列車がトンネルに入ってから、視界は暗いままだったが目が慣れる前にトンネルを抜けた。
トンネルを抜ければ、明るかったはずの風景は夜に変わっている。

また目の前にいたはずのヒデさんの姿はどこにもなく、車窓から前方に視線を向けると『星野丘公園駅』と書かれた駅名標が見えた。

私が知っている限り、その名の公園はあるが、同名の駅は存在しない。

「静馬くんと……約束した場所が、終点?」

列車がゆるりと停車し、勝手に扉が開くと私は駅のホームに足を踏み出した。
そして一つしかないコンクリートの階段を降りれば、見たことのある景色が広がっている。

「ここ……星野丘公園だ」

夜空を見上げれば無数の星が輝き、月は真円を描いている。辺りには誰もおらず頬を掠める風は冷んやりとしていて、私は無意識に彼の手の温もりを探すようにポケットに手を入れた。

「あの日と同じ……」

私は数メートル先に見えている、待ち合わせ場所である桜の樹の下に向かってゆっくりと歩いていく。春はお花見、夏は生い茂る葉をスケッチして、秋は色づいた葉の下でピクニックをした思い出の詰まった桜の樹。
そして、私にとって冬の桜の樹は別れと後悔の象徴だ。
桜の樹が近づくにつれて、過去が蘇って、心臓が嫌な音を立て始める。私は騒がしくなっきた胸元を押さえつけるように手で握りしめた。

「……静馬くん……」

私は静馬くんと約束をしたあの日も、時間通りにこの桜の樹の下に来た──でも静馬くんはいくら待っても来なかった。

始めはアルバイトが長引いてるのかと思ってのんびり星を眺めていたが、三十分経つ頃には何かあったのかと酷く不安になった。

メッセージも既読にならず、いくらかけても出ない電話に何度も留守電をいれた。そのうち、いてもたってもいられなくなって彼のアパートへ行ってみようと桜の樹をあとしたとき、電話がかかってきた。

出れば、病院からの電話で彼が自転車で単独事故を起こし病院に運ばれたことを知った。

そのあとのことは正直よく覚えていない。

無我夢中で病院にタクシーで向かい、冷たくなった彼を見て心が消えてなくなった。
私の心からも世界からも色がなくなって、目に映る全てが灰色になった。ただ私の手元に残ったのは深い後悔だけだった。

彼に会えなくなってから、私は変わってしまった。何をしていてもいつも罪悪感と強い後悔が襲ってきて、よく眠れなくなった。

万年ダイエットだったのに、ただ生きるためにご飯を無理矢理胃に押し込むようになって勝手に痩せた。

そしてあんなに好きだった絵も描けなくなった。絵を描くたびに彼のことを思い出して涙が止まらなくなった。

全部──私のせい。
誰かにそう責められた訳ではないが、そう思わずにはいられなかった。


「ごめんね……静馬くん。ごめんなさい」


だって私が流星群なんて見たいなんて言わなければ、記念日は二人で過ごせたらいいねなんて言わなければ彼は今も生きて笑っていたかもしれない。
ううん、しれないじゃなくてきっとそうだ。
たらればなんて考えても仕方ないけれど、それでも本当に、本当に大切な人だったから。

「……ぐす……静馬くん……会いたい……っ」

私は彼の名を呼ぶと桜の樹の下で蹲った。


「──桜」

(……え、?)

一瞬、聞き間違えかと思った。

「待たせてごめんな」

もう一度、頭上から降ってきた聞き覚えのある声に私はすぐに顔を上げる。そして目の前に立っている人物を見て目を見開いた。

「静……馬くん」

「ごめん、遅くなった」

「……どう、して……?」

彼は隣にしゃがむとそっと私の涙を指先で拭う。

「俺もおもひで猫列車に乗ってきたんだ。桜とは別の列車だけどな……俺もずっと後悔があったから」

「私、なにがなんだか……」

ヒデさんは過去に戻り後悔を思い出に変えることができるとは話していたが、こうして静馬くんと会えるなんて思っても見なかった。
それに過去と言っても私の知っている過去とは違う。だってあの日、静馬くんは来なかったから。

「今、私たちが話してるのって、夢?」

「夢だけど、現実っていうか過去っていうか。桜には難しいよな」

「静馬くんは、わかるの?」

「……ある程度ね。俺はもう現実世界では生きてないからさ」

「…………」

その寂しげな彼の言葉に胸が針で刺したように痛む。

「そんな顔しないで。だってこの時間は俺たちが願ってた過去になるんだ」

(願ってた、過去……)

