真っ白な空間。
何を見ているのか、天を仰ぐ涼の着物の袖を私は後ろからクイクイッと引っ張る。
「ん? どうした? 腹が減ったか?」
涼は、振り返って空色の瞳をこちらに向ける。
私は首を横に振り、背伸びする。
しかし、涼の方が二十センチ以上高い為、背伸びくらいでは額と額が届かない。
懸命に踵を上げていたら、涼がニコリと微笑んで私のそれにコツンと額を付けてきた。
(私、いつまでここにいて良いの?)
「いつまでって、ずっといて良いよ」
(でも……私、ここで何もしてないし)
「食べて、お風呂入って、着替えて、寝てるじゃん。沢山してるよ」
(いや、そうじゃなくて……)
そう、私は涼の神域に来てから五日、寝ていた期間を含めれば八日だが、とにかく五日間、私はただ食べて寝るだけの生活をしている。
不満はない。涼が出してくれる料理は魚介ばかりだが、どれも美味しいし、今までは川に浸かるだけだった入浴も、温かい風呂を用意してくれる。
仕組みは分からないが、神だから何でも想像したものを具現化出来るらしい。
一応夜も存在するようで、夜になると真っ白な空間は、真っ暗な空間に変わってしまう。その時間だけは、やや心細いが、涼の名を呼べばすぐに来てくれる。
帰る場所を無くし、お尋ね者になった私を置いてもらって感謝しかないのだが、至れり尽くせりの今の生活を素直に喜べない自分がいる。
(これって、死んでるのと変わらない気がする)
「はは、小雪は面白いこと言うね。知ってる? 死んだら何も出来ないんだよ」
(そうだけど……)
「魚の骨だって、自分で取り除くことが出来るようになったじゃん。それだって、死んだら出来ないことだよ」
(そうなんだけど、生きてる意味……みたいな。私って、何の為に生きてるの?)
「今までは、何の為に生きてたの?」
(それは……)
私は、死にたくなくて隠れて生きていた。
しかし、何故死にたくないのかと問われれば分からない。私が死ねば、父が悲しむから。それが一番の理由だったかもしれない。
けれども、今となっては私の死を悲しむ者なんて誰もいない。むしろ喜ばれるだけだ。
「それなら、これからは私の為に生きて」
(涼の為?)
「うん、私の為。それなら納得出来る?」
(納得……する為に、具体的に何すれば良いのか教えて! 何でもするからさ!)
「ふふ、何でもか。小雪は欲張りだね」
優しく笑う涼は、額を離して私の頭を撫でてきた。
「じゃあ、早速してもらおうかな」
(何々!?)
期待の眼差しで見上げれば、涼は指をパチンと鳴らした。すると、いつものように食事が並ぶ。
「小雪、ご飯にしよう」
私の顔は一気に落胆の色に変わる。
プイッと涼から顔を背け、その場に膝を三角に折って座った。
「どうしたの?」
(フンッ。知らない)
顔を覗き込もうとしてくる涼を避けながら、口を尖らせる。
これでは、いつもと変わらない。
百歩譲って涼が食べるなら私もそれに付き合う。しかし、涼は食事を取らない。私だけが食べるのだ。涼は、それをただ笑って眺めているだけ。
そして、正直なところ魚介しか出ない食事に飽きてしまった。野菜が食べたい。
そんなことを考えていたら、涼が背中に耳を当てていた。
「野菜かぁ。こればっかりは私にも出来なくて。野菜や動物の肉は山神に頼めば出してくれるけど……」
(ちょ、心を読まないでよ)
「だって、不貞腐れてるから。言葉足らずで二人の仲に亀裂が入る夫婦は五万といる。そうはなりたくない」
(だからって、私と涼は夫婦じゃないでしょ?)
