1人の女の存在は戸畑 圭士という男の頭を大いに悩ませた。
と言っても、自身は直接的な関わりはないに等しい、いや、これから関わりをもっていくはずであったという方が正しいのかもしれない。
それもそのはず、その女の周りを取り巻く人間たちの1人に、自分の兄がいたからだ。
一人暮らしの殺風景な部屋を飛び出して、数ヶ月ぶりに帰ってきた実家の扉を荒々しく開ける。
「兄貴は」
リビングに入って早々、何も映し出されていないテレビを呆然と見つめている母にそう声をかけた。
振り返った母の顔はひどくやつれており、ここ数日間の疲労がありありと伝わってきた。
「2階よ、部屋に引きこもってでてこないの」
母は伏し目がちにそう言う。足早にリビングを出ていく圭士に母が制止することはない。
弟が尊敬する兄のために帰ってきたのだと理解させるため、わざと大きな足音をたてて階段を登る。
兄にとって自分はたった1人の兄弟であり、信頼し、なんでも相談し合えるそんな関係だと圭士は信じて疑わなかった。だからこそ、自分がその扉を開ける前に、兄が閉ざされたその扉を開けてくれるだろう、と。
「兄ちゃん」
最近はお互いが大人らしい距離を保つためにと『兄貴』と呼んでいたがあえて昔のように兄を呼んだ。
扉の向こう側にいる兄はどうしているのだろうか、部屋の隅で膝を抱えているのだろうか、今まで凛としていたその背中姿が嘘のように丸まっている様子を想像し、一刻も早く自分が助け出してやらねばと圭士の中で焦燥がつのる。
「…婚約者の奈々子さん、いなくなったんだって?」
兄がこうなってしまった原因を圭士は知っていた。
もうすぐ結婚をしようとしていた兄。人生のパートナーを見つけて新たな一歩を踏み出そうとしていた。
しかし、婚約者である大橋 奈々子が兄の前からいなくなったのだ。
前触れがあったのかなかったのかそれすらも分からない。一度、圭士も奈々子と会ったことはあるが、いきなりいなくなるような危うさのある人には到底思えなかった。
「警察に」
「警察には言うな」
中から聞こえてきたのは冷たい制止の声であった。
圭士はドアノブを握った。
「そんなこと言ってここに閉じこもっても奈々子さんは帰ってこないだろ、警察に言わないなら一緒に探そう」
なぜ、兄はここを開けないのだろうか。何がどうなっているのか何も理解できず圭士はドアノブを捻って扉を開けようとした。
しかし、少し開いた隙間は中にいる兄によってすぐに閉じられてしまった。
「兄貴っ!」
「帰れよ!!もう放っておいてくれ!」
兄が圭士に怒鳴ったのは初めてのことだった。ドアノブから力なく手が離れる。この状況を変えるにはどうしたらいいか圭士は自身を落ち着けるようにゆっくり呼吸をして、拳を強く握る。
「俺が、奈々子さんを探してくる。だから待ってて」
そう言って圭士は兄のいる場所からゆっくりと離れた。そして階段をおり、ふたたび母のいるリビングに行く。
「…何がどうなってんだ、母さん」
「わたしも分からないのよ、突然ここに帰ってきて奈々子さんがいなくなったって大騒ぎして、警察にも言わないって頑なだし、部屋から出てこなくなっちゃうし」
手のひらを額にあてて重々しくため息をついた母。よほどこの状況にこたえている。兄がこんなことになったのは初めてのことであり、母もどうしたらいいのか分からないのだろう。
圭士が覚えている限り兄が今まで感情を取り乱したことは一度もない。
だからこそ、この状況は放ってはおけないということだけは理解できた。
「圭士、あなたは気にしなくていいから大学でしっかり勉強しなさい。後のことは母さんと父さんに任せていいから」
その言葉に圭士は首を横に振る。そんなこと、出来るわけない。そもそも、自分がこの道にいきたいと願ったのも兄の背中を追いかけてきたからだった。
それに、両親に奈々子を探し出せるとは到底思えない。
「大丈夫、大学は休まない、だけど、奈々子さんは俺が探す」
「圭士…」
「何か分かったら連絡するから」
