心臓はあの日からずっとうるさかった。
うわの空になっている自覚はじゅうぶんすぎるくらいある。
「最後って、それってつまり」
多分だけど、橋爪はそんな事意識していない。ただオレを想って出ただけの、それだけの言葉。そのはずなのにオレ自身がその先を意識しているみたいで、一人で勝手に浮かれてその先を考えてしまっただけだ。
だめだと、そうじゃないともちろんわかっている。
あの時みたいに勘違いをしてはだめだと、自分に言い聞かせて靴を履き替えた。
「橋爪の奴、今日はこないのか……?」
いつもなら鐘が鳴ってそこそこに教室まできていた橋爪の姿を、最後まで見なかった。委員会に入っているとかも聞いた事がないからまたどうせクラスの奴に捕まったのかもしれないと考えると、わかりやすいくらい胸の奥がざわつく。この感情の名前も知っているはずなのに、知らないふりをした。
「……先帰るか」
約束はしていない、ただあいつがくるだけで。それで今日は、たまたまこないだけ。
他でもない自分自身に言い聞かせながらシューズボックスで靴を履き替えると、早足に校門の外へ出てしまう。最早逃げているみたいだ。あいつから、橋爪から。
このうるさい心臓の音にも気づかないふりをして、コンビニには目もくれず前へ進んでいく。
「帰ってなにやろう……」
思えば最近あいつと放課後も一緒だった。
なにをするでもなく教室やフードコートにいたから、正しく言うとあいつが着いてきたからまだ普段なら帰る時間ではない。駅前で適当に飲み物でも買おうかと考えた時だ。駅の手前にある道路の真ん中で、その声が聞こえたのは。
「あれ、彷徨じゃん」
「――え?」
耳元が、ザラりとした感覚だった。
その声は聞きたくない、もう二度と聞かないと思っていたもので、息をするのすら忘れてしまう。指先まで冷たくなる感覚に怯えを隠すと、そいつは楽しそうに目を細めながらゆっくりと近づいてくる。
「やっぱり彷徨じゃん、全然見ないからどこ行ったかと思ったけど隣の学校だったんだな」
「あ、伍……」
隣の高校の制服に身を包んだそいつは、オレが知っている黒髪の姿とは違い明るい色に髪を染めていた。似合わない髪のセットをして、少し小麦に焼けた肌がボタンを開けたシャツから覗いている。あの時と、高校の時とは少し違う。けど確かにそいつはオレの知っている男だった。
「後ろ姿見てもしかしてって思ったんだよな」
「ぐ、偶然だな、伍がうちの高校の方くるなんて」
川野辺伍は中学時代のクラスメイトだ。
それだけの、その程度の関係ならどれだけよかったか。
記憶の底に隠していた重い蓋がゆっくりと開くようだ。逃げるように一歩下がると、それに気づいたのか気づいていないのか伍が手を伸ばしてくる。
「なぁ彷徨、せっかくだしこの後さ」
「かなたセンパイはだめです」
凛としたテノールの声が遮る。
今一番求めていた。一番ほしいと思ってしまった声だ。
一つ年下のくせに大きい図体がオレを背中に隠して、伸びていた伍の手を掴んでいた。
詰めは甘いしチョロいしヘタレのくせに、こういう時は悔しいくらいヒーローだ。
「こんにちは、かなたセンパイに御用ですか?」
ギシ、と伍の腕から骨の軋む音が聞こえた。
「は、橋爪……?」
なんでとは、喉の奥に言葉が詰まり吐き出せない。
「は、お前彷徨のなに?」
「貴方には関係ない話です」
唸るような声だ。
オレですら一瞬身震いをしてしまう声音に伍も怯む、それを橋爪は見逃さなかった。
「あいにくセンパイには先約がありますので、お引き取りください」
重かった。言葉の圧はオレにも伸し掛るようで、普段の橋爪からは想像もできない。初対面なら尚更なのか喉を鳴らした伍も、分が悪いと思ったのかつまらなさそうに目を細めながら少しその場で下がった。けどそれでもなにかを思い出したように笑うと、橋爪を通り越してオレをじっと見つめている。玩具を見つけたように、意地悪な笑顔を。
