目に飛び込んできたのは七色の眩い光だった。少し目がくらんでから、徐々に視界がクリアになると空には太陽と月が同時に輝いていて、見たことがない鮮やかな色とりどりの鳥が飛んでいくのが見えた。
「ここ……」
「ええやろ。これがわしらの住んでる世界や。ほんであれな」
そしてヒデさんが指差した、目の前の一両列車に釘付けになる。
「……す、ごい。ひでさんの愛車……」
「せやろ」
ヒデさんが嬉しそうに鼻を鳴らす。
列車は淡いオレンジ色を基調としていて、車体の側面には“ヒデさん”をモチーフにしたと思われる、腹巻を巻いた黒猫がユーモアたっぷりに描かれている。
また列車の行先表示器には『過去行特急』と表示されていて、列車はまるで私たちをいざなうように警笛を短く鳴らすと、ドアがゆっくりと開いた。
「自動運転搭載や。ほないこか」
「はい」
先にヒデさんが押入れの先の別世界へと一歩を踏み出す。
続いて私もおずおずと一歩を踏み出せば、ふわりとあたたかい風が吹き、一瞬で私の足元がお気に入りのスニーカーに変わる。着ているものもスウェットからワンピースだ。
「うわぁ……っ、すご」
「はは、押入れの扉を境にもうここは時空空間やからな。なんでもありや」
ヒデさんが列車に乗り込み、肉球柄のシートにぴょんと腰かけるのを見て私も隣に腰かけた。座り心地はふわふわで、手で触れるとなんだか猫の毛並みのように柔らかくて艶がある。
「えぇ座り心地やろ」
「なんか猫みたい」
「まぁ、猫列車〜ゆう名前がついてるくらいからな。ほな出発進行や~」
ヒデさんが腹巻からまたたびパイプを取り出し、まるで杖のようにひょいと振ると、列車の扉が静かに閉まりすぐに走り出した。
※
「すごいですね、すごい」
私は子供みたいに、顔だけ振り返って車窓の外の景色に釘付けだ。
線路脇には見たことのない不思議な形や色をした植物や花が咲き乱れている。 視線をすこし遠くに移せば、いくつもの線路が前後左右に敷かれていて沢山の一両列車が走っている。
どうやら列車のデザインは運転士を表しているようで、割烹着姿の猫の列車や着物をきた可愛らしい猫、侍のような勇ましい猫と個性豊かだ。
「列車のデザインは運転士さんなんですね」
「せや。まぁ、わしの腹巻き姿が一番かっこええんやけどな」
ヒデさんが自慢げに髭を引っ張る姿を見ながら私はクスッと笑った。
はじめは正直、なんだこの説教くさいおじさん猫はと思っていたが何だか可愛らしく思えてくる。
(ヒデさんの人柄だよね……って猫柄?)
「なんや、ちゃう思うてんのか?」
怪訝な顔が漏れ出ていたようで、私はすぐに顔を引き締めると力強く返事をする。
「いえ、かっこいいです!」
「にゃははっ、にゃんや照れるやんけ〜」
ご機嫌になったヒデさんが肉球で私の肩をポンと叩くと、フリフリと腰を振る姿に私は思わず声を出して笑った。こんな風に声を出して笑ったのは久しぶりだ。
「ええ、笑顔や」
「あ、えっと……」
なんだか気恥ずかしくて、視線が泳いだ私に今度はヒデさんの突っ込みが飛んでくる。
「桜、そこはにゃんや照れるやんけ〜ゆうところやで」
「……なるほど」
「はぁ、桜はまだまだ関西人にはなられへんな」
ヒデさんが大袈裟に肩をすくめるのと同時に列車は緩やかな速度を保ったまま森へと入っていく。
森には大きな木が連なり果実が沢山実っていて、木の下でりんごやみかんを猫たちが座って仲良く頬張っている。
「わ。可愛い、果物も食べるんですね」
「猫が魚だけなんていうんは昔の話やからな。ワシの好物はおでんに熱燗や」
ヒデさんのおでんに熱燗姿を想像して私はまたぷっと笑った。ヒデさんといると何故だが笑顔が増えてしまう。
「ヒデさんっぽいですね」
「やろ〜。あとちなみに、この森は休憩所や」
「休憩所?」
「おもひで猫列車に乗れる時間も限られとんや。八時間勤務やったら一時間は休まなあかんからな」
「人間の世界と同じなんですね」
「まあな。ついでにさっき休憩しとったんはまだ若手の猫で後輩や。ゆうても百歳は超えとるけど」
「えっ、そんなに?」
「人間みたいに見た目は歳とらへんさかいにな」
私は大きく頷いた。さっき見た猫たちの年齢が百を超えてるなんてとても思えない。
「あとな。この世界で働いとる猫はみんな使い魔を引退した猫ばっかりなんやで」
「使い魔って、いくつで引退なんですか?」
「大体六十五歳が定年や。このあたりも人間に合わせようゆうて、大昔に偉い人らが取り決めたらしいわ」
そうなんですね、と返事をしながら私は浮かんだ疑問を口にする。