圭士は覚悟を決めた。誰でもない、ただ1人の兄のために。
最初に圭士が訪れたのは、奈々子がバイトをしていたカフェであった。兄から紹介したい人がいると呼び出された場所が奈々子のバイト先であったことを圭士は覚えていた。
正面に座り、幸せそうな2人を眺めていた2年前のこと、今は険しい表情で店内を見渡す。ここにいたのなら苦労はしないと圭士は小さく鼻を鳴らした。
「すみません」
「はい、ご注文は」
先にレジで注文をして席に座るタイプのお店のため、手ぶらの圭士が話しかければ笑顔で1人の若い女の店員が答えた。圭士は「いや」と言葉を漏らす。
「1つお聞きしたいのですが、ここで働いていた大橋奈々子さんって」
そこまで言って明らかに女の顔が曇った。「いますか」と圭士が問う前に女は怪訝な顔をして「大橋さんとのご関係は?」と質問をされる。
ここは変な誤解をうまないためにも正直に答えるべきだと思った。
「大橋奈々子さんの婚約者の弟なんですが」
「…婚約者の、弟…」
どう動くべきか悩むように唸って、少し周りを気にするように瞳を右から左に動かした後圭士の方を見た女は小さな声で「こちらへどうぞ」と言葉を放った。
女の後ろを静かに歩き、着いたのは関係者以外立ち入り禁止のスタッフルームであった。
部屋の端にはロッカーが並んでおり、中央には休憩を取るための大きめの机と周りを囲むように椅子が4つ置いてある。
「どうぞ、座ってください」
淡々とそう言われ、圭士は小さく会釈をして椅子に座る。女はすぐには座らず、一番端のロッカーから何かを取り出した後、圭士の正面に座った。
「あの、大橋奈々子さんは」
「奈々子ちゃん、しばらく来てないんです」
「しばらくって、いつからですか」
「1週間前ほどから無断欠勤してて、店長も頭抱えてます。たださえ人足りないし」
「連絡は」
「してます、何度も。でも電話もメッセージも何も…」
1週間前。それは、母が言っていた兄が取り乱して実家に帰ってきたくらいの時期である。
「他に奈々子さんの連絡先を知ってる人いませんか?仲のいい友人とか」
「分かりません…私もそんなに彼女と連絡を取り合ってた仲じゃないですし、奈々子ちゃんあまり自分のことを話すタイプじゃなかったんです。ただ家族とあまり仲が良くないっていう話だけはきいてました」
仲のいい友人もおらず、家族とも疎遠。そして、1番近くにいた婚約者である兄は今話ができる状態ではない。頼みの綱であった仕事場でもこの調子である。
だが、圭士には1つ気になることがあった。
そもそも、何も情報がなければ奈々子がいるかどうか聞いた時に、早々につっぱねていただろう。
なのに女は自分をここに通した。
その理由を圭士が聞く前に、女は曇った表情のまま圭士の方をみる。その瞳は懐疑心を帯びている。
「奈々子ちゃんを探しているんですよね」
「はい」
「なぜ、婚約者ではなく、その弟さんが?」
女の頭の中に描いている筋書きがどうなっているのか圭士には理解できなかったが、その問いが良い意味でないことはその表情から分かる。
おそらく、情報を差し出す前の信頼がほしいのだろう。
「兄は、奈々子さんがいなくなったことで動ける状態じゃないんです」
「…そんなにショックを?警察には?」
「ひとまず色々調べて、状況をみて警察に相談するつもりです」
「そうですか」と女が伏目がちに言った。ついたため息は安堵なのだろう。警察に言うことは現状兄に止められている。しかし、こうも言わないと女が情報を開示すると思えない。
女はゆっくりと膝の上にあった手を机の上に出した。その手にはスマホが握られている。
「これ、奈々子ちゃんのロッカーに置いてあったものです」
「スマホ、ですか」
「はい。でも、奈々子ちゃんが持ってたスマホはこれとは違うものだったから、本当に奈々子ちゃんのものかどうかは分かりません」
「少し調べてもいいですか」
「…どうぞ」
圭士は差し出されたそれを受け取り、電源をつけようとするがそれはつかない。