「なぁ彷徨、もしかしてお前――まだ男の事好きだったりする?」
「っ……!」
呼吸の仕方がわからなくなる。
血の気が引いていく感覚だった。指の先まで冷たくなるような、オレがオレではなくなるような感覚。自分が今どこに立っているのかすら曖昧になるような感覚に喉を鳴らすと、堕ちていく感覚を遮るように抱き寄せられた。伍からオレを見えないように、冷たくなった指先に熱を分け合うように。ゆっくり、なんとか顔を上げると橋爪が心配するようにオレの事を覗き込んでいた。
「センパイ、かなたセンパイ」
その声に、らしくもなく酷く安心してしまう。
「行きましょう、センパイ」
そっと手を引いてくれた、今のオレにはそれだけでじゅうぶんだ。ゆっくりと歩幅を合わせて、伍に背中を向けて歩く。とてもじゃないけど後ろは見れなかった。怖かった、きっと後ろを見たらオレはどうにかなってしまいそうだから。早く離れたかったんだ、早くどこかへ連れて行ってほしかった。角を曲がった先、ようやく後ろを見ると伍は追いかけてこない。それだけで安心できて肩から力を抜くと誰もいない公園に着く。手を引かれたまま入るとベンチがあり橋爪はなにも言わずオレを座らせてくれた。
鳥の声と草木の音が支配する世界。
最初に口を開いたのは、オレの方だ。
「……ダサいとこ見せた、悪い」
「センパイはいつだってかっこいいです」
またこいつ適当な事をと思ったが、さすがに橋爪若羽という男の生態はわかってきた。今の言葉も本心だろう。深く息を吐くと身体から力が抜けていくようで、それを橋爪が支えてくれた。
「センパイっ」
「ちょっと安心したら力が抜けた、大丈夫だ」
本当に、なにもかもがらしくない。情けなくて呼吸を整えていると、それを見守ってくれていた橋爪はなにかに悩むように視線を一瞬だけ落としけどすぐに持ち上げて不安げにかなたセンパイ、とオレの事を呼ぶ。
「センパイはどうして、嘘をついて生きてるんですか」
見透かされた、なにもかもを知られている。
そんな気がして指先が跳ねた。滲み出た感情を隠して、力なく首を横に振る。
「嘘なんかついてない、これがオレだよ」
「けど僕は、かなたセンパイが本当は優しいって知ってます」
「お前を助けたのは気まぐれだよ、後味悪かっただけで」
「違います、もっと前です」
心当たりがない話で話が見えない。オレの中でこいつを助けたのはあの時の一回なのに話が噛み合っていないようで言葉を待つと、橋爪はそっと宝物に触れるよう言葉を落とす。
「入学式の時、校内で迷子になって……それで、その時です。センパイに会ったのは。在校生の手伝いをセンパイはサボって中庭のベンチで寝てて、それで僕に会って……笑いながら、僕の事を案内してくれたんです。一生に一回の入学式でポカやらかすのは嫌だろって」
「お前、あの時の……?」
覚えている、覚えているけどそれはこいつを助けた以上に些細な事だったのに。中庭のベンチで昼寝をしていた時偶然目に留まってしまったから自然と身体が動いていた。けど、本当にそれだけなのに。
「……それだけ、なのか?」
「それだけでじゅうぶんなので……センパイが優しくて愛情深いと知っているのは、僕だけでじゅうぶんです」
わかった、いやでも理解できた、オレはきっとこいつに敵わない。ドロドロな優しさでずっとオレを絡めとってそれをオレもいいと思ってしまうんだって。
「……お前ほど、橋爪ほどオレは強くない。不器用なのは自分が一番わかってるし、感情を伝えるのが下手なのだって自覚はある」
ポツリと、言葉を落とした。