「それは……あの日、約束通り……今みたいに会えてたらってこと?」

「うん、きっとそうだと俺は思ってる。おいで、こっち座ろ」

静馬くんが私の手を引くと、桜の樹の真下に腰を下ろす。静馬くんの手はちゃんと温かくてそれだけで涙が出そうになる。

「寒くない?」

「大丈夫……」

「良かった。今日はカイロ忘れちゃったからさ」

彼が小さく舌を出すのを見て私も表情を緩める。
時折彼がする、この悪戯っ子のような顔が私は密かに好きだったから。
繋いだままの手のひらから僅かな熱を交換しながら、二つの白い吐息は夜空にふわりと消える。

「見て、桜。星綺麗だな」

「……本当だ……流れ星いっぱいだね」

深い藍色の夜空にはいつの間にか星が流れ始めていた。白銀の繊細な輝きが、花火を散らすように流れては消えてを繰り返している。

「やっと、二人で見れた」

「うん……」

いつまでもこうしていたい。彼と一緒にいたい。そんな想いだけが溢れて心が締め付けられる。
けれど、きっとそれは叶わない。
だって隣の静馬くんの横顔は穏やかで、でもすごく寂しそうで、この時間に終わりがあることを嫌でも悟ってしまう。

私は繋いでいる手にぎゅっと力を込めた。この限りある時間に彼に伝えたい想いも言葉もたくさんあるから。

「……静馬くん」

「ん?」

「私……、ずっと静馬くんに謝りたかったの……」

「それは俺の方だよ。待ち合わせしてたのに……ごめんな」

「ううん、違う……っ。私のせい……私が星なんか見たいって言わなかったら……」

「それは違うよ」

静馬くんは私の言葉を遮ると、唇を湿らせてからまっすぐに私を見つめた。

「俺さ。あの日、予定通りバイト終わって自転車で公園に向かってたんだ。でも途中で……重そうに荷物両手に抱えてるおばあちゃんがいてさ。なんか死んだばあちゃんに似ててほおっておけなくて、一緒にアパートまで行ってから桜の待つ公園に向かったんだ……」

静馬くんの声はいつもより少し掠れていて、伏せた睫毛が涙で濡れているように見える。

「早く桜に会いたくてさ……いつもは使わない路地をスピード出して走ってて……車にぶつかりそうになって避けようとして……それで……そのまま……だから全部、俺のせいなんだ」

「静馬くんのせいじゃない……っ」

あの日のことを彼の口から聞き、私のせいではないと言われても私の後悔は変わらない。
私は駄々を捏ねている子供のように首を振ると、涙をこらえながら口を開く。


「私が……星なんて見たいって言わなかったら良かったの。記念日なんて一緒に過ごせなくても良かったのに……」

「……俺は桜と星見たかった。記念日も一緒に過ごしたかったんだ」

「でもそのせいで……静馬くんが死んじゃったの……ごめんね……っ、静馬くんに出会ってごめ、んなさい……」

私のせいで静馬くんは死んだ。
私なんかと出会わなければ、静馬くんの人生はきっと変わっていた。

「そんな悲しいこと言うなよ」

彼の両腕が伸びてきて私は抱き寄せられる。

「俺は……桜と出会わなければなんて思ったことない。これからも思わない。だって桜がいたから俺いっぱい笑えた。なんてことない平凡で真っ白なキャンバスみたいな毎日がさ、桜と出会ってからいろんな色がついたんだ」

「静馬、くん……」

「俺はまた次の人生も桜に会いたいって思ってる。また恋して一緒にいたいんだ。そんな風に思える人に出会えたって奇跡だろ」

涙で視界が滲んで、彼の顔がうまく見えない。
でも彼に抱きしめられたぬくもりと言葉は、私の中の雪の様に降り積もった後悔を少しずつ溶かして小さくしてくれる。

「だからさ。いつか俺たちが巡り合えるその時まで……笑ってバイバイしよう?」

「静馬くん……」

「いい、約束。桜には好きな絵を描きながら、いつも笑っててほしい。俺、桜の笑った顔が一番好きだったからさ」

静馬くんが綺麗な二重瞼を優しく細めながら、私の髪をすくようになでる。

「そうじゃないと……俺もずっと後悔するからさ」

「え? 静馬くんも、後悔してたの……?」

「当たり前じゃん。俺のせいで桜が毎日泣いて、絵が描けなくなって痩せてく姿見て、ずっと俺のせいだって思ってたよ」

私は彼の腕をすがるように掴むと、涙が溢れるのも構わず首を振った。

「そんなこと……思わないで。もっと泣きたくなるから……っ」

「じゃあ桜も思わないでよ。いい?」

静馬くんが眉を下げて、私の額にこつんとおでこをくっつける。

「桜?」

「……うん……わかった……」

「あと俺のことで泣くなら、笑ってよ」

その優しく気遣うような声色にやっぱりもっと泣きたくなってくるけど、これ以上静馬くんを困らせることもまして彼に後悔の念を抱かせることもさせたくない。
私は額を離すと彼を見上げた。彼の瞳の中にはちゃんと私が映っている。彼の記憶に笑顔を少しでも残して欲しくて私は一生懸命、口角を上げた。

