乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。

 久保の両親の離婚の話は、一応今すぐではなくなったものの、日常的な両親の険悪な空気に触れるたび、久保は時折、疲れた表情を見せていた。
 肩の力は抜けきらず、どこか張りつめた空気を纏っている。
 俺はそんな姿を見るたび、声をかけずにはいられなかった。

 “久保、大丈夫?”

 平気だと答える日もあれば、俯いたまま何も言わない時もある。
 そういう時は、俺から誘って、生徒会室でハグをした。
 回数にしたら、三回したか、しないか……そんな程度だったと思う。

 “――なんでさ、三十秒なの? 短いと効果ない?”

 “副交感神経がどうたらこうたらで……密着面が多いとストレスが落ち着くらしい”

 “サンキュー。これで一日のストレス、三割減だわ”

 お互いに気まずくならないようにするためか、大抵最後は、久保が茶化して終わった。



 先週末、久保は秋の連休を、鎌倉にあるおじいちゃんの家で過ごしたらしい。
 潮の匂いと静かな街の空気が、久保には合っていたんだろう。
 三日間をそこで過ごして戻ってきた後は、どこか顔色が明るくなっていた。

 チャイム直後のざわめきの中で、久保が自然に皆の輪に混ざっている。

「山根、また前回みたいに顔面キャッチしろよ」

「うっさいねん、久保ぉ。しばくぞガチで」

 山根がノートで久保の頭を叩こうとして、田中がバカ笑いして、
 久保はそれを避けながら、目を細めて楽しそうに笑っていた。
 窓から差し込む日差しが、久保の肩越しに揺れながら落ちてくるのを見つめる。

 ――久保、ちょっとずつ元気になってて良かった。

 見ていて分かる。
 まだ完璧に元どおりではないけれど、
 少しずつ、心の重さがほどけていくみたいに、明るくなっているのを。

「なぁ、今日さ。天気いいし、外で食べない?」

 唐突な俺の提案に、グループのみんなが一瞬きょとんとする。

「え、外? 中庭?」

「ええやん、日光浴ってやつ?」

「修学旅行前に日焼けすんの嫌なんやけど」

 ぶつぶつ言いながらも、なんだかんだで全員立ち上がった。
 その流れの中で、俺はこっそり久保の方を盗み見る。

 久保は机の中を一度覗いてから、少し困ったように目を伏せた。

「……俺、今日弁当ないわ。購買行くつもりだったし」

 ぽつりと落とされたその一言に、俺の胸がきゅっと鳴る。
 いつも、菓子パンとジュースしか食べてないから、ずっとそれが気になっていて。

「久保は、これ」

 俺は迷わず、持ってきたもう一つの弁当袋を差し出した。

「え?」

「弁当。食べきれないから手伝って」

 嘘は言っていない。
 けど、本当は――今日は最初から、久保の分を想定していた。

 少し戸惑ったあと、久保は小さく笑って受け取った。

「……ありがと。助かる」

 その声は、いつもに増してやわらかく聞こえた。



 中庭のベンチは、秋の陽射しをちょうどよく受けていて、コンクリートもほんのり暖まっていた。
 みんな好き勝手に腰を下ろして、弁当を広げる。

「伊織の弁当、今日もうまそうやん」

「唐揚げでかすぎ」

「やって、伊織にはハムスター並みの頬袋あるもんなぁ」

 いつも通りの騒がしさ。
 久保も俺の隣に自然に座って、俺の渡した弁当箱を開けた。

「……すご。これ、俺の好物ばっかだわ」

 焼き鮭、卵焼き、ほうれん草の胡麻和え、ミニトマト。
 母さんの“万能型弁当”だ。

「父さんの弁当まで、俺の袋に入れちゃったみたいでさ」

 本当は、「友達が困ってて……」とやんわりと事情を話して母さんに作ってもらった。
 母さんも、深くは追及してこなかったけど、問題が深刻そうなのを察してくれた。
 俺も少しだけ、卵焼きを手伝ったけど、それは言わない。

 久保が箸を進めるたび、その様子をうかがってしまう。
 美味しそうに食べてくれるのが、なんだか妙に嬉しかった。

「日向、ぬくそうちゃう?」

「俺、あっちの指揮台で爆睡してくるわ」

「教頭に見つかったらガチで死ぬやつ」

 みんなは思い思いの方向に散っていくように寝転んだり、
 「飯が足りひん」と購買に走ったり、トイレに立ったりしていった。
 気づけば、ベンチの周りにいた人数は、少しずつ減っていく。