「ヒデさんはおいくつなんですか?」
「わしか? 今年めでたく二百二十二歳や~猫だけに縁起いいわなぁ。にゃんにゃんにゃんっ、なんてな。がはははは」
ヒデさんが手を三回こまねく仕草をしながら小首を傾げてみせる。
「…………」
急なおじさんギャグ的なものに対応できない私に、ヒデさんが痛くない程度に額を小突いた。
「あかんあかん! そこは、なんでやねんっ、言うて突っ込まんと~、桜は大阪で生きてかれへんで~」
「……ですね、でも私東京、なので」
「あーちゃう、ちゃう。そこも真面目に答えるとこちゃうねん。桜はもっと肩の力抜き~なんでもかんでも深く考える必要あらへんねん」
「あ……なんか私、昔から、考えすぎちゃう癖あって」
小学二年生の時に親が離婚してからだろうか。考えても仕方ないことに限って考えずにはいられなくて、でもどんなに考えても現実が変わらないことにがっかりして、心が鉛のように重くなる。
こんな風に苦しくなるなら、両親にも泣いて訴えれば良かった。どうしても三人一緒に暮らしたいと我儘を言えば良かった。あとから言葉にしなかったことをずっと後悔するならば。
「……いっつも後悔ばっかり……」
あの時、こうしていたら、ああ言っていれば何か少しでも変わったかもしれないなんて、そんなたらればの話はしても仕方ない。魔法でもなければ、到底ひっくり返せるはずもない。わかってるのに、きっと私はどこかでわかっていないのだろう。
後悔だけはしないように自分なりに精一杯、日々を大事にしようと何度も戒めてきたのに、結局、私は消えることない大きな後悔に苛まれている。
(静馬くん……ごめんなさい……)
(私のせいで……)
無意識に俯いた私の肩にヒデさんがそっと手をおいた。
「まぁ……なかなか癖は直らんけどな、でもこの旅でちょっとは心持ちが変わるとええなぁ」
そうボソリと言うと、ヒデさんは煙草をくわえて白い煙を吐き出す。
「なぁ、桜」
私はヒデさんの方に顔だけ向けた。
「後悔する暇あったら、面白うなくても笑うてた方がええ。『笑う門には福来たる〜』ゆうやろ。辛くても……笑っとったらきっと、桜にもええことあるさかい」
「…………」
そして私はヒデさんと一緒に移り変わる景色を車窓からただ見つめた。
背中から太陽の光が差し込んで二つの影が吊り革と一緒に揺れている。
ヒデさんがただ静かに私の後悔に寄り添ってくれているのが伝わってきて、彼の素朴な優しさが有り難かった。
列車は森を抜け、橋を渡りきると青々とした山に囲まれた田園を走っていく。
その風景は昔の日本の田舎の風景によく似ているが、空を飛んでいるのは羽が四つあるカラスだったり、小さな飛行機を運転しているのは鳩だったりと目に映るものすべてが新鮮だ。
ヒデさんに連れてきてもらった、この現実とはかけ離れた世界はなんだか時の流れが緩やかに感じて、疲れきってトゲトゲしていた心が徐々に優しく丸くなる。
「あの……ヒデさん」
「どないしたん?」
「どのくらいで過去に到着するんですか?」
「ああ。桜の行きたい過去は一年前くらいやから、そんなにかからへん」
「え、あれ? どうして一年前ってわかるんですか?」
「言うたやろ、特別大きな後悔の風船の持ち主が桜やって。その時なぁ、触れるとまぁ、その後悔の内容がわかるんや」
(後悔の内容……がわかる?)
わかると言うことは、私があの日以来、静馬くんに対して抱いている後悔や伝えたかった想いをヒデさんは知っていると言うことなんだろうか。
「……そう、なんですね」
掘り下げることでもないと思いつつ、またいつもの癖で考えを巡らせれば返事が少しぎこちなくなってしまった。
「……悪いなぁ、のぞき見したみたいで」
珍しく、困ったように肩をすくめたヒデさんに私はすぐに顔を振った。
「そんな、謝らないでください」
「わしらも内容わからんと判断できんさかいにな。おもひで猫列車に乗れるんは一日一人だけ、その日に出会った一番大きな後悔を持っとる人間だけなんや」
「じゃあ私、ヒデさんに見つけて貰って良かったです……過去に……後悔に向き合えるチャンスを貰えて。何か変わるかもって……珍しくどこか期待もしてて」
「ほんなら良かった」
ヒデさんは深く頷く。
そしてふかしていた煙草をようやく腹巻に仕舞うと前方を指した。
「お。もうすぐトンネルやな。トンネルに入ったら桜が戻りたい過去のすぐ近くやからな」
「わかりました」
私が頷けばヒデさんが両手を天井に向けて伸びをする。
そして「んっ?」と徐に声を発すると、腹巻の中からガラケーを取り出した。
