当日は、朝からドキドキと落ち着かない時間を過ごす。
この三日間のうちに、指定された教会へ行くと決心していた。けれども、祖母のさわに会えると信じたわけではない。会えるというのは、せいぜい写真や映像の類だろう。本物に会えると思うほど馬鹿ではないと、頭の中で差出人に向けて言い放つ。とは言え、結末は誰にも予想できない。これが誰かのイタズラだったなら、きっと紬は差出人を許せない。許せないから、こんなことをしたのが誰なのか、この目で確かめたかった。
高校から帰ると大急ぎで着替え、自転車を立ち漕ぎで走らせ始めた。今日に限って日直なんて、ついていない。別に制服のままでも良かったのだが、何となく、お気に入りのワンピースを着たかった。それは戦闘服のような感覚に近いのかもしれない。小花柄の膝丈ワンピースは、ウエストに細いリボンが付いている。それを前で結ばず、腰に回してリボン結びにするのが紬のこだわりだ。薄手のニットカーディガンを羽織り、指定の教会へと急ぐ。
とてもワンピースを着ている人が漕ぐスピードではない。しかし、教会に時間通りに着くには仕方がなかった。ようやく過ごしやすくなった秋の夕暮れ時、紬は額に汗を滲ませて必死にペダルを漕いだ。
時間に遅れて、さわのご飯が食べられないよりも、差出人に逃げられては手紙の謎が解決しない。それが一番気がかりだった。相手のことは知らないが、向こうは紬のことを知っているのは間違いない。何故わざわざこんなにも手の込んだことをしなければならなかったのか、それを本人から説明してもらわないと納得がいかない。だから、なんとしてでも十七時に行かなければならない。
「はぁ……はぁ……あと少し……」
少し先に教会が見える。そこはいつだって木が鬱蒼と生い茂り、離れた場所からでも良く分かる。
本当にこの手紙に書かれていることが起こるのだろうか。不安が七割を占める中、三割ほどの期待も捨てきれないでいる。
徐々にスピードを落としながら、教会の手前からはペダルを漕いだ余韻だけで滑った。
いつもは通り過ぎるだけで、じっくりと見たことがなかったと思う。敷地の外側から教会の中を見渡すと、ここだけ世界が違って見える気がした。
印象よりも古びている。ドアはしっかりと閉じられていて、人の気配も感じられない。
本当にここで良いのか……。
自転車を塀に沿って止めると、息切れを整えながら、恐る恐る足を踏み入れた。
「……こんにちは」
囁くほどの声を出しても、虚しく流れて消えていく。
紬はカサカサと乾いた音が鳴る落ち葉を踏みながら、もう一歩敷地の中へと進む。やはり誰かの悪ふざけだったのか、教会のドアは一向に開く様子はない。
スマートフォンで時間を確認すると、十七時まであと三分ある。
ドアの前からぐるりと見渡す。建物の周りには、本当に木以外何も見当たらない。
「ん?」とその時、木々に紛れて小さな看板が立てらているのに気が付いた。そこには確かに『最期の晩餐カフェ』と書かれている。
そして、教会の裏に向かっている矢印に沿って再び歩き始める。
教会の敷地は見た目以上に広そうだ。建物がこじんまりとしていて分からなかったが、奥は空き地のようになっているのか。
「あ、あれ……?」
一際大きな木の根本に、そこに一体化するように埋め込まれた小さな建物を見つけた。
小人が住んでいそうな、店というよりもかわいい小屋という雰囲気だ。そして、そのドアの前に三毛猫の置き物がある。ピシッと二本足で立っていて、白いシャツに三つボタンのベスト。グリーンのギャルソンエプロンにスラックス……今にも動き出しそうなほどリアルなのに、微動だにせず紬をじっと見つめるように立っていた。
「手紙の猫ちゃんだ。看板猫なのかな?」
ほんの少しだけ気が緩んだその時、突然、その猫の置き物が深々とお辞儀をしたのだ。
『お待ちしておりました。佐久間紬様ですね?』
「———っ!!?」
『おや? 今日、この時間に来店されるのは、宮代さわ様からのご依頼で招待させて頂いた、佐久間紬様のはずなのですが……』
「———ね……猫が……喋った……」
置き物だと思っていた猫が喋った。ハキハキと流暢な日本語で。声こそ少しノイズの入った感じはするが、それでもその辺の人よりも綺麗な発音で聞き取りやすい。
まさか、この猫が差出人? ならぬ、差出猫?