 そして、最後までその場に残っていたのは――俺と久保だけだった。

「……あー、腹くっつい」
「何それ?」
「“お腹いっぱいで、もうキツい”ってこと」

 俺の方言に気付いた久保は、それを理解するとくすっと笑った。
 その横顔が、日差しに照らされてやけに綺麗で、俺は一瞬、言葉を失う。
 それを誤魔化すように

「日光浴で、セロトニンも出るから一石二鳥だよ」

 と言うと、久保が小さく笑った。

「……まだ、元気なさそうに見える?」
「ううん。でも、久保には、いっぱい笑ってて欲しいから」

 明るく言ったつもりだったのに、久保は何も言わず、ただ静かに隣に座り続けた。

 肩と肩が、ほんの少しだけ触れている。
 離そうと思えば離せる距離なのに、どちらも動かない。

 しばらくの沈黙。
 風が吹いて、木の葉がさらさらと揺れる音がした。

「……新田さ」

「ん?」

「こういうの、嫌じゃない?」

 一瞬、何のことか分からなかった。

「弁当、俺の分まで」

 視線は前を向いたまま。 声だけが、少しだけ低い。
 やっぱ、バレちゃったか。
 俺は、少し考えてから答えた。

「嫌だったら、やらない」

 それだけ。
 久保は一拍置いて、ふっと息を吐いた。

「……そっか」

 それきり、会話は止まった。
 なのに、空気は変に気まずくもなくて、むしろ落ち着いていた。

 ただ、さっきよりもほんの少しだけ、肩に触れる強さも、重みも増していて。
 俺の心臓は、その小さな変化に、やけにうるさく反応している。

「なぁー、次LHRやし、教室戻って駄弁ろうや」

「せやな。おい、はよ起きーや」

「海野どこ行ったん?」

「便所やって」

 久保もすっと立ち上がり、俺もそれに続くように、みんなでぞろぞろと教室へ戻った。



 今日のLHRは、修学旅行の班行動のルート決め。
 
 机をくっつけたまま、教室の後ろの方では誰かがスマホで動画を見せながら爆笑している。
 先生もどこか緩い雰囲気で、黒板の前に立ったまま腕を組み、「まぁ先に班で話し合ってええぞ」とだけ言った。

 教室全体が、ちょっとしたお祭り前みたいにざわつき出す。
 俺たちのグループも例にもれず、修学旅行の自由行動の話で一気に盛り上がった。

「じゃあさ、班行動の時間も行きたいところバラバラやし、効率よく回るために、国際通りは二人ずつに分かれね?」

「お、ええやん。じゃあ誰と誰で行くー?」

 自然と、“誰と組むか”の話になる。

「俺、買いもんガチ勢やから田中やな」

「はいはい、どうせお土産爆買いやろ」

「えー、俺はここ行きたいねん。誰と行けばええの?」

 机の上に置かれたパンフレットを指でなぞりながら、山根がぶつぶつ言う。
 ああでもない、こうでもないと軽い言い合いが続いて――

 川内と田中は買い物。
 山根は体験施設。
 行先を決めずに残ったのは、海野と久保と、俺だった。

「……どうする?」

 誰かがそう呟く声が聞こえたあと、山根が顎に手を当てて少し考えるそぶりを見せてから、不意に俺の方を指さした。

「じゃあ俺、伊織がええなぁ」

「うん、別にいいよ、俺は――」

 言いかけた、その瞬間だった。
 背後から、ふわっと何かに視界を覆われて、目の前が暗くなる。

「……だめ」

 耳元の近くに落ちてきた、低くて、静かな声。
 次の瞬間、両目を、後ろから大きな手のひらで覆われているのに気付いた。
 何が起きたのか分からなくて、視界が塞がれるだけで、こんなにも不安になるなんて思わなかった。

「な、なに!?」

 反射的に声を上げると、すぐにぱっと手が離れる。
 急に戻った視界が、やけに眩しく感じた。
 振り返れば、久保がすぐ後ろに立っていて、何事もなかったみたいな顔で、軽く言った。

「冗談。びっくりしすぎ」

「びっくりするに決まってんだろ!」

 俺がそう言うと、クラスのあちこちから、ワンテンポ遅れて、どっと笑い声が起こった。

「なんやねん久保、独占欲つよっ」

「うわー、伊織の前方彼氏面やん」

 好き勝手にからかわれても、久保は肩をすくめるだけで、はっきり否定はしない。

「俺と新田はデートするから、ダメでーす」

 そう言いながら、
 ほんの少しだけ、口元が緩んでいるように見えた。

 ……え、何それ?

 そこまで騒ぐことでもない。
 ただの冗談。
 クラスメイト同士の軽いノリ。

 頭では、そう分かっているはずなのに――
 胸の奥は、久保の言った「デート」という言葉に揺さぶられていて。

 目を覆われたときの、あの一瞬の距離の近さ。
 耳元に落ちた声の低さ。
 息がかかるほどの、近すぎた位置。
 それが全部、生々しく、頭に残ってしまう。

「水族館でさ、みんなで被り物買う?」

「俺、ジンベエザメ一択な」

「伊織は目ぇクソデカいからアザラシな」

「久保は俺らのこと殺しに来るシャチ」

 わあわあと、また別の話題に流れていくのに、
 俺だけは、少しだけ、うまく輪の中に戻れなかった。

 久保はもう、何事もなかったみたいにみんなと話している。
 笑って、ツッコミを入れて、いつもと同じ、あの“会長の顔”をして。

 だけど――不意に、視線が合う。

 一瞬だけ。
 ほんの一瞬だけ目が合って、久保は皆に見えないように、俺に向かって小さく笑った。