──誰しもが、明日はまたやってくると思い込んではいないだろうか?

当たり前の日常が、何の確証もないのにずっと続くような気がしていないだろうか?

少なくとも私は、そう思っていた。

今日も、明日も明後日も平凡でちょっぴり退屈な日々の中にある小さな幸せを感じながら、ずっと繰り返していけると思いあがっていた。


だから──あの日以来、私はずっと“後悔”をしている。

もう二度と戻れない過去にしがみついては泣いて、その“後悔”という呪縛から逃れられなくて、どこにも行けずにただ立ち尽くしていた。


──不思議な黒猫、“ヒデさん”に出会うまでは。



「はぁあ……ダメだ」

自宅である築三十年の木造アパートの一室で、私こと一ノ瀬 桜(いちのせ さくら)は深いため息を吐いた。

三百均で購入した、黒猫のイラストがついた壁掛け時計は深夜二時を過ぎている。数種類あった中から猫のデザインを選んだの犬より猫派なことと、小さい頃に見たアニメの中に出てきた、しゃべる黒猫のキャラクターが大好きだったからだ。

「もうこんな時間だし、あきらめようか……」

通っている都内の美大での講義を六限まで受けてから、コンビニのアルバイトを終えて帰宅しシャワーを浴びた時点で二十二時を過ぎていた。

空腹を満たすために、買いだめをしておいたカップラーメンをすすってからすぐに鉛筆を片手に絵を描き始めたが、納得のいく下書きは今夜もできそうもない。

流し台に持っていかずに放置したままの食べ終わったカップラーメンの汁が油分で澱んでいて、なんだか心まで濁りそうになる。

入学したときはただ描くことが好きでたまらなくて無我夢中でキャンバスに向かっていたのに、いまは描くことに後ろ向きでこんなに苦痛に感じるなんて思っても見なかった。

ちなみに理由は嫌と言うほどにわかっている。《《あの日》》以来、私の心の中に深い悲しみと共に一生消えない後悔が刻まれたからだ。

「……もう描けないのかな」

描けないどころか、笑うことさえできなくなってどのくらい経つだろうか。

「……苦しい……」

ぽつりと呟いた声は静かな一人暮らしの部屋に響くが誰からの返事もない。六畳ほどの和室には私が丸めて放り投げたスケッチブックの紙が散乱しているだけだ。

抽象画が得意であり油彩学科を専攻している私は、一回生の時は公募にも積極的に出していたが、二回生は納得のいく作品が描けず一度も出品に至っていいない。お世話になっている大学の先生には“あんなことがあったのだから焦らなくていい”と相談するたびに言われているが実際は焦りよりも、日々後悔が募るばかりなのだ。

どうしようもない“後悔”。

そもそも後悔とは何かしらの出来事や他者との言葉のやり取りのあとにやってくるのが一般的だと思っている。
後者のように他者とのやり取りの中で何かしらの“後悔”が生まれたのならば、弁解するなり謝罪するなりの手段があるだろう。

同じく何かしらの出来事もそうだ。よほど取り返しのつかない出来事以外は、誠意をもった謝罪や弁明によって、後悔の元となっている原因やわだかまりを取り除くことは不可能ではないと思う。

でも何事にも例外はある。

自分の中の後悔に起因する相手に、もう二度と会えないのだとしたら?

その後悔はずっと心に棲みついて鉛のように重くむしばんでいく。今の私のように。


静馬(しずま)くん……私、どうしたら良かったのかな」

私は、もう会えないその人の名前を口にし問いかける。何をどこからどう間違えてしまったのかわからない。ただ、好きなだけだった。それだけだったのに。

どうして──?

何度もこの四文字を繰り返したが、いまだに納得できなければ、現実をうまく飲み込むこともできていない。

「会いたいよ」

口にすれば彼の優しい笑顔を思い出して涙がこぼれそうになる。

──『じゃあ、十九時半に星野丘(ほしのおか)公園の桜の樹の下で』

彼の少し高めの声が聞こえてきて、私は目じりに浮かんだ涙を手の甲で雑に拭った。

こんな風に二度と会えなくなってから後悔しても、なにひとつ変えられるものなんてない。

ただ、後悔がしんしんと雪のように降り積もっていくだけだ。 

「静馬くん……、私、もう疲れた……」

人物画が専門で同じく画家志望だった彼の分まで絵を描こう、それがせめて私ができることなんだ、なんて虚勢を張ったそばから彼に二度と会えない現実に押しつぶされて心が苦しい。

この一年、なんとか受け入れがたい辛い事実を消化しようとしてきたが無理だった。

「もう限界……ぐす……っ」

目が覚めるたびに苦しくて夢じゃないんだと絶望して、心の中を負の感情だけが埋め尽くしていく。

「……っ、もう嫌だ……嫌だ……!」

私はスケッチブックに描いていた下書きを鉛筆で乱雑に塗りつぶすと、ぐしゃぐしゃに丸めて後ろに放り投げた、その時だった。


「──痛っ!」

(!!)

