乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。


「さっき授業中に、びーりある来て焦ったわ、マジ」
「それ、神林に見つかったらガチで死ぬって。放課後の説教、クソ長いし」

 修学旅行を数日後に控えた体育の授業は、どこか浮き足立った空気に包まれていた。
 試合と試合の合間、次の対戦相手が決まるまでのわずかな時間。俺たちは体育館の壁際に腰を下ろし、床の冷たさも気にせず、だらしなく雑談中。
 山根は田中の背後に回り込み、断りもなく髪に指を突っ込んだ。

「あんなー、田中。俺な、将来は天才美容師になる予定やねん」
「おん。ほな、俺のことイケメンにしたってや~」

 ジャージのポケットから取り出した小さなワックスを、山根は面白がるように指先につけて、田中の髪にちょんちょんと馴染ませていく。
 長い前髪をセンターパートにした田中は、窓ガラスの反射でその仕上がりを確認すると、ギャルピースをしながら振り返った。

「おー、似合ってる。さすが一軍どギャル。ビジュええやん」
「うっせ。俺は毎日ビジュいいっつーの!」

 満足げにセットを終えた田中は立ち上がり、最近流行りの曲にのって、キレのあるダンスを披露してみせた――その瞬間だった。

「おい、そこの!」

 速攻で体育の遠藤先生の声が飛ぶ。次の瞬間には、ご指名で田中のフルネームが呼ばれていた。

「はい、解散」
「どんまい田中。遠藤からのご指名入りましたー、ヨイチョ~」
「田中ファイティーン!」

 ゲラゲラ笑いながら手を振ると、田中は振り返って中指を立てる。その挑発が、さらに遠藤先生からの長い説教を招く結果になった。

「あ、俺もびーりある来たわ。伊織、こっち向いて」

 海野に名前を呼ばれ、俺は何の疑いもなく振り向いた。片手にスマホを構えた海野は、最初から撮る気満々!みたいな顔で立っている。

「もー、マジ撮られるの嫌なんだけど……」
「ええから、頬っぺハートして」

 渋々、片手を丸めて頬に当てる。ふて腐れたままの顔でポーズを作った瞬間、シャッター音が鳴り、同時に川内がヤンキー座りのまま声を張り上げた。

「伊織、ガチでメロいんやけど。どこぞのアイドルみたいやな」
「静かにしろってば、俺まで先生に怒られる!」

 顔をしかめたその隙を逃さず、海野が背後から両手で俺の頬をむにっと挟む。強制タコ口にされ、それを山根が連写した。
 川内は川内で、スマホの画面をこちらに向けながら、場の流れを変えるように声を上げる。

「てかさ、放課後カラオケ行かん? 今日までのクーポンあるんよなぁ」
「え、それは行きたい。みんなで!」

 何の気なしにそう言った。ふと視線を向けると、壁に背を預け、腕を組んで立っていた久保が目に入る。
 俺たちより少し高い位置から、静かにこちらを見下ろしていた。笑っているわけでもない。かといって、不機嫌そうでもない。ただ、その視線だけが、まっすぐ俺たちに向いている。
 その視線と、海野の目が合った。ほんの一瞬。言葉も合図もないのに、何かを確かめ合うみたいな、短い間だ。
 次の瞬間、海野の手が、するりと俺の頬から離れた。

「……生徒会ないし、俺も行こうかな」

 久保はそれだけ言って、視線を外す。それを合図にしたみたいに、場はまた騒がしさを取り戻した。

「珍しく、魔王様がノリええやん」

 山根がそう言って久保とグータッチする。ちょうど説教を終えたらしい田中も戻ってきて、何事もなかったみたいに輪に加わった。

「田中、今日カラオケ行くで」
「おけー」

 田中が軽く手を上げると、川内はもうプレイリストを開いている。

「ほな、アイドル縛りするわ」
「川内が歌っても、全く可愛くあらへんけどな」
「伊織、これ見てみ。俺らがよく歌ってるやつ」

 スマホを覗き込むと、ジャンルも年代もばらばらな曲名が、延々と並んでいた。それぞれの好みが、そのまま無秩序に詰め込まれたみたいなプレイリスト。タイトルは、なぜか「ダメ人間珍道中」。思わず吹き出すと、すぐにみんなの視線が集まった。

