少しずつ見慣てきれた通学路。決まった時間、発車アナウンスの音。
駅の構内放送も、パン屋から漂う甘い匂いも、昨日までと何一つ変わっていない。
なのに、胸の奥だけがずっとざわついている。何かが「いつも」と違っている。
理由は、考えなくても分かっていた。自覚しているからこそ、教室へ向かう足取りは余計に重い。
扉を開けると、皆が机を囲んで駄弁っていた。俺の姿を見つけるなり、一斉に賑やかな声が飛んでくる。
「伊織、おはよーさん」
「今日の数学、小テストあるらしいで。俺、もう死亡確定や。親呼び出しのフラグ立ってもうたわ」
「修学旅行もうすぐやのに! それだけは絶対避けなあかんで」
くだらない叫び声と笑い声が、朝の教室を満たしていく。
ありふれたやり取り。見飽きた光景。
でも、たったひとつだけ、昨日までとは決定的に違うことがあった。
長めの前髪の隙間から、無意識のうちに――教室の片隅にいる、久保の姿をそっと追う。
窓際の席。椅子に浅く腰かけて、片手でスマホをいじっている後ろ姿。
普段と変わらない仕草のはずなのに、久保を見つけただけで、ふわっと心が温かくなるのを感じた。
(……良かった、ちゃんと来てる……)
あの後、久保が両親に怒られたりしなかったか、寝る前に少しだけ不安だったから。
いつも通りの様子でそこに座っているのを見て、安心することができた。
ふと、久保が顔を上げた瞬間、俺と目が合った。ほんの一瞬だったのに、心臓がどくんと跳ねる。
久保も同じように気まずそうな表情をしているのが見えて、慌てて視線を逸らした。
「おっす、久保。なんか顔色ええな」
田中が何気ない調子でそう聞くと、久保はスマホをスクロールしたまま、画面を見続けている。
「いや、別に普通だけど」
「伊織とは、夫婦喧嘩の仲直りしたん?」
山根もくすくす笑いながら言ってきて、俺は「夫婦」というワードに一気に顔が熱くなる。
みんなは本当のことを知らないから言えるけど、その冗談だけはマジで笑えない。
そう思ったのは、久保も同じだったみたいで。
「何それ……うぜぇんだけど、マジで」
「うぜぇじゃねーだろ! 不機嫌大魔王! 俺らがこの数日、どんだけ胃薬飲んだ思てんねん!」
ぎゃはは、と周りが笑う。久保の机の周りを取り囲み、海野が腕を回して顔を近づけている。
久保は「近ぇよ」と顔を背けるけれど、イジりは止まる気配がない。
「でも、まぁ……ちゃんと仲直りしたっぽいしな?」
「昨日より空気えぇ感じやん」
そう言われて、俺と久保は、ほとんど同時に顔を上げた。戸惑ったような、恥ずかしいような表情のまま目が合う。
一秒。二秒。時間にしたらほんのわずかなのに、すごく長く感じる。
見つめ合っているような感覚を覚えて、結果はどちらからともなく、視線を逸らした。
「え、なに今の。二人とも目で会話する感じ~」
「なん? 正直に言えや」
またからかわれて、俺は「やめて」と言い返しながらも、胸の奥はずっと落ち着かなかった。
確かに、喧嘩はしてない。もう、避けてもいない。でも、昨日の夜を知る前と、まったく同じ友達関係に戻れない自分が居た。
その証拠に、授業中も、黒板の文字を追いながら意識は何度も隣へ引っ張られる。
久保が隣でシャーペンを回す仕草や、たまに小さく伸びをする気配。ただそれだけの、何でもない動作なのに、全部が気になってしまう。
(俺、久保のこと、意識しすぎ……)
自分でも分かっているのに。
チャイムが鳴って、次の授業へ向けて皆が移動し始める。廊下は人でごった返していて、押し流されるようにして歩いていたら、不意に肩がぶつかって抱き留められた。
「あ、ごめ……」
言いかけて、その腕の主が久保だと気づく。
「…………」
「…………」
周囲のざわめきが遠のいて、意識を全部持っていかれる。
俺がどう話を切り出そうか目を泳がせていると、久保は小さく笑って言った。
「急いでた?」
「……うん、ちょっと」
「そっか」
それだけしか、話せなかった。けれど、抱き留めてくれた時の腕の感触を思い出して、一人で勝手にドキドキしてしまう。
今までハグした時はあんまり気付かなかったけれど、意外と筋肉ついてたな、とか。流し見るような視線に、目が離せなかったこととか。
久保があまりにも冷静に話しかけてくるから返事をしたけれど、内心は叫びたくなるくらい混乱していた。
***
昼休みになると、今度は修学旅行の話題一色だった。
行動班、ホテル、沖縄そば、シーサー、海。でも、そのどれにも俺の関心は惹きつけられなかった。
「なあなあ、キャリーにカップ麺忍ばせて、夜なったら皆で部屋で食おうや」
「え、それ空港の検査で引っかからん? バレたら没収のやない?」
「液体類の話やのうて? 伊織、空港のルール知っとる?」
またいつもの調子で絡まれて、俺も笑って返す。久保は呆れた様に、田中と山根を見てい言った。
「……お前ら、浮かれすぎ」
「久保だって内心楽しみなくせに~」
「お前らと違って、修旅で騒ぐほどガキじゃない」
口ではそう言いながら、久保の口元は――ゆるんでいた。
ほんの一瞬、笑いを堪えきれずにこぼれた小さな笑み。
「あぁ? 誰がガキやって? このスカシ、ええ加減にせぇよ」
「そない言う奴は捕まえて、こうしたるわ!」
田中と山根が、獲物を見つけたみたいに飛びつき、そのまま久保を羽交い締めにして脇腹を容赦なくくすぐり始めた。
「やめろっ……ば、バカ、死ぬ……っ!」
珍しく声を上げて笑う久保。くすぐられて、心の底から楽しそうな笑顔のまま、それでも必死に抵抗している。
その表情を見た瞬間、胸が、きゅっと苦しくなった。理由は分からないけれど、苦しいような、温かいような、息が吸いづらいような――そんな感覚に近い。
(なんだよ、これ。本当に、どうかしてる。俺、久保のことを意識しすぎてるんじゃないか……?)
