瞼を開ければ、朧げに人の影が見えた。
 次第に視界はクリアになっていき、その人の後ろ姿がはっきりと見えた。
 絹のように滑らかで美しい銀色の髪の毛。それを見ただけで、海での出来事を思い出す。
 生きていることに安堵する自分がいることに気付き、苛立ちを覚えながら口を開く。
(あの……ん?)
 口をパクパクさせるも、声が出ない。
 喉元を手で触りながら、咳をする。
「コンッ、コンッ」
 咳は出来るようだ。
 その咳で気がついた彼が振り返る。
「起きたかい?」
(すみません、私……)
 やはり、声が出ない。
 困惑しながら起き上がり、口をパクパクさせる。その姿を見ながら、彼はキョトンとした顔で首を傾げた。
「声が出せないの?」
 小さく頷けば、彼は私の喉に人差し指をピタリとくっつけた。すると、ポゥッと温かい光が首全体を覆う。それが消えると、彼は再び聞いてきた。
「どう?」
 口を開けてみるが、全く声にならない。
 諦めたように首を横に振ると、彼は困った顔で首を捻った。
「君、三日前は喋ってたよね?」
 頷こうとして、私は彼を二度見した。
(三日!? 私、三日も寝てたの!?)
「どうかした?」
 身振り手振りや、目で訴えてみる。けれども、彼は困った顔を浮かべるのみで、全然伝わらない。
 紙に書こうにも私は文字を知らない。読み書き計算なんて習ったことがないのだ。
 とはいえ、どの道死のうと思っていたところだ。三日寝ていようが、言葉が話せなかろうが問題はない。
 そう思っていたら、彼が私の額にコツンと自身の額を当ててきた。驚きで目を見開く私に、呆れたように彼が言った。
「まだ死ぬなんて言ってる」
(え!?)
「三日と言っても、神域時間で三日だから、現世(うつしよ)時間で言えば一ヶ月くらい経ったんじゃないかな」
(しんいき? うつしよ? 三日が一ヶ月?)
 聞いたことのない単語が並ぶだけでなく、言っている意味が全く理解できず、頭は疑問符でいっぱいだ。
「君、名は?」
(小雪……だけど、あんまり言いたくないんだよね。こんな真っ赤な髪してるくせに、真っ白な雪の名前だなんて)
「小雪ね。素敵な名だ」
(素敵だなんて初めて言われた……え!? 私、声に出してないよ!?)
 くっついている額を離し、ポカンと口を開けて彼の顔を見れば、彼は口元を袖で隠しながらケタケタ笑った。
「小雪は素直で可愛いね」
(……か、可愛い?)
 いや、今の可愛いは馬鹿にされているだけだ。そんなこと無知な私でも分かる。それよりも、何故私が口に出していないのに彼は私の言いたいことが分かるのか。
 私の疑問に、彼はまたもや額をコツンと当てて応えた。
「こうやって額を当てると考えていることが読めるんだよ」
(は? そんなこと……)
「こう見えて、私は神だからさ。こうやって……」
 彼は、私の肩を両手でそっと掴み、頭を下にずらした。その頭は、胸の前で止まり、そこに耳を押し当てた。
「心の声だって聞ける。今まで小雪が何を思って何を考えていたのか。全て覗ける」
(そんなこと)
「ふぅん。鬼の子の概念が、ここ数百年でガラリと変わっちゃったんだね」
(鬼の子の……概念?)
「まぁ、良いけど。小雪、少しは抵抗しないと、このまま食べちゃうよ」
(食べる? 神様って人間を食べるの?)
 そして、私は自分の考えに一々返事をする彼を神だと信じることにした。いや、この何とも不思議な空間が、信じざるを得ないような気がした。
 とにかく見渡す限り白い空間。壁なんて見えない。そもそも壁なんて存在しないのかもしれない。そんな空間に一つだけポツンと置かれたベッド。そこに私と神が二人だけ。
 もはや、私は死んでいるのかもしれない。
 ガンッ。
「————ッ」
 神の頭が私の顎にクリティカルヒットした。
 思わぬ不意打ちと痛みに顎を押さえて悶える。
「どう? 生きてるって自覚した?」
(今のは、まさかその為に……?)
「小雪は生きてるし、この先も死なせないよ。鬼の子は、神にとっても鬼の子だからね」
(……?)
