「紬ちゃん……」
「おばあちゃん……おばあちゃん……」
本当に、本物のさわが立っている。顔も声も、服装も髪型も目尻のシミも立ち姿も何もかも、さわそのものである。
着ているニットは、生前、さわが自分で編んだお気に入りのものだ。
紬はその場にへたり込んでしまった。亡くなった人に会えるはずはない。本来なら、それが常識だ。しかし、目の前にいるこの女性は、写真でも映像でもない、幽霊とも思えない、生きているさわなのだ。
「本当におばあちゃん?」
震える声で尋ねると、さわは微笑んで頷いた。
どうしてこんなことが出来てしまうのか、ミケ・アンジェロに尋ねてみたいが、それを説明されたところできっと紬には全てを理解するのは無理だろうと思われた。それは紬だけではなく、これまでの人もそうだったのだろう。だからミケ・アンジェロは、多くを語らなくなったと話していたのだ。
ミケ・アンジェロは、亡くなった人に会うことができて、一時的に具現化できるのかもしれない。そういう力を与えられた、神に仕える類の、猫の姿をした生き物なのだと無理矢理想像を膨らませ、自分を納得させなければさわと同じ空間にいるこの時間が嘘になってしまう。しかし紛れもなくさわはここにいる。へたり込んだ紬へと、やおら歩き始めたその人は、ずっと紬が会いたいと願っていた祖母だ。現状を嘘にしてしまうのか、現実と捉えるのかは、最早、紬次第なのではないかと思われた。
さわは紬の隣に添うようにしゃがむと、背中を優しく撫でてくれた。
触れた手は、華奢な見た目に反して使い込まれてごつごつしている、働き者の手だった。
(あぁ、本当におばあちゃんだ)
紬は無意識にさわの腕を掴んだ。言いたいことは山のようにあったハズなのに、何一つ口から出てこない。しばらくの間さわも喋らず、紬の涙が止まるのを待っているかのように手を握り、反対の手で背中を撫でてくれるのだった。
『さぁさ、紬様。貴重な時間です。泣くのをやめて、最期の晩餐を始めましょう』
ミケ・アンジェロの一声で顔を上げた紬は、ようやく気持ちを落ち着かせることが出来た。そうだった、この晩餐は時間が限られているのだと思い出す。
「紬ちゃん、おばあちゃんと一緒にご飯を食べてくれる?」
「うん、勿論だよ」
「さぁ、こっちへ……」
さわに誘導され席に着くと、「いきなりで驚いたわよね」と肩を竦める。
『本日は、最期の晩餐カフェにお越しくださり、誠にありがとうございます。本日は宮代さわ様からのご依頼で、このような場を設けさせて頂きました。短い時間ではございますが、お二人の大切な時間をサポートできるよう、尽力致します』
ミケ・アンジェロは深々とお辞儀をすると、一度裏手の方へ引っ込む。程なくしてお茶とオレンジジュースを運んでくると、猫の手で器用にテーブルに置いた。
紬は今度はミケ・アンジェロに興味深々で、肉球が吸盤のように働くのかとおもむろに手元を眺めた。
ふとミケ・アンジェロと目が合うと、ニヤリと笑った気がして「ひっ」と小さく叫んだ。
『すぐにお料理を提供させて頂きますね』と言い残し、再び先の折れた尻尾をゆらゆらさせながらテーブルから離れていく。ミケ・アンジェロは至ってリラックスしているといった感じだ。
紬も初めよりは随分と力が抜け、普通に呼吸ができるようになっていた。それはこの場に慣れたのあるだろうが、温かい木の温もりを感じる店内と、オレンジ色のライトがそうさせているのかもしれないと思った。
「紬ちゃん、乾杯しまさしょう。積もる話はそれからね」
「毎日おばあちゃんに会いたいって思っていたけど、本当に会えるなんて思わないから、呼んでくれて嬉しいよ」
「それは良かったわ。おばけになんて会いたくないって思われたらどうしましょうって、アンジェロさんに相談もしたのよ。そしたらね、きっと紬様は来てくれますよって言ってくれたから、思い切ってお願いしたの。私もね、流石にこんなに早く死んじゃうとは思ってなくて。まぁでも、後悔はないのよ。やっとおじいさんがこっちに来ていいよって言ってくれたのかなって。そりゃ、生きてりゃもっとやりたいことは沢山あったけど……」
さわの口ぶりは生前のままで、紬はなんだか安心した。しょっちゅう近所の友達が家に来ては一日中喋っていた。何故そんなにも話すことがあるのかと思うくらい、さわのお喋りは止まらない。
そして、さわも本当は緊張していたという事実が、紬は少し嬉しかった。
「おばあちゃんは、今、おばけなの? ちっとも怖くないおばけだね」
「そうかしら。一応ね、ほら、死んじゃったからそうなんだろうけど、紬ちゃんに触れられるし、透けてもないし、足もちゃんと地についてる。このお茶だって美味しいわ。だから実質おばけってことなのかしらね」