「なに一人で笑ろてんねん」
「お前もダメ人間グループの仲間入りやからな、伊織」

 俺がまだ肩を揺らして笑っていると、田中は久保に腕を回し、ぐっと顔を近づけて言った。

「久保ぉ~。お前が歌うと、インスタの『いいね♡』クソ増えるから載せてもええ?」
「無理。肖像権の侵害」

 久保がばっさり切り捨てるのを見て、ちょっとだけニヤけそうになる俺に、田中はすかさず反撃してきた。

「いや、伊織ガチやで? 久保ってほら、イケボやん? しかも、めっちゃ歌上手やねん」
「あー、それは分かるかも。声かっこいいもんね、久保」

 何の気なしに相槌を打って、俺は久保の方を見たけれど、すっと視線を逸らされた。
 確かに目が合ったはずだったのに、それをなかったことにするみたいな速さで視線を外した久保は、唇を引き結んだまま、試合の様子を見つめている。
 皆に『ガチ照れか?』といじられると、久保は『違う』とそっぽを向いて腕を組み直した。

「てか、伊織って普段は何歌うん?」

 海野がスマホを操作しながら聞いてきて、俺は少し考えたふりをしてから答えた。

「えー、俺? 基本、カラオケでは国歌うたってるかな」
「あ、ホンマに? ほんなら俺も歌えるし、一緒に歌おうや」

 俺の小ボケを完全に上書きする、海野の大ボケが炸裂した。耐えきれなくなったみんなが立ち上がりかけては、また膝から崩れ落ちて笑う。
 久保もついに堪えきれなかったのか、顔を腕で覆って、声を殺すように肩を揺らしていた。
 その笑い声に混じって、ビーッと、鋭いホイッスルの音が体育館に響く。先生の声に促されて、皆が長袖ジャージを床に放りながらコートに向かった。

「はいはい、移動移動!」
「あー、クソ笑った。腹筋ますます割れるわ」

 田中を先頭に、山根、海野たちがだるそうに歩き出す。
 俺は久保と並んだまま、その背中を見送った。

「みんな頑張れー」

 体育館の壁に背中を預けたまま、そう声を掛けると、四人はポケットに手を突っ込んだまま振り返り、口を揃えて叫ぶ。

「「「「伊織ー! 俺らが勝ったら、ご褒美ちょーだーい!」」」」

 コートの向こうから飛んできた声に、思わず笑ってしまう。四人揃って、子どもみたいに手を振りながら叫ぶ姿は、本当に楽しそうだった。

「よく分かんないけど、いいよー」

 両手をメガホンみたいに口元に添えて、軽い調子で返事を返す。
 床にあちこち脱ぎ捨てられているジャージを拾い集めていると、そのすぐ隣で、久保が急に声を張り上げた。

「このチーム、全員の顔面、狙っていいよー」

 腹の底から出したみたいな、よく通る声だった。相手チームは一斉に吹き出し、『おっけー』と軽く手を振り返す。
 けれど、その奥で準備をしていたいつメンの四人は、揃ってこちらに中指を立てていた。

「は? 久保、マジでしばくぞコラァ!」
「この試合勝ったら、オメーの顔面にボール当てるから覚悟しとけよー!」

 体育館の天井に反響する怒号に近い野次。コート上の空気は一気に沸騰し、乱暴な言葉と比例するように、試合の熱量はぐんぐんと高まっていく。
 俺は体育座りで膝を抱えたまま、すぐ隣で涼しい顔をして座る久保を見上げて、小さく笑った。

「ただの授業なのに、みんなガチでやってるの、なんかウケるね」
「……んー、まあね」

 生返事。けれど、その視線は鋭くコートを追っている。そんな会話を遮るように、ホイッスルの音が鳴り響いた。どうやら別のコートで欠員が出たらしく、先生が久保の名前を呼んでいる。助っ人として駆り出されるのは、このクラスではいつものことだ。

「ごめん、行ってくるわ」
「あ、うん。いってらっしゃい」

 軽く手を振った俺の視界が、突如として暗転した。
 久保がその場で脱ぎ捨てたジャージが、俺の頭からずぼっと無造作に被せられている。

「……へ? な、に……」

 困惑して固まる俺をよそに、久保は一度だけ肩越しに振り返った。

「俺の、そこに預けとくから。ちゃんと持ってて」

 その口元には、子供が企むような悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。彼はそのまま、踵を返すと軽やかな足取りで奥のコートへ駆けていってしまった。
 不意打ちで押し付けられた布地からは、微かに洗剤の香りと、さっきまで隣にいた久保の体温が混じって立ち上る。俺は戸惑いながらも、なぜか脱ぐことができず、促されるようにその袖に腕を通した。

 やがて試合を終えた田中たちが、肩で息をしながら戻ってくる。皆は俺の姿を見るなり、汗を拭う手を止めて目を丸くした。

「おい伊織。お前、いつから苗字『久保』になったんだよ?」
「え、……さっき、かな」

 我ながら間の抜けた返事だと思う。俺は曖昧に誤魔化しながら、指先で奥のコートを指した。
 そこでは、チームメイトさえも置き去りにするような迷いのない動きで、久保が相手ディフェンスを鮮やかに抜き去っている。

