久保とのぎこちなさを、解消できないまま、数日が経ってしまっていた。
朝の教室でも、昼休みでも、放課後でも。
俺も久保も、ちゃんとグループの輪の中にはいる。
笑うし、相槌も打つし、雑談にも混ざる。
――それなのに。
不自然なくらい、互いの近くには行かない。
隣に座ることも、ふと目が合うことも、なくなった。
言葉を交わすことすら、ほとんどなくて、まるでそこだけ、透明な壁が張られているみたいだった。
以前なら当たり前だった距離が、今は、触れてはいけない境界線みたいに感じられる。
そんな二人の空気は、当然、周りにも伝わっていた。
「伊織、どっちが悪いん? はよ仲直りしぃや」
放課後、靴箱へ向かう途中で、川内にそう言われる。
「伊織が悪いわけないやろ。久保なんとちゃう? 原因は」
軽いノリを装ってはいるけれど、隣を歩く海野の目には、はっきりとした心配が滲んでいた。
俺たちの様子を見て、みんなの空気まで、少しずつ歪み始めているのが分かる。
修学旅行は、もうすぐそこまで迫っている。
このままじゃ、班行動も、バスの席も、飛行機も、全部が気まずい。
そろそろ、ちゃんと話し合わないと――何度も、何度もそう思うのに。
いざ久保の顔を思い浮かべると、喉の奥がきゅっと詰まる。
強い言葉で拒否した手前、声をかける勇気は、どうしても出てこなくて。
その日も、結局、話しかけることができなかった。
*
部屋の電気を消しても、眠気はまるで訪れず、
俺はベッドの上で仰向けのまま、スマホを握りしめていた。
画面には、久保の名前。
トーク画面を開いては閉じる。キーボードを出しては消す。
もう何回目か分からない。
話したくないって、突き放したのは俺の方だ。
避けて、目を逸らして、距離を作ったのも、俺。
久保は、それ以上追ってこなかった。
無理に話しかけてもこなかった。
――まるで、俺の気持ちを大事にしてくれるみたいに。
胸の奥が、ずっとざわざわしている。
昼間は意出来るだけ意識しないようにしているのに、夜になると、どうしても思い出してしまう。
久保の声。横顔。あの時の、張りつめた表情。
“やめろって。その話”
あの一言が、耳の奥に、いつまでもこびりついて離れない。
あんな声、久保から聞いたことがなかった。
切羽詰まった、あの低い声。
あの時、久保は、どんな気持ちで俺を見ていたんだろう。
「はぁ……」
ひとつ、浅く長い息が漏れた。
その吐息は、自分でも驚くほど頼りなくて、胸の奥に残ったもやを少しも薄めてはくれなかった。
手にしたスマホは、じんわりと汗を吸って重く感じる。握り直しながら、俺は視線を落とす。
このまま、何も言わずにやり過ごすことだってできる。
何もなかったような顔をして、いつも通りの距離感に逃げ込むことだって――たぶん、できる。
けれど、その“距離”が、日に日に広がっていく未来を想像した瞬間、怖くなった。
逃げ続けた先で、気づいたら、もう取り返しがつかなくなっていたら。
――久保を失う方が、向き合うより、もっと怖い。
だから俺は、ほんの少し唇を噛んでから、意を決して通話ボタンを押した。
耳に当てたスマホから、呼び出し音がゆっくりと流れ出す。
一回。
二回。
三回。
鼓動が、呼び出し音に合わせてリズムを刻む。
もう切ろうか。逃げてもいいんじゃないか。そんな弱い声が頭をかすめた、その瞬間だった。
「……もしもし」
やっと繋がった声は、いつもより低くて、どこかくぐもっていた。
聞いた瞬間、スマホを持つ手に力が入る。
「あ、あの……俺、だけど……」
震えた自分の声に、思わず慌てる。こんなつもりじゃなかったのに。
「……新田、」
久しぶりに名前を呼ばれただけで、胸の奥がきゅうっと痛む。
声の中に、迷い、戸惑い、遠慮……そんな色が幾つも混ざり合っていて、何か言おうとした言葉が喉の手前で止まった。
その時だった。
――ガシャッ。
耳元で響いたのは、何かが倒れるような大きな音。
続いて、怒鳴り声が混じり合って飛び込んでくる。
『だからお前は――!』
『いい加減にしてよ!!』
久保の声じゃない。大人の、男と女の声。
叫び合うようなその響きが、鼓膜を刺すたび、胸の奥が冷たく凍っていく。
「……今、家?」
思わず問いかけると、久保は短い沈黙のあと、か細い声で答えた。
「……うん」
その一言に、どうしようもない現実が滲む。
向こうではまだ、怒りがぶつかり合うように、言い争う声が続いていた。
何かが床に落ちる音。ドアが荒々しく閉まる音。
そのすべてが、胸に嫌な重みを残していく。
「ごめん、今――」
久保の声が途切れた。また別の怒鳴り声が聞こえてくる。
『あんたは黙ってて!』
『誰のせいでこうなってると思って――!』
喉の奥が熱くなる。
もう聞いているだけなんて、できなかった。
「……コンビニ来れる?」
「え?」
「駅前の……いつものとこ。今すぐ!」
自分でも驚くくらい声が大きくて、必死だった。
握ったスマホの向こうで、久保が息を止める気配が伝わる。
また、何かがぶつかる鈍い音。
そして――。
「……分かった」
小さく震える声でそう言ったあと、通話はぷつりと切れた。
スマホを握る手がじんじんと熱い。
心臓は、暴れ回っている。
約束がどうとか、怒っていたこととか、裏切られた気持ちとか。
そんなの、もう全部どうでもよかった。
今の久保は、間違いなく “危険な場所” にいる。
気づけば俺は、ベッドから跳ね起きていた。
手近にあったパーカーを掴み、袖を通す間も惜しんで部屋を飛び出す。
「ちょっと出てくる!」
「伊織!? あんた、何時だと思ってんの!」
「久保とコンビニ! 三十分で帰るから!」
母さんの声を背中に押しつけられながら、玄関を勢いよく開ける。
夜の空気が、冷たく肺に流れ込む。
白い息がふわっと散るのも気にせず、俺は駅前のコンビニに向かって全力で走り出した。
今はただ――。
あの場所にひとりでいる久保を、どうしても引き離したかった。



