自分の一人称が『俺』に変わったのは、いつだったろうか。今よりもっと小さいころ、俺は自分のことを『僕』と言っていた。
周りの友達だとか、その辺のやつらは、早いうちから『俺』という一人称を使っていた。俺も背伸びして、彼らの真似をしていたが、決まって母親に「そんな乱暴な言葉は使うんじゃありません」と窘められたものだ。その度に「なんでだよ、みんな言ってるじゃんか」と反発していたような気がする。
小さな仏壇に置かれた遺影は、当時のままで時が止まっている。両親が事故で死んで九年の月日が経った。そのあいだに俺は、『僕』から完全に卒業した。
あれは不幸な事故だったと、周りの奴らは口をそろえて言う。月日が経つにつれて、頭の中から、当時の記憶が薄くなっていっているのをひしひしと感じている。
十本の指で数えられる程度しか生きていなかった時分に舞い込んできた報せは、一番の当事者の気持ちなどそっちのけで、瞬く間に世界を駆け巡っていった。今でもネットで検索をすると、膨大な情報の海の奥底で、当時の事故を綴った文章はそれなりに出てくる。
人は耐え難い苦痛に苛まれたとき、無意識にその状況から逃れようとするいきものだという。俺も、突然両親がいなくなったという衝撃に、幼いながらも耐えられず、その現実を直視できないでいたのだろうか。
両親が死んだあと、児童相談所の一時保護所に、身柄を預けられた。両親の親族、つまりは俺の祖父母や叔父、叔母にあたる人たちは、誰も俺を引き取らなかった。祖父母に関しては、両親同様、既にこの世にはいなかったから、俺を育てるのは物理的に不可能だ。
両親の兄弟たちは、皆、これからどんどんと金のかかる小学生のガキを引き取る余裕はないと、俺には聞こえないように言っていた。その陰口を直接聞くことはなかったが、幼いなりに、いや、幼いからこそ、周りの大人たちの態度には敏感だったのだ。他の同い年のこどもとは違う。——僕は、特別な境遇に立たされている。自分は普通じゃないと気付いてから、自分の心に硬い殻を作るのが得意になった。
「ぼ……お、俺は、ひとりでもだいじょうぶです!」
二人分の骨壺を抱えた俺は、周りの大人たちを見上げてそう言ったのを、今でも覚えている。
だが、いくら覚悟を決めたからといって、まだ義務教育に足を踏み入れて数年しかたっていない子供がひとりでこの世界を生きるなど、世間は許してくれなかった。
それまで生活をしていた環境から放り出されたのは、突然のことだった。両親の葬儀やその後のごたごたも落ち着かぬまま、子供だから何もすることができなかった俺は、とりあえず学校には通っていた。クラスメイトたちは、おそらく俺にふりかかった不幸な出来事は知っていただろうに、大人たちに咎められていたのか、大っぴらに話題に出してくる奴はいなかった。今思えば、賢明なクラスメイト達だった。
俺のこれまでどおりの環境を壊すなといったのは大人たちだったが、結局それを壊しにきたのも大人たちだった。
ある日、給食を食べ終えた俺のもとに、担任が息を切らしてやってきた。その時の俺は、クラスメイト達と運動場でサッカーをやろうと約束していたから、目先の楽しみを奪われたように感じて、少し不機嫌になった。山中という当時の担任の女教師は、そんな俺の心情などおかまいなしに、「いますぐ荷物をまとめて、校長室にきなさい」と、俺より先に、ランドセルをむんずと掴んで、空いた方の手で腕を引っ張ってきた。
予想だにしていなかった出来事に直面して、思考回路はショートした。寸前ではなく、すでに回路はぷっつりと切れたのだ。
廊下は走るなと、普段は口を酸っぱくして児童を叱る大人が、ほとんど小走りで廊下を駆け抜け、俺とランドセルを校長室へと運んでいった。俺の感情は、教室のサッカーボールの上に置き去りにされたまんまだった。
校長室にいたのは、スーツに身を包んだ、見慣れない中年のおっさんだった。ひょろりと細長いやつは、自分のことを種田と名乗った。ジドウソウダンジョという、普通の生活をしている小学生では、到底聞くことのないであろう単語を、そのとき初めて聞いた。種田は、そこのケースワーカーという仕事をしているという。