だいたい、喋る前から猫が服を着て二本足で立っているなんて、そこからして既におかしい。
何一つ理解が追いつかず、口をぱくぱくさせながら震える手で指差す。
頭はフル回転で動いているのに、言葉は何も出てこない。
するとこの猫は、何か閃いたように目を丸くし、瞳孔を動かした。
『そういえば自己紹介がまだでした。私、この“最期の晩餐カフェ”のオーナー。三毛猫のミケ・アンジェロと申します』
「———れ、レオナルド……じゃ、ないんですね……」
『———あんなヤツ、眼中にありません』
ミケ・アンジェロはあからさまに顔を顰めた。
(同業者なのかのかな……)
まだ緊張は解れないものの、ほんの少しだけ力が抜けた。
ミケ・アンジェロは自分のベストを正し、気を取り直すと、再び柔らかい表情を取り戻し「立ち話もなんですから、中へどうぞ」と言ってドアノブに手をかけた。
中から柔らかいオレンジ系のライトの光が漏れる。ドアの隙間から壁に飾られたスワッグや、壁に沿って置かれた観葉植物が見えた。“隠れ家”というのがピッタリだと紬は思った。この中に祖母のさわがいるのだろうか。店の感想など声に出してもいないのに、ミケ・アンジェロは『自慢の店です』と言いながら紬を中へと促した。
紬はミケ・アンジェロを凝視している。猫が喋るとは、もう紬が認めるしかない。信じがたいが猫は喋ると証明されてしまった。
それよりも気になることを発見してしまう。紬に背中を向けたミケ・アンジェロの尻尾の先が曲がっていたのだ。これは飼い猫のマロンと同じである。交通事故にあった時、マロンは尻尾が歪んでしまった。鍵のように九十度近く曲がっている。目の前でゆらゆらと揺れている尻尾に釘付けになっていると、ミケ・アンジェロが振り返る。
『佐久間様? 時間に限りがありますので、少しでもお話をされた方が有意義ですよ』
「は、はい……」
そういえば、十九時までと時間が決められていたのだ。紬は若干投げやりに、どうにでもなれ! という感じで一歩店内へと進む。
ミケ・アンジェロがなんとなく笑ったように感じた。それがどういう意味での笑みなのかは測れない。やっと体の過緊張が解れたばかりの紬は、また肩を竦めた。
「あ、あの……聞いても良いですか?」
『なんでしょう?』
「ここに入ると、もう生きて戻れないなんてことはないですよね?」
失礼だとは思いつつ、いくら祖母が好きだからと言って、一緒に天国へ行きたいわけではない。ミケ・アンジェロが悪い猫には見えない。この猫目が嘘を言っているようには感じない。
それでも、自分を守ろうとするあまり、嫌な質問が口から飛び出してしまった……にもかかわらず、ミケ・アンジェロは嫌な顔一つせず『ご安心ください』と会釈した。
『私は死神ではありません。三毛猫です。他人の命を奪うような力は持っていません』
「そっ、そうですよね。ごめんなさい」
『色々と説明するより会うのが一番手っ取り早いと、ある時気づきました。今は、このスタイルに落ちついてます』
ミケ・アンジェロがそういうと、確かにそのように思えてくるから不思議なのだ。妙に説得力のある猫に促され、勇気を出して進めた一歩。その後は自然と店の奥へと進められた。
『宮代様と紬様しかおりませんので、思う存分お話ししてください。お料理は直ぐにお持ちします』
ミケ・アンジェロが手で合図したその席に、大好きなその人の姿があった。
紬を見ると立ち上がり、優しい口調で名前を呼んでくれた。
「おばあちゃん……」
胸が熱くなる。泣きたくないのに勝手に涙は溢れてきて、視界を曇らせるのだった。
この三日間のうちに、指定された教会へ行くと決心していた。けれども、祖母のさわに会えると信じたわけではない。会えるというのは、せいぜい写真や映像の類だろう。本物に会えると思うほど馬鹿ではないと、頭の中で差出人に向けて言い放つ。とは言え、結末は誰にも予想できない。これが誰かのイタズラだったなら、きっと紬は差出人を許せない。許せないから、こんなことをしたのが誰なのか、この目で確かめたかった。
