乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。

 駅前のコンビニ。普段なら、みんなで放課後に寄り道する場所だけど、今はそのほっとするような居心地がまるでない。
 俺は入口の横に立ったまま、ポケットから何度もスマホを取り出しては、ロック画面で時間を確認していた。

(久保、まだ来ないけど大丈夫かな……)

 たった数分のはずなのに、すごく長く感じる。
 やっぱり親に止められて、来られないのかもしれない。
 もし、俺が余計な事をしたせいで怒られていたらどうしよう、という不安が過る。
 そして、久保が今どんな気持ちで、どんな顔をして居るのかと思うと、ますます不安は強くなった。

「久保……」

 無意識に名前が零れた、その瞬間。遠くの方から、アスファルトを蹴る少し乱れた足音が聞こえてくる。
 息を切らした久保は、俺を見つけた途端、ほんの一瞬だけ足を止めた。まるで、こっちへ近づいていいのか迷っているみたいに。
 その様子は、いつも学校で見せる「生徒会長の久保」と違っていた。いつもきちんと整っている前髪は乱れ、顔色は青白い。

「ごめんな、急に呼び出して」

 声をかけると、久保は小さく頷いて、俺の前まで歩いてくる。
 でも、最後まで視線は上がらなかった。

「いや……」

 短く、それだけ。それきり、会話は続かなかった。沈黙が、肩に圧し掛かるように重く感じる。
 コンビニの蛍光灯が、二人の影を地面にくっきり落とす。白っぽい光に照らされた久保は、やっぱりりいつもより弱々しくて、頼りなく見えた。

「さっきの電話なんだけど」

 俺がそう切り出すと、久保の肩が小さく揺れた。

「あぁ……あれ。聞こえてた?」
「……うん」

 久保は小さく息を吐き、ポケットに手を突っ込む。
 俯いたまま、自嘲するように笑う表情。けれど、その心はどう見ても深く傷ついているようにしか見えなかった。

「ごめん。新田には聞かせたくなかったんだけど」
「お、俺のことはどうでもいいよ!」

 思わず、きつい声が出た。自分でも驚くほど、大きな声量で。
 本当はしんどいくせに、限界まで「平気」を貫こうする久保に、焦りとほんの少しの怒りを俺は感じていた。
 
「それより、久保……顔、ヤバいよ。無理すんなって」

 久保は一瞬きょとんとした顔をして、それから、少しだけ困ったように笑った。

「平気だって。大丈夫」

 その笑顔が、無理して作ったものだって、痛いほど伝わってきて。
 胸の奥で、何かがぷつんと切れた。

「新田?」

 名前を呼ばれたけど、止まらなかった。理由も、説明も、正しさも、今はどうでもよかった。
 久保が、目の前にいる。それだけで、もう十分だった。
 両手で久保の背中を引き寄せて、そのまま、強く抱きしめる。

「……っ」

 驚いた息が降ってくる。身体が強張って、一歩だけ久保が後ずさっても俺は引かなかった。

「新田、周りに人が――」
「いいから……っ」

 遮るように、さらに腕に力を込める。秋の夜の空気は、吐く息が白くなるほど冷たくて。
 でも、その中で触れた久保の体だけは、はっきりと温かい。

「……ごめん……」

 低く震える声が聞こえて、すぐに俺は背中を何度もさすった。
 逃げ場を探すみたいに、俺のパーカーの裾を掴む指先。
 その弱々しい仕草を見ただけで、もっと強く抱きしめたい気持ちでいっぱいになる。

「ちょっと待って、それされるとマジで泣きそうなんだけど。……流石に、見られたくない……」

 助けたいとか支えたいとか、そんな言葉すら追いつかない、本能みたいな衝動が湧き上がる。
 学校や家にいる時、俺の中でくすぶっていた(わだかま)りなんて、もう影ひとつ残っていなかった。
 久保が乾いた笑いで自分の気持ちを誤魔化そうとするから、その背中をぽんぽん、と優しく叩く。
 あの時、俺を支えてくれた久保みたいに。安心していいよって、伝えたかった。