「なるべく笑うね。けど……ときどきは泣いてもいい?」

「そういうと思った。じゃあさ、泣きたくなったらこれ見て」

「え?」

彼は肩にかけていた鞄からスケッチブックを取り出した。

「これ……」

「うん。記念日に渡そうと思ってたんだ。見てみて」

そっとページをめくればそこには私をモデルにしたデッサン画が描かれている。次のページもその次のページも私だ。そしてどのページの私も笑顔だ。

「全部……私を描いてくれたの?」

「ほら、笑うと可愛いだろ?」

さすがに照れくさかったのか鼻をすすりながら、目を泳がせた彼を見て私はクスっと笑った。

「ありがとう……すっごく嬉しい。ずっと大事にしてたくさん見るね」

「いや、あんまり見られるとハズいかも。俺の気持ちダダ漏れ」

僅かに頬を染めた彼が柔らかい黒髪を搔きながら眉を下げる。

私はスケッチブックを抱きしめたまま、心に刻みつけるように彼を見つめた。
このままこの夜が永遠に続けばいいのにと願わずにはいられない。

夜空からはあの日、二人で見るはずだった無数の星たちが、今なお弧を描くようにして小さな煌めきを放っている。

「……願い事、しようかな」

「俺、もうしたよ」

「えっ、そうなの?」

「うん」

私はあわてて目を閉じると願い事をする。

願うことはただひとつ。

またいつか彼と出会えますように。
何十年先でも何百年先でもいい。
また出会って恋をしたい。

願い事を終えて顔を上げれば、彼と視線が交わる。そして桜の樹には季節外れの花が咲き乱れて雪のように花びらが舞い降りてくる。

「桜、また会えるまで元気でな」

「静馬くんもね。あと……」

「ん?」

私は彼の頬に触れる。

「私、静馬くんが好きだよ。大好き」

最後の最後に伝えられた、ありったけの想いにやっぱり涙が零れた。
それでも私は懸命に彼が好きだと言ってくれた笑顔を向ける。

「俺も……桜が大好きだったよ」

そしてふわりと落とされたキスは優しくて涙の味がした。私にとって愛おしくて幸せで一生、忘れられないキスだった。

※※

「……ん……」


瞼の裏に光を感じて目を開ければ、私は見慣れた布団の上だった。勢いよく起き上がれば、泣いていたようで頬に涙が伝っている。

「私……やっぱり、夢、だったの?」

涙をさっと拭いて立ち上がると私は部屋を見渡して、すぐにあっと声を上げた。

「これ……」

テーブルの上に私のスケッチブックと一緒にもう一冊スケッチブックが置いてある。

私はスケッチブックを手に取ると、すぐにページをめくっていく。そこには静馬くんが描いてくれた私の笑顔のスケッチで埋め尽くされていた。

「ちがう、夢じゃない……」

私はスケッチブックを胸に抱きしめた。

昨晩、私は関西弁をしゃべるヒデさんに出会い、おもひで猫列車に乗って後悔を思い出にする旅に出かけたのだ。勿論、何も証拠はない。

ヒデさんが私のスケッチブックに描いた絵も文字も残っておらず、ヒデさんとの会話だって妄想だと言われたらそれまでだが、でも夢じゃないと言い切れる。

「ヒデさん……ちゃんと、思い出になったよ」

あんなに苦しんでもがいて、過去の“後悔”に苛まれていた私はもうどこにもいない。

ヒデさんが言ってくれていたように“後悔”は静馬くんと一緒に夜を過ごせたお陰で、かけがいのない思い出に変わっている。

私は朝日に向かって、うんと伸びをするとさっと身支度を整えいつもは摂らない朝食を食べた。
そしてお気に入りのワンピースを着て、背筋を伸ばして大学へ向かう。

今日の空は雲一つなく鮮やかな青色だ。
心はその青い空よりももっと澄んでいて、大きく息を吸い込めば、空気がやけに美味しく自然と笑みがこぼれる。


「笑う門には福きたる~、か」

口に出してみたものの、どうもしっくりこないうえに気恥ずかしい。おまけにどこからかヒデさんの突っ込む声まで聞こえてきそうだ。

「ありがとう」

今日の私の足取りは、まるで猫のように軽やかだ。



2025.11.25 遊野煌