲み込むように小さく息をついた。
「……飛行機の話、なんだけど」
その一言で、胸がぎゅっと痛む。
ずっと避けてきた話題だ。
けれど――今の久保の表情を見たら、もう逃げられなかった。
「……あれは、俺にとっては面白い話とかじゃなくて……伊織が転校してくる前に、恋バナとして話したことなんだ」
「え……恋バナ?」
声にならない驚きが口の奥で疼き、思わず息を詰めた。
言葉を受け止める前に、頭の中で何本もの考えが折り重なり、ぐるぐると回る。
久保は、小さく息を整え、慎重に、ひとつずつ言葉を紡ぎ始める。
「……飛行機で泣きながら“手を繋いでほしい”って頼んできた伊織を見てさ。
あの時はただ……放っておけなくて繋いだ。
深い意味なんてなかったんだ。ほんとに」
その「ほんとに」の余白に、言い切れない重さが滲む。
手の震えを見て、予想外の緊張が波のように押し寄せる。
「……降りたらそれで終わり。二度と会わない、一瞬の出来事。
そう思ってたんだけど……ずっと忘れられなかった。
何回も何回も思い出して……」
それは、共感できた。俺も、あの時の温度や声を、何度も思い返していたから。
でも、その後に続いた言葉は、予想していないものだった。
「何でこんなに気になるんだろう、って自分でも自覚してなくて。
後から気づいたんだ。ああ……俺、この人のこと、好きなんだって」
頭の中で、何かがずしんと音を立てて崩れた。
思考が整理できないまま、言葉を紡ごうとしても声にならない。
逃げたい、でもこの場から離れたくもない。
戸惑いと、胸の奥でこみ上げる何かが、ぐちゃぐちゃになって絡まっていく。
「まさか、その……伊織が転校して来るなんて、夢にも思ってなかった」
久保の声は震え、目はまだ伏せられたままだった。
「アイツらに恋バナを振られた時さ、
“どうせ一生会えない子だから”って……
ほんのエピソードのひとつみたいに話したんだ。
俺が名前も知らない子に勝手に失恋したって、爆笑して……
それで、全部終わった話になって」
その言葉を聞いた時、俺はてっきり、
名前を伏せられているとはいえ、
あの日の出来事そのものを、笑いものにされていたんだと思っていた。
でも――どうやら、そうじゃなかったらしい。
「すぐにそんな話、アイツらも忘れると思ったし、
伊織には『初対面のふりをしよう』って提案したけど……
本当はさ、
アイツらに、その相手が伊織だってバレるのも怖かったし、
伊織に知られて、引かれるのも怖かった。
全部……
俺が、自分を守るためについた嘘なんだ」
そこまで一気に言ったあと、久保は唇をきつく結び、肩がわずかに上下する。
喉の奥で息が震えているのが分かった。
「でも……俺がついたその嘘のせいで、伊織が傷ついた。
最低だよな。……伊織は、俺なんかのために一生懸命やってくれてたのに……
なのに俺、ずっと狡くて……本当に、ごめん……」
最後の声は、普段の様子からは想像も付かないほど細かった。
「……久保」
名前を呼ぶと、久保はおそるおそる顔を上げた。
叱られるのを待っている子どもみたいな目だった。
「俺……怒ってないよ。びっくりはしたけど」
やっと絞り出した声は、情けないほど頼りなかった。
久保の目が、不安と期待のあいだでゆっくり揺れている。
「本当に……?」
「うん」
それが今の俺の限界だった。
「俺はてっきり、久保が面白おかしく話したんだと思ってた。でも……そうじゃないって分かったし。
俺もここ最近、目逸らしたり避けたりして……感じ悪かったよね。ごめん」
静かな沈黙が落ちる。
でもその沈黙は、さっきまでの冷たいものじゃなくて、曖昧な空気だった。
「いや、伊織は謝る事何にも無いって……そうさせたのは、俺のせいなんだし。
でも……もしできれば、伊織に許してほしいって思ってる」
「ぜ、全然……。もういいよ。誤解だったって分かったし」
本当は、もっと聞きたいことがある。
――久保は、今でも、俺のことを好きなの?
