乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。


 今朝の教室は、いつも通りの朝のざわつきに包まれていた。
 誰かが窓を開ける音、椅子を引く音、ロッカーの扉が勢いよく閉まる音。
 まだ完全に目が覚めきらないままの声が、あちこちで漂っている。

「眠っ……流石に夜更かしし過ぎたわ」

「海野、川内と通話繋ぎながらゲームしとったんやろ? 自業自得やん」

「せやで。今度は六人でやろうや」

 他愛もないやり取りをしながら、みんなそれぞれ鞄をロッカーに放り込んでいく。
 俺も席について、リュックを机の横に掛け、なんとなく頬杖をついた。

「そういえばさ、飛行機の席どうなるんやろ」

「二人ずつやっけ?」

「真ん中は三人掛けもあんで。寝るなら窓側がえぇねんけど」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、強く引きつった。

 ――ああ、そうだ、飛行機。

 ちょっとだけ、忘れかけていたのに。
 また、乱気流にのまれたらどうしよう……。
 息が詰まって、視界が揺れて。
 怖くて、怖くて、泣きながら久保に「手を握って」とお願いしたこと。
 思い出しただけで、胃のあたりが、きゅっと音を立てて縮んだ気がした。

「伊織、顔色わるくね?」

「え、大丈夫そ?」

 笑いながら覗き込まれて、俺は慌てて視線を逸らす。

「だ、大丈夫。なんでもない」

 そう誤魔化しながら、無意識に、久保の方を見てしまう。
 その視線の先で、久保はいつも通りの顔で机に肘をつきながら、みんなの話をぼんやりと聞いていた。

 ……その、はずだった。

「――そういえば、伊織。
 むっちゃオモロい話あんねんけど。前に久保がさあ……」

 唐突に、前に居た田中が、思い出したみたいに声を上げる。

「飛行機の乱気流に巻き込まれて、隣の席に座ってた子がパニックになってさ。
 泣きながら『手ぇ握って欲しい』って言われたんやって……そんでなぁ、」

 一瞬、教室の音が、すっと遠のいた。

 「え……?」

 耳鳴りみたいに、身体の内側からきーんと音がした。
 周りの笑い声も、椅子の音も、全部、薄い膜の向こうに消えていく。

 俺は、ゆっくりと久保の方を見る。
 久保も、同じタイミングでこちらを見ていた。

 次の瞬間――久保の表情が、はっきりと変わった。

「……やめろって。その話」

 低くて、強い声。
 教室のざわめきの中でも、異様にくっきりと響いた。
 いつも余裕そうな久保が、こんなふうに、はっきり遮るのは珍しかった。
 でも、空気を読まないのが、このグループの悪いところで。

「なんで? めっちゃおもろいやん」

「マジでやめろ、黙れって」

「傑作やんか。だって久保、お前その時の子に――」

 その続きが、口にされる前に。俺は、反射で立ち上がっていた。

「……トイレ行ってくる!」

 自分でも驚くくらい、声が、ひどく上ずっていた。
 椅子が大きな音を立てて後ろにずれて、教室の視線が、一斉に俺に集まる。

「え、急にどした?」

「もう予鈴鳴るで?」

 久保が、俺の名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、振り返れなかった。
 教室のドアを開けて、廊下に出て、そのまま、ほとんど走るみたいにトイレの方へ向かう。

 胸が、苦しい。
 息が、うまく吸えない。
 ――なんで。なんで、こんな形で。

 ぐちゃぐちゃになった感情を抱えたまま、俺は個室に逃げ込んで、勢いよく扉を閉めた。
 鍵をかけるカチャッという小さな音も、静かなトイレに大きく響く。

 それから、しばらく、俺は個室の中で動けなかった。

 心臓がうるさくて、耳の奥で、どくどく、どくどくと音を立てている。
 頭の中では、さっきの言葉が、何度も、何度も再生されていた。

 “泣きながら『手ぇ握って欲しい』って言われたんやって”

 ――俺の話だ。
 ――俺の知らない所で、笑い話のネタにされてたんだ。

 胸の奥が、勝手にズキズキと痛む。
 呼吸を整えようとしても、うまく息が、入ってこない。

 一番奥にある個室のドアの前で、長く続いていた足音が止まる音がした。

「……新田?」

 トイレに響いたのは、久保の声だった。

 一瞬、喉が、きゅっと締まる。
 返事をしようとして、でも、言葉が出てこなかった。

「……さっきの、違うから」

 その言い方が、余計に、苦しかった。

 違うって、何が。
 どこまでが、違うって言うんだ。

「……今、俺、ちょっと無理かも」

 やっとそれだけ、絞り出すみたいに言った。

「新田――」

「ごめん。話したくないから」

 そう言った自分の声が、思っていた以上に冷たく響いて、胸の奥がひくりと痛んだ。
 本当は、こんな言い方をしたかったわけじゃない。
 でも、これ以上言葉を重ねたら、何かが決定的に壊れてしまいそうで、怖かった。

 久保は、それ以上、何も言わなかった。
 慰めるでもなく、弁解するでもなく、ただ沈黙が落ちる。
 その沈黙が、やけに長く感じられて、息をするのも苦しい。

 少しして、足音が聞こえた。
 ゆっくりと、ためらうみたいに間を置きながら、遠ざかっていく音。
 それを聞いているだけで、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。

 ……行った。
 本当に、行ってしまった。

 優しい奴だって、信じてたのに。
 あの時、震える手を包むみたいに握ってくれたのも。
 また会えて、言葉を交わして、友達になれたのも、心から嬉しかったのに。

 俺は、久保のことを、ちゃんと信じてた。
 友達として、頼ってもいい人だって。
 何かあったら、支え合える相手だって、勝手に思い込んでた。

 でも、久保は――俺のことを、どんな気持ちでみんなに話してたんだろう。
 怖くて泣いて、必死に縋ったあの時間を、
 笑い話として切り取って、軽く話せる程度の出来事だと思ってたのか。

 今まで一緒に過ごしてきた時間も、何気ない会話も、
 全部が急に輪郭を失って、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
 何を信じたらいいのか、どこからが本当だったのか、分からなくなる。

 “その件は、お互い、初対面のふりしておこう”

 あの言葉は、何だったんだよ。
 守るため? 気遣い? それとも、自分を守るため?

 考えれば考えるほど、胸の奥がざわついて、
 涙が出そうになるのを、必死で堪えることしかできなかった。