乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。

 久保の両親の離婚の話は、一応今すぐではなくなったものの、日常的な両親の険悪な空気に触れるたび、久保は時折、疲れた表情を見せていた。
 肩の力は抜けきらず、どこか張りつめた空気を纏っている。
 俺はそんな姿を見るたび、声をかけずにはいられなかった。

「久保、大丈夫?」

 平気だと答える日もあれば、俯いたまま何も言わない時もある。
 そういう時は、昼休みの二人きりになれる生徒会室で、俺の方からハグをした。
 回数にしたら、三回したか、しないか……そんな程度だったと思う。
 何回かしたら慣れるというか、儀式とかルーティンみたいに受け入れられるかなって思ったけれど、全くそんなことはなかった。
 久保の首筋から漂う大人っぽい香水の匂いとか、日の当たらない生徒会室の少しひんやりとした空気の中で触れた、制服越しの体温に、ずっと気持ちは落ち着かなかった。

「なんでさ、三十秒なの? 短いと効果ない?」

「血流が良くなって、体内で“セロトニン”が生成されるまでに掛る時間なんだって」

「……そうなんだ」

「あとは、密着面を多くすると良いとかも書いてあった、けど……」

 自分で言っていて、途中でむちゃくちゃ恥ずかしくなった。
 『だから、もっとくっついて』まるで俺の方が望んでいるみたいに受け取られるような気がしたから。
 けど、久保はそれ以上体を密着させたり、ぎゅっと抱き寄せるようなことはしなかった。
 その代わり、少しだけ屈んで俺の肩口のあたりに顔を寄せるみたいに、顔の距離を近づけてきた。

 肌が触れそう。髪の毛が空気に揺れるのも、間近に見えて久保をより一層近くに感じる。
 堪らなくなって視線を逸らすと、久保は見計らったように体を離して言った。

「……ありがと。これで一日のストレス、三割減だわ」

 お互いに気まずくならないようにするためか、大抵最後は、久保が茶化すみたいに笑って終わった。
 それに対して、俺もその空気感を誤魔化すみたいに、愛想笑いを返した。



 先週末、久保は秋の連休を、鎌倉にあるおじいちゃんの家で過ごしたらしい。
 潮の匂いと静かな街の空気が、久保には合っていたんだろう。三日間をそこで過ごして戻ってきた後は、前よりも顔色が明るくなっていたし、落ち込んでいる様子を見せることも殆ど無かった。