突然、背後から聞こえた見知らぬ男性の声に私は大きく体を震わせた。

(え……、いまの声……誰?)

私の部屋は三階建てアパートの二階にあって広さは1Kで六畳ほどだ。小さなキッチンと押入れが一つついているだけのシンプルな角部屋で、隣の部屋は長らく空き家となっている。
上の階にはおばあちゃんが一人暮らししているが早くに就寝するため、深夜は物音ひとつ聞こえたことはない。

(上のおばあちゃん……じゃない)

私は振り向かずに、すぐに玄関とベランダに視線を走らせた。 

(玄関の鍵、閉まってる) 

(ベランダの鍵も……)

しっかりと施錠を目で確認すると、ホッと肩を撫で下ろした。

「だよね。気のせい、か……」

「あほぅ、気のせいちゃうわ」

(……っ!)

再び聞こえた低いしゃがれた男性の声に、息を吸い込んだまま身体が硬直する。

私は声が聞こえてきた押入れの方から、背を向けた状態で木製テーブルの椅子に座っているのだが、目の前のスケッチブックをみつめたまま動けない。

(こ、わい……)

目だけで壁掛け時計を見れば、時刻は深夜二時二十二分を指している。

(……待って。お化けって二時に出るとかいうよね……)

(なに、いま、お化け出てるの?)

(どうしたら……っ)

生まれてこの方霊感なんてものも皆無で、今まで幽霊に遭遇したこともない。
でも息を殺して耳を澄ませば、背後に誰かの気配が間違いなくある。背中の感覚を最大限に研ぎ澄ませながら、私はゆっくりと呼吸を整えた。

(一斉ので振り返ろう)

そう自分を奮い立たせるように、言い聞かせた時だった。

「何してんねんっ」

「きゃああああ!!」

私は悲鳴を上げ飛び上がると、椅子から転げ落ちた。
とっさについた右肘と両ひざがジンと痛んだが、そんなこと構っていられない。

私は声の主に視線を向けたまま、口をパクパクとさせ大きく目を見開いたままフリーズする。


「ゴミはゴミ箱やろ」

「……ひぃい……っ」 

「聞いとるんか?」 

「猫が……なな、んで……、それに、立って……」

「はぁ。ただの猫ちゃう。見たらわかるやろ」


どこから入ってきたのだろうか。
いや、そんなことより、これはなんなのだろうか。

だって目の前の猫は猫であって猫じゃない。艶やかな黒の毛並みをしたその猫は男性用の腹巻を巻いていて、二本足で立っているのだから。
更には流ちょうな日本語どころか、関西弁を操っている。

黒猫は当たり前のように二足歩行でそのあたりに散らかっていた丸めた紙の山を全てゴミ箱に入れると、腰を前足でポンポンと叩いた。

見た目は普通の猫のように愛らしい姿をしているが、その仕草は人間でいう、おじいちゃんみたいに見える。

「はぁー、年やさかいもう疲れたわぁ」

愚痴ともいえる言葉をこぼすと黒猫はうんと伸びをしながら部屋を見渡し、私が部屋の隅に立てかけてあるキャンバスの数々を眺めながら画家の見習いさんかぁ、と独りごちた。

そしてゆっくりと視線が私に移される。

「ん? なんなん、どうしたん? そんな驚いた顔して」

私はごくんと唾を飲み込んで、喉を無理やり湿らせてから掠れた声を絞り出す。

「な、なんなの……一体……っ、化け、猫?」

「あほぅ。化け猫やったらゴミなんかほかすかいな」

「きゃああっ、またしゃべった!」

「あー、やかましい奴っちゃなぁ。静かにせんかいな。ご近所迷惑や」

私が悲鳴をあげたあとに冷めた目つきで至極真っ当な突っ込みが聞こえてきて、私はすぐに謝罪する。

「た……確かに……あの、そのすみません」

「かまへん、かまへん。人間も猫も間違えることあるさかいにな」

猫は顔の前で右の前足をひょいひょいっと振り、ニィと目を細めた。

(なんか……やっぱりおじいちゃんみたい)