「なぁなぁ!今から、ナンジャモンジャやろうや~!!」
田中が叫ぶと、川内と山根は「うおおお!」と一気に沸き上がった。机を叩く音、ふざけた声、意味のない雄叫び。
「あの、やたら脚長いやつおるやん? あれは『クボっち』で永久固定な」
「当たり前やんそんなん。 半目で寝てるみたいな顔のは『ウミノ』やで」
「折角やし、『イオリ』も追加しようや、伊織に似とるキャラおる?」
その喧騒の真ん中で、ふと視線を上げると――久保と目が合った。
今度は、逸らさなかった。久保も逸らさない。笑っているわけでもないし、照れているわけでもない。ただ、まっすぐに見つめ合う。
そして――俺達は同時に、ふっと笑った。
久保が、俺のことをどう思っているのかは気になるけれど……それ以上に、今はこうして過ごす時間が好きで。
俺は……久保がただ笑ってくれていれば、嬉しくて。今はそれでいいし、それ以上先に進むことも、想像がつかなかった。
教室の黒板のすぐ横。白いチョークが何度も上書きされたせいで、数字の部分だけが白く濁っている。
“修学旅行まで あと九日!”
指でなぞれば粉が落ちそうなくらい、何度も書き直された跡。薄暗くなり始めた夕方の光が、その文字をぼんやり照らしていた。
駅の構内放送も、パン屋から漂う甘い匂いも、昨日までと何一つ変わっていない。
なのに、胸の奥だけがずっとざわついている。何かが「いつも」と違っている。
理由は、考えなくても分かっていた。自覚しているからこそ、教室へ向かう足取りは余計に重い。
扉を開けると、皆が机を囲んで駄弁っていた。俺の姿を見つけるなり、一斉に賑やかな声が飛んでくる。
「伊織、おはよーさん」
「今日の数学、小テストあるらしいで。俺、もう死亡確定や。親呼び出しのフラグ立ってもうたわ」
「修学旅行もうすぐやのに! それだけは絶対避けなあかんで」
くだらない叫び声と笑い声が、朝の教室を満たしていく。
ありふれたやり取り。見飽きた光景。
でも、たったひとつだけ、昨日までとは決定的に違うことがあった。
長めの前髪の隙間から、無意識のうちに――教室の片隅にいる、久保の姿をそっと追う。
窓際の席。椅子に浅く腰かけて、片手でスマホをいじっている後ろ姿。
普段と変わらない仕草のはずなのに、久保を見つけただけで、ふわっと心が温かくなるのを感じた。
(……良かった、ちゃんと来てる……)
あの後、久保が両親に怒られたりしなかったか、寝る前に少しだけ不安だったから。
いつも通りの様子でそこに座っているのを見て、安心することができた。
ふと、久保が顔を上げた瞬間、俺と目が合った。ほんの一瞬だったのに、心臓がどくんと跳ねる。
久保も同じように気まずそうな表情をしているのが見えて、慌てて視線を逸らした。
「おっす、久保。なんか顔色ええな」
田中が何気ない調子でそう聞くと、久保はスマホをスクロールしたまま、画面を見続けている。
「いや、別に普通だけど」
「伊織とは、夫婦喧嘩の仲直りしたん?」
山根もくすくす笑いながら言ってきて、俺は「夫婦」というワードに一気に顔が熱くなる。
みんなは本当のことを知らないから言えるけど、その冗談だけはマジで笑えない。
そう思ったのは、久保も同じだったみたいで。
「何それ……うぜぇんだけど、マジで」
「うぜぇじゃねーだろ! 不機嫌大魔王! 俺らがこの数日、どんだけ胃薬飲んだ思てんねん!」
ぎゃはは、と周りが笑う。久保の机の周りを取り囲み、海野が腕を回して顔を近づけている。
久保は「近ぇよ」と顔を背けるけれど、イジりは止まる気配がない。
「でも、まぁ……ちゃんと仲直りしたっぽいしな?」
「昨日より空気えぇ感じやん」
そう言われて、俺と久保は、ほとんど同時に顔を上げた。戸惑ったような、恥ずかしいような表情のまま目が合う。
一秒。二秒。時間にしたらほんのわずかなのに、すごく長く感じる。
見つめ合っているような感覚を覚えて、結果はどちらからともなく、視線を逸らした。
「え、なに今の。二人とも目で会話する感じ~」
「なん? 正直に言えや」
またからかわれて、俺は「やめて」と言い返しながらも、胸の奥はずっと落ち着かなかった。