 チャイム直後のざわめきの中で、教科書を机にしまい終えて顔を上げる。久保は、皆の輪に混ざって軽口を言い合っていた。

「山根、また前回みたいに顔面キャッチしろよ」

「うっさいねん、久保ぉ。しばくぞガチで」

 山根がノートを丸めてで久保の頭を叩こうとして、田中がバカ笑いして。久保はそれを避けながら、目を細めて楽しそうに笑っていた。

 窓から差し込む日差しが、久保の肩越しに揺れながら落ちてくるのを見つめる。

 ――ちょっとずつ、元気になってて良かった。

 見ていて分かる。
 まだ完璧に元どおりではないけれど、少しずつ、心の重さが軽くなっていくみたいに、久保が明るくなっているのが嬉しかった。

「なぁ、今日さ。天気いいし、外で食べない?」

 昼休みのざわめきの中に、俺の声が少しだけ浮いた。
 唐突な提案に、グループのみんなが一瞬きょとんとした顔をする。

「え、外? 中庭?」
「ええやん、日光浴ってやつ?」
「修学旅行前に日焼けすんの嫌なんやけど」

 口々に文句を言いながらも、結局は誰一人反対せず、椅子を引く音が重なった。
 その流れに紛れて、俺はこっそり久保の方を盗み見る。

 久保は机にノートをしまいながら、少し困ったように口を開いた。

「……俺、今日弁当ないわ。購買行くつもりだったし」

 ぽつりと落とされたその一言が、胸の奥に小さく引っかかる。
 久保が普段、菓子パンとジュースで昼を済ませているのを、俺はずっと気にしていた。

「……じゃあ、久保はこれ」

 迷うより先に体が動いて、もう一つの弁当袋を差し出していた。

「え? でもこれ、新田の……」

「うん、弁当。食べきれないから手伝って」

 二つの弁当袋を交互に見比べてから、久保は俺の意図を察したみたいに、小さく笑った。

「……ありがと」

 その短い言葉だけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。



 中庭のベンチは、秋の陽射しをちょうどよく受けていて、コンクリートもほんのりと熱を帯びていた。
 みんな思い思いに腰を下ろし、弁当箱の蓋を開けていく。

「伊織の弁当、今日も美味そうやわぁ」
「唐揚げでかすぎ」
「やって、伊織にはハムスター並みの頬袋あるもんな」

 いつも通りの、変わらない騒がしさ。
 久保も自然な流れで俺の隣に座り、渡した弁当箱を開けた。

「……すご。これ、俺の好物ばっかだわ」

 焼き鮭に卵焼き、ほうれん草の胡麻和え、ミニトマト。
 母さんの“万能型弁当”だ。

「父さんの弁当まで、俺の袋に入れちゃったみたいでさ」

 本当は、「友達が困ってて」とだけ伝えて、余分に作ってもらった。
 母さんは詳しく聞かなかったけど、事情が軽くないことは察してくれたみたいだった。
 卵焼きを少し手伝ったことは、黙っておく。

 久保が箸を進めるたび、つい様子を窺ってしまう。
 美味しそうに食べる横顔を見ているだけで、妙に胸が満たされていった。

「日向、ぬくそうちゃう?」
「俺、あっちの指揮台で爆睡してくるわ」
「教頭に見つかったらガチで死ぬやつ」

 みんなは思い思いに散っていき、寝転んだり、購買へ走ったり、教室へ戻ったりしていく。
 気づけばベンチの周りは静かになっていて、最後まで残っていたのは――俺と久保だけだった。

「……あー、腹くっつい」
「何それ?」
「“お腹いっぱいで、もうキツい”ってこと」

 方言だと気づいた久保が、くすっと笑う。
 その横顔が陽射しに照らされて、やけに綺麗に見えて、俺は一瞬言葉を失った。

 慌てて誤魔化すように、

「日光浴で、セロトニンも出るから一石二鳥だよ」

 と口にすると、久保は小さく息を吐くみたいに笑った。

「……まだ、元気なさそうに見える?」

「ううん。でも、久保には、いっぱい笑ってて欲しいから。
 知ってた? 手のひらを太陽にかざすだけでも、人って元気になれるんだって」

 明るく言ったつもりだったのに、久保は何も返さず、ただ隣に座り続けた。
 肩と肩が、ほんの少し触れている。
 離れようと思えば離れられる距離なのに、どちらも動かない。

 沈黙の中、風が吹き抜け、木の葉がさわさわと音を立てた。

「……新田さ」

「ん?」

「こういうの、嫌じゃない?」

 一瞬、何のことか分からなかった。

「……弁当、俺の分まで用意してくれるとか」

 久保は前を向いたまま、いつもより少し低い声で言った。感情の置き場を探しているみたいなトーンだった。
 ああ、やっぱり気づいていたんだな、と内心で苦笑する。隠せているつもりだったけど、久保はやっぱり勘が良い。

 俺は膝を抱え、視線を足元に落とした。
 余計なお世話だったかもしれない。踏み込みすぎだったかもしれない。そんな思いが、胸の奥で小さく渦を巻く。

「……本当に嫌だったら、やらないよ」

 言葉はそれだけだった。言い訳も、理由の説明もしない。
 久保は一拍置いて、ふっと息を吐く。

「……そっか」

 会話はそこで途切れた。
 けれど空気は不思議と穏やかで、気まずさはなかった。

 そこに「ありがとう」の言葉がなくても、俺は全然よかった。

 ただ、さっきよりもほんの少し、肩に触れる重みが増していて。
 その小さな変化に、俺の心臓だけが、やけに騒がしく反応していた。

「なぁー、次LHRやし、教室戻って駄弁ろうや」
「せやな。おい、はよ起きーや」

 久保もすっと立ち上がり、俺もそれに続く。
 何事もなかったみたいに、みんなでぞろぞろと教室へ戻っていく。

 けれど、隣を歩く久保の気配だけが、いつもより少し近く感じられた。



 今日のLHRは、修学旅行の班行動のルート決め。
 
 机をくっつけたまま、教室の後ろの方ではクラスメイトたちがスマホでショート動画を見て爆笑している。
 先生もどこか緩い雰囲気で、黒板の前に立ったまま腕を組み、「まぁ先に班で話し合ってええぞ」とだけ言った。

