焼きたてのチーズのキッシュは、舌を火傷しそうなほど熱い。それをハフハフと息を吹きかけながら食べるのが好きだった。
「紬ちゃんは小さい時から、甘いチョコレートよりもチーズばかり食べてたねぇ」
良かれと思って買っておいたチョコレートや生クリームのケーキも、紬は好きじゃないと言って食べてくれなかったと思い出しながら笑う。
「そうだったっけかな。確かに、今でも洋菓子はほとんど食べないかも」
家族の中でも紬だけがそうだった。両親も、二歳年上の兄も、祖父母も、甘いもの全般好きなのに、紬に至ってはフルーツやチーズ、和菓子を好んで食べていた。ご飯に関しては特に好き嫌いはないのだが、スウィーツと呼ばれる類の食べ物に関しては、何故か好みがハッキリしている。
「幼稚園の頃の遠足のおやつに、どら焼きを持って行ったの、紬ちゃんくらいだったわね」
「そ、そんな昔のことは覚えてないよ」
「そう? みんなに揶揄われたって言って、泣いて帰ってきたことがあったのよ。あの時は『紬ちゃんが食べたいものを食べれば良いのよ』って、私、必死に慰めたわ」
「子供の頃の話は恥ずかしいなぁ」
「あら、私は嬉しいのよ。優しい味が好きな紬ちゃんは、きっと心優しい人になるって思っていたもの」
実際そうなったと、さわは続ける。
「紬ちゃんが美味しいって言いながら食べてくれるから、また頑張ってご飯作ろうって意気込んで、いろんな本を買っては試していたわ。沢山失敗もしたのよ」
それは初耳だと紬は思った。さわは何でもそつなくこなすタイプではなかったのか。レシピ本を見て、当たり前のようにその料理を再現していた。けれどもそうではなかった。さわは、そこからさらに紬の好きな味にアレンジしたり、自分が作りやすいように研究をしていたのだと話す。そんな時間もまた、楽しみの一つだったと言った。
「おばあちゃんの、そういう職人気質なところが遺伝してほしかった」
思わず本音をポロリと溢す。紬はダメだと思うとすぐに諦めてしまう自分の性格を悩んでいた。
「でも、今日は諦めずに来てくれたじゃない」
「それは……もしも本当におばあちゃんに会えるなら、このチャンスを逃すわけにはいかないって思って」
「じゃあきっと、紬ちゃんにとって本当に大切なことには、がむしゃらになれるのよ。それが今はまだ見つかっていないだけ」
「そう……なのかな……」
さわから言われると、不思議とそれが正解のように思える。昔から嫌なことがあると、紬はさわの家に飛び込んでいた。さわは紬の気が済むまで話に付き合ってくれた。頷きながら背中を優しく撫でてくれていたのを、今でも覚えている。今日も紬の背中を撫でてくれた。さわからそうされるのが、一番気持ちが落ち着く。
話しながら食べていると、いつの間にか皿は空になっていた。食はどちらかといえば細い方だが、今日はいくらでも食べられそうな気がする。
「おかわりしましょう」と、さわがチーズのキッシュを取り分けてくれた。まだ暖かい。今度は食べやすい温度になっている。その分、チーズが蕩けて伸びたりしないが、これはこれで美味しい。濃厚なチーズの旨味と、タルト生地の香ばしさが相まって、一口食べる毎に口から幸せが広がる。
二人で半量をたいらげた頃、ミケ・アンジェロが次の料理を運んで来てくれた。
『お気に召してもらえましたか?』
「おばあちゃんの味、そのものでビックリしました」
『それは、打ち合わせで細かく宮代様から伝授して頂いたおかげなのです。さっさ、次はビーフロールですよ。こちらもお熱いのでお気をつけて召し上がれ』
今度はトマトソースの煮込まれた香りが漂う。さっき三種のチーズのキッシュを食べたばかりなのに、今にも腹の虫が鳴き出しそうなほど食欲を誘う見た目と香りだった。
綺麗な皿に盛り付けられて、昔食べていた時よりも豪華に感じる。これは祖母の家で食べる定番の料理だった。少ない材料で簡単に作れるから、さわも好んで作っていた。子供の頃はフォークを突き刺して豪快に齧り付いていたが、今日はちゃんとナイフとフォークが用意されている。紬にとっては特別感のない料理なだけに、お行儀よく食べるのは気が引ける。それでもせっかく落ち着いた雰囲気のおしゃれなカフェで食べるから、ちゃんと一口サイズに切って口に運ぶ。
「わぁ、懐かしい味」