それはオレの感情だった。
それはオレの記憶だった。
「……昔、一度だけな。男を好きになったんだ」
橋爪の瞳が、微かに揺れる。
苦しそうで、その目を直視できなくて堪らず視線を逸らす。
「自分がそういうタイプだって、そこでわかった。腹の底に隠して墓場まで持っていくつもりだったのに、その相手に好きって事バレてさ……それで、みんなの前で指さされて笑われて、振られたんだ。まじで男を好きになるって信じられないって」
「そんな……!」
「いいんだよ、それが正しい反応って教えてくれたんだ」
浅はかだったんだ、少し自由になった世界ならいいんじゃないかとほんの少しでも思った考えが。結局オレはまだ異端で、パンドラの箱だったんだ。
「伍は、あいつはその時好きになった奴。それでオレを軽蔑して散々バカにして捨ててくれた、最後の奴」
世界の当たり前を教えてくれたんだ、感謝はしている。けど同時にオレの中に現れたのは明確な恐怖と怯えで、あの時を思い出すだけで指先が跳ねた。そしてそれを、橋爪は見逃さなかった。なにかに気づいたように顔を上げると、苦しそうに息を吐きながらかなたセンパイ、とオレの事を呼ぶ。
「もしかして、色んな人と付き合ったのも」
「忘れようと、オレなりにしたのかも。けどオレってそんな器用じゃないから、気づいたら毎回修羅場っててさ。バカみてえだろ」
女と付き合えばこの気持ちも捨てられると思っていた。
けど適当に付き合えば付き合うほど深みにハマっていく感覚で、答えはずっと出せずにいた。この人と付き合えばなにか変わるのか、もしかしたら男を好きになる事もないんじゃないかって。あの時の記憶はオレの中で枷になり、ずっと腹の底に居座ったままだ。
やっと顔を持ち上げた。
合わせられなかった視線をぶつけると、ついオレの方が顔をしかめてしまう。
「……って、なんでお前が泣きそうなんだよ」
「だって、だってセンパイの事僕が一番わかってなくて、悔しくて!」
「いや、それは話した事ないから仕方ないだろ」
「それに……そんなセンパイが、もっと知らない人達から後ろ指さされるのが悔しくて」
「っ……」
やっぱりこの男は、橋爪若羽はクソ真面目だ。
真面目で欲張りで、なによりもまっすぐな男。
「あの人にセンパイが奪われるなら、僕がセンパイを攫います」
告白よりも熱烈だ。太陽よりも熱いそれは、呼吸をするだけで喉の奥が爛れる。こいつになにもかも焼き尽くされそうで感情を押し殺しながら薄く作り笑いを貼り付ける。とびっきりの、誤魔化しに近い挑発と共に。唇をわざとらしく指さしてやる。
「キスもできないくせに?」
「それはっ……」
橋爪が悔しそうに顔を歪めた。けどそれも一瞬の話で、だめです、とはっきりと拒絶をされる。
「どれだけセンパイが開けてくれてもだめです、そこはセンパイが本当に許してくれた時に取っておきたいので」
クソ真面目が服を着た姿は、見ていてつい笑ってしまう。けど次に見せたのは違っていた、ふと顔を出したのは獰猛な視線でゆっくりと手を伸ばしオレの首筋に触れてくる。
「けどセンパイ、僕だって男です」
スス、と指が撫でていく。橋爪に支配されるようで肩を揺らすと面白がったのか今度は息がかかった。
「首筋にならできるってセンパイも知っているはずです、挑発するなら僕も本気にしますよ?」
「それ、は」
「僕はちゃんと言いました、僕をセンパイの最後にしてくださいって。全部本気です」
首筋に噛みつかれる。童話の吸血鬼の方がまだお行儀のいい捕食に喉から声は出たが、嫌とは思わない。
その感情の答えには、まだ気づかないふりをさせてほしかった。
***
「センパイすみません、今日ちょっとクラスの話し合いがあって帰り遅くなりそうで……!」
「そもそも一緒に帰る約束はしてないぞ」