「うわ、マジか。せっかく勝ったのに、あっちにラスボスおるやん」
「久保チーム負けろー! こっち戻ってくんなー!」

 仲間たちの冗談混じりの罵声が、波のように周囲を揺らす。けれど、激しいホイッスルの音も、キュッキュッと床を蹴る体育館シューズの音も、今の俺にはどこか遠い世界の出来事のように聞こえた。

 自分の胸元に視線を落とす。
 そこには、白い糸で丁寧に縫い取られた「久保」という二文字。
 それがただの気まぐれで、悪ふざけの一環だってことは、嫌というほど分かっている。

 それでも。
 俺は、指先に触れるその二文字をそっと撫でた。

(めっちゃ、久保の匂いがするんですけど……)

 そう考えた瞬間、心臓の音がうるさくなって、俺は指先からも、視線からも、その名前を離すことができなくなってしまった。

***
 
 放課後、約束通りカラオケに集まった俺たちは、声を張り上げて歌い、笑い転げて騒ぎ続けた。
 海野がドリンクバーで作り出した“えげつない色の何か”を片手に、満面の笑みで部屋のドアを開けた。

「みっくちゅジュースやで~」

 その言葉にみんな大爆笑。あまりにも意味不明な色合いとそのネーミングセンスに、笑いが止まらなかった。
 誰がその飲み物を飲むかで揉めて、結局、カラオケの点数でビリになった川内が、渋々それを飲み干す瞬間を、俺たちはスマホで動画に収めた。
 笑い声と「おぇっ!」という川内の声が、部屋のあちこちに響き渡る。
 その間も久保は、少し離れたところで静かに見守っていたけれど、最後に一曲だけ歌ってくれた。
 噂どおり、その声は驚くほど大人っぽくて、インスタの“いいね”が異様に増える理由も、少しだけ分かる気がする。
 俺が固まったまま見ていると、それを山根に盗撮されて「#ライブの最前で感動のあまり固まるヲタ」とハシュタグをつけてストーリーズに載せられていた。

「はぁ~、盛り上がりすぎてメッチャ疲れたんやけど」
「それなー、てか腹減らん?」
 
 時間いっぱいまで騒ぎ疲れた体に空腹が襲い、山根の「バーガー食いたい」の一言で、俺たちはすぐにハンバーガーショップへ直行する。
 歩きながらも、笑いと会話は途切れなくて、こうしてみんなで過ごす放課後が、楽しくて仕方がなかった。

「このお店、初めて来たかも」
「え、宮城にはワクワクバーガーって無いん?」
「無いよ。えー、どれにしよっかなあ」

 隣の席で、久保とメニューを覗き込む。
 あれもこれも気になって、つい口に出して悩んでいると、久保は小さく笑った。

「久保は何にする?」
「俺? いっつもフィッシュバーガーだけど」

 川内が「シャレ気取り乙」と茶々を入れて、久保がテーブルの下で弁慶の泣き所を蹴る。

「久保ママー、俺テキサスバーガーがえぇな。Lサイズのコーラと、ナゲットも!」
「えー、オレはWビーフバーガーにする。飲み物は~……」

 誰が何を食べるかで注文がバタついて、久保が「お前らみたいな出来の悪い息子はいらねー」と言いながらも冷静に意見を整理して、モバイルオーダーを済ませた。
 二階席の一角で、みんなでノリで頼んだ一キロのポテトが運ばれてくると、一斉にスマホを構えた。

「え、これ食いきれる? 無理やない?」
「うわー、なじょすんの? これ……ヤバぁ」

 俺が笑いながらカメラアプリを起動すると、皆が一様に固まった。

「は? 伊織いまなんつった? なじょ?」
「いや、なじょ(どう)するって。こんなに量あるしさ」

 ぽかんとして応えると、久保が横で「それ、方言だよ」と口元を片手で隠して笑いながら言った。
 川内がすかさず意味をスマホで調べて、Siriに「すみません。私には理解できません」と返事されて、また皆で腹がよじれるほど笑う。
 その後、追加で運ばれてきたバーガーを頬張っていると、ふと視線を感じて顔を上げた。

「……どうしたの?」

 久保が、俺をじっと見ていた。気づいて声を掛けると、久保は目を逸らし「何でもない」と短く言う。

(もしかして……俺だけ頼んだアボカドバーガー、味見したくなった、とか……?)