「ずっとロッカーの中に置いてたから充電切れたのかも」
「ロッカーに入っていたのはこれだけですか」
「はい、他には何も入っていません」
ということは、今のところ手がかりになるのはこの一台のスマホだけである。圭士は無駄に何度も電源ボタンを押してみる。ここに兄がいれば簡単にことが進むだろうが、自分は所詮婚約者の弟という立場である。
今回みたいに情報を得るのにもこれから時間がかかるだろう。
「良かったらそれ、持っていってください」
「え?」
「ここにあっても、私たちにはどうすることもできないし勝手なこともできないですから」
困ったように笑った女に、圭士は「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げる。
すると女の「でも」と控えめな声が聞こえて頭を上げた。
「そのスマホ奈々子ちゃんのものじゃないって分かったら戻しにきてください。何かの間違いで他の人のものを勝手に知らない人に渡したって私が責められちゃいますから」
「分かりました、ありがとうございます」
圭士は1つの手がかりを握りしめて再び頭を下げた。
カフェを出て圭士は手に握りしめた一台のスマホをそのままに一人暮らしの家へと帰る。
部屋に入り、着ていたジャケット、肩からかけていた鞄を脱ぐことなくコンセントから伸びる充電器をスマホに差し込んだ。
「つけ」
口から溢れた願望。早く元の兄に戻って欲しいという願いが圭士のいつもの落ち着きをいつになく惑わせ、イラつかせた。数秒間、電気も付けない薄暗い部屋に1つの光。
数回画面をタップし、感情のない機械へ「早く、早く」と願う。
初期設定のようなシンプルなデザインの壁紙があらわれ、圭士は画面を凝視した。
暗証番号等を求められることもなく、いとも容易く開いたそれ。トップ画面に現れたのは電話とメールフォルダ、それから圭士も日常的に使っているメッセージアプリ1つ。
1つずつ、タップをしていく。電話の履歴はなし、メールフォルダにも何も入っていない。
あとは、
「…あった」
手がかり。メッセージアプリを開くとそこに表示されたのは『ナナ』と表示された名前と、1つのメッセージの履歴であった。
『ナナ』すなわち、このアプリを使っている張本人の名前。やはり、スマホの持ち主は大橋奈々子なのだろうかと圭士は顔を顰める。
そして、まだ誰にも読まれていない未読の状態のメッセージを開く。表示されている名前を視界に入れた。
「いつき…?」
相手が兄の名前であれば、と願ったが当然圭士の知り合いに『いつき』という名前はいない。そして、いつきという人物から送られてきていたのは40秒ほどのボイスメッセージであった。
自分の指が小さく震えていることに気づいた。ごくりと唾を飲んで画面をタップする。
何かノイズのような、擦れるような音が聞こえ圭士は音量を最大にし、スマホの先端についているスピーカーを片耳に当てた。
「っ、う」
いきなり聞こえてきたギターの音に思わず圭士はスマホを耳から離した。人の声が聞こえてくるかと構えていたにも関わらず予想を大いに外した。
しばらくしてギターの音と共にきこえたきたそれ
「…歌?」
曲調は明るめであり、男の声で歌われている。それだけしか圭士には分からない。混乱する頭の中を整理しているうちに曲は終わりをむかえてしまう。
「なんだよこれ…」
思わず床にへたり込み小さく縮こまった。暗くなった視界で圭士は必死に考える。このスマホが大橋奈々子のものだと仮定して、いつきという人物から送られてきている弾き語りの1曲の音楽。一度聴いただけだが印象として明るく、希望を描いたような曲だった。
それに、『恋』だの『好き』だのきこえてきたような気がする。
考えたくもない憶測が浮かんだ。
ーーーー兄は、婚約者に裏切られたんじゃないだろうか。
圭士の中でふつふつの湧き上がってきた怒り。再度、画面を視界に入れて再生ボタンをおした。