「電話や~、ちょっと席はずすな」
「あ、はい」
(電話もできるんだ……)
ひでさんはぴょんと椅子から降りて、目の前の運転席に入るとパタンと扉を閉めた。
よほど密閉空間なのか、声が大きいヒデさんの声は全く聞こえない。一人きりになった車内は静かでただ、ガタンゴトンと規則正しい車輪の音だけが心地よく響く。
「なんか……緊張してきた」
(もうすぐ……静真くんに会えるんだよね……)
鼓動が不安と期待で早くなっていく。
その時だった、私の鼓動とは正反対に列車がゆっくりと速度を落とし始めた。
(あれ、まだトンネル通ってないのに……)
ヒデさんはまだ電話中だ。
私はきょろきょろとあたりを見渡すと、前方に見えてきた駅を見て思わず、あっと声を上げた。
正確には駅を見て驚いたのではなくて、その駅にいる《《二人の人物》》にだ。
「嘘……、あの駅……にいるのって」
私は席を立つと吊り革に捕まりながら、扉のすぐそばに立つ。
同時に列車は緩やかに減速してピタリと停車した。
扉がゆっくりと開けば、目の前には過去の私と静馬くんが並んで駅のベンチで話をしている。風景も服装も見覚えがある。
(これ私の……過去……)
私たちは大学の帰り道、電車を待ちながらベンチでたわいのない話をしてよく過ごしていた。
『静馬くん、この前のロネの美術展、よかったよね』
『またその話かよ、桜は抽象専門のくせにロネ好きだよな』
(あ。この会話覚えてる……)
『人並みの感想だけど、色づかいが好きなんだ〜、なんか吸い込まれそうで』
『わかる。ずっと見てられるよな』
(ほんとに静馬くんだ……)
私はずっと会いたかった彼の元気な姿と声に胸がいっぱいになる。
『私もそんな誰かを惹きつけて離さないような絵が描きたいなぁ……くしゅんっ』
静馬くんがポケットからカイロを取り出すと私に差し出した。
『あ、大丈夫だよ』
『じゃあこうしよ』
彼がカイロを持ったまま私の右手と一緒にポケットに手を入れる。その小さな温かさに胸が幸せでいっぱいになったのがまるで昨日のことのようだ。
(これあの日の……前の日)
まるで一度観たことがある映画のように、二人の会話もシチュエーションも仕草も間違いなく私の過去の一部分だ。
『そういや桜、明日空いてる?』
『え、うん。空いてるけど静馬くんバイトじゃなかった……?』
『夜からは代わって貰った。記念日だし。桜も一緒に過ごせたらいいねって言ってたじゃん』
『あ、うん。でもいいの? 奨学金の支払いあるでしょ?』
『多少は貯蓄あるし大丈夫』
『……でも……』
恥ずかしそうに言葉尻を濁せば、彼が人差し指で私の頬をツンと押した。
『何? 桜は俺と過ごしたくなかった?』
『う……、そう言うわけじゃなくて、その無理しないでほしいなって……』
『してないよ。好きだから一緒にいたいってだけ』
『う、うん……』
『うん、とは?』
『お、おんなじ気持ちだよ』
私の精一杯の返事に静馬くんが、目尻を下げて笑う。
『なんかズルいけど、ま、いっか。いつかちゃんと言ってよ。俺のこと好きって』
『わ、声大きいよ』
『あはは、誰もいないじゃん』
そう言って彼が悪戯っ子のように笑いながら、私のマフラーを巻き直すとさりげなく頬にキスを落とす。そして彼がぎゅっと私を抱きしめる。
『桜が好きだよ』
『私も……』
──(私も、大好きだよ)
彼の腕の中で私は何度そう言っただろうか。
けれど恋愛経験値が低すぎて初めての恋に戸惑ってばかりの私は、うまく言葉に出せなかった。
心の中ではたくさん好きだと言えるのに、面と向かって口にするのがどうにも無性に恥ずかしくて付き合って半年も経つのに、彼に好きだとちゃんと伝えることができなかった。
だって、二度と伝えられないなんて思っても見なかったから。
心の中は言葉にしないと何ひとつ伝わらないなんて、わかってたはずなのに。
──彼との出会いは私が大学に入学して間もない頃のこと。
駅で定期券を落としたのを拾って追いかけてきてくれたのが静馬くんだった。
お礼を言って受け取った時、互いに持っていた鞄からスケッチブックや画材が見えて、同じ画家志望だとわかった。さらにその後の講義も同じだったことから少しずつ話すようになった。
彼の屈託のない性格と、絵に対する情熱とひたむきさを知り、気づけば私は彼に初めての恋をしていた。
夏祭りに誘われて、花火を見た後に彼から告白されたときは夢みたいだった。