俺はその時、察した。親がいなくなり、どこへも引き取られない自分は、今からこのおっさんに、どこかへつれていかれるのだと。
当時、俺にかかわった大人たちは、随分と聞き分けのいい子供だと思ったことだろう。だが、実際は、事態が急展開すぎて、どうリアクションをすればいいのかわからなかっただけだ。一度きれてしまった回路は、入念な修理が必要なのだから。
俺は種田に言われるがまま、小学校の来客駐車場に停められていた白色のセダンの後部座席に乗り込んだ。自動車事故で両親を失った直後の子供を車に乗せるとは何事だと、このご時世なら騒ぐ部外者が、ひとりふたりいそうだが、当時の俺は車に乗ること自体がトラウマになっていたわけじゃないし——そもそも両親と一緒にいなかったのだから——小学校からの移動手段といえば、車しかなかったのだから、仕方がない。
俺が連れられていった児童相談所というところは、子供やその親にいろいろな事情があって、一緒に暮らせなくなったり、第三者の介入が必要な事態が起こった場合に、家庭に入り込んでくる機関だ。児童相談所の中には、一時保護所というところがあって、そこは、そのさまざまな事情とやらで親もとから離れざるを得なくなった未成年の子供たちが、文字通り、一時的に保護されている場所だ。一生いられるわけじゃない。
保護された子供は、そこに集められた他の子供たちと集団生活をしながら、おもに児童福祉司といわれる大人たちの助けを借りて、未来の居場所を決めることになる。家に戻るやつもいれば、施設に入所するやつもいる。俺は後者だ。
城司莉音という少年に初めて会ったのは、その一時保護所だった。外国人の名前をふたりぶん合わせたみたいな名前を冠した彼は、初対面のやつには「どっちも名前みたいだから、どっちで呼んでくれてもいいぜっ」と、人懐っこい笑みをみせるのが恒例となっているみたいだった。そんな莉音は、水上という俺の苗字を知ったとき、「おお、どっかの温泉みたいだな」と口にしていた。だからやつは、たまに俺のことを『まんじゅう』と呼んでくることがある。小さい頃の俺は丸顔だったから、その渾名が合っていたのかもしれないが、今はさすがにどうかと思う。と、指摘してみても、もう慣れてしまっているのか、それとも俺をからかいたいがためなのか、とにかく莉音はそう呼んでくるのだ。
一時保護所という場所は、その性質上、子供の入れ替わりが激しい。ある日突然、出ていくことになったり、緊急保護といって、前触れもなくだれかが入ってきたりする。もちろん、大人たちのあいだでは、情報の共有がされているのだろうが、何も知らされていない俺たちには、寝耳に水といえるような出来事が、日常茶飯事におこったりする。閉鎖された空間で、退屈を持て余した子供には、新しい誰かがやってくるというのは、非常に刺激的なことなのだ。それが、同級生なら尚更だ。
莉音は、俺が自分と同級生だと知ったとたん、しつこいくらいに俺につきまとってきた。これまで自分を同じ小学生の児童はいたものの、年上のやつらは、さらに年長の中高生に憧れて、背伸びをしたりするし、年下の奴らとはてんで話が合わない。莉音は当時から人当たりがいい性格をしていたから、それなりに誰とでもうまくやっていたように思うが、やはり『友達』と呼べる誰かが欲しかったのだろう。たとえその関係が、その閉鎖された空間の中だけの脆い絆であったとしても。
莉音の退所が決まったのは、俺が一時保護所に入ってから、たった半月後のことであった。また会おうなと、可能性が限りなく低い約束をして別れたのを覚えている。一時保護所では、互いの個人情報を教えあうのはタブーで、自分がどうしてここに来たのか。どこに住んでいたのか。退所が決まったら自分はどこに行くのかという話題で盛り上がるのは一切禁じられていた。中学生や高校生なんかの、そこそこ知恵のついた奴らは、大人たちの目を盗んでうまいことやっていたかもしれないが、俺たち小学生はそこまで知恵が回らなかった。何せ、紙と鉛筆を持ち込むことは禁止。もし見つかれば即没収。定期的に部屋の点検をされる。そんな環境で、小学生が大人たちの目をかいくぐるのは至難の業だった。