でも、もしそれを口にしてしまえば、きっと友達には戻れない。
仲直りはできたのに、まさかこんな形で――久保の好意を知ることになるなんて、思ってもみなかった。
その事実だけが胸の奥を締めつけ、言葉は喉に引っかかったまま、飲み込まれていった。
「そろそろ……帰らないとヤバいかも」
久保が立ち上がり、俺もワンテンポ遅れて立ち上がる。どう振る舞えばいいのか分からないまま。
「……明日、学校、来る?」
「来るに決まってるだろ」
中途半端な会話のせいで、俺達はギクシャクした会話しか出来なかった。
けれどその返しだけは、いつもの久保で。
それが嬉しくて、俺は小さく笑った。
「じゃあ……おやすみ」
「……うん、また明日」
久保は、ゆっくりと逆の方向へ歩き出した。
さっきまで抱きしめあった体温が、肌にまだ残ってる気がする。
歩き出して、しばらく進んだ後――ふと、足が止まった。
振り返るつもりなんてなかったのに、身体が勝手に向き直っていた。
そして、気づく。
ちょうど同じ瞬間に、久保もこちらを向いていたことに。
目が合って、二人ともほんの一瞬、息が止まる。
声は届かない距離なのに、何かが伝わった気がして、
どちらからともなく、小さく手を上げた。
それだけだった。
そっと手を下ろし、また背を向ける。
――明日から、どんな顔して話せばいいんだろう。
“好かれていた”と知った時に込み上げた、
どうしようもない恥ずかしさ。
ちゃんと誤解が解けて、
また向き合えたことへの安堵と嬉しさ。
そして――これから久保とどう接していけばいいのか分からない、不安。
それら全部がごちゃ混ぜになって、歩くたび、影のように足元へまとわりついていた。
俺は入口の横に立ったまま、ポケットから何度もスマホを取り出しては、ロック画面を確認した。
――まだ、来ない。
たった数分のはずなのに、やけに長く感じる。
心臓の音だけが、大きく耳に響いていた。
「久保……」
無意識に名前が零れた、その瞬間だった。
遠くの方から、アスファルトを蹴る少し乱れた足音が聞こえてくる。
息を切らした久保は、俺を見つけた途端、ほんの一瞬だけ足を止めた。
まるで、近づいていいのか迷っているみたいに。
その様子は、いつも学校で見せる“生徒会長の久保”と違っていた。
いつもきちんと整っている前髪は乱れ、顔色は青白い。
そして何より――生気がなくて、死んでいるみたいに目に光がなかった。
「……ごめん、急に呼び出して」
声をかけると、久保は小さく頷いて、俺の前まで歩いてくる。
でも、最後まで視線は上がらなかった。
「いや……」
短く、それだけ。それきり、会話は続かなかった。沈黙が、肩に圧し掛かるように重かった。
コンビニの蛍光灯が、二人の影を地面にくっきり落とす。
白っぽい光に照らされた久保は、いつもより頼りなく見えた。
「……さっきの電話」
俺がそう切り出すと、久保の肩が小さく揺れた。
「聞こえてた?」
「……うん」
それだけで、全部伝わった気がした。
久保は小さく息を吐き、ポケットに手を突っ込む。
「ごめん。ああいうの……聞かせたくなかった」
「そんなの、どうでもいいよ」
思わず、きつい声が出た。
自分でも驚くほど、感情が乗っていた。
「それより、久保……顔、ヤバいよ」
久保は一瞬きょとんとした顔をして、
それから、少しだけ困ったように笑った。
「……そう?」
その笑顔が、無理して作ったものだって、痛いほど伝わってきて――胸の奥で、何かがぷつんと切れた。
「新田?」
名前を呼ばれたけど、止まらなかった。
理由も、説明も、正しさも、今はどうでもよかった。
久保が、ここにいる。
それだけで、もう十分だった。
両手で久保の背中を引き寄せて、そのまま、強く抱きしめた。
「……っ」
驚いた息が降ってくる。
「新田、人が――」
「いいから」
遮るように、さらに腕に力を込める。
秋の夜の空気は、吐く息が白くなるほど冷たくて。
でも、その中で触れた久保の体だけは、はっきりと温かい。
「……っ、ごめん……」