晴れて恋人同志になれてからは一緒に大学に通い、スケッチをして手を繋いで帰り、同じご飯を食べて一緒に眠る。ただそれだけで幸せで私はこのままずっと静馬くんの隣に居て、絵が描けたらそれでいいな、なんて呑気に構えて毎日やってくる日常にあぐらをかいていた。
このままずっと、なんて誰も保証なんてしてくれない。また明日も必ずやってくるなんて、神様にだってわからない。
運命は予想できないから運命なんだと思う。
出会いも別れも。
幸せな約束も残酷な後悔も。
もっと、いや、もう少しだけちゃんと心に刻んで生きていれば何か変わっていたんだろうか。変えられただろうか。
『──桜、明日の夜どこ行きたい?』
聞こえてきた彼の言葉にハッとすると、私は勢いよく顔を上げた。そして私は過去の私と話している彼に向かって首を振り叫んだ。
「静馬くん! ダメ!」
私はそう叫ぶと車内から扉の外へ出ようとして、いつのまにか扉が閉まっていることに気づく。
「え……、なんでっ」
どうにか開けれることはできないかと扉の境目に指をかけるがびくともしない。
「お願い……、開いて……っ」
爪と指が白くなるほど力をこめるが扉は開かない。
『静馬くん。私ね、流星群観てみたい、かも』
「え?」
扉はピタリと閉じているのに不思議と扉の向こう側の二人の会話は、さっきまでと同じ音量で聞こえてくる。
静馬くんにはにかんだ笑顔を向ける私自身を見ながら、私はギリッと奥歯を噛んだ。
『お、いいね。星って言えばいつもの星野丘公園でも見れそうだな』
静真くんスマホで検索しながら隣の私に顔を寄せる。
『ほら見て』
『ほんとだね。行くのに坂道が大変だけど周りに遮蔽物ないもんね』
『じゃあここに決まり。夜ご飯は俺がバイト帰りにコンビニで買ってくとして、十九時半はどう?』
『大丈夫』
(やめて……、約束しちゃダメなの)
(だって約束したら──彼は……)
私は扉を両の拳でドンドンと強く叩く。
「静馬くん、お願いっ!! 約束しないでっ!」
彼らには私の姿が見えておらずいくら大きな声で叫んでも、激しく扉を叩いても気づく気配はない。
『約束な。十九時半に星野丘公園の桜の樹の下で』
『うん、楽しみ』
二人は私の知ってる“あの日”とおなじように約束をすると、顔を見合わせて幸せそうに笑っている。
「お願い……、もう、やめて……っ」
私の悲痛な声は届かない。そしてそのまま二人を駅のホームに残したまま、無情にも列車は発車する。
私は力なく扉の前で立ち尽くした。
「……そんな……」
「──桜」
後ろから聞こえてきた声に振り返ると、いつの間にかヒデさんが立っている。
「ヒデ、さん……」
「今の駅が桜が後悔を抱える前の最後の日や。これからトンネルを出たら、桜の戻りたい過去、ようは後悔を思い出にできる終点にたどり着く」
「私、よくわからない。過去はさっきも変わらなったじゃない……何も……っ」
「言うたやろ、起きた過去は変えられへん。変えられるのは後悔だけや」
「ヒデさんの言うこと……やっぱりわからないよっ」
ヒデさんが悪いわけではないのに、無性に悲しくてやり切れなくて八つ当たりのような言葉を吐いてしまう。
「……それでええ。答えは終点で桜自身が見つけるしかないんや」
「何それ、後悔を思い出に変えれるって言ったのに。さっきの……静馬くんの顔見たら……もっと苦しくなった……もっと、もっと後悔が増えた……」
掠れた小さな声はどこまでヒデさんに聞こえたかわからない。
でもヒデさんが何かを考えて、かみしめるように何度も頷くのが見えた。
居心地の悪い空気が流れて、私は床に視線を落とすと少し汚れているスニーカーのつま先を意味もなく見つめた。
そんな私をみかねたのか、ヒデさんがふいに私のワンピースの裾をツンと引っ張った。
「桜、トンネル入ったらわしとはお別れや」
「え?」
「残念やけどな。もう時間ないねん」
その言葉に途端に言い知れない焦燥感に駆られるが、どうしたらいいのかわからない。
「あの、私……っ」
咄嗟に口を開けど、続く言葉が浮かばない。
「ん?」
「なんか……ごめんなさい……」
「なんや急に。おっかしなやっちゃなぁ」
ヒデさんは明るいトーンでそう言って、おどけるように尻尾をくるくると回した。
「だって……さっきや八つ当たりみたいにしちゃって……」
「なんや。桜はほんまに気にし~やなぁ。考えすぎや」
ヒデさんは、にゃははと笑いとばしてから大きな目をこちらにまっすぐに向けた。
「桜にわしからの餞別や」
「え……っ?」
「手だしぃ」
「ん? 手? こう?」
ひでさんは糸のように目を細めると、私の手のひらに手を添えた。
「よう見とき。漢字、一文字やで」
(?)