 そう思って、俺はまだ口をつけていない方を久保の前に差し出してみた。

「食べる? はい、あーん」

 久保は一瞬、固まった。なんで? という顔にも見えるし、本当にただ驚いただけにも見える。どっちなのか分からなくて、俺は『え、違った?』と手を引っ込めようとした――その瞬間。

「久保がいらねぇなら、俺が貰う~」

 そう言うなり、田中が俺の手首をつかんで、バーガーに思い切り噛り付いた。間髪入れずに、久保の小さな『は?』が被さる。

「え、なに。食いたかったん?」

 田中が、何も考えてなさそうな顔で俺の首に後ろから腕を回すと、久保は露骨に嫌そうな顔をして、そっぽを向いた。

「お前が口つけたのとか、無理。きしょすぎ」

 そう言ってメロンソーダを飲む久保の横顔は、いつもより刺々しい。

「ハァ~!? マジで何様やねん、久保ぉ!濃厚なディープしたろか!?」
「嫌だ。田中ってキス下手そうだし」
「おーん、試してみなくてえぇの? 久保、お前こそ実はキスすらしたことない童貞なんとちゃうか」

 田中は大げさに声を張り上げるけど、久保はもう相手にしない、という感じでスマホを操作し始めた。
 俺には、久保が何に引っかかったのか、正直よく分からなくて。小さくなったバーガーを持ったまま、時折久保の方を見たけど、すっかり不機嫌になった久保がこっちを向くことはなかった。

***

 時計が八時を過ぎるまで喋り尽くして、俺たちは店の前で解散した。田中と山根は駅の方へ、川内と海野は反対方向へ向かい、俺と久保はその背中が見えなくなるまで、見送ってから歩き出す。
 外の空気は、昼間よりずっと冷えていた。長袖シャツ一枚じゃ流石に夜風が肌に刺さる。思わず肩を竦めて隣を見ると、久保は、さっきエアドロしてもらった今日の写真を眺めていた。画面の光が久保の横顔をうっすら照らしている。

「今日、楽しかったね!」

 俺が覗き込むように言うと、久保は横目でちらと見て、微笑んだ。

「前までは五人だったから、いっつも俺だけ余ってたけどさ。 新田が居たから、今日は……普段より、なんか楽しかった」
「じゃあ俺、飛行機で転校して正解だったわ」
 
 笑いながら言うと、久保は急に足を止めた。

「……久保?」

 俺が足を止めた、その一拍の隙を縫うみたいに、久保は何も言わず黒いカーディガンを脱いだ。
 ためらいもなく、けれど乱暴でもなく、包み込むようにして、俺の肩へと掛けてくる。

 布越しに、ほんのわずかに伝わる体温。それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
 突然のことに瞬きを繰り返す俺に、久保は視線を合わせないまま、低く静かな声で言った。

「それ、着て帰っていいよ」

 それだけ告げると、何事もなかったみたいに前を向いて歩き出す。
 まるで、特別なことなんて何ひとつしていない、という顔で。

「え、いいって。久保だって寒いじゃん」

 慌ててそう言うと、久保は少しだけ間を置いてから、ぼそりと返した。

「格好つけさせて」

 その一言に俺はあっさり負けてしまって、結局『ありがとう』としか言えなかった。
 今が夜で、本当によかった。だって、頬が熱いのが自分でも分かるくらいで、きっと顔も赤くなっている。

「行かないの?」

 振り返った久保は、さっきより少しだけ力の抜けた顔で、柔らかく笑っていた。

 それから、いつものコンビニまでの道を並んで歩く。
 話題は自然と今日のことばかりになった。田中のクネクネダンスがキモすぎたとか、海野の“謎の混合ジュース”はもはや伝統芸だとか。
 俺も笑ったし、ちゃんと相槌も打った。会話が途切れないように、いつも通りに振る舞ったつもりだ。
 けれど、その“つもり”とは裏腹に、頭の奥はずっと別のところに引っ張られていた。
 久保の、肩からずり落ちそうになるくらい大きなカーディガン。指先も隠れてしまう、そのサイズ感。

(なんか、いっつも久保の服、借りちゃってるけどいいのかな……)

 口に出すはずもないけれど、やっぱり俺のことを好きなんだろうな、とか。
 そんな考えが、いつの間にか胸の奥で芽を出して、気づけば、手に負えないほど広がっている。
 気づきたくないのに、気づいてしまう。気づいたくせに、言葉にして確かめる勇気はない。
 もやもやして、苦しくて。それでも、少しだけ嬉しい。
 そんな感情が、カーディガンの重みと一緒に、ずっと俺の肩に乗っていた。