今でもたまに夢を見る。夢の中の俺は、当時のままの姿で、貸し出されている布団の中にスマホを隠し持っている。それはいつも大人たちに見つかることはなく、仲間たちの情報をメモしたり、外部の奴らと連絡がとれたりするのだ。
一度別れてしまえば、おそらくこの先一生再会することのない奴らのほうが多いであろう関係性でしかなかった俺と莉音が、入所した『かるうなの里』という養護施設で再会できたことは、奇跡というほかなかった。もしかすると、大人たちが気を遣って根回しをしてくれたのかもしれないが、所詮は公務員のお役所仕事。偶然に偶然が重なっただけであろう。再会を大はしゃぎで喜んだ俺たちは、余計に仲良くなり、今に至るというわけだ。
施設暮らしというだけで、偏見の目でみられることがある。そのせいで俺たちは無意識のうちに、自分が施設に入っているという事実を口に出さなくなる。学校の友人たちには、「俺は寮に住んでいる」と嘯いていたが、はたしてそれを本気で信じているやつが何人いるのかは、分からない。
2
しゃあしゃあと、竹箒の先がアスファルトの地面をこすっている。こんなカスカスの箒では、集めたいものも集まらないよなと思いながら、風に撒き散らかされる落ち葉を追いかける。
「あれ、水上、なんで一人で掃除してんの?」
「押しつけられたんだよ」
「ドンマイ! 早く部活来いよ!」
バーンと背中を叩かれる。痛みは、どこか体の一箇所に感じると、別の場所にはしっていた痛みは感じなくなると聞いたことがある。さっきまで北風になぶられ続けた指先がヒリヒリとしていたような気がするが、一瞬にして痛覚は背中の方へ走っていった。
キリがない。掃いても掃いても、どこからでも落ち葉がとんでくる。掃除をしているのがひとりなのに対して、校庭に生えている樹は十本以上ある。多勢に無勢。教室から持ってきたゴミ袋はそろそろいっぱいになるから、適当なところで切り上げようと思った。
ゴミを捨てて、リュックを肩にかけ直す。ふうっと小さく息を吐いて、ジャージの袖をまくった。部室に向かう途中、正門の前を横切る。そこは小さなロータリーのようになっていて、校舎周りを走るときの折り返し地点にしている。ぐるりとまわる中心には、『克己心』と刻まれた石碑が建てられていて、普段はそんなもの、見向きもしないのに、なぜかいま、それが唐突に視界に飛び込んできた。
石碑に刻まれた言葉の意味は、ぼんやりとしか分からない。誰かに、「あれはどういう意味なんだ?」と問われたとき、いざ答えようとすれば、果たして正しい意味を言えるのかどうか分からない。——そんな言葉は、この世の中にたくさん、ありふれている。
グラウンドを大きく囲うように、トラック線が引かれている。そこではすでに陸上部の部員たちが走り込んでいて、ジャージ姿のみんながまばらに散らばり、ぐるぐると周回していた。
「あ! 大翔来た!」
「ちわっす!」
後輩たちを率いて、集団の先頭を走っていたのは、副キャプテンの久我隆之介だった。こちらに気付いてぶんぶんと手を振ってくる。それに続くように、隆之介の後ろについていた部員が一斉に野太い声で挨拶をしてきた。空気が引き締まったような感覚。挨拶を返す前に、彼らはぞろぞろと前を通り過ぎていった。
——俺は相手の心模様が天気となって見える。
そんなことを言ったら、みんなは信じてくれるだろうか。
おそらく大抵の相手は、「こいつ、頭イカれてんじゃねえのか?」とドン引きしてくるだろう。だから言わない。わざわざ口に出して、その後から変人扱いされるくらいなら、大人しく秘密を抱えている方がいい。
万言万当も一黙には如かず。言わぬは言うにまさる、だ。
事の発端は、かるうなの里の行事で、東京の観光に行ったときだった。高円寺という駅のすぐ近くに、日本で唯一、天気を司る神様を祀る『気象神社』があって、児童のひとりがそこに行きたいと発言したから、行事の中に神社への参詣が組み込まれた。てるてる坊主の御守りが欲しいのだと、そいつは言っていた。
神社で売られているその御守りは、一月と六月になると、通常とは違う金色銀色のものが出てくるらしく、それを聞いたときに、俄然興味が湧いた。特別、限定——そんな響きに躍らされて、うきうきとした気持ちで神社に向かったのを覚えている。