きょとんとしてる私の手のひらの上からヒデさんは、前足でゆっくりと透明の文字を描いていく。
私はヒデさんの描いたその一文字がすぐに分かった。
「桜、これ飲み込み」
「え? 『笑』って言う字を?」
緊張をしないようにと『人』という字を飲み込む話は聞いたことがあるが『笑』は初めてだ。
「おうおう、正解や。せや、これを飲み込んどったらな、これから長い人生、しんどいことあっても絶対最後は笑っとるから」
「ヒデさん……」
ヒデさんらしい励ましと言葉に頬に涙が流れる。
「こら。ゆうてるそばから泣いたらあかん」
「……ですよね」
私はきゅっと口角を上げると手のひらの『笑』を大きな口で一気に飲み込んだ。
「えぇ飲みっぷりや」
「笑う門には福きたる、ですよね」
「ちゃうちゃう、笑う門には福きたる~ぅ、や」
イントネーションの違いを指摘されて私はクスっと笑った。
そんな私を見ながら、ヒデさんが敬礼のポーズをする。
「本日は~おもひで猫列車にご乗車くださり~誠にありがとうございました。あなたの後悔が、良きおもひでになることを猫一同心より願っております~」
そして私もヒデさんに向かって敬礼ポーズをした瞬間、目の前が真っ暗になった。
「ここ……」
「ええやろ。これがわしらの住んでる世界や。ほんであれな」
そしてヒデさんが指差した、目の前の一両列車に釘付けになる。
「……す、ごい。ひでさんの愛車……」
「せやろ」
ヒデさんが嬉しそうに鼻を鳴らす。
列車は淡いオレンジ色を基調としていて、車体の側面には“ヒデさん”をモチーフにしたと思われる、腹巻を巻いた黒猫がユーモアたっぷりに描かれている。
また列車の行先表示器には『過去行特急』と表示されていて、列車はまるで私たちをいざなうように警笛を短く鳴らすと、ドアがゆっくりと開いた。
「自動運転搭載や。ほないこか」
「はい」
先にヒデさんが押入れの先の別世界へと一歩を踏み出す。
続いて私もおずおずと一歩を踏み出せば、ふわりとあたたかい風が吹き、一瞬で私の足元がお気に入りのスニーカーに変わる。着ているものもスウェットからワンピースだ。
「うわぁ……っ、すご」
「はは、押入れの扉を境にもうここは時空空間やからな。なんでもありや」
ヒデさんが列車に乗り込み、肉球柄のシートにぴょんと腰かけるのを見て私も隣に腰かけた。座り心地はふわふわで、手で触れるとなんだか猫の毛並みのように柔らかくて艶がある。
「えぇ座り心地やろ」
「なんか猫みたい」
「まぁ、猫列車〜ゆう名前がついてるくらいからな。ほな出発進行や~」
ヒデさんが腹巻からまたたびパイプを取り出し、まるで杖のようにひょいと振ると、列車の扉が静かに閉まりすぐに走り出した。
※
「すごいですね、すごい」
私は子供みたいに、顔だけ振り返って車窓の外の景色に釘付けだ。
線路脇には見たことのない不思議な形や色をした植物や花が咲き乱れている。 視線をすこし遠くに移せば、いくつもの線路が前後左右に敷かれていて沢山の一両列車が走っている。
どうやら列車のデザインは運転士を表しているようで、割烹着姿の猫の列車や着物をきた可愛らしい猫、侍のような勇ましい猫と個性豊かだ。
「列車のデザインは運転士さんなんですね」
「せや。まぁ、わしの腹巻き姿が一番かっこええんやけどな」
ヒデさんが自慢げに髭を引っ張る姿を見ながら私はクスッと笑った。
はじめは正直、なんだこの説教くさいおじさん猫はと思っていたが何だか可愛らしく思えてくる。
(ヒデさんの人柄だよね……って猫柄?)
「なんや、ちゃう思うてんのか?」
怪訝な顔が漏れ出ていたようで、私はすぐに顔を引き締めると力強く返事をする。
「いえ、かっこいいです!」
「にゃははっ、にゃんや照れるやんけ〜」
ご機嫌になったヒデさんが肉球で私の肩をポンと叩くと、フリフリと腰を振る姿に私は思わず声を出して笑った。こんな風に声を出して笑ったのは久しぶりだ。
「ええ、笑顔や」
「あ、えっと……」
なんだか気恥ずかしくて、視線が泳いだ私に今度はヒデさんの突っ込みが飛んでくる。
「桜、そこはにゃんや照れるやんけ〜ゆうところやで」
「……なるほど」
「はぁ、桜はまだまだ関西人にはなられへんな」
ヒデさんが大袈裟に肩をすくめるのと同時に列車は緩やかな速度を保ったまま森へと入っていく。
森には大きな木が連なり果実が沢山実っていて、木の下でりんごやみかんを猫たちが座って仲良く頬張っている。
「わ。可愛い、果物も食べるんですね」
「猫が魚だけなんていうんは昔の話やからな。ワシの好物はおでんに熱燗や」
ヒデさんのおでんに熱燗姿を想像して私はまたぷっと笑った。ヒデさんといると何故だが笑顔が増えてしまう。
「ヒデさんっぽいですね」
「やろ〜。あとちなみに、この森は休憩所や」
「休憩所?」
「おもひで猫列車に乗れる時間も限られとんや。八時間勤務やったら一時間は休まなあかんからな」
「人間の世界と同じなんですね」
「まあな。ついでにさっき休憩しとったんはまだ若手の猫で後輩や。ゆうても百歳は超えとるけど」
「えっ、そんなに?」
「人間みたいに見た目は歳とらへんさかいにな」