「我慢しなくていいよ。全部……今、吐きだしてよ。俺が聞くから」

 その言葉が、最後の支えだったみたいに。
 久保の体から、ふっと力が抜け落ちるのが分かった。

「……っ、く……」

 喉の奥で押し潰したみたいな嗚咽が、何度も漏れる。
 久保は屈んで俺の肩口に額を押しつけ、そのまま崩れ落ちないように縋るみたいにしがみついてくる。
 腕にかかる力は弱いのに、どこか必死で、切実だった。

「……もう……嫌だ……」

 その声は、聞いたことがないほど弱々しくて、ひどく幼くて。
 全身が震えたまま、久保の体重がゆっくり俺に預けられていく。
 なんとか立っていたのは、本当に気力だけだったんだ、と分かった。

「家も……学校も……ちゃんとしてるつもりなのに……俺……全部、完璧にやってるのに……なんで、こんな……っ」

 言葉の合間に苦しそうな息が混じり、喉が詰まるように震えている。
 俺は何も言わず、ただ久保の背中をゆっくり撫で続けた。
 触れている手から、少しでも温度を渡したかった。
 
「そうだよね。久保……今は大丈夫だから、安心して。俺が側に居るから」

 どれくらいそうしていたのか、時間の感覚は完全に消えていた。
 冷たい風も、周りの雑音も、すべて遠くに追いやられて、俺たちの間にあるのは体温と息づかいだけだった。

 やがて、久保の呼吸が少しずつ、ゆっくりと整っていく。
 さっきまで震えていた肩も、次第に静かになり、ようやく自分で立てるくらいには落ち着いたようだった。
 久保は目尻を赤くしながら、それを見られたくないと言いたげに俺の方を見ないままでいる。

「場所、変えよっか」

 そう声をかけると、久保は小さく頷いた。
 俺たちは人通りの少ない方向へ歩き、コンビニの横にある、小さな公園のベンチに腰を下ろした。
 
 外灯がひとつだけ、ぼんやりと夜を照らしている。
 時折、車のライトが道を横切るのを、何回か見送った頃。
 しばらくして――夜風に揺れた落ち葉が鳴るのと同じくらい小さく、久保がぽつりと呟いた。

「……新田に、謝りたいことがある」

 その声に、自然と背筋が伸びる。

「うん」

 何となくその先が分かった返事をすると、久保は意を決したように膝の上で拳を作った。

「初めて会ったときの……飛行機の話、なんだけど」

 その一言で、胸がぎゅっと痛む。ずっと避けてきた話題だ。
 けれど――今の久保の表情を見たら、もう逃げられなかった。

「……あれは、俺にとっては面白い話とかじゃなくて……新田が転校してくる前に、あいつらに恋バナとして話したことなんだ」

「え……?」

 声にならない驚きが喉の奥で疼き、思わず息を詰めた。
 
(ネタにしたわけじゃなかったってこと? でも、恋バナって……どういうこと?)
 
 言葉を受け止める前に、頭の中で何本もの考えが折り重なり、ぐるぐると回る。
 俺の顔を見た久保は、小さく息を整え、慎重にひとつずつ言葉を紡ぎ始めた。

「飛行機で泣きながら“手を繋いでほしい”って頼んできた新田を見てさ。あの時はただ……放っておけなくて繋いだ。深い意味なんてなかったんだ。本当に」

 その「本当に」の余白に、言い切れない重さが滲んでいた。
 久保の手の震えを見て、俺にまで緊張が波のように押し寄せる。

「降りたらそれで終わり。二度と会わない、一瞬の出来事。そう思ってたんだけど……ずっと忘れられなかった。何回も、何回も思い出して……」

 それは、共感できた。俺も、あの時の温度や声を、何度も思い返していたから。
 でも、その後に続いた言葉は、予想すらしていないものだった。

「何でこんなに気になるんだろう、って自分でも自覚してなくて。後から気づいたんだ。……『俺、あの子のこと、好きなんだ』って」

 頭の中で、何かがずしんと音を立てて崩れた。
 思考が整理できないまま、言葉を紡ごうとしても声にならない。

(久保が、俺のことを、好き……?)

