乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。

 駅前のコンビニの前は、いつもと変わらず明るいのに、なぜかやけに静かに感じられた。
 普段なら、みんなと放課後に寄り道して帰る場所だ。だけど、今ここには、その穏やかさがまるでない。

 俺は入口の横に立ったまま、ポケットから何度もスマホを取り出しては、ロック画面を確認した。

 ――まだ、来ない。大丈夫かな。

 たった数分のはずなのに、すごく長く感じる。
 やっぱり親に止められて、来られないのかもしれない、という不安が過る。

 今、どんな気持ちで。どんな顔で居るのかと思うと、ますます不安に駆られた。

「久保……」

 無意識に名前が零れた、その瞬間だった。
 遠くの方から、アスファルトを蹴る少し乱れた足音が聞こえてくる。
 息を切らした久保は、俺を見つけた途端、ほんの一瞬だけ足を止めた。
 まるで、近づいていいのか迷っているみたいに。

 その様子は、いつも学校で見せる“生徒会長の久保”と違っていた。
 いつもきちんと整っている前髪は乱れ、顔色は青白い。
 そして何より――生気がなくて、死んでいるみたいに目に光がなかった。

「……ごめん、急に呼び出して」

 声をかけると、久保は小さく頷いて、俺の前まで歩いてくる。
 でも、最後まで視線は上がらなかった。

「いや……」

 短く、それだけ。それきり、会話は続かなかった。沈黙が、肩に圧し掛かるように重かった。
 コンビニの蛍光灯が、二人の影を地面にくっきり落とす。
 白っぽい光に照らされた久保は、いつもより頼りなく見えた。

「……さっきの電話」

 俺がそう切り出すと、久保の肩が小さく揺れた。

「聞こえてた?」

「……うん」

 それだけで、全部伝わった気がした。
 久保は小さく息を吐き、ポケットに手を突っ込む。

「ごめん。ああいうの……聞かせたくなかった」

「そんなの、どうでもいいよ!」

 思わず、きつい声が出た。自分でも驚くほど、大きな声量で。
 本当はしんどいくせに、限界まで「平気」を保とうとする久保に、焦りとほんの少しの怒りを俺は感じていた。
 
「それより、久保……顔、ヤバいよ。無理すんなって――」

 久保は一瞬きょとんとした顔をして、
 それから、少しだけ困ったように笑った。

「……そう?」

 その笑顔が、無理して作ったものだって、痛いほど伝わってきて。
 胸の奥で、何かがぷつんと切れた。

「新田?」

 名前を呼ばれたけど、止まらなかった。
 理由も、説明も、正しさも、今はどうでもよかった。
 久保が、目の前にいる。
 それだけで、もう十分だった。
 両手で久保の背中を引き寄せて、そのまま、強く抱きしめる。

「……っ」

 驚いた息が降ってくる。
 身体が強張って、一歩だけ久保が後ずさっても俺は引かなかった。

「新田、周りに人が――」

「いいから」

 遮るように、さらに腕に力を込める。
 秋の夜の空気は、吐く息が白くなるほど冷たくて。
 でも、その中で触れた久保の体だけは、はっきりと温かい。

「……っ、ごめん……」

 低く震える声が聞こえて、すぐに俺は背中を何度もさすった。
 逃げ場を探すみたいに、俺のパーカーの裾を掴む指先。
 その弱々しい仕草を見ただけで、もっと強く抱きしめたい気持ちでいっぱいになる。

「ちょっと待って、マジで泣きそうなんだけど。……流石に見られたくない……」

 助けたいとか支えたいとか、そんな言葉すら追いつかない、本能みたいな衝動が湧き上がる。
 学校や家にいる時、俺の中でくすぶっていた(わだかま)りなんて、もう影ひとつ残っていなかった。

 それでも久保が乾いた笑いで自分の気持ちを誤魔化そうとするから、その背中をぽんぽん、と優しく叩いた。
 あの時、俺を支えてくれた久保みたいに。安心していいよって、伝えたかった。