何度も、何度も、音楽を流す。比例するように圭士の中の怒りが増していく。
「……調べ尽くしてやる」
圭士は一台のスマホを握りしめた。
次の日、圭士が向かった先は一度も足を踏み入れたことのない場所であった。
防音とは言え、溢れでる楽器の音に思わず顔を顰める。意を決して扉を開けた。
「すみません」
圭士が声を上げるが楽器の音と歌声でかき消され中の数人には聞こえていない。腹に力を込めて圭士は声を出した。
「すいません!」
圭士の声で音が減った。最初に圭士の存在に気づいた女が数人に「ねえ、誰か来てる」と肩を叩く。
音が止み、3人ほどの女が圭士の前に立った。
「入部希望?」
「違います、少し伺いたいことが」
圭士が訪れたのは大学の軽音サークルであった。
「ふうん、入部希望じゃないか、残念。君ルックスいいのにね、ステージ映えしそう」
真ん中に立つ金髪の女が圭士の全身を上から下まで視界に入れてそう言った。圭士の眉間にシワがよったのをみて、「冗談よ」と笑う。圭士は1つ咳払いをして口を開いた。
「法学部2年の、戸畑圭士と言います。あの、6年前にここのサークルに所属していた人について何か知っていたらと思ったんですけど」
「6年前?あたしたちもいないよ、一応聞くけど名前は?」
「大橋奈々子です」
圭士の兄、仁と奈々子は大学から交際をしている。同じ大学で知り合っているのだ。そして圭士も兄が卒業した後、兄と同じ大学の法学部へと進んでいる。
奈々子は教育学部であり、そして、奈々子が軽音のサークルに入っていたということを圭士は兄から聞いていた。
奈々子がバイトしていたカフェで、2人の馴れ初めを聞かされた時は正直あまり興味はなかったものの、ここにきてあの時惚気話を聞いていた良かったとさえ思った。
「知らないね、あんたたち知ってる?」
真ん中の金髪の女が両端の2人にそう聞くが2人とも「知らない」と首を横に振った。知らないのは当然だ、卒業生のことなど有名にならない限りあまり気にしないだろう。ましてや、6年前にサークルに所属していた人など気にもとめない。ここまでは予想できていた、「では」と鞄から圭士がスマホを取り出す。
「この曲、知りませんか」
圭士は再生ボタンをおした。40秒ほど流れている間、3人がスマホに耳を近づけて聴き入っている。
しばらくして曲が終わると、脳内の記憶を探っているようにその場だけ、沈黙が流れた。女たちの後ろの方ではこちらで話をしているのに気を遣ってかサークルのメンバーたちが控えめに練習をしている。できれば後ろの連中にも聴いてほしいところではあったが、この反応では有力な情報も得られないだろうと圭士は確信する。
「…きいたことない」
ほらな。と、圭士は保険のようにかけていた期待しない気持ちを全面に出す。「そうですか」と淡々とスマホを鞄にしまった。
「やはりこれはどこにも出回っていない音楽ですよね。歌詞で調べても検索にすらひっかからないんです」
「その、大橋奈々子って人が作った曲なの?歌ってるの男だよね」
「まだ、何も分かりません」
ただ分かることは、これが反吐が出るほどの
「いいラブソングだね」
金髪の女から放たれた言葉に、圭士は拳を握りしめた。圭士の反応をみて金髪の女は「あら、求めてた言葉とは違う感じ?」と軽く笑う。
「あ、ねえ、あの人なら何か分かるんじゃない?」
金髪の女の右隣にいる女がそう言った。すると、金髪の女も「ああ」と思い出したように声を出す。
「あの人って?」
藁にもすがる思い、その気持ちを押し込めて圭士は落ち着いた声でそう問う。話が畳まれていくのを察して金髪の女は立てかけていたエレキギターを持ち上げながら、口を開く。
「牟田 蓮くん、心理学部の2年生よ」
「牟田…その人は軽音サークルに所属しているんですか」
「誘ってるんだけどね、入ってくんないの。でも彼、耳が超いいし、ほとんどの楽器完璧にこなせるから時々助っ人頼んでて、あと色んな音楽きいてるからその曲のことも何か分かるかもよ」
「どこにいるかとか、分かりますか」