私は大きく頷いた。さっき見た猫たちの年齢が百を超えてるなんてとても思えない。
「あとな。この世界で働いとる猫はみんな使い魔を引退した猫ばっかりなんやで」
「使い魔って、いくつで引退なんですか?」
「大体六十五歳が定年や。このあたりも人間に合わせようゆうて、大昔に偉い人らが取り決めたらしいわ」
そうなんですね、と返事をしながら私は浮かんだ疑問を口にする。
「ヒデさんはおいくつなんですか?」
「わしか? 今年めでたく二百二十二歳や~猫だけに縁起いいわなぁ。にゃんにゃんにゃんっ、なんてな。がはははは」
ヒデさんが手を三回こまねく仕草をしながら小首を傾げてみせる。
「…………」
急なおじさんギャグ的なものに対応できない私に、ヒデさんが痛くない程度に額を小突いた。
「あかんあかん! そこは、なんでやねんっ、言うて突っ込まんと~、桜は大阪で生きてかれへんで~」
「……ですね、でも私東京、なので」
「あーちゃう、ちゃう。そこも真面目に答えるとこちゃうねん。桜はもっと肩の力抜き~なんでもかんでも深く考える必要あらへんねん」
「あ……なんか私、昔から、考えすぎちゃう癖あって」
小学二年生の時に親が離婚してからだろうか。考えても仕方ないことに限って考えずにはいられなくて、でもどんなに考えても現実が変わらないことにがっかりして、心が鉛のように重くなる。
こんな風に苦しくなるなら、両親にも泣いて訴えれば良かった。どうしても三人一緒に暮らしたいと我儘を言えば良かった。あとから言葉にしなかったことをずっと後悔するならば。
「……いっつも後悔ばっかり……」
あの時、こうしていたら、ああ言っていれば何か少しでも変わったかもしれないなんて、そんなたらればの話はしても仕方ない。魔法でもなければ、到底ひっくり返せるはずもない。わかってるのに、きっと私はどこかでわかっていないのだろう。
後悔だけはしないように自分なりに精一杯、日々を大事にしようと何度も戒めてきたのに、結局、私は消えることない大きな後悔に苛まれている。
(静馬くん……ごめんなさい……)
(私のせいで……)
無意識に俯いた私の肩にヒデさんがそっと手をおいた。
「まぁ……なかなか癖は直らんけどな、でもこの旅でちょっとは心持ちが変わるとええなぁ」
そうボソリと言うと、ヒデさんは煙草をくわえて白い煙を吐き出す。
「なぁ、桜」
私はヒデさんの方に顔だけ向けた。
「後悔する暇あったら、面白うなくても笑うてた方がええ。『笑う門には福来たる〜』ゆうやろ。辛くても……笑っとったらきっと、桜にもええことあるさかい」
「…………」
そして私はヒデさんと一緒に移り変わる景色を車窓からただ見つめた。
背中から太陽の光が差し込んで二つの影が吊り革と一緒に揺れている。
ヒデさんがただ静かに私の後悔に寄り添ってくれているのが伝わってきて、彼の素朴な優しさが有り難かった。
列車は森を抜け、橋を渡りきると青々とした山に囲まれた田園を走っていく。
その風景は昔の日本の田舎の風景によく似ているが、空を飛んでいるのは羽が四つあるカラスだったり、小さな飛行機を運転しているのは鳩だったりと目に映るものすべてが新鮮だ。
ヒデさんに連れてきてもらった、この現実とはかけ離れた世界はなんだか時の流れが緩やかに感じて、疲れきってトゲトゲしていた心が徐々に優しく丸くなる。
「あの……ヒデさん」
「どないしたん?」
「どのくらいで過去に到着するんですか?」
「ああ。桜の行きたい過去は一年前くらいやから、そんなにかからへん」
「え、あれ? どうして一年前ってわかるんですか?」
「言うたやろ、特別大きな後悔の風船の持ち主が桜やって。その時なぁ、触れるとまぁ、その後悔の内容がわかるんや」
(後悔の内容……がわかる?)
わかると言うことは、私があの日以来、静馬くんに対して抱いている後悔や伝えたかった想いをヒデさんは知っていると言うことなんだろうか。
「……そう、なんですね」
掘り下げることでもないと思いつつ、またいつもの癖で考えを巡らせれば返事が少しぎこちなくなってしまった。
「……悪いなぁ、のぞき見したみたいで」
珍しく、困ったように肩をすくめたヒデさんに私はすぐに顔を振った。
「そんな、謝らないでください」
「わしらも内容わからんと判断できんさかいにな。おもひで猫列車に乗れるんは一日一人だけ、その日に出会った一番大きな後悔を持っとる人間だけなんや」
「じゃあ私、ヒデさんに見つけて貰って良かったです……過去に……後悔に向き合えるチャンスを貰えて。何か変わるかもって……珍しくどこか期待もしてて」
「ほんなら良かった」
ヒデさんは深く頷く。
そしてふかしていた煙草をようやく腹巻に仕舞うと前方を指した。
「お。もうすぐトンネルやな。トンネルに入ったら桜が戻りたい過去のすぐ近くやからな」
「わかりました」
私が頷けばヒデさんが両手を天井に向けて伸びをする。
そして「んっ?」と徐に声を発すると、腹巻の中からガラケーを取り出した。
「電話や~、ちょっと席はずすな」
「あ、はい」
(電話もできるんだ……)