帰り際のシューズボックスの前。
さも当然のように謝ってきた橋爪が面白くて、つい頬を緩めてしまう辺りこいつに毒されてきたのかもしれない。
あの日から伍の事は見ていない。いや、見ないのが正しいのかもしれない。授業が終われば一目散に教室へやってくる大型犬のボディーガード様は鐘が鳴るなりしっぽを振りながら最寄り駅まで送ってくれるのが日常になっていた。伍が近くにいたとしても、オレの視界は橋爪でいっぱいだから。
「大丈夫だって、一人で帰れるから」
「嫌です、僕がセンパイと帰りたいです……だめですか?」
それは、その顔と言葉はずるい。
良心が傷んだ、捨てられた仔犬のような顔を向けられるとなにも言えない。
「センパイの事、心配なんです」
どこまでもまっすぐな言葉がオレを貫いた。
オレの返事を聞かないと動く気もないらしくわかったよ、とだけ言うとそれこそ褒められた仔犬のように目を輝かせた。
「すぐ、すぐ終わらせてくるんで!」
取ってこいをされた大きすぎる仔犬は教師の声を無視して廊下を走り去っていく。背中を眺めて見送ると、深く息を吐きながらぐっと身体を伸ばした。
「……誰が待つかよ」
嫌味ではない、申し訳なさがずっと腹の底にあったから。オレのせいであいつの時間を奪っているような気分だった。あいつの選択肢を、橋爪の交友関係を邪魔している自覚だってあった。たまにはこいつもオレから距離を置いてくれたらなんて願ってもそれに居心地の良さを見出してしまっているオレが一番悪くて、たまにはあいつのためにも距離を置いてやろうとそう思っただけだ。
早足で靴を履き替えて校舎を出る。
久々の一人は足取りが軽い……はずだった。
「っ……」
門を一歩だけ出た先、足が止まる。
隣に誰もいないのは酷く寒くて、静かで。それが当たり前ではなくなってしまったこの一歩は妙に落ち着かなくなっている。誰もいないはずの横を眺めた。誰もいないはずの少し上へ視線を向けてしまう。
「……やっぱり、待っててやるか」
踵を返そうとした、校内に戻ろうとした時だ。
「彷徨」
身体が動かなくなってしまったのは、その声に対してだ。
なにが起きたのか理解できず、けどその目を向けた先にいるのは今一番会いたくなかった相手だ。
「あ、伍……」
声が引き攣る。心臓の音はうるさくて指先まで冷たくなっていく。ほんの一瞬鈍くなった動きを伍は見逃さず、オレの腕を掴んで近くの路地に引っ張りこんだ。
「なんで避けるんだよ、やっと見つけたと思えば後輩クンが一緒だし」
「お前には関係ないだろ」
「あるよ、彷徨に会いにきてたんだから」
壁に追い込まれ退路を塞がれると伍の楽しそうな表情が視界に入る。昔はあれほど焦がれたはずなのに指先が跳ねるのは、きっと心が空っぽになったからだ。空っぽになって満たされなくて、それを別のなにかが満たしてくれているから。それは、その正体はなにかわかっている。
橋爪、と無意識に名前を呼びそうになる。
ここにいないはずの幻想に手を伸ばしたかった。
「オレにって、なんだよ。オレは用事なんてないけど」
気丈に振舞ったつもりだ、それがどう見えているかはわからない。ただ腹の底にある怯えを隠す事に必死で喉を鳴らした。そんな情けない姿は伍にどう映ったのか楽しそうに目を細める。ゆっくりと手を伸ばしてオレの頬に触れると、あの時と変わらないバリトンボイスのまま耳元で囁いた。
「なぁ彷徨、まだ俺の事好きだったりする?」
「は……?」
こいつ、今なんと。
指先まで、呼吸までフリーズしたような感覚だ。
「もし好きなら、遊んでやってもいいけど」
「お前、言ってる意味わかって」
「あぁ、お前の事もう少しわかってやればよかったんだよなって思ってさ。そしたら男同士で付き合うのも面白そうだなって」