 教室全体が、ちょっとしたお祭り前みたいにざわつき出す。
 俺たちのグループも例にもれず、修学旅行の自由行動の話で一気に盛り上がった。

「じゃあさ、班行動の時間も行きたいところバラバラやし、効率よく回るために、国際通りは二人ずつに分かれね?」

「お、ええやん。じゃあ誰と誰で行くー?」

 自然と、“誰と組むか”の話になる。

「俺、買いもんガチ勢やから田中やな」

「はいはい、どうせお土産爆買いやろ」

「えー、俺はここ行きたいねん。誰と行けばええの?」

 机の上に置かれたパンフレットを指でなぞりながら、山根がぶつぶつ言う。
 ああでもない、こうでもないと軽い言い合いが続いて――

 川内と田中は買い物。
 山根はブルーシール。
 行先を決めずに残ったのは、海野と久保と、俺だった。

「……どうする?」

 誰かがそう呟く声が聞こえたあと、山根が顎に手を当てて少し考えるそぶりを見せてから、不意に俺の方を指さした。

「じゃあ俺、伊織がええなぁ」

「うん、別にいいよ、俺は――」

 言いかけた、その瞬間だった。
 背後から、ふわっと何かに視界を覆われて、目の前が暗くなる。

「……だめ」

 耳元の近くに落ちてきた、低くて、静かな声。
 次の瞬間、両目を、後ろから大きな手のひらで覆われているのに気付いた。
 何が起きたのか分からなくて、視界が塞がれるだけで、こんなにも不安になるなんて思わなかった。

「な、なに!?」

 反射的に声を上げると、すぐにぱっと手が離れる。
 急に戻った視界が、やけに眩しく感じた。
 振り返れば、久保がすぐ後ろに立っていて、何事もなかったみたいな顔で、軽く言った。

「冗談。びっくりしすぎ」

「びっくりするに決まってんだろ!」

 俺がそう言うと、クラスのあちこちから、ワンテンポ遅れて、どっと笑い声が起こった。

「なんやねん久保、独占欲つよっ」

「うわー、伊織の前方彼氏面やん」

 好き勝手にからかわれても、久保は肩をすくめるだけで、はっきり否定はしない。

「俺と新田はデートするって約束してるから」

「はぁ? お前ら、いつそんな約束したん?」

「え、今」

 そう言いながら、ほんの少しだけ、口元が緩んでいるように見えた。
 みんなの視線が突き刺さる中、久保は「ね?」と首を傾けていて、俺は圧され気味に頷くしか出来なくて。

 そこまで騒ぐことでもない。
 ただの冗談。クラスメイト同士の軽いノリ。

 頭では、そう分かっているはずなのに――
 胸の奥は、久保の言った「デート」という言葉に揺さぶられていて。

 目を覆われたときの、あの一瞬の距離の近さ。
 耳元に落ちた声の低さ。
 息がかかるほどの、近すぎた位置。
 それを全部、はっきり覚えていて。

「水族館でさ、みんなで被り物買う?」

「俺、ジンベエザメ一択な」

「伊織は目ぇクソデカいからアザラシな」

「久保は俺らのこと殺しに来るシャチ」

 わあわあと、また別の話題に流れていくのに、
 俺だけは、少しだけ、うまく輪の中に戻れなかった。

 久保はもう、何事もなかったみたいにみんなと話している。
 笑って、ツッコミを入れて、いつもと同じ笑顔で。

 だけど――不意に、視線が合う。

 一瞬だけ。

 ほんの一瞬だけ目が合って、久保は皆に見えないように、俺に向かって小さく笑った。