「どちらかと言えば、小雪はペットに近いね。ここ掘れワンワンってね」
(私は犬じゃない! それより、会話したいならおでこにしてよ)
「何故?」
何故って……後から気付いたが、額でも胸でも、涼とはどちらでも会話が出来る。しかし、心を読まれた場合、心情まで全て包み隠さず筒抜けなのだ。その時の感情まで全て。
だから、神様の出すものに不平不満を垂れてしまったことにも勿論気付かれてしまう。いくら涼が温和な性格だとしても、流石に失礼すぎて顔向け出来ない。
という風に、一瞬考えただけでも全て筒抜けなのだ。
それでも涼は怒らない。
「ふふ、遠慮はいらないのに」
(遠慮って訳じゃ……私、人と話したことないから、何を言ったら人が喜んで、何を言ったら怒るのか、分かんないから……)
「怒られるのが恐い?」
怒られるのがというより、嫌われるのが恐い。今、私の味方は涼だけだから……。
だから、私にも何か出来ることが欲しい。ここにいても良いんだと思える材料が欲しい。
「そんなこと、他の男の前で言ったらダメだよ」
(勝手に心情覗いておいて……)
「とにかく、小雪は女の子なんだから。特に山神の前では言わない方が良い」
(山神様?)
「あれは、色恋が好物でね。君みたいに可愛い子は、その弱みにつけ込まれて逃げられなくなるから」
何を言っているのかさっぱり分からない。
色恋が好物……色恋って、食べられるの? 人が人を好きになることだと思っていた。その認識すら違うのだろうか。
首を傾げていたら、涼はフッと笑って私のお腹に手を回してきた。
「純粋過ぎるのは如何なものか」
(な、何? なんで帯を……?)
涼が浴衣の帯をほどいた。寝巻き用の浴衣のため、呆気なくほどけた帯はその場に落ちる。
はだけた襟元から、涼の手が這うように中に入ってくる。
背中にあった涼の顔もいつの間にか私の耳元にあり、そっと囁かれる。
「ここにいても良いって思える材料……欲しいんでしょ?」
今までにないほど色っぽい声に驚き、今の状況に震えながらも、目を固く瞑って頷く。
「こんなに震えちゃって、嫌なら嫌って言わないと」
(い、嫌じゃない。涼の為に生きるって決めたから。涼が望むなら何だって……)
「従順な子は嫌いじゃないよ。でも、従順すぎる子は、つまらないかな」
涼の手が浴衣から出て、そっと私から離れた。
さわさわする不思議な感覚は無くなり、ホッとした。
けれど、どん底に落とされたような気分になる。おそらく、つまらないと言われたから。
私は、鬼の子として生まれ、周りから疎まれ、忌み嫌われる存在。他者との付き合い方も、人間としての楽しみ方も外の世界も何も知らない。ただただ生きながらえてきた。そんな私が好かれるはずがないのだ。
やはり、死んだ方がマシかもしれない。私は、いらない子だから。両親の元に旅立った方が幸せかもしれない。あの世でなら、鬼の子も疎まれないはず。家族三人で幸せに暮らしたい。
俯いていると、涼がパチンと指を鳴らした。
同時に、着ていた浴衣が淡い青色の着物に変わった。
驚きのあまり、俯いていた顔が上がる。
「野菜を買いに行こう」
(え?)
「ここにずっといるの嫌なんでしょ? 外に行ってみよう」
涼が手を差しのべてきた。
その手を取りたいが、先日の村人らの顔が目に焼き付いて離れない。
好奇心よりも恐怖が優る。
死んだ方がマシと思いながらも、実際に死ぬとなると怖い。どうしてこうも心は素直なのか。
「大丈夫。私が守ってあげるから」
涼の柔らかい笑顔は、安心できる。
しかし、先程の『つまらない』の言葉が引っ掛かって素直に受け取れない。
躊躇っていると、しびれをきたしたのか、涼が私の手を掴んだ。
「絶対に離しちゃいけないよ」
刹那――視界が一変、真っ白な空間から、先日涼と出会った海辺に変わった。
否、同じように見えるが、先日とは違う海辺だ。
「村はあっちかな。行ってみよ」
私は、涼の手をしっかりと握り返した。
何を見ているのか、天を仰ぐ涼の着物の袖を私は後ろからクイクイッと引っ張る。
「ん? どうした? 腹が減ったか?」
涼は、振り返って空色の瞳をこちらに向ける。
私は首を横に振り、背伸びする。
しかし、涼の方が二十センチ以上高い為、背伸びくらいでは額と額が届かない。
懸命に踵を上げていたら、涼がニコリと微笑んで私のそれにコツンと額を付けてきた。
(私、いつまでここにいて良いの?)