「大抵この時間は食堂でカレーうどん食べてると思う、あとはたまにギター持ってるから探してみたら?」
「カレーうどん食べながらギターを…?」
想像するとなんとも滑稽な姿である。圭士は困惑し瞳を泳がせた。圭士の様子を見て金髪の女が吹き出す。
「ギターって生のまま持たないよ、ほらこういうのに入れて持ってると思うから」
そう言って黒いケースを圭士の前に見せた。圭士は自身の無知さと想像力に若干の恥ずかしさを覚えながら「分かりました」と頭を下げてサークルの部屋を出た。また、遠慮のない歌声と楽器の音が溢れた。
圭士にとってこの世界は分からないことだらけである。音楽を聴くことはこれまで当然のようにしてきたもののやる側の人間、音楽を軸にしている人たちと触れ合うことになるとは思わなかった。
重々しくため息をつきながら、食堂へと向かった。
カレーうどん、ギター、そう心で唱えながら該当する人物がいないかあたりを見渡す。
窓際の奥端に見えた人物に圭士は「あ」と声を漏らした。白いパーカー、少し癖のある茶色の髪の毛、そして隣の椅子に立てかけている先ほど金髪の女が見せたようなギターケース。そして、男の正面にあるのはカレーうどんだ。
「あの」
真っ直ぐ男の方に歩いていき、正面に立って声をかける。麺を口から垂らしたまま男が圭士を見上げた。
「牟田 蓮さんですか」
圭士がそう言うと、男は麺を啜り上げて咀嚼した後「そうだけど」と答えながら箸でまた麺を持ち上げる。
「ききたいことがあって、座ってもいいですか」
「いいけど」
「ありがとうございます」
存外、すんなりと圭士の存在を受け入れたことに驚きながら圭士は男の正面の椅子に腰を下ろした。
白いパーカーにカレーうどんが少し散っているのを視界に入れる。指摘するほどの仲ではないと、見なかったことにした。
「法学部2年の戸畑っていいます」
「法学部?頭いいね」
「いや、そんなことは」
「謙遜しないで、俺も2年だしタメ口でいいよ」
「初対面でいきなりそういうのはよくないと思うので」
圭士がそう言うと、「はは」と軽く笑った牟田。そして、箸の尖端を圭士の方に向けた。
「あれだね、武士みたい」
「武士…?」
「うん、その堅苦しい感じ」
おそらく褒められていないと察した圭士は、遠慮のリミッターを少しだけ緩くした。
「ひとつ、聞きたいことがあって」
「なに?」
「知りたい曲がある」
「知りたい曲?」
「これなんだけど」
圭士はスマホを差し出す。牟田は箸をおいて、圭士からスマホを受け取った。
「あ、イヤホン」
「一旦いいよ、迷惑にならない程度の音量できくから」
と、牟田は圭士が最初この曲を聞いた時にしたようにスマホのスピーカーを片耳に近づけた。
しばらくして、牟田がスマホを耳から外す。何かを言う前に圭士が「どうだった」と前のめりに牟田に問う。
「誰かのオリジナル?」
「やっぱり、きいたことないよな」
「うん、ないね」
興味がなくなったように、またうどんを啜り上げはじめた牟田。圭士は食い下がった。
「本当にきいたことないか?歌詞が違うだけで、メロディが一緒とか、歌ってる人物のこととか」
「似たような曲はたくさんあるけど」
「そうか、じゃあそれだけでも」
「数えきれないほどあるよ、それくらいこういう曲はありふれてる」
当たり前のようにそう言われ、圭士は肩を落とした。やはり、これは何の手掛かりにもならないのかもしれない。牟田は、食い下がった様子の圭士をみて興味が湧いたのか「なになに」と身を圭士の方に寄せた。
「この曲になんかあんの」
「…まだ、分からない」
「状況によっては協力してあげてもいいよ」
圭士は落としていた顔をあげる。視界に入ってきたのは好奇心を瞳に宿している牟田の姿であった。
信用していいのだろうか。そもそも、この音楽に何か手がかりがあるなんて見当違いも甚だしいのでは。
しかし、現在奈々子が残しているものはこれしかないのだ。頼れるものはすべて頼った方がいいのではないのだろうか。圭士の頭の中で自問自答が繰り返される。