高校から帰ると大急ぎで着替え、自転車を立ち漕ぎで走らせ始めた。今日に限って日直なんて、ついていない。別に制服のままでも良かったのだが、何となく、お気に入りのワンピースを着たかった。それは戦闘服のような感覚に近いのかもしれない。小花柄の膝丈ワンピースは、ウエストに細いリボンが付いている。それを前で結ばず、腰に回してリボン結びにするのが紬のこだわりだ。薄手のニットカーディガンを羽織り、指定の教会へと急ぐ。
とてもワンピースを着ている人が漕ぐスピードではない。しかし、教会に時間通りに着くには仕方がなかった。ようやく過ごしやすくなった秋の夕暮れ時、紬は額に汗を滲ませて必死にペダルを漕いだ。
時間に遅れて、さわのご飯が食べられないよりも、差出人に逃げられては手紙の謎が解決しない。それが一番気がかりだった。相手のことは知らないが、向こうは紬のことを知っているのは間違いない。何故わざわざこんなにも手の込んだことをしなければならなかったのか、それを本人から説明してもらわないと納得がいかない。だから、なんとしてでも十七時に行かなければならない。
「はぁ……はぁ……あと少し……」
少し先に教会が見える。そこはいつだって木が鬱蒼と生い茂り、離れた場所からでも良く分かる。
本当にこの手紙に書かれていることが起こるのだろうか。不安が七割を占める中、三割ほどの期待も捨てきれないでいる。
徐々にスピードを落としながら、教会の手前からはペダルを漕いだ余韻だけで滑った。
いつもは通り過ぎるだけで、じっくりと見たことがなかったと思う。敷地の外側から教会の中を見渡すと、ここだけ世界が違って見える気がした。
印象よりも古びている。ドアはしっかりと閉じられていて、人の気配も感じられない。
本当にここで良いのか……。
自転車を塀に沿って止めると、息切れを整えながら、恐る恐る足を踏み入れた。
「……こんにちは」
囁くほどの声を出しても、虚しく流れて消えていく。
紬はカサカサと乾いた音が鳴る落ち葉を踏みながら、もう一歩敷地の中へと進む。やはり誰かの悪ふざけだったのか、教会のドアは一向に開く様子はない。
スマートフォンで時間を確認すると、十七時まであと三分ある。
ドアの前からぐるりと見渡す。建物の周りには、本当に木以外何も見当たらない。
「ん?」とその時、木々に紛れて小さな看板が立てらているのに気が付いた。そこには確かに『最期の晩餐カフェ』と書かれている。
そして、教会の裏に向かっている矢印に沿って再び歩き始める。
教会の敷地は見た目以上に広そうだ。建物がこじんまりとしていて分からなかったが、奥は空き地のようになっているのか。
「あ、あれ……?」
一際大きな木の根本に、そこに一体化するように埋め込まれた小さな建物を見つけた。
小人が住んでいそうな、店というよりもかわいい小屋という雰囲気だ。そして、そのドアの前に三毛猫の置き物がある。ピシッと二本足で立っていて、白いシャツに三つボタンのベスト。グリーンのギャルソンエプロンにスラックス……今にも動き出しそうなほどリアルなのに、微動だにせず紬をじっと見つめるように立っていた。
「手紙の猫ちゃんだ。看板猫なのかな?」
ほんの少しだけ気が緩んだその時、突然、その猫の置き物が深々とお辞儀をしたのだ。
『お待ちしておりました。佐久間紬様ですね?』
「———っ!!?」
『おや? 今日、この時間に来店されるのは、宮代さわ様からのご依頼で招待させて頂いた、佐久間紬様のはずなのですが……』
「———ね……猫が……喋った……」
置き物だと思っていた猫が喋った。ハキハキと流暢な日本語で。声こそ少しノイズの入った感じはするが、それでもその辺の人よりも綺麗な発音で聞き取りやすい。
まさか、この猫が差出人? ならぬ、差出猫?