低く震える声が聞こえて、すぐに俺は背中を何度もさすった。
逃げ場を探すみたいに、俺のパーカーの裾を掴む指先。
その弱々しい仕草を見ただけで、もっと強く抱きしめたい気持ちでいっぱいになる。
助けたいとか支えたいとか、そんな言葉すら追いつかない、本能みたいな衝動が湧き上がる。
さっきまで俺の中でくすぶっていた蟠りなんて、もう影ひとつ残っていなかった。
「我慢しなくていいよ。
全部……今、吐きだしてよ。俺が聞くから」
その言葉が、最後の支えだったみたいに。
久保の体から、ふっと力が抜け落ちるのが分かった。
「……っ、く……」
喉の奥で押し潰したみたいな嗚咽が、何度も漏れる。
久保は俺の肩口に額を押しつけ、そのまま崩れ落ちないように縋るみたいにしがみついてくる。
腕にかかる力は弱いのに、どこか必死で、切実だった。
「……もう……嫌だ……」
その声は、聞いたことがないほど弱々しくて、ひどく幼くて。
全身が震えたまま、久保の体重がゆっくり俺に預けられていく。
なんとか立っていたのは、本当に気力だけだったんだ、と分かった。
「家も……学校も……ちゃんとしてるつもりなのに……
俺……全部、完璧にやってるのに……なんで、こんな……っ」
言葉の合間に苦しそうな息が混じり、喉が詰まるように震えている。
俺は何も言わず、ただ久保の背中をゆっくり撫で続けた。
触れている手から、少しでも温度を渡したかった。
「そうだよね。久保……今は大丈夫だから、安心して。俺が側に居るから」
どれくらいそうしていたのか、時間の感覚は完全に消えていた。
冷たい風も、周りの雑音も、すべて遠くに追いやられて、俺たちの間にあるのは体温と息づかいだけだった。
やがて、久保の呼吸が少しずつ、ゆっくりと整っていく。
さっきまで震えていた肩も、次第に静かになり、ようやく自分で立てるくらいには落ち着いたようだった。
「……場所、変えよっか」
そう声をかけると、久保は小さくうなずいた。
俺たちは人通りの少ない方向へ歩き、コンビニの横にある、小さな公園へ移動した。
外灯がひとつだけ、ぼんやりと夜を照らしている。
時折、車のライトが道を横切るのを、何回か見送った頃。
しばらくして――夜風に揺れた落ち葉が鳴るのと同じくらい小さく、久保がぽつりと呟いた。
「……あのさ」
その声に、自然と背筋が伸びる。
「うん」
返事をすると、久保は何かを飲み込むように小さく息をついた。
「……飛行機の話、なんだけど」
その一言で、胸がぎゅっと痛む。
ずっと避けてきた話題だ。
けれど――今の久保の表情を見たら、もう逃げられなかった。
「……あれは、俺にとっては面白い話とかじゃなくて……伊織が転校してくる前に、恋バナとして話したことなんだ」
「え……恋バナ?」
声にならない驚きが口の奥で疼き、思わず息を詰めた。
言葉を受け止める前に、頭の中で何本もの考えが折り重なり、ぐるぐると回る。
久保は、小さく息を整え、慎重に、ひとつずつ言葉を紡ぎ始める。
「……飛行機で泣きながら“手を繋いでほしい”って頼んできた伊織を見てさ。
あの時はただ……放っておけなくて繋いだ。
深い意味なんてなかったんだ。ほんとに」
その「ほんとに」の余白に、言い切れない重さが滲む。
手の震えを見て、予想外の緊張が波のように押し寄せる。
「……降りたらそれで終わり。二度と会わない、一瞬の出来事。
そう思ってたんだけど……ずっと忘れられなかった。
何回も何回も思い出して……」
それは、共感できた。俺も、あの時の温度や声を、何度も思い返していたから。
でも、その後に続いた言葉は、予想していないものだった。
「何でこんなに気になるんだろう、って自分でも自覚してなくて。
後から気づいたんだ。ああ……俺、この人のこと、好きなんだって」
頭の中で、何かがずしんと音を立てて崩れた。
思考が整理できないまま、言葉を紡ごうとしても声にならない。
逃げたい、でもこの場から離れたくもない。
戸惑いと、胸の奥でこみ上げる何かが、ぐちゃぐちゃになって絡まっていく。