そんな言葉が飛び出すような、本当に慣れ親しんだ味が口いっぱいに広がる。きのこや玉ねぎ、ベーコンを牛肉で包み、トマトベースのソースで煮込む。牛肉の脂と中の具の旨みがソースに染み込み、味に深みが増している。そしてトマトの酸味が後味をスッキリさせてくれのだった。
「これが一番好きだった」
「私もね、今日は絶対このメニューは外せないと思っていたのよ。これが一番よく作ったものね」
さわからしても、やはりこれが一番思い出深いといった感じがした。紬の両親は共働きで、帰りが遅くなる日には、兄と連れ立って祖父母の家でご飯を食べさせてもらっていた。母がそれほど料理が得意ではないこともあり、イベントの日には家族揃ってさわのご飯を食べに行っていたものだ。
その中でも紬はビーフロールをリクエストすることが多かった。どうしても食べたかった味をまた堪能できて、今日ここへ来て良かったと心から思った。
さわとの会話は途切れることはない。それはさわがお喋りだから……というのもあるが、ほんの僅かな時間も無駄にはしたくないという、二人の心の表れなのかもしれない。学校のこと、進路のこと、紬はさわに相談したかったことを沢山聞いてもらった。
何かやりたいと思っても、どうせ自分よりも凄い人が沢山いる。そう思っただけで、頑張るよりも諦めることを受け入れてしまう。さわとは正反対の性格を、自分自身で直したいと思っていた。どうすれば、さわのように意欲的に取り組めるのかを、もっと聞きたいと思っていた矢先の訃報だったのだ。
「おばあちゃんは、若い頃から何事も努力出来る人だったんでしょう? 私もそんなふうになりたい」
自分に自信が持てない。それが自己アピールが苦手なことにも繋がっている。これは受験でカナリ不利だと分かっている。それでも簡単に性格を変えられるなら、こんなに悩んだりしない。まだ高校二年生だというのに、学校ではもう進路希望書を提出しなければならない。紬は自分がどんな道に進むべきなのかを決めかねていた。大学へ行くにも、勉強したいことが具体的に決まっていないから選択のしようがない。
「おばあちゃんは、結婚する前は看護婦さんだったんだよね?」
「そうね。バリバリ働いていたわ。結婚して、専業主婦になったことを随分と長い間悔やんでいたわ。仕事が好きだったからね」
「おじいちゃんは何故仕事を辞めろって言ったの?」
「時代がそうさせたのかもしれないわ。私が結婚した頃は、女の幸せは専業主婦とされていたから。でもね、私は本当は働きたかったのよ。料理だって、結婚してから作り始めたんだから。何もかも、直ぐに出来るようになったんじゃないのよ」
「そうだったんだ。若い頃から料理が好きだったのかと思ってた」
だって、さわの料理はプロが作ったみたいに美味しい。しかし紬の年頃には、親の手伝いで台所に立つのも嫌で、逃げ回っていたと笑いながら言っている。
「大人になれば何でも出来るようになるわけじゃないのよ? でも、必要に迫られて改めて向き合ってみると、実は想像していたよりも楽しかったとか、もっとやってみたいとか思うことがある。私の趣味は大体が大人になってから始めたものばかりよ」
「じゃあ、まだ子供の私はどんなふうに自分の未来を決めればいいの?」
「五年後の自分なんて、誰も想像できないし、その頃何に興味を持っているかなんて分からないじゃない? だから、今の紬ちゃんが一番興味のあることを書けばいいんじゃないの? 例えば何かある?」
「おばあちゃんが死んじゃって、こんな風におばあちゃんの料理を再現できたらいいのにって思ってた。でも私もお母さんと一緒で料理が苦手だから、これは書けない」
「そんなことないわよ。今はできなくても、今から始めればいいじゃない。やりたいことを始めるのに、遅すぎるなんてことはないのよ。人生で今日が一番若いんだから、今日から始めればそれだけ向き合える時間が確保できるというものよ。だって、今日から紬ちゃんがお料理を始めれば、私が始めたよりも八年くらいは早く始めることになるんだから」
「そうなのかな……じゃあ、進路希望書にもそう書いていいのかな」
「書くのは自由よ。それを否定するような先生じゃないことを祈るわ」
「やっぱり、おばあちゃんに相談できて良かった。ありがとう。私の相談ばっかりでごめんね」
さわはもっと聞きたいわと笑ってくれている。紬はここに来てから肩の荷が降りたように楽になった。
残りのビーフロールを、思い切り大きな口を開けて食べた。子供の頃と同じように。そうしたら、さっきよりももっと美味しく感じた。