「いつまでって、ずっといて良いよ」
(でも……私、ここで何もしてないし)
「食べて、お風呂入って、着替えて、寝てるじゃん。沢山してるよ」
(いや、そうじゃなくて……)
そう、私は涼の神域に来てから五日、寝ていた期間を含めれば八日だが、とにかく五日間、私はただ食べて寝るだけの生活をしている。
不満はない。涼が出してくれる料理は魚介ばかりだが、どれも美味しいし、今までは川に浸かるだけだった入浴も、温かい風呂を用意してくれる。
仕組みは分からないが、神だから何でも想像したものを具現化出来るらしい。
一応夜も存在するようで、夜になると真っ白な空間は、真っ暗な空間に変わってしまう。その時間だけは、やや心細いが、涼の名を呼べばすぐに来てくれる。
帰る場所を無くし、お尋ね者になった私を置いてもらって感謝しかないのだが、至れり尽くせりの今の生活を素直に喜べない自分がいる。
(これって、死んでるのと変わらない気がする)
「はは、小雪は面白いこと言うね。知ってる? 死んだら何も出来ないんだよ」
(そうだけど……)
「魚の骨だって、自分で取り除くことが出来るようになったじゃん。それだって、死んだら出来ないことだよ」
(そうなんだけど、生きてる意味……みたいな。私って、何の為に生きてるの?)
「今までは、何の為に生きてたの?」
(それは……)
私は、死にたくなくて隠れて生きていた。
しかし、何故死にたくないのかと問われれば分からない。私が死ねば、父が悲しむから。それが一番の理由だったかもしれない。
けれども、今となっては私の死を悲しむ者なんて誰もいない。むしろ喜ばれるだけだ。
「それなら、これからは私の為に生きて」
(涼の為?)
「うん、私の為。それなら納得出来る?」
(納得……する為に、具体的に何すれば良いのか教えて! 何でもするからさ!)
「ふふ、何でもか。小雪は欲張りだね」
優しく笑う涼は、額を離して私の頭を撫でてきた。
「じゃあ、早速してもらおうかな」
(何々!?)
期待の眼差しで見上げれば、涼は指をパチンと鳴らした。すると、いつものように食事が並ぶ。
「小雪、ご飯にしよう」
私の顔は一気に落胆の色に変わる。
プイッと涼から顔を背け、その場に膝を三角に折って座った。
「どうしたの?」
(フンッ。知らない)
顔を覗き込もうとしてくる涼を避けながら、口を尖らせる。
これでは、いつもと変わらない。
百歩譲って涼が食べるなら私もそれに付き合う。しかし、涼は食事を取らない。私だけが食べるのだ。涼は、それをただ笑って眺めているだけ。
そして、正直なところ魚介しか出ない食事に飽きてしまった。野菜が食べたい。
そんなことを考えていたら、涼が背中に耳を当てていた。
「野菜かぁ。こればっかりは私にも出来なくて。野菜や動物の肉は山神に頼めば出してくれるけど……」
(ちょ、心を読まないでよ)
「だって、不貞腐れてるから。言葉足らずで二人の仲に亀裂が入る夫婦は五万といる。そうはなりたくない」
(だからって、私と涼は夫婦じゃないでしょ?)