自分の手を目の前に翳しながらあっけらかんと笑うさわに、紬も思わず笑ってしまった。
「じゃあ、再会に乾杯だね」
「紬ちゃんとの再会に乾杯」
グラスと湯呑みを軽く合わせると、なんだかくすぐったくて同時に吹き出す。
「良かったわ、笑ってくれて。ずっと泣いてばかりいたでしょう?」
「———見てたんだ」
「そりゃ、気になるもの。元々大人しい子だったけど、そんなに泣いたりもしなかったじゃない。なのに、お葬式が終わっても泣いてばかり。そろそろ笑って欲しいと思っていたのよ。学校でも暗い顔をしていたでしょう? でも泣いてる原因が自分ともなれば、居ても立ってもいられなくて。それでこのカフェを利用したってわけ」
学校で暗い顔をしていたのは無自覚だったと反省した。クラスのみんなは紬の祖母が他界したと知っているし、何も言わないでいてくれたのはクラスメイトなりの優しさなのか。
「今日はね、紬ちゃんの大好きだったメニューを頼んでおいたのよ。それを食べれば、きっと笑ってくれると思ってね」
「食べたい! おばあちゃんのご飯がまた食べたいって思ってた。そのタイミングで手紙が届いて……」
『さっさ、ではまずは三種のチーズのキッシュを召し上がれ』
会話のキリの良いタイミングで、ミケ・アンジェロが一つ目の料理を運んできてくれた。
祖母の得意料理の一つで、紬の誕生日や、クリスマスなどのイベントの日によく作ってくれていた。
運ばれてくる前からチーズの濃厚な香りが漂ってきていたのには気づいていたが、目の前に出されると、ぐぅぅぅ……と誤魔化しきれない大きな腹の虫が鳴いた。
表面はほんのり焼き色がついていて、チーズがぷつぷつと呼吸をしているように気泡を作ってはパチンと弾ける。湯気がふわりと紬の鼻を掠めると、もう一度腹の虫が鳴いた。
今日は特に、日直で帰宅する時間が遅くなってしまったのを思い出す。もっとのんびり向かう予定は一変し、猛スピードで自転車を走らせたのだ。ここ最近を振り返っても、今日が一番激しい運動をしたように思う。それだから、余計にお腹が空いていたのだ。
「恥ずかしい。今日に限って……」
『お腹を空かせて来てくださるなんて、光栄です。さっさ、遠慮せず、お腹いっぱい召し上がれ』
ミケ・アンジェロがキッシュにナイフを通し、一人分ずつ取り分けて紬とさわの前に差し出した。
「紬ちゃん、頂きましょう」
二人で手を合わせ、頂きますという声が重なった。
「おばあちゃん……おばあちゃん……」
本当に、本物のさわが立っている。顔も声も、服装も髪型も目尻のシミも立ち姿も何もかも、さわそのものである。
着ているニットは、生前、さわが自分で編んだお気に入りのものだ。
紬はその場にへたり込んでしまった。亡くなった人に会えるはずはない。本来なら、それが常識だ。しかし、目の前にいるこの女性は、写真でも映像でもない、幽霊とも思えない、生きているさわなのだ。
「本当におばあちゃん?」
震える声で尋ねると、さわは微笑んで頷いた。
どうしてこんなことが出来てしまうのか、ミケ・アンジェロに尋ねてみたいが、それを説明されたところできっと紬には全てを理解するのは無理だろうと思われた。それは紬だけではなく、これまでの人もそうだったのだろう。だからミケ・アンジェロは、多くを語らなくなったと話していたのだ。
ミケ・アンジェロは、亡くなった人に会うことができて、一時的に具現化できるのかもしれない。そういう力を与えられた、神に仕える類の、猫の姿をした生き物なのだと無理矢理想像を膨らませ、自分を納得させなければさわと同じ空間にいるこの時間が嘘になってしまう。しかし紛れもなくさわはここにいる。へたり込んだ紬へと、やおら歩き始めたその人は、ずっと紬が会いたいと願っていた祖母だ。現状を嘘にしてしまうのか、現実と捉えるのかは、最早、紬次第なのではないかと思われた。
さわは紬の隣に添うようにしゃがむと、背中を優しく撫でてくれた。
触れた手は、華奢な見た目に反して使い込まれてごつごつしている、働き者の手だった。
(あぁ、本当におばあちゃんだ)
紬は無意識にさわの腕を掴んだ。言いたいことは山のようにあったハズなのに、何一つ口から出てこない。しばらくの間さわも喋らず、紬の涙が止まるのを待っているかのように手を握り、反対の手で背中を撫でてくれるのだった。
『さぁさ、紬様。貴重な時間です。泣くのをやめて、最期の晩餐を始めましょう』
ミケ・アンジェロの一声で顔を上げた紬は、ようやく気持ちを落ち着かせることが出来た。そうだった、この晩餐は時間が限られているのだと思い出す。
「紬ちゃん、おばあちゃんと一緒にご飯を食べてくれる?」
「うん、勿論だよ」
「さぁ、こっちへ……」
さわに誘導され席に着くと、「いきなりで驚いたわよね」と肩を竦める。