その言動は見れば見るほど、テレビで見る大阪のおばちゃんの男性版だ。

猫はぼりぼりと額を掻くと腰を抜かして動けない私の目の前に、どっこらしょっと言いながら胡坐をかいた。

「で、早速やけどな。わしはあんたの“後悔”を思い出に変える手伝いに来たんや」

「……へ?」

「せや。本題入る前に自己紹介やな、わしの名前は“ヒデ”や」

「ひ、でさん?」

「ええ名前やろ。おもひでから取って、“ヒデ”や。わしはこう見えて時空管理組合、特命神獣猫(とくめいしんじゅうねこ)支店に所属する、え~じぇんと~ゆうやつで、人間の抱えた強い“後悔”を“思い出(おもひで)”に変えるんが仕事なんやで」

急に羅列された聞きなれない言葉から、辛うじて聞きとれたのは後半の部分だ。

(え~じぇんと? エージェント? のこと)

(あと、後悔を思い出?って言った……?)

「ほんまにあんたはラッキーガールや。世の中、“後悔”抱えとる人がぎょうさんおって、そん中から選ばれたんやからな。まぁ、ワシが見つけた~ゆうても過言ちゃうけど」

えっへんと胸を張るヒデさんを見ながら、私は怪訝な顔になる。

(あれ……待って)

(これ現実かとおもって焦ってたけど、よく考えたら夢じゃない?)

化け猫に遭遇することは百歩譲ってまだ現実であり得る話かもしれないが、二本足で立って、関西弁を話すおじいちゃん猫に遭遇なんて天地がひっくり返ってもあり得ない。

(そうだ。これきっと夢だわ)

私は途端にホッとして顔が緩む。

「はぁ。夢で良かったぁ」

「ちゃうわ! これは現実や」

すぐに突っ込みを入れるとヒデさんが、ちっちっと私の顔の前で右の前足を振る。

「え? だってこんなことありえないよ。猫が二足歩行で、関西弁しゃべって“後悔”をなくしてくれるとかなんとか」

「なんとかちゃう。後悔を手放して思い出にするためにワシが来たんや」

猫目をきゅっと細めて不満げにする、ヒデさんをみながら私は首を捻る。

「いやぁ、どう考えても……」

(夢だわ)

でも、夢の中なら思い切り安心して楽しめばいい。だって起きたらまた辛い記憶と後悔を抱えた日々が始まるのだから。


「まぁ、桜からしたら現実であって、夢でもあるさかいな」

「ん?」

「まぁ、ええわ。あとでくわしぃ説明したるわな。まず名前教えてーな?」

「えと、一ノ瀬……桜、です」

「ほぉ~桜か~。奥ゆかしい、えぇ名前やんか~」

ヒデさんは、腕組みをすると腹巻の中からパイプ煙草を取り出し口に咥えた。どうやって火をつけたのかわからないが、咥えたとたん煙が立ち始める。

「魔法、みたい……」

「にゃはははっ! こんなん序の口や」

気をよくしたのかヒデさんは腹巻きの中に手を突っ込むと、今度は桜吹雪を披露する。

「うわぁ、綺麗」

「お近づきのしるしや〜」

(猫が手品までできるなんて……)

完全にいま目の前に起こっていることすべてが夢だと悟る。冷静さを取り戻した私は、鼻歌混じりに煙草を蒸しているヒデさんに人差し指を突きつけた。

「ここ禁煙です!」

「ちゃうちゃう、またたび煙草や」

(?)