思っていたよりも小規模な場所だった。その割には人が多かった。それがどういうわけか、祠をもっとよく見ようと、狛犬のあいだを通ったときに、背後でざわついた喧騒が、ふっと消えたのだ。その状況に驚くいとまもなく、祠の向こうの空が、カッと明るく光った。昼間の光を何倍にもしたような調光だった。直後、青空の中に見えたのは箒星のようななにか。それは地上に降ってくることはなく、空の途中で、フッと消えた。
不思議な体験だった。そこに在ったのは、俺ひとり。一緒に来ていたかるうなの里のみんなも、他の人々も、みんないなかった。
『童』
そのとき、頭の中で声がした。ついに自分の頭がおかしくなったのかと思った。声の主の姿はない。だのに、荘厳な気配をひしひしと全身で感じた。
『いかなる者よりも深き慈悲を抱き、されど最も脆く傷つきやすい魂よ。我が統べる領野に彷徨い入り惑っておるな』
「だ……誰だ?」
そのとき、ずうんと両肩を掴まれて、地面に押しつけられそうな感覚が襲ってきた。膝が折れて、体ががくりと崩れ落ちる。
『頭が高い。弁えよ』
「あ、あのっ……」
『童、我が力を欲するか』
なにを言っているんだ、こいつは……。頭の中に、はてなマークがたくさん浮かび上がる。頭が重くて、視線が上がらない。地面を見たまま、「なにを言っているんだ……」と呟く。
『我が力を欲して、特別な授与品を求めたのだろう。汝の衣嚢に、その気配が見えるが』
いのう……? 異能……? なにがなんだか分からずに、ごくりと唾を飲み込んだ。やはり辺りは恐ろしいほどに静かだ。街の喧騒も、風の音すらも聞こえない。
『惑うのはなにゆえか。汝が我を呼び寄せたのであろう』
こいつ、俺の心が読めるのか? どこから話しかけている。姿を見せろ、卑怯者め! 心の中で毒づく。
『我は八意思兼命。知り置け』
名を名乗られたからといって、そいつの素性が分かるわけではない。未だ心の中に反発心のようなものが芽生えている。
そのとき、ふわりと額のあたりの空気が動いた。
『ほう、ほうほう。……童、汝は常に他者の顔色を伺い、生きづらさをその胸中に抱えておるのか。それで我が力を?』
ほんとうになにを言っているんだ。そのとき、人間、戸惑いが極限まで到達すると、それは怒りに変わるんだと知った。
八意思兼命と名乗ったその声は、俺の意思には関係なく、一方的にどんどんと話を進めていった。曰く、声の主はこの気象神社に祀られている神だという。
ならば人の感情の動きに頓着しないのは、神だからなのだろうか。なぜ俺に声をかけたのだと思うと、気紛れだと返された。黙っていても心の内を見られているのだ。思いを声に出す必要はない。
『案ずるな。悪いようにはせぬ』
あれよあれよという間に、俺は神のご加護を賜った。鼻の先の空気がシュッと動いたあと、聴覚に喧騒が戻ってきた。——風の音、鳥のさえずり、微かに聞こえる電車の走行音。
「あれ? 大翔、なんでこんなところで座ってんだよ」
「莉音……」
顔を上げると、不思議そうな顔でこちらを見下ろしている友人の姿が視界に入った。
「えっ!?」
そして彼の頭上に、いま空にある太陽と同じ……いや、まるでミニチュアサイズのようなそれが浮かんでいるのが見えて、思わず声を上げてしまった。
「なんだ? おれの顔を見て素っ頓狂な声を出しやがって」
『我が力だ。徒爾にはならぬであろう』
またあの声だ……。頭の中心に、八意思兼命の声が響いた。『汝に関わるすべての人間の心模様が、我の力を介して見えるのだ。汝の抱える生きづらさも、幾分緩和されるであろう』
莉音の心は晴れている。——つまり、今のこいつは機嫌がいいということだろうかと、解釈した。そのとき、ポケットの中で鈴の音がちりんと、遠慮がちに鳴った。
「おっ、おまえもその御守り買ったのか? あんまり興味なさそうにしてたくせに、やっぱ気になってたんじゃねえか」
慌ててポケットの中から取り出した、金色と銀色のつがいのようなてるてる坊主の御守り。どうせならと思い、ふたつひと組で揃えたかったのだ。それは二つの太陽に照らされて、ものも言わず、キラキラと輝いていた。
それが、当時、中学二年生だった俺が突如賜った、『秘密』の顛末。あの神社に一番興味を示していた莉音にも、このことは話していない。