だいたい、喋る前から猫が服を着て二本足で立っているなんて、そこからして既におかしい。
何一つ理解が追いつかず、口をぱくぱくさせながら震える手で指差す。
頭はフル回転で動いているのに、言葉は何も出てこない。
するとこの猫は、何か閃いたように目を丸くし、瞳孔を動かした。
『そういえば自己紹介がまだでした。私、この“最期の晩餐カフェ”のオーナー。三毛猫のミケ・アンジェロと申します』
「———れ、レオナルド……じゃ、ないんですね……」
『———あんなヤツ、眼中にありません』
ミケ・アンジェロはあからさまに顔を顰めた。
(同業者なのかのかな……)
まだ緊張は解れないものの、ほんの少しだけ力が抜けた。
ミケ・アンジェロは自分のベストを正し、気を取り直すと、再び柔らかい表情を取り戻し「立ち話もなんですから、中へどうぞ」と言ってドアノブに手をかけた。
中から柔らかいオレンジ系のライトの光が漏れる。ドアの隙間から壁に飾られたスワッグや、壁に沿って置かれた観葉植物が見えた。“隠れ家”というのがピッタリだと紬は思った。この中に祖母のさわがいるのだろうか。店の感想など声に出してもいないのに、ミケ・アンジェロは『自慢の店です』と言いながら紬を中へと促した。
紬はミケ・アンジェロを凝視している。猫が喋るとは、もう紬が認めるしかない。信じがたいが猫は喋ると証明されてしまった。
それよりも気になることを発見してしまう。紬に背中を向けたミケ・アンジェロの尻尾の先が曲がっていたのだ。これは飼い猫のマロンと同じである。交通事故にあった時、マロンは尻尾が歪んでしまった。鍵のように九十度近く曲がっている。目の前でゆらゆらと揺れている尻尾に釘付けになっていると、ミケ・アンジェロが振り返る。
『佐久間様? 時間に限りがありますので、少しでもお話をされた方が有意義ですよ』
「は、はい……」
そういえば、十九時までと時間が決められていたのだ。紬は若干投げやりに、どうにでもなれ! という感じで一歩店内へと進む。
ミケ・アンジェロがなんとなく笑ったように感じた。それがどういう意味での笑みなのかは測れない。やっと体の過緊張が解れたばかりの紬は、また肩を竦めた。
「あ、あの……聞いても良いですか?」
『なんでしょう?』
「ここに入ると、もう生きて戻れないなんてことはないですよね?」
失礼だとは思いつつ、いくら祖母が好きだからと言って、一緒に天国へ行きたいわけではない。ミケ・アンジェロが悪い猫には見えない。この猫目が嘘を言っているようには感じない。
それでも、自分を守ろうとするあまり、嫌な質問が口から飛び出してしまった……にもかかわらず、ミケ・アンジェロは嫌な顔一つせず『ご安心ください』と会釈した。
『私は死神ではありません。三毛猫です。他人の命を奪うような力は持っていません』
「そっ、そうですよね。ごめんなさい」
『色々と説明するより会うのが一番手っ取り早いと、ある時気づきました。今は、このスタイルに落ちついてます』
ミケ・アンジェロがそういうと、確かにそのように思えてくるから不思議なのだ。妙に説得力のある猫に促され、勇気を出して進めた一歩。その後は自然と店の奥へと進められた。
『宮代様と紬様しかおりませんので、思う存分お話ししてください。お料理は直ぐにお持ちします』
ミケ・アンジェロが手で合図したその席に、大好きなその人の姿があった。
紬を見ると立ち上がり、優しい口調で名前を呼んでくれた。
「おばあちゃん……」
胸が熱くなる。泣きたくないのに勝手に涙は溢れてきて、視界を曇らせるのだった。