「え? またたび? でも煙草は煙草なんですよね?」

「ニコチンなんかはいってへん。またたび摂取の一服や~」

「一服って言ってるじゃないですか」

「桜は頭かたいの~そもそもワシは霊界の住人やさかいワシが人間の世界でなにしようとも時空処理でなーんも残らへんねんから」

「よくわかんないです」

ヒデさんに少し慣れてきた私がまたたび煙草とやらを睨むと、ヒデさんが煙草を吸いこみ、こちらにむかってワザとふぅ~っと煙を吐きだした。

その瞬間、何かが鼻を掠めたが、何の匂いか判別ができない。少なくとも煙草の匂いは一切しない。

「あれ?」

「ゆうたやろ。またたびや。人間の桜には害もなく、無味無臭やさかい安心しぃ」

「わかり、ました」

腑に落ちないが、夢の中でいちいち追及するほどのことでもないと思った私は素直に頷いた。

「あ、もうこんな時間や。急がんとな」

ヒデさんの視線をたどるように私も壁掛け時計に目をやれば深夜三時を指している。

「勤務時間決まってんねん。残業はできへんしな」

「化け猫の世界でも人間と似たような感じなんですか?」

「せやから化け猫ちゃう。わしは元は神社の神様の使い魔〜しとったんやけど」

「へ? 使い魔?!」

「まあまあ最後まで聞き〜。使い魔を定年で引退してここ百五十年ほどは、さっきゆうた特命神獣猫支店で“後悔”を思い出に変えるんが主な仕事や」

「ええっと……あの、さっきも言ってましたけど……“後悔”を思い出に変えるってどうやって?」

「おうおう。ええ、質問や」

ヒデさんはあっという間にに火を消すと、またたび煙草のパイプをさっと腹巻の中にいれる。

そして私が転がり落ちた際、一緒に落としたらしいスケッチブックを床から拾い上げると、鉛筆を握った。

「書くからみときや」

「……字も書けるんだ」

かなり小声で言ったつもりだったのに、すぐにヒデさんの鋭い猫パンチが飛んでくる。

「いたっ」

「なにゆうとんねん。猫なら当たり前やろが」

(いやいや……普通の猫は字なんか書いたりしませんから)

喉まで出かかった心の声を飲み込むと、ですね、とだけ答える。

「まず桜。単刀直入にゆうと桜は“後悔”の大きさがが尋常やない」

「え? “後悔”の大きさ?」

ヒデさんは線路と電車の絵を描くと、まわりにたくさんの風船の絵を足していく。そして電車の横に“おもひで猫列車”と達筆で書き加えた。

「うわ。絵も字も上手」

「そこちゃうわ。これがわしが来たときの状況や」

「ん?」

「わしはな毎晩、おもひで猫列車ゆうんに乗って人間界を、ぱとろ~るぅしとんやけど、“後悔”抱えた人間の想いが、まあるい風船みたいになって夜空に浮かんどんねん。いろんな色のいろんな大きさがあるんやけどな。今日はひと際大きい“後悔”が浮かんどったから来てみたら、持ち主が桜やったんや」

ヒデさんはふいに真剣な目をすると、私をまっすぐに見つめた。

「あるやろ、“後悔”」

「…………」

そうずっと“後悔”が消えない。
何をしていても、どこにいても静馬くんのことが頭から離れない。私は両手をぎゅっと握りしめた。

「あります……」

「そんな顔せんでも、“後悔”を持つことは悪いことちゃう。こうすればよかったと後から悔いるほどに大事なものや人なら当然やし、そんな風に想える人間は、えてして“ええやつ”や」

慰めるように声のトーンを落としたヒデさんの優しい声色にほっとして、なんだか泣きそうになる。

「もうずっと……苦しいんです……だって過去は変えられないから」

「……確かに過去は変えられへん。でも“後悔”は変えれるんや」

「本当にそんなことできるんですか?」

「そのためにわしがきたんやさかいな。これも縁や。その“後悔”を今夜おもひで猫列車に乗ってちゃんと思い出に変えてしまおうや」

「でも……私の“後悔”を思い出になんて……だって……」


だって静馬くんはもう──。

ぽたんと手の甲に落ちた大きな涙が弾けて、すぐに視界が滲む。 

「泣かんでええ、わしがきたからにはもう大丈夫や」

「……ぐす……本当、に?」

「あったり前や。誰やとおもうとんねん」

ヒデさんは右の前足で自身の胸をポンと叩くと立ち上がる。そして私にピンク色の肉球のついた可愛らしい手を差し出した。

「桜、行くで。いまからおもひで猫列車乗って過去に戻るさかいにな」

「えっ?! さっき過去は変えられないって……」

「過去は変えられへん、せやけど過去には行けるねん。一回限りやけどな」

やっぱりヒデさんの言うことはよくわからなくて理解が追い付かない。

でもなぜだか、胸が少しだけ期待で膨らむ。
これが夢か現実かなんてもうどうでもいい。
ただ、過去に戻り“後悔”のカタチを変えられるのなら、私はそのおもひで猫列車に乗って、彼に会いに行きたい。

「桜、はよう」

「あ、宜しくお願いします」

そう言って、遠慮がちにヒデさんの前足を握れば、小さな温かさが手のひらに伝染してくる。

「なんや?」

「あの、あったかいなって」

「当たり前やろ、猫は体温が高い生き物やさかいにな」

ニッとヒデさんは笑うと、ヒゲをピンと伸ばしてから私を見慣れた押入れの前に連れていく。

「え? ……あの、ヒデさん……?」

「びっくりしなや、わしの愛車や」

ヒデさんが押入れを勢いよく開くと、その中には別世界が広がっていた。