「紬ちゃんは小さい時から、甘いチョコレートよりもチーズばかり食べてたねぇ」
良かれと思って買っておいたチョコレートや生クリームのケーキも、紬は好きじゃないと言って食べてくれなかったと思い出しながら笑う。
「そうだったっけかな。確かに、今でも洋菓子はほとんど食べないかも」
家族の中でも紬だけがそうだった。両親も、二歳年上の兄も、祖父母も、甘いもの全般好きなのに、紬に至ってはフルーツやチーズ、和菓子を好んで食べていた。ご飯に関しては特に好き嫌いはないのだが、スウィーツと呼ばれる類の食べ物に関しては、何故か好みがハッキリしている。
「幼稚園の頃の遠足のおやつに、どら焼きを持って行ったの、紬ちゃんくらいだったわね」
「そ、そんな昔のことは覚えてないよ」
「そう? みんなに揶揄われたって言って、泣いて帰ってきたことがあったのよ。あの時は『紬ちゃんが食べたいものを食べれば良いのよ』って、私、必死に慰めたわ」
「子供の頃の話は恥ずかしいなぁ」
「あら、私は嬉しいのよ。優しい味が好きな紬ちゃんは、きっと心優しい人になるって思っていたもの」
実際そうなったと、さわは続ける。
「紬ちゃんが美味しいって言いながら食べてくれるから、また頑張ってご飯作ろうって意気込んで、いろんな本を買っては試していたわ。沢山失敗もしたのよ」
それは初耳だと紬は思った。さわは何でもそつなくこなすタイプではなかったのか。レシピ本を見て、当たり前のようにその料理を再現していた。けれどもそうではなかった。さわは、そこからさらに紬の好きな味にアレンジしたり、自分が作りやすいように研究をしていたのだと話す。そんな時間もまた、楽しみの一つだったと言った。
「おばあちゃんの、そういう職人気質なところが遺伝してほしかった」
思わず本音をポロリと溢す。紬はダメだと思うとすぐに諦めてしまう自分の性格を悩んでいた。
「でも、今日は諦めずに来てくれたじゃない」
「それは……もしも本当におばあちゃんに会えるなら、このチャンスを逃すわけにはいかないって思って」
「じゃあきっと、紬ちゃんにとって本当に大切なことには、がむしゃらになれるのよ。それが今はまだ見つかっていないだけ」
「そう……なのかな……」
さわから言われると、不思議とそれが正解のように思える。昔から嫌なことがあると、紬はさわの家に飛び込んでいた。さわは紬の気が済むまで話に付き合ってくれた。頷きながら背中を優しく撫でてくれていたのを、今でも覚えている。今日も紬の背中を撫でてくれた。さわからそうされるのが、一番気持ちが落ち着く。
話しながら食べていると、いつの間にか皿は空になっていた。食はどちらかといえば細い方だが、今日はいくらでも食べられそうな気がする。
「おかわりしましょう」と、さわがチーズのキッシュを取り分けてくれた。まだ暖かい。今度は食べやすい温度になっている。その分、チーズが蕩けて伸びたりしないが、これはこれで美味しい。濃厚なチーズの旨味と、タルト生地の香ばしさが相まって、一口食べる毎に口から幸せが広がる。
二人で半量をたいらげた頃、ミケ・アンジェロが次の料理を運んで来てくれた。
『お気に召してもらえましたか?』
「おばあちゃんの味、そのものでビックリしました」
『それは、打ち合わせで細かく宮代様から伝授して頂いたおかげなのです。さっさ、次はビーフロールですよ。こちらもお熱いのでお気をつけて召し上がれ』
今度はトマトソースの煮込まれた香りが漂う。さっき三種のチーズのキッシュを食べたばかりなのに、今にも腹の虫が鳴き出しそうなほど食欲を誘う見た目と香りだった。
綺麗な皿に盛り付けられて、昔食べていた時よりも豪華に感じる。これは祖母の家で食べる定番の料理だった。少ない材料で簡単に作れるから、さわも好んで作っていた。子供の頃はフォークを突き刺して豪快に齧り付いていたが、今日はちゃんとナイフとフォークが用意されている。紬にとっては特別感のない料理なだけに、お行儀よく食べるのは気が引ける。それでもせっかく落ち着いた雰囲気のおしゃれなカフェで食べるから、ちゃんと一口サイズに切って口に運ぶ。
「わぁ、懐かしい味」
そんな言葉が飛び出すような、本当に慣れ親しんだ味が口いっぱいに広がる。きのこや玉ねぎ、ベーコンを牛肉で包み、トマトベースのソースで煮込む。牛肉の脂と中の具の旨みがソースに染み込み、味に深みが増している。そしてトマトの酸味が後味をスッキリさせてくれのだった。