 顎をさすっていたら、腹の虫がグゥと鳴った。
 一瞬静寂に包まれ、神の視線は私の腹に向く。
「お腹空いた?」
 首をブンブン横に振る。
 しかし、更に大きな音で鳴り出すお腹。
「お腹は素直だね」
 神は、クスリと笑って指をパチンと鳴らす。
 すると、どこからともなく畳の空間が現れ、そこに机が置かれた。その上に焼き魚、煮魚、刺身、貝の汁など、海の産物で作られた料理が並ぶ。
(どうなってるの?)
 呆気に取られていると、ふわりと体が宙に浮いた。
 海での浮遊感と同じ。違うのは、浴衣が濡れていないことくらい。
 宙に浮いた体は、ふわふわと移動し、静かに机の前に座らされた。ちゃっかり座布団にも乗っている。
「お食べ」
 神は脇息に肘をつきながら食事を勧めてくる。
 美味しそうなその匂いに口内が唾液でいっぱいになる。
(でも、知らない人から貰ったものは食べるなって、お父ちゃんに言われてるし……)
「お腹空いてるんでしょ?」
(まぁ、この人は人じゃないし、神様だし。神様なら良いのかな?)
 それに、これが毒入りでも後悔はない。
 私は箸を手に取り、焼き魚を箸で丸ごと掴んだ。そして、豪快にかぶりつく。
(美味し……痛ッ、何、このトゲトゲ!)
 口に刺さる魚の骨が痛くて、顔を歪めながら食べた物を吐き出す。
 やはり、父の教えは正しかった。知らない人に貰った物を食べるものではない。
 まだ残る口内の違和感に顔をしかめ、ケラケラと笑う神を睨みつける。
「魚、食べたことないの?」
(魚……)
 聞いたことはある。海や川に生息する生き物。
 けれど、私はあの小屋の裏で育てている野菜しか食べてこなかった。老婆が生きていた頃は、山菜やキノコなんかを老婆が採ってきてくれた。時に仕掛けに野うさぎが捕まったと喜んでいたこともあったが、それは私が三歳のころ。仕掛けの仕方も、ましてや血抜きの方法なんて分かるはずもない。
 何が言いたいかと言えば、私は魚を食べたことがないのだ。
 見た目や匂いは美味しそうなのに、こんな危険な食べ物だとは思わなかった。こんなの一飲みにでもしたら、内臓が破裂する。
「ふふ、世話が焼けるなぁ」
 そう言いながら、神が上品に箸を持った。私と箸の持ち方は同じはずなのに、なんとも優雅で美しい。
 箸使いに見惚れていると、小さくほぐされた魚の身を口元に差し出された。
「ほら、あーん」
 神を一瞥してから、私は口を開いた。
 スッと口の中に入ってきた魚を頬張ると、先程のトゲトゲしい凶器は感じられなかった。
「美味しい?」
 美味しいなんて代物ではなかった。
 絶妙な塩味に旨味、ほんのり香る磯の香り。おそらく、これは人間の食べ物ではない。神だけが食べることを許された食事だ。
 私は目をキラキラさせて頷いた。
 すると、神は空色の瞳を細めて笑った。
 優しく微笑む神の額に、私は自身の額をくっつけた。
(ねぇ、名前なんて言うの?)
「私の?」
(うん。あなたの名前が知りたい)
「人間は皆、海神(わたつみ)と呼ぶよ」
(人間は……? ってことは、人間以外は?)
「山神には、(りょう)って呼ばれてる。いつも涼しい顔してるからだって」
(なるほど。私も、涼って呼んで良い?)
「良いよ。小雪と涼……何だか寒そうだね」
 フッと笑う涼は、何が面白いのか、その後も名前を呼んでは笑っていた。
 ——ご馳走を食べ終えた私は、涼に深く頭を下げた。
(この御恩は、一生忘れません。私、帰ります)
「何?」
 涼は、私の頭に額をコツンと当ててきた。
(す、すみません。私、帰りますね)
「帰るって何処に?」
(私の家……山奥に小屋があるんです)
「小屋って、これのこと?」
 涼が指を宙に向かって振った。すると、ポワンと一つの小屋の映像がそこに映った。
 しかし、それは私の知る小屋は既になく、村人らによって燃やされている最中だった。
『まさか、こんなところに隠れ住んでたなんてな』
『でも、鬼の子はいませんでしたね』
『山ごと燃やしちまうか?』
『さすがにそれは……』
『冗談だって。しっかり顔は見たからな。隣村にも似顔絵貼って、お尋ね者にすりゃすぐ見つかるだろ』
『ですね』
 映像と音声は、そこで消えた。
 自身の震える体を抱きしめるようにして、映像が映っていた場所を見つめた。
 そんな私を慰めるでもなく、涼は私の背中に手を置いた——。