乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。


 久保とのぎこちなさを、解消できないまま、数日が経ってしまっていた。

 朝の教室でも、昼休みでも、放課後でも。
 俺も久保も、ちゃんとグループの輪の中にはいる。
 笑うし、相槌も打つし、雑談にも混ざる。

 ――それなのに。

 不自然なくらい、互いの近くには行かない。
 隣に座ることも、ふと目が合うことも、なくなった。
 言葉を交わすことすら、ほとんどなくて、まるでそこだけ、透明な壁が張られているみたいだった。
 以前なら当たり前だった距離が、今は、触れてはいけない境界線みたいに感じられる。
 そんな二人の空気は、当然、周りにも伝わっていた。

「伊織、どっちが悪いん? はよ仲直りしぃや」

 放課後、靴箱へ向かう途中で、川内にそう言われる。

「は? 伊織が悪いわけないやろ。久保なんとちゃう? 原因は」

 軽いノリを装ってはいるけれど、隣を歩く海野の目には、はっきりとした心配が滲んでいた。
 俺たちの様子を見て、みんなの空気まで、少しずつ歪み始めているのが分かる。

 修学旅行は、もうすぐそこまで迫っている。
 このままじゃ、班行動も、バスの席も、飛行機も、全部が気まずい。

 そろそろ、ちゃんと話し合わないと――何度も、何度もそう思うのに。

 いざ久保の顔を思い浮かべると、喉の奥がきゅっと詰まる。
 強い言葉で拒否した手前、声をかける勇気は、どうしても出てこなくて。
 その日も、結局、話しかけることができなかった。



 部屋の電気を消しても、眠気はまるで訪れず、俺はベッドの上で仰向けのまま、スマホを握りしめていた。

 画面には、久保の名前。
 トーク画面を開いては閉じる。キーボードを出しては消す。もう何回目か分からない。

 話したくないって、突き放したのは俺の方だ。
 避けて、目を逸らして、距離を作ったのも、自分自身。
 久保は、それ以上追ってこなかったし、無理に話しかけてもこなかった。

 ――まるで、俺の気持ちを大事にしてくれるみたいに。

 胸の奥が、ずっとざわざわしている。
 昼間は意出来るだけ意識しないようにしているのに、夜になると、どうしても思い出してしまう。

 初対面の機内で俺を落ち着かせようとしてくれた優しい声や、握ってくれた手。
 でもその次に思い出すのは決まって――暴露された時の、張りつめた表情だった。

 “やめろって。その話”

 あの一言が、耳の奥に、いつまでもこびりついて離れない。
 普段一緒に居て、あんなに切羽詰まった、低く制止するような声を聞いたのは初めてだった。
 久保は、どんな気持ちで俺を見ていたんだろう。

「はぁ……」

 ひとつ、浅く長い息が漏れた。
 その吐息は、自分でも驚くほど頼りなくて、胸の奥に残ったもやを少しも薄めてはくれなかった。
 手にしたスマホは、俺の気持ちを吸ったみたいに重く感じる。握り直しながら、視線をさ迷わせた。

 このまま、何も言わずにやり過ごすことだってできる。
 何もなかったような顔をして、いつも通りの距離感に逃げ込むことだって――たぶん、やろうと思えば出来る。
 けれど、その“距離”が、日に日に広がっていく未来を想像した瞬間、怖くなった。

 逃げ続けた先で、気づいたら、もう取り返しがつかなくなっていたら。

 ――久保を失う方が、向き合うより、もっと怖い。

 そう気づいた俺は、ほんの少し唇を噛んでから、意を決して通話ボタンを押した。
 耳に当てたスマホから、呼び出し音がゆっくりと流れ出す。

 一回。
 二回。
 三回。

 鼓動が、呼び出し音に合わせてリズムを刻む。
 もう切ろうか。逃げてもいいんじゃないか。そんな弱い声が頭をかすめた、その瞬間だった。

「……もしもし」

 やっと繋がった声は、いつもより低くて、どこかくぐもっていた。
 聞いた瞬間、緊張してスマホを持つ手に力が入る。

「あ、あの……俺、だけど……」

 震えた自分の声に、思わず慌てる。こんなつもりじゃなかったのに。

「……新田、」

 久しぶりに名前を呼ばれただけで、胸の奥がきゅうっと痛む。
 声の中に、迷い、戸惑い、遠慮……そんな色が幾つも混ざり合っていて、何か言おうとした言葉が喉の手前で止まった、その時だった。

 ――ガシャン。

 耳元で響いたのは、何かが割れるような大きな音。
 続いて、怒鳴り声が混じり合って飛び込んでくる。

『だからお前は――!』
『いい加減にしてよ!!』

 久保の声じゃない。大人の、男と女の声。
 叫び合うようなその響きが、鼓膜を刺すたび、胸の奥が冷たく凍っていく。

「……今、家にいるの?」

 思わず問いかけると、久保は短い沈黙のあと、か細い声で答えた。

「……うん」

 その一言に、どうしようもない現実が滲む。
 向こうではまだ、怒りがぶつかり合うように、言い争う声が続いていた。
 何かが床に落ちる音。ドアが荒々しく閉まる音。そのすべてが、胸に嫌な重みを残していく。

「ごめん、ちょっと――」

 久保の声が途切れた。また別の怒鳴り声が聞こえてくる。

『あんたは黙ってて!』
『誰のせいでこうなってると思って――!』

 喉の奥が熱くなる。
 もう黙って聞いているだけなんてことは、出来なかった。

「……コンビニ、来れる?」

「え?」

「駅前の……いつものとこ。今すぐ!」

 自分でも驚くくらい声が大きくて、必死だった。
 握ったスマホの向こうで、久保が息を止める気配が伝わる。
 また、何かがぶつかる鈍い音。

 そして――。

「……分かった」

 小さく震える声でそう言ったあと、通話はぷつりと切れた。

 スマホを握る手がじんじんと熱い。心臓は、暴れ回っている。
 仲直りがどうとか、怒っていたこととか、裏切られた気持ちとか。そんなの、もう全部どうでもよくなっていた。

 今の久保は、間違いなく “危険な場所” にいる。
 
 気づけば俺は、ベッドから跳ね起きていた。
 手近にあったパーカーを掴み、袖を通す間も惜しんで部屋を飛び出す。

「ちょっと出てくる!」

「伊織!? あんた、何時だと思ってんの!」

「久保とコンビニ! 三十分で帰るから!」

 母さんの声を背中に押しつけられながら、玄関を勢いよく開ける。

 夜の空気が、冷たく肺に流れ込む。
 白い息がふわりと舞うのも気にせず、俺は駅前のコンビニへ向かって全力で走り出した。

 今はただ、あの場所にひとりでいる久保を、どうしても引き離したかった。

 何かつらいことがあったときには、いつだって駆けつける――それが、友達だと俺は思うから。