「まさか、その……伊織が転校して来るなんて、夢にも思ってなかった」
久保の声は震え、目はまだ伏せられたままだった。
「アイツらに恋バナを振られた時さ、
“どうせ一生会えない子だから”って……
ほんのエピソードのひとつみたいに話したんだ。
俺が名前も知らない子に勝手に失恋したって、爆笑して……
それで、全部終わった話になって」
その言葉を聞いた時、俺はてっきり、
名前を伏せられているとはいえ、
あの日の出来事そのものを、笑いものにされていたんだと思っていた。
でも――どうやら、そうじゃなかったらしい。
「すぐにそんな話、アイツらも忘れると思ったし、
伊織には『初対面のふりをしよう』って提案したけど……
本当はさ、
アイツらに、その相手が伊織だってバレるのも怖かったし、
伊織に知られて、引かれるのも怖かった。
全部……
俺が、自分を守るためについた嘘なんだ」
そこまで一気に言ったあと、久保は唇をきつく結び、肩がわずかに上下する。
喉の奥で息が震えているのが分かった。
「でも……俺がついたその嘘のせいで、伊織が傷ついた。
最低だよな。……伊織は、俺なんかのために一生懸命やってくれてたのに……
なのに俺、ずっと狡くて……本当に、ごめん……」
最後の声は、普段の様子からは想像も付かないほど細かった。
「……久保」
名前を呼ぶと、久保はおそるおそる顔を上げた。
叱られるのを待っている子どもみたいな目だった。
「俺……怒ってないよ。びっくりはしたけど」
やっと絞り出した声は、情けないほど頼りなかった。
久保の目が、不安と期待のあいだでゆっくり揺れている。
「本当に……?」
「うん」
それが今の俺の限界だった。
「俺はてっきり、久保が面白おかしく話したんだと思ってた。でも……そうじゃないって分かったし。
俺もここ最近、目逸らしたり避けたりして……感じ悪かったよね。ごめん」
静かな沈黙が落ちる。
でもその沈黙は、さっきまでの冷たいものじゃなくて、曖昧な空気だった。
「いや、伊織は謝る事何にも無いって……そうさせたのは、俺のせいなんだし。
でも……もしできれば、伊織に許してほしいって思ってる」
「ぜ、全然……。もういいよ。誤解だったって分かったし」
本当は、もっと聞きたいことがある。
――久保は、今でも、俺のことを好きなの?
でも、もしそれを口にしてしまえば、きっと友達には戻れない。
仲直りはできたのに、まさかこんな形で――久保の好意を知ることになるなんて、思ってもみなかった。
その事実だけが胸の奥を締めつけ、言葉は喉に引っかかったまま、飲み込まれていった。
「そろそろ……帰らないとヤバいかも」
久保が立ち上がり、俺もワンテンポ遅れて立ち上がる。どう振る舞えばいいのか分からないまま。
「……明日、学校、来る?」
「来るに決まってるだろ」
中途半端な会話のせいで、俺達はギクシャクした会話しか出来なかった。
けれどその返しだけは、いつもの久保で。
それが嬉しくて、俺は小さく笑った。
「じゃあ……おやすみ」
「……うん、また明日」
久保は、ゆっくりと逆の方向へ歩き出した。
さっきまで抱きしめあった体温が、肌にまだ残ってる気がする。
歩き出して、しばらく進んだ後――ふと、足が止まった。
振り返るつもりなんてなかったのに、身体が勝手に向き直っていた。
そして、気づく。
ちょうど同じ瞬間に、久保もこちらを向いていたことに。
目が合って、二人ともほんの一瞬、息が止まる。
声は届かない距離なのに、何かが伝わった気がして、
どちらからともなく、小さく手を上げた。
それだけだった。
そっと手を下ろし、また背を向ける。
――明日から、どんな顔して話せばいいんだろう。
“好かれていた”と知った時に込み上げた、
どうしようもない恥ずかしさ。
ちゃんと誤解が解けて、
また向き合えたことへの安堵と嬉しさ。
そして――これから久保とどう接していけばいいのか分からない、不安。
それら全部がごちゃ混ぜになって、歩くたび、影のように足元へまとわりついていた。