『本日は、最期の晩餐カフェにお越しくださり、誠にありがとうございます。本日は宮代さわ様からのご依頼で、このような場を設けさせて頂きました。短い時間ではございますが、お二人の大切な時間をサポートできるよう、尽力致します』
ミケ・アンジェロは深々とお辞儀をすると、一度裏手の方へ引っ込む。程なくしてお茶とオレンジジュースを運んでくると、猫の手で器用にテーブルに置いた。
紬は今度はミケ・アンジェロに興味深々で、肉球が吸盤のように働くのかとおもむろに手元を眺めた。
ふとミケ・アンジェロと目が合うと、ニヤリと笑った気がして「ひっ」と小さく叫んだ。
『すぐにお料理を提供させて頂きますね』と言い残し、再び先の折れた尻尾をゆらゆらさせながらテーブルから離れていく。ミケ・アンジェロは至ってリラックスしているといった感じだ。
紬も初めよりは随分と力が抜け、普通に呼吸ができるようになっていた。それはこの場に慣れたのあるだろうが、温かい木の温もりを感じる店内と、オレンジ色のライトがそうさせているのかもしれないと思った。
「紬ちゃん、乾杯しまさしょう。積もる話はそれからね」
「毎日おばあちゃんに会いたいって思っていたけど、本当に会えるなんて思わないから、呼んでくれて嬉しいよ」
「それは良かったわ。おばけになんて会いたくないって思われたらどうしましょうって、アンジェロさんに相談もしたのよ。そしたらね、きっと紬様は来てくれますよって言ってくれたから、思い切ってお願いしたの。私もね、流石にこんなに早く死んじゃうとは思ってなくて。まぁでも、後悔はないのよ。やっとおじいさんがこっちに来ていいよって言ってくれたのかなって。そりゃ、生きてりゃもっとやりたいことは沢山あったけど……」
さわの口ぶりは生前のままで、紬はなんだか安心した。しょっちゅう近所の友達が家に来ては一日中喋っていた。何故そんなにも話すことがあるのかと思うくらい、さわのお喋りは止まらない。
そして、さわも本当は緊張していたという事実が、紬は少し嬉しかった。
「おばあちゃんは、今、おばけなの? ちっとも怖くないおばけだね」
「そうかしら。一応ね、ほら、死んじゃったからそうなんだろうけど、紬ちゃんに触れられるし、透けてもないし、足もちゃんと地についてる。このお茶だって美味しいわ。だから実質おばけってことなのかしらね」
自分の手を目の前に翳しながらあっけらかんと笑うさわに、紬も思わず笑ってしまった。
「じゃあ、再会に乾杯だね」
「紬ちゃんとの再会に乾杯」
グラスと湯呑みを軽く合わせると、なんだかくすぐったくて同時に吹き出す。
「良かったわ、笑ってくれて。ずっと泣いてばかりいたでしょう?」
「———見てたんだ」
「そりゃ、気になるもの。元々大人しい子だったけど、そんなに泣いたりもしなかったじゃない。なのに、お葬式が終わっても泣いてばかり。そろそろ笑って欲しいと思っていたのよ。学校でも暗い顔をしていたでしょう? でも泣いてる原因が自分ともなれば、居ても立ってもいられなくて。それでこのカフェを利用したってわけ」
学校で暗い顔をしていたのは無自覚だったと反省した。クラスのみんなは紬の祖母が他界したと知っているし、何も言わないでいてくれたのはクラスメイトなりの優しさなのか。
「今日はね、紬ちゃんの大好きだったメニューを頼んでおいたのよ。それを食べれば、きっと笑ってくれると思ってね」
「食べたい! おばあちゃんのご飯がまた食べたいって思ってた。そのタイミングで手紙が届いて……」
『さっさ、ではまずは三種のチーズのキッシュを召し上がれ』
会話のキリの良いタイミングで、ミケ・アンジェロが一つ目の料理を運んできてくれた。
祖母の得意料理の一つで、紬の誕生日や、クリスマスなどのイベントの日によく作ってくれていた。
運ばれてくる前からチーズの濃厚な香りが漂ってきていたのには気づいていたが、目の前に出されると、ぐぅぅぅ……と誤魔化しきれない大きな腹の虫が鳴いた。
表面はほんのり焼き色がついていて、チーズがぷつぷつと呼吸をしているように気泡を作ってはパチンと弾ける。湯気がふわりと紬の鼻を掠めると、もう一度腹の虫が鳴いた。
今日は特に、日直で帰宅する時間が遅くなってしまったのを思い出す。もっとのんびり向かう予定は一変し、猛スピードで自転車を走らせたのだ。ここ最近を振り返っても、今日が一番激しい運動をしたように思う。それだから、余計にお腹が空いていたのだ。
「恥ずかしい。今日に限って……」
『お腹を空かせて来てくださるなんて、光栄です。さっさ、遠慮せず、お腹いっぱい召し上がれ』
ミケ・アンジェロがキッシュにナイフを通し、一人分ずつ取り分けて紬とさわの前に差し出した。
「紬ちゃん、頂きましょう」
二人で手を合わせ、頂きますという声が重なった。