ひでさんはぴょんと椅子から降りて、目の前の運転席に入るとパタンと扉を閉めた。
よほど密閉空間なのか、声が大きいヒデさんの声は全く聞こえない。一人きりになった車内は静かでただ、ガタンゴトンと規則正しい車輪の音だけが心地よく響く。
「なんか……緊張してきた」
(もうすぐ……静真くんに会えるんだよね……)
鼓動が不安と期待で早くなっていく。
その時だった、私の鼓動とは正反対に列車がゆっくりと速度を落とし始めた。
(あれ、まだトンネル通ってないのに……)
ヒデさんはまだ電話中だ。
私はきょろきょろとあたりを見渡すと、前方に見えてきた駅を見て思わず、あっと声を上げた。
正確には駅を見て驚いたのではなくて、その駅にいる《《二人の人物》》にだ。
「嘘……、あの駅……にいるのって」
私は席を立つと吊り革に捕まりながら、扉のすぐそばに立つ。
同時に列車は緩やかに減速してピタリと停車した。
扉がゆっくりと開けば、目の前には過去の私と静馬くんが並んで駅のベンチで話をしている。風景も服装も見覚えがある。
(これ私の……過去……)
私たちは大学の帰り道、電車を待ちながらベンチでたわいのない話をしてよく過ごしていた。
『静馬くん、この前のロネの美術展、よかったよね』
『またその話かよ、桜は抽象専門のくせにロネ好きだよな』
(あ。この会話覚えてる……)
『人並みの感想だけど、色づかいが好きなんだ〜、なんか吸い込まれそうで』
『わかる。ずっと見てられるよな』
(ほんとに静馬くんだ……)
私はずっと会いたかった彼の元気な姿と声に胸がいっぱいになる。
『私もそんな誰かを惹きつけて離さないような絵が描きたいなぁ……くしゅんっ』
静馬くんがポケットからカイロを取り出すと私に差し出した。
『あ、大丈夫だよ』
『じゃあこうしよ』
彼がカイロを持ったまま私の右手と一緒にポケットに手を入れる。その小さな温かさに胸が幸せでいっぱいになったのがまるで昨日のことのようだ。
(これあの日の……前の日)
まるで一度観たことがある映画のように、二人の会話もシチュエーションも仕草も間違いなく私の過去の一部分だ。
『そういや桜、明日空いてる?』
『え、うん。空いてるけど静馬くんバイトじゃなかった……?』
『夜からは代わって貰った。記念日だし。桜も一緒に過ごせたらいいねって言ってたじゃん』
『あ、うん。でもいいの? 奨学金の支払いあるでしょ?』
『多少は貯蓄あるし大丈夫』
『……でも……』
恥ずかしそうに言葉尻を濁せば、彼が人差し指で私の頬をツンと押した。
『何? 桜は俺と過ごしたくなかった?』
『う……、そう言うわけじゃなくて、その無理しないでほしいなって……』
『してないよ。好きだから一緒にいたいってだけ』
『う、うん……』
『うん、とは?』
『お、おんなじ気持ちだよ』
私の精一杯の返事に静馬くんが、目尻を下げて笑う。
『なんかズルいけど、ま、いっか。いつかちゃんと言ってよ。俺のこと好きって』
『わ、声大きいよ』
『あはは、誰もいないじゃん』
そう言って彼が悪戯っ子のように笑いながら、私のマフラーを巻き直すとさりげなく頬にキスを落とす。そして彼がぎゅっと私を抱きしめる。
『桜が好きだよ』
『私も……』
──(私も、大好きだよ)
彼の腕の中で私は何度そう言っただろうか。
けれど恋愛経験値が低すぎて初めての恋に戸惑ってばかりの私は、うまく言葉に出せなかった。
心の中ではたくさん好きだと言えるのに、面と向かって口にするのがどうにも無性に恥ずかしくて付き合って半年も経つのに、彼に好きだとちゃんと伝えることができなかった。
だって、二度と伝えられないなんて思っても見なかったから。
心の中は言葉にしないと何ひとつ伝わらないなんて、わかってたはずなのに。
──彼との出会いは私が大学に入学して間もない頃のこと。
駅で定期券を落としたのを拾って追いかけてきてくれたのが静馬くんだった。
お礼を言って受け取った時、互いに持っていた鞄からスケッチブックや画材が見えて、同じ画家志望だとわかった。さらにその後の講義も同じだったことから少しずつ話すようになった。
彼の屈託のない性格と、絵に対する情熱とひたむきさを知り、気づけば私は彼に初めての恋をしていた。
夏祭りに誘われて、花火を見た後に彼から告白されたときは夢みたいだった。
晴れて恋人同志になれてからは一緒に大学に通い、スケッチをして手を繋いで帰り、同じご飯を食べて一緒に眠る。ただそれだけで幸せで私はこのままずっと静馬くんの隣に居て、絵が描けたらそれでいいな、なんて呑気に構えて毎日やってくる日常にあぐらをかいていた。
このままずっと、なんて誰も保証なんてしてくれない。また明日も必ずやってくるなんて、神様にだってわからない。
運命は予想できないから運命なんだと思う。
出会いも別れも。
幸せな約束も残酷な後悔も。
もっと、いや、もう少しだけちゃんと心に刻んで生きていれば何か変わっていたんだろうか。変えられただろうか。
『──桜、明日の夜どこ行きたい?』
聞こえてきた彼の言葉にハッとすると、私は勢いよく顔を上げた。そして私は過去の私と話している彼に向かって首を振り叫んだ。