「我慢しなくていいよ。
 全部……今、吐きだしてよ。俺が聞くから」

 その言葉が、最後の支えだったみたいに。
 久保の体から、ふっと力が抜け落ちるのが分かった。

「……っ、く……」

 喉の奥で押し潰したみたいな嗚咽が、何度も漏れる。
 久保は屈んで俺の肩口に額を押しつけ、そのまま崩れ落ちないように縋るみたいにしがみついてくる。
 腕にかかる力は弱いのに、どこか必死で、切実だった。

「……もう……嫌だ……」

 その声は、聞いたことがないほど弱々しくて、ひどく幼くて。
 全身が震えたまま、久保の体重がゆっくり俺に預けられていく。
 なんとか立っていたのは、本当に気力だけだったんだ、と分かった。

「家も……学校も……ちゃんとしてるつもりなのに……
 俺……全部、完璧にやってるのに……なんで、こんな……っ」

 言葉の合間に苦しそうな息が混じり、喉が詰まるように震えている。
 俺は何も言わず、ただ久保の背中をゆっくり撫で続けた。
 触れている手から、少しでも温度を渡したかった。
 
「そうだよね。久保……今は大丈夫だから、安心して。俺が側に居るから」

 どれくらいそうしていたのか、時間の感覚は完全に消えていた。
 冷たい風も、周りの雑音も、すべて遠くに追いやられて、俺たちの間にあるのは体温と息づかいだけだった。

 やがて、久保の呼吸が少しずつ、ゆっくりと整っていく。
 さっきまで震えていた肩も、次第に静かになり、ようやく自分で立てるくらいには落ち着いたようだった。
 久保は目尻を赤くしながら、それを見られたくないと言いたげに俺の方を見ないままでいる。

「……場所、変えよっか」

 そう声をかけると、久保は小さく頷いた。
 俺たちは人通りの少ない方向へ歩き、コンビニの横にある、小さな公園のベンチに腰を下ろした。
 
 外灯がひとつだけ、ぼんやりと夜を照らしている。
 時折、車のライトが道を横切るのを、何回か見送った頃。
 しばらくして――夜風に揺れた落ち葉が鳴るのと同じくらい小さく、久保がぽつりと呟いた。

「……新田に、謝りたいことがある」

 その声に、自然と背筋が伸びる。

「……うん」

 何となくその先が分かった返事をすると、久保は意を決したように膝の上で拳を作った。

「初めて会ったときの……飛行機の話、なんだけど」

 その一言で、胸がぎゅっと痛む。
 ずっと避けてきた話題だ。
 けれど――今の久保の表情を見たら、もう逃げられなかった。

「……あれは、俺にとっては面白い話とかじゃなくて……新田が転校してくる前に、あいつらに恋バナとして話したことなんだ」

「え……?」

 声にならない驚きが喉の奥で疼き、思わず息を詰めた。
 
 ネタにしたわけじゃなかったってこと?
 でも、恋バナって、どういうこと?
 
 言葉を受け止める前に、頭の中で何本もの考えが折り重なり、ぐるぐると回る。
 俺の顔を見た久保は、小さく息を整え、慎重にひとつずつ言葉を紡ぎ始めた。

「……飛行機で泣きながら“手を繋いでほしい”って頼んできた新田を見てさ。
 あの時はただ……放っておけなくて繋いだ。
 深い意味なんてなかったんだ。本当に」

 その「本当に」の余白に、言い切れない重さが滲んでいた。
 久保の手の震えを見て、俺にまで緊張が波のように押し寄せる。

「……降りたらそれで終わり。二度と会わない、一瞬の出来事。
 そう思ってたんだけど……ずっと忘れられなかった。
 何回も、何回も思い出して……」

 それは、共感できた。俺も、あの時の温度や声を、何度も思い返していたから。
 でも、その後に続いた言葉は、予想すらしていないものだった。

「何でこんなに気になるんだろう、って自分でも自覚してなくて。
 後から気づいたんだ。
 ……『俺、あの子のこと、好きなんだ』って」

 頭の中で、何かがずしんと音を立てて崩れた。
 思考が整理できないまま、言葉を紡ごうとしても声にならない。

 久保が、俺のことを、好き……?