確かに、喧嘩はしてない。もう、避けてもいない。でも、昨日の夜を知る前と、まったく同じ友達関係に戻れない自分が居た。
その証拠に、授業中も、黒板の文字を追いながら意識は何度も隣へ引っ張られる。
久保が隣でシャーペンを回す仕草や、たまに小さく伸びをする気配。ただそれだけの、何でもない動作なのに、全部が気になってしまう。
(俺、久保のこと、意識しすぎ……)
自分でも分かっているのに。
チャイムが鳴って、次の授業へ向けて皆が移動し始める。廊下は人でごった返していて、押し流されるようにして歩いていたら、不意に肩がぶつかって抱き留められた。
「あ、ごめ……」
言いかけて、その腕の主が久保だと気づく。
「…………」
「…………」
周囲のざわめきが遠のいて、意識を全部持っていかれる。
俺がどう話を切り出そうか目を泳がせていると、久保は小さく笑って言った。
「急いでた?」
「……うん、ちょっと」
「そっか」
それだけしか、話せなかった。けれど、抱き留めてくれた時の腕の感触を思い出して、一人で勝手にドキドキしてしまう。
今までハグした時はあんまり気付かなかったけれど、意外と筋肉ついてたな、とか。流し見るような視線に、目が離せなかったこととか。
久保があまりにも冷静に話しかけてくるから返事をしたけれど、内心は叫びたくなるくらい混乱していた。
***
昼休みになると、今度は修学旅行の話題一色だった。
行動班、ホテル、沖縄そば、シーサー、海。でも、そのどれにも俺の関心は惹きつけられなかった。
「なあなあ、キャリーにカップ麺忍ばせて、夜なったら皆で部屋で食おうや」
「え、それ空港の検査で引っかからん? バレたら没収のやない?」
「液体類の話やのうて? 伊織、空港のルール知っとる?」
またいつもの調子で絡まれて、俺も笑って返す。久保は呆れた様に、田中と山根を見てい言った。
「……お前ら、浮かれすぎ」
「久保だって内心楽しみなくせに~」
「お前らと違って、修旅で騒ぐほどガキじゃない」
口ではそう言いながら、久保の口元は――ゆるんでいた。
ほんの一瞬、笑いを堪えきれずにこぼれた小さな笑み。
「あぁ? 誰がガキやって? このスカシ、ええ加減にせぇよ」
「そない言う奴は捕まえて、こうしたるわ!」
田中と山根が、獲物を見つけたみたいに飛びつき、そのまま久保を羽交い締めにして脇腹を容赦なくくすぐり始めた。
「やめろっ……ば、バカ、死ぬ……っ!」
珍しく声を上げて笑う久保。くすぐられて、心の底から楽しそうな笑顔のまま、それでも必死に抵抗している。
その表情を見た瞬間、胸が、きゅっと苦しくなった。理由は分からないけれど、苦しいような、温かいような、息が吸いづらいような――そんな感覚に近い。
(なんだよ、これ。本当に、どうかしてる。俺、久保のことを意識しすぎてるんじゃないか……?)
「なぁなぁ!今から、ナンジャモンジャやろうや~!!」
田中が叫ぶと、川内と山根は「うおおお!」と一気に沸き上がった。机を叩く音、ふざけた声、意味のない雄叫び。
「あの、やたら脚長いやつおるやん? あれは『クボっち』で永久固定な」
「当たり前やんそんなん。 半目で寝てるみたいな顔のは『ウミノ』やで」
「折角やし、『イオリ』も追加しようや、伊織に似とるキャラおる?」
その喧騒の真ん中で、ふと視線を上げると――久保と目が合った。
今度は、逸らさなかった。久保も逸らさない。笑っているわけでもないし、照れているわけでもない。ただ、まっすぐに見つめ合う。
そして――俺達は同時に、ふっと笑った。
久保が、俺のことをどう思っているのかは気になるけれど……それ以上に、今はこうして過ごす時間が好きで。
俺は……久保がただ笑ってくれていれば、嬉しくて。今はそれでいいし、それ以上先に進むことも、想像がつかなかった。
教室の黒板のすぐ横。白いチョークが何度も上書きされたせいで、数字の部分だけが白く濁っている。
“修学旅行まで あと九日!”
指でなぞれば粉が落ちそうなくらい、何度も書き直された跡。薄暗くなり始めた夕方の光が、その文字をぼんやり照らしていた。