「静馬くん! ダメ!」
私はそう叫ぶと車内から扉の外へ出ようとして、いつのまにか扉が閉まっていることに気づく。
「え……、なんでっ」
どうにか開けれることはできないかと扉の境目に指をかけるがびくともしない。
「お願い……、開いて……っ」
爪と指が白くなるほど力をこめるが扉は開かない。
『静馬くん。私ね、流星群観てみたい、かも』
「え?」
扉はピタリと閉じているのに不思議と扉の向こう側の二人の会話は、さっきまでと同じ音量で聞こえてくる。
静馬くんにはにかんだ笑顔を向ける私自身を見ながら、私はギリッと奥歯を噛んだ。
『お、いいね。星って言えばいつもの星野丘公園でも見れそうだな』
静真くんスマホで検索しながら隣の私に顔を寄せる。
『ほら見て』
『ほんとだね。行くのに坂道が大変だけど周りに遮蔽物ないもんね』
『じゃあここに決まり。夜ご飯は俺がバイト帰りにコンビニで買ってくとして、十九時半はどう?』
『大丈夫』
(やめて……、約束しちゃダメなの)
(だって約束したら──彼は……)
私は扉を両の拳でドンドンと強く叩く。
「静馬くん、お願いっ!! 約束しないでっ!」
彼らには私の姿が見えておらずいくら大きな声で叫んでも、激しく扉を叩いても気づく気配はない。
『約束な。十九時半に星野丘公園の桜の樹の下で』
『うん、楽しみ』
二人は私の知ってる“あの日”とおなじように約束をすると、顔を見合わせて幸せそうに笑っている。
「お願い……、もう、やめて……っ」
私の悲痛な声は届かない。そしてそのまま二人を駅のホームに残したまま、無情にも列車は発車する。
私は力なく扉の前で立ち尽くした。
「……そんな……」
「──桜」
後ろから聞こえてきた声に振り返ると、いつの間にかヒデさんが立っている。
「ヒデ、さん……」
「今の駅が桜が後悔を抱える前の最後の日や。これからトンネルを出たら、桜の戻りたい過去、ようは後悔を思い出にできる終点にたどり着く」
「私、よくわからない。過去はさっきも変わらなったじゃない……何も……っ」
「言うたやろ、起きた過去は変えられへん。変えられるのは後悔だけや」
「ヒデさんの言うこと……やっぱりわからないよっ」
ヒデさんが悪いわけではないのに、無性に悲しくてやり切れなくて八つ当たりのような言葉を吐いてしまう。
「……それでええ。答えは終点で桜自身が見つけるしかないんや」
「何それ、後悔を思い出に変えれるって言ったのに。さっきの……静馬くんの顔見たら……もっと苦しくなった……もっと、もっと後悔が増えた……」
掠れた小さな声はどこまでヒデさんに聞こえたかわからない。
でもヒデさんが何かを考えて、かみしめるように何度も頷くのが見えた。
居心地の悪い空気が流れて、私は床に視線を落とすと少し汚れているスニーカーのつま先を意味もなく見つめた。
そんな私をみかねたのか、ヒデさんがふいに私のワンピースの裾をツンと引っ張った。
「桜、トンネル入ったらわしとはお別れや」
「え?」
「残念やけどな。もう時間ないねん」
その言葉に途端に言い知れない焦燥感に駆られるが、どうしたらいいのかわからない。
「あの、私……っ」
咄嗟に口を開けど、続く言葉が浮かばない。
「ん?」
「なんか……ごめんなさい……」
「なんや急に。おっかしなやっちゃなぁ」
ヒデさんは明るいトーンでそう言って、おどけるように尻尾をくるくると回した。
「だって……さっきや八つ当たりみたいにしちゃって……」
「なんや。桜はほんまに気にし~やなぁ。考えすぎや」
ヒデさんは、にゃははと笑いとばしてから大きな目をこちらにまっすぐに向けた。
「桜にわしからの餞別や」
「え……っ?」
「手だしぃ」
「ん? 手? こう?」
ひでさんは糸のように目を細めると、私の手のひらに手を添えた。
「よう見とき。漢字、一文字やで」
(?)
きょとんとしてる私の手のひらの上からヒデさんは、前足でゆっくりと透明の文字を描いていく。
私はヒデさんの描いたその一文字がすぐに分かった。
「桜、これ飲み込み」
「え? 『笑』って言う字を?」
緊張をしないようにと『人』という字を飲み込む話は聞いたことがあるが『笑』は初めてだ。
「おうおう、正解や。せや、これを飲み込んどったらな、これから長い人生、しんどいことあっても絶対最後は笑っとるから」
「ヒデさん……」
ヒデさんらしい励ましと言葉に頬に涙が流れる。
「こら。ゆうてるそばから泣いたらあかん」
「……ですよね」
私はきゅっと口角を上げると手のひらの『笑』を大きな口で一気に飲み込んだ。
「えぇ飲みっぷりや」
「笑う門には福きたる、ですよね」
「ちゃうちゃう、笑う門には福きたる~ぅ、や」
イントネーションの違いを指摘されて私はクスっと笑った。
そんな私を見ながら、ヒデさんが敬礼のポーズをする。
「本日は~おもひで猫列車にご乗車くださり~誠にありがとうございました。あなたの後悔が、良きおもひでになることを猫一同心より願っております~」
そして私もヒデさんに向かって敬礼ポーズをした瞬間、目の前が真っ暗になった。