違うこれは、こいつの目はそうじゃないと言っている。
伍はただ面白い玩具を見つけた事を喜んでいる、オレとはまた違う人間としてのクズが見えた。
「なぁいいだろ彷徨」
「伍、突然どうし、て……」
頬に触れていた手が下に降りて、なにかに気づいたように止まった。目を細めながらじっとオレの首筋を見ると、おもむろに襟を引っ張る。
「お前、あの一年生にだいぶん許してるみたいじゃん」
「それ、は……!」
首筋の赤くなった場所を指さされた。あの時の、挑発してやられたもの。なにをどう解釈して気を良くしたのか、橋爪の痕に伍は息をかけた。
「あいつに許すなら、俺だって少しくらいいいだろ?」
警鐘が鳴り響く。あれだけあの時は好きだったはずなのに違う、このままなにもかもを許してはいけないと。
指先が思考より早く動く、乾いた音が路地裏に響いた。
振り払った伍の手は、ほんの少し赤くなっている。
「お前は、橋爪以外はだめだ」
言葉にしたら認めてしまう、オレはあいつでずっといっぱいなんだって。
爪の先まであいつで、橋爪若羽でいっぱいになっている。注がれた愛も感情も全部吐き出す事なく、オレの中にあるから。
「……へえ?」
伍の声音が変わる。
地を這うような声にオレの方が肩を揺らす。
「彷徨と同じでこっちの学校行った奴に聞いたけど俺に振られてから女と手当り次第付き合ってたらしいな? それでもあの後輩クンに心を許すって事は、結局誰でもいいんだろ?」
「ちが、あいつは……!」
サアと血の気が引いた。なんでその事をとは言葉にできなかった。伍の耳にも入っていたらしい事実にあからさまなくらい狼狽えると抵抗する力も抜けてしまって、けどその視線はある一点に固定された。本当に、どこまでもかっこいい奴に。どれだけ遅れても助けてくれる仔犬のような後輩に。
「センパイに、なにしようとしたんですか」
その声には怒りが孕んでいた。
その言葉には刃物が仕込まれていた。
すべてを伍に向けた橋爪はオレの手を引いて、唸り声に近い言葉を落とした。
「お前、彷徨の後輩……」
「懲りないですね、勝ち目なんてないのに」
呆れたように目を伏せた橋爪は、オレの手を掴んだ方とは反対に持っていたなにかを操作していた。
「これ、なにかわかりますか?」
橋爪が見せたのはスマホの画面で、おそるおそるオレも横から覗き見た。動画らしいそれに映っているのはオレと伍で……ついさっきの、オレが伍を払い除ける様子がハッキリと見えた。
「本当は殴りかかりたかったんですけど、証拠を抑えなきゃいけなかったので。それにあの時のセンパイ、すごくかっこよかったです」
「まさかさっきの見てて」
「はい、僕以外はだめってとこもバッチリです!」
急に羞恥心が押し寄せてきた。バカみたいに声を張ったのを、あろう事か橋爪自身に見られていた。それだけで穴があったら入りたい気持ちでいっぱいになっていると、ふと橋爪の匂いを近くで感じる。抱き寄せられたまま伍からオレを隠すように立つ橋爪の視線は見た事がないくらいに冷たい。
「ですので残念ですが、今のセンパイからの愛なんて貴方に向いてません……センパイを汚すのはやめていただきたい」
刃物のようだ。言葉と視線の刃物を向けたまま、橋爪は突き刺す。
「これの意味がわかるなら二度とかなたセンパイに……僕達に近づかないでください」
その言葉がトドメだったらしい。
あからさまなくらいに顔をしかめた伍はオレと橋爪を何度も見ながら鼻で笑っていた。
「ハッ、男同士で傷の舐め合いかよ。気持ち悪い」
「お前、橋爪は関係ないだろ!」
「大丈夫ですセンパイ、痛くも痒くもないので」
笑う橋爪は余裕そうな表情のまま、けど確かな怒りを伍の方へ向けた。
「気持ち悪いと言