「どちらかと言えば、小雪はペットに近いね。ここ掘れワンワンってね」
(私は犬じゃない! それより、会話したいならおでこにしてよ)
「何故?」
何故って……後から気付いたが、額でも胸でも、涼とはどちらでも会話が出来る。しかし、心を読まれた場合、心情まで全て包み隠さず筒抜けなのだ。その時の感情まで全て。
だから、神様の出すものに不平不満を垂れてしまったことにも勿論気付かれてしまう。いくら涼が温和な性格だとしても、流石に失礼すぎて顔向け出来ない。
という風に、一瞬考えただけでも全て筒抜けなのだ。
それでも涼は怒らない。
「ふふ、遠慮はいらないのに」
(遠慮って訳じゃ……私、人と話したことないから、何を言ったら人が喜んで、何を言ったら怒るのか、分かんないから……)
「怒られるのが恐い?」
怒られるのがというより、嫌われるのが恐い。今、私の味方は涼だけだから……。
だから、私にも何か出来ることが欲しい。ここにいても良いんだと思える材料が欲しい。
「そんなこと、他の男の前で言ったらダメだよ」
(勝手に心情覗いておいて……)
「とにかく、小雪は女の子なんだから。特に山神の前では言わない方が良い」
(山神様?)
「あれは、色恋が好物でね。君みたいに可愛い子は、その弱みにつけ込まれて逃げられなくなるから」
何を言っているのかさっぱり分からない。
色恋が好物……色恋って、食べられるの? 人が人を好きになることだと思っていた。その認識すら違うのだろうか。
首を傾げていたら、涼はフッと笑って私のお腹に手を回してきた。
「純粋過ぎるのは如何なものか」
(な、何? なんで帯を……?)
涼が浴衣の帯をほどいた。寝巻き用の浴衣のため、呆気なくほどけた帯はその場に落ちる。
はだけた襟元から、涼の手が這うように中に入ってくる。
背中にあった涼の顔もいつの間にか私の耳元にあり、そっと囁かれる。
「ここにいても良いって思える材料……欲しいんでしょ?」
今までにないほど色っぽい声に驚き、今の状況に震えながらも、目を固く瞑って頷く。
「こんなに震えちゃって、嫌なら嫌って言わないと」
(い、嫌じゃない。涼の為に生きるって決めたから。涼が望むなら何だって……)
「従順な子は嫌いじゃないよ。でも、従順すぎる子は、つまらないかな」
涼の手が浴衣から出て、そっと私から離れた。
さわさわする不思議な感覚は無くなり、ホッとした。
けれど、どん底に落とされたような気分になる。おそらく、つまらないと言われたから。
私は、鬼の子として生まれ、周りから疎まれ、忌み嫌われる存在。他者との付き合い方も、人間としての楽しみ方も外の世界も何も知らない。ただただ生きながらえてきた。そんな私が好かれるはずがないのだ。
やはり、死んだ方がマシかもしれない。私は、いらない子だから。両親の元に旅立った方が幸せかもしれない。あの世でなら、鬼の子も疎まれないはず。家族三人で幸せに暮らしたい。
俯いていると、涼がパチンと指を鳴らした。
同時に、着ていた浴衣が淡い青色の着物に変わった。
驚きのあまり、俯いていた顔が上がる。
「野菜を買いに行こう」
(え?)
「ここにずっといるの嫌なんでしょ? 外に行ってみよう」
涼が手を差しのべてきた。
その手を取りたいが、先日の村人らの顔が目に焼き付いて離れない。
好奇心よりも恐怖が優る。
死んだ方がマシと思いながらも、実際に死ぬとなると怖い。どうしてこうも心は素直なのか。
「大丈夫。私が守ってあげるから」
涼の柔らかい笑顔は、安心できる。
しかし、先程の『つまらない』の言葉が引っ掛かって素直に受け取れない。
躊躇っていると、しびれをきたしたのか、涼が私の手を掴んだ。
「絶対に離しちゃいけないよ」
刹那――視界が一変、真っ白な空間から、先日涼と出会った海辺に変わった。
否、同じように見えるが、先日とは違う海辺だ。
「村はあっちかな。行ってみよ」
私は、涼の手をしっかりと握り返した。