 逃げ出したい、でもその言葉の続きが知りたくて、この場から離れられない。
 戸惑いと、胸の奥でこみ上げる何かが、ぐちゃぐちゃになって絡まっていく。

「まさか、その……新田が転校して来るなんて、夢にも思ってなかったから」

 久保の声は震え、目はまだ伏せられたままだった。

「恋バナを振られた時、どうせ一生会えないしって思って……ほんのエピソードのひとつみたいに話したんだ。
 そうしたら、俺が名前も知らない子に勝手に失恋したとか、気付くの遅いって散々からかわれて、アイツらは爆笑してて」

 その言葉を聞いた時、俺はてっきり、名前を伏せられているとはいえ、あの日の出来事そのものを、笑いものにされていたんだと思っていた。
 でも、どうやら、そうじゃなかったらしい。

「すぐにそんな話、みんなすぐに忘れると思ったし、新田には『初対面のふりをしよう』って提案したけど……
 本当は、好きになった相手が新田だってバレるのが怖かった。
 それを新田に知られて、引かれるのは……もっと、怖かった」

 そこまで一気に言ったあと、久保は唇をきつく結び、肩をわずかに上下させていた。
 そして、目の前に座る俺に向かって、頭を深く下げながら言った。

「自分を守るための嘘のせいで、新田を傷つけた。
 新田は、俺のために一生懸命やってくれてたのに……
 ハグしてくれた時も、本当は……友達以上の気持ちをずっと隠してた……
 ごめん、今だってこうして、側に居てくれてるのに――」

 最後の声は、普段の様子からは想像も付かないほど細かった。

「……久保」

 名前を呼ぶと、久保はおそるおそる顔を上げた。
 叱られるのを待っている子どもみたいな目で俺を見つめていて、俺はどんな顔をしたらいいのか分からなくなる。

「……謝らなくていいよ、その……びっくりはしたけど」

 やっと絞り出した声は、情けないほど頼りなかった。
 久保の目が、不安と期待のあいだでゆっくり揺れている。

「本当に……?」

「うん」

 それが今の俺の限界だった。

「俺はてっきり、久保が面白おかしく話したんだと思ってた。でも……そうじゃないって分かったし。
 俺もここ最近、避けたりして……感じ悪かったよね。ごめん」

「いや、新田が謝るようなことは何にも無いって……そうさせたのは、俺のせいなんだから。
 でも……もしできれば、新田に許してほしいって思ってる」

「ぜ、全然……。もういいよ。誤解だったって分かったし」

 本当は、もっと聞きたいことがある。

 ――久保は、今でも、俺のことを好きなの……?

 でも、もしそれを口にしてしまえば、きっと友達には戻れない。
 仲直りはできたのに、まさかこんな形で、久保の好意を知ることになるなんて思ってもみなかった。
 その事実だけが胸の奥を締めつけ、言葉は喉に引っかかったまま、飲み込まれていった。

「そろそろ……帰らないとヤバいかも」

 久保が立ち上がり、俺もワンテンポ遅れて立ち上がる。
 どう振る舞えばいいのか分からないまま、ぎこちなく俺は久保の方を見た。

「……明日、学校、来る?」

「行くよ。ちゃんと、いつも通り」

 話途中のせいで、俺たちはお互いに目を合わせられないままだった。
 とりあえず今は普通にここで別れたくて、愛想笑いを浮かべる。

「じゃあ……おやすみ」

「……うん、また明日」

 久保は、ゆっくりと逆の方向へ歩き出した。
 さっきまで抱きしめあった体温が、肌にまだ残ってる気がする。

 歩き出して、しばらく進んだ後――ふと、足が止まった。
 振り返るつもりなんてなかったのに、身体が勝手に向き直っていた。

 そして、気づく。
 ちょうど同じ瞬間に、久保もこちらを向いていたことに。

「…………」

「…………」

 目が合って、二人ともほんの一瞬、息が止まる。
 声は届かない距離なのに、何かが伝わった気がして、どちらからともなく、小さく手を上げた。
 それだけだった。そっと手を下ろし、また背を向ける。

 ――明日から、どんな顔して話せばいいんだろう。

 好かれていたと知った時に込み上げた、どうしようもない恥ずかしさ。
 ちゃんと誤解が解けて、また向き合えたことへの安堵と嬉しさ。
 
 そして――これから久保とどう接していけばいいのか分からない、不安。

 それら全部がごちゃ混ぜになって、歩くたび、影のように足元へまとわりついていた。