「これが一番好きだった」
「私もね、今日は絶対このメニューは外せないと思っていたのよ。これが一番よく作ったものね」
さわからしても、やはりこれが一番思い出深いといった感じがした。紬の両親は共働きで、帰りが遅くなる日には、兄と連れ立って祖父母の家でご飯を食べさせてもらっていた。母がそれほど料理が得意ではないこともあり、イベントの日には家族揃ってさわのご飯を食べに行っていたものだ。
その中でも紬はビーフロールをリクエストすることが多かった。どうしても食べたかった味をまた堪能できて、今日ここへ来て良かったと心から思った。
さわとの会話は途切れることはない。それはさわがお喋りだから……というのもあるが、ほんの僅かな時間も無駄にはしたくないという、二人の心の表れなのかもしれない。学校のこと、進路のこと、紬はさわに相談したかったことを沢山聞いてもらった。
何かやりたいと思っても、どうせ自分よりも凄い人が沢山いる。そう思っただけで、頑張るよりも諦めることを受け入れてしまう。さわとは正反対の性格を、自分自身で直したいと思っていた。どうすれば、さわのように意欲的に取り組めるのかを、もっと聞きたいと思っていた矢先の訃報だったのだ。
「おばあちゃんは、若い頃から何事も努力出来る人だったんでしょう? 私もそんなふうになりたい」
自分に自信が持てない。それが自己アピールが苦手なことにも繋がっている。これは受験でカナリ不利だと分かっている。それでも簡単に性格を変えられるなら、こんなに悩んだりしない。まだ高校二年生だというのに、学校ではもう進路希望書を提出しなければならない。紬は自分がどんな道に進むべきなのかを決めかねていた。大学へ行くにも、勉強したいことが具体的に決まっていないから選択のしようがない。
「おばあちゃんは、結婚する前は看護婦さんだったんだよね?」
「そうね。バリバリ働いていたわ。結婚して、専業主婦になったことを随分と長い間悔やんでいたわ。仕事が好きだったからね」
「おじいちゃんは何故仕事を辞めろって言ったの?」
「時代がそうさせたのかもしれないわ。私が結婚した頃は、女の幸せは専業主婦とされていたから。でもね、私は本当は働きたかったのよ。料理だって、結婚してから作り始めたんだから。何もかも、直ぐに出来るようになったんじゃないのよ」
「そうだったんだ。若い頃から料理が好きだったのかと思ってた」
だって、さわの料理はプロが作ったみたいに美味しい。しかし紬の年頃には、親の手伝いで台所に立つのも嫌で、逃げ回っていたと笑いながら言っている。
「大人になれば何でも出来るようになるわけじゃないのよ? でも、必要に迫られて改めて向き合ってみると、実は想像していたよりも楽しかったとか、もっとやってみたいとか思うことがある。私の趣味は大体が大人になってから始めたものばかりよ」
「じゃあ、まだ子供の私はどんなふうに自分の未来を決めればいいの?」
「五年後の自分なんて、誰も想像できないし、その頃何に興味を持っているかなんて分からないじゃない? だから、今の紬ちゃんが一番興味のあることを書けばいいんじゃないの? 例えば何かある?」
「おばあちゃんが死んじゃって、こんな風におばあちゃんの料理を再現できたらいいのにって思ってた。でも私もお母さんと一緒で料理が苦手だから、これは書けない」
「そんなことないわよ。今はできなくても、今から始めればいいじゃない。やりたいことを始めるのに、遅すぎるなんてことはないのよ。人生で今日が一番若いんだから、今日から始めればそれだけ向き合える時間が確保できるというものよ。だって、今日から紬ちゃんがお料理を始めれば、私が始めたよりも八年くらいは早く始めることになるんだから」
「そうなのかな……じゃあ、進路希望書にもそう書いていいのかな」
「書くのは自由よ。それを否定するような先生じゃないことを祈るわ」
「やっぱり、おばあちゃんに相談できて良かった。ありがとう。私の相談ばっかりでごめんね」
さわはもっと聞きたいわと笑ってくれている。紬はここに来てから肩の荷が降りたように楽になった。
残りのビーフロールを、思い切り大きな口を開けて食べた。子供の頃と同じように。そうしたら、さっきよりももっと美味しく感じた。