 逃げ出したい、でもその言葉の続きが知りたくて、この場から離れられない。
 戸惑いと、胸の奥でこみ上げる何かが、ぐちゃぐちゃになって絡まっていく。

「まさか、その……新田が転校して来るなんて、夢にも思ってなかったから」

 久保の声は震え、目はまだ伏せられたままだった。

「恋バナを振られた時、どうせ一生会えないしって思って……ほんのエピソードのひとつみたいに話したんだ。そうしたら、俺が名前も知らない子に勝手に失恋したとか、気付くの遅いって散々からかわれて、アイツらは爆笑してて」

 その言葉を聞いた時、俺はてっきり、名前を伏せられているとはいえ、あの日の出来事そのものを、笑いものにされていたんだと思っていた。
 でも、どうやら、そうじゃなかったらしい。

「すぐにそんな話、みんなすぐに忘れると思ったし、新田には『初対面のふりをしよう』って提案したけど……本当は、好きになった相手が新田だってバレるのが怖かった。それを新田に知られて、引かれるのは……もっと、怖かった」

 そこまで一気に言ったあと、久保は唇をきつく結び、肩をわずかに上下させていた。
 そして、目の前に座る俺に向かって、頭を深く下げながら言った。

「自分を守るための嘘のせいで、新田を傷つけた。新田は、俺のために一生懸命やってくれてたのに……ハグしてくれた時も、本当は……友達以上の気持ちをずっと隠してた……ごめん、今だってこうして、側に居てくれてるのに――」

 最後の声は、普段の様子からは想像も付かないほど細かった。

「久保」

 名前を呼ぶと、久保はおそるおそる顔を上げた。
 叱られるのを待っている子どもみたいな目で俺を見つめていて、俺はどんな顔をしたらいいのか分からなくなる。

「……謝らなくていいよ、その……びっくりはしたけど」

 やっと絞り出した声は、情けないほど頼りなかった。
 久保の目が、不安と期待のあいだでゆっくり揺れている。

「本当に……?」
「うん、本当に」

 それが今の俺の限界だった。

「俺はてっきり、久保が面白おかしく話したんだと思ってた。でも……そうじゃないって分かったし。俺もここ最近、避けたりして……感じ悪かったよね。ごめん」
「いや、新田が謝るようなことは何にも無いって……そうさせたのは、俺のせいなんだから。でも……もしできれば、新田に許してほしいって思ってる」
「ぜ、全然。もういいよ。誤解だったって分かったし」

 本当は、もっと聞きたいことがある。

(久保は、今でも、俺のことを好きなの……?)

 でも、もしそれを口にしてしまえば、きっと友達には戻れない。
 仲直りはできたのに、まさかこんな形で、久保の好意を知ることになるなんて思ってもみなかった。
 その事実だけが胸の奥を締めつけ、言葉は喉に引っかかったまま、飲み込まれていった。

「そろそろ……帰らないとヤバいかも」

 久保が立ち上がり、俺もワンテンポ遅れて立ち上がる。
 どう振る舞えばいいのか分からないまま、ぎこちなく俺は久保の方を見た。

「明日、学校来る?」
「行くよ。ちゃんと、いつも通り」

 話途中のせいで、俺たちはお互いに目を合わせられないままだった。
 とりあえず今は普通にここで別れたくて、愛想笑いを浮かべる。

「じゃあ、おやすみ」
「……うん、また明日」

 久保は、ゆっくりと逆の方向へ歩き出した。
 さっきまで抱きしめあった体温が、肌にまだ残ってる気がする。
 歩き出して、しばらく進んだ後――ふと、足が止まった。振り返るつもりなんてなかったのに、身体が勝手に向き直る。
 そして、気づく。ちょうど同じ瞬間に、久保も俺の方を向いていたことに。

「…………」
「…………」

 目が合って、二人ともほんの一瞬、息が止まる。
 声は届かない距離なのに、何かが伝わった気がして、どちらからともなく、小さく手を上げた。
 それだけだった。そっと手を下ろし、また背を向ける。

(明日から、どんな顔して話せばいいんだろう……。)

 好かれていたと知った時に込み上げた、どうしようもない恥ずかしさ。
 ちゃんと誤解が解けて、また向き合えたことへの安堵と嬉しさ。
 そして――これから久保とどう接していけばいいのか分からない、不安。
 それが全部ごちゃ混ぜになって、歩くたび、影のように足元へまとわりついているみたいだった。