「兄の、婚約者がいなくなった」
圭士が出した答えは、このワケもわからないカレーうどんギター男に話すことであった。
「その人が働いていたバイト先にこのスマホが残されていて、『いつき』ってやつからその音楽が送られてきていた」
「音楽だけ?」
「音楽だけだ」
圭士は手のひらで顔を覆う。本当に、それだけなのだ。
これで奈々子を探し出せるとは思えない。
「なんで戸畑くんのお兄ちゃんが探さないの?自分の婚約者だろ?」
圭士は自身の前髪を少し乱した後、椅子に背を預けた。
「兄は訳あって動けない」
「じゃあ戸畑くんがかわりに?兄想いの優しい人なんだね、戸畑くんって」
にこりと笑ってそう言った牟田に圭士はなんとも言えない表情で牟田を見る。兄想いの、優しい人。初対面で少し話しただけのやつに放たれた言葉を容易く飲み込んで浮かれている暇はない。だが、純粋に自分が駆け出し、飛び込んだこと自体がその言葉で少し救われたような気がした。
「…圭士でいい」
「そう、じゃあ圭士って呼ぶね」
「ああ…あと、なんでカレーうどん食べるのに白いパーカーなんだ?汁飛び散ってるけど」
圭士の指摘に牟田は「本当だ」とケラケラ笑っている。圭士の張り詰めていた緊張が少し解ける。
ため息をついて圭士は本音をこぼした。
「俺には、これがただのラブソングにしか聴こえないんだ」
だからこそ、憎い。兄を裏切り、別の男と一緒になったのかもしれない、と。簡単にたてられた憶測。尊敬する兄が壊れてしまうほどのその嫌な真実が圭士を動かす今の原動力だった。
「…たかが、音楽で」
こんな気持ちになりたくなかった。
「『ただのラブソング』『たかが、音楽』ね」
牟田の低い声が圭士の耳に入った。牟田が頬杖をついた。先ほどの無邪気な笑みとは違うシニカルな笑みを浮かべている。
「知ってる?何気ない音楽にも無意識に感情はのる。そこに軽いも重いもない」
「感情…?」
「歌詞、コード、メロディ、リズム、そこにはすべて感情が出るんだよ」
分かりきったようなことをあえてゆっくりと圭士に真っ直ぐに伝えるように紡いだ牟田。音楽の知識はないがそれでも牟田の言っていることは理解できる。当然だと頷いてみせた。
「例えば圭士は、人を殺したいって思ったことある?どんな些細な理由でもいい、自分の快楽のために迷惑行為をする同世代の子たちとか、分かったように俺たちを諭してくる大人たちとか、尊敬している人からの裏切りとか、
自分の大好きな兄を裏切った婚約者、とか」
「っ」
圭士の言葉が詰まる。ないと言ったら嘘になるからだ。憎しみを増幅させて動き出したこと責め立てるような口調に圭士は拳を強く握る。
「君の感情を責めてるんじゃない、そういう感情も含めて行動にうつせないからこそ人は音楽にぶつけることができるってわけ。負の感情の方がいい例え話になるだろう」
「…この曲も、そう言いたいのか」
「そう、だからね、君が知らないといけないのは凝り固まった理屈じゃない、誰が誰のために、どんな思いでこれを作り、奏でられたかってことじゃない?」
「それを知って兄は救われるのか」
「さあ、それは調べてみないと分からないかな」
おちゃらけるように牟田は肩をあげる。圭士は何度も何度もこの曲を聴いた。にもかかわらず今、歌詞やメロディを思い出せと言われても思い出せない。それは当然だった、理解しようとも思わなかったからだ。
立ち上がった牟田に圭士は「おい」と声をかける。
「安心して連絡先、俺の入れといたよ」
「いや、これ俺のスマホじゃない、自分のスマホの方に…」
「まあ、いいじゃんしばらくは圭士が持ってるんでしょ?」
「曲のデータを送る」
「ううん、覚えたから大丈夫」
牟田はギターを背負うと圭士を見下ろす。口角が緩やかな弧を描いた。空中を散歩するように動いた牟田の人差し指が圭士の胸をトンっとついた。
ーーー「いい?圭士、たかが音楽じゃない、されど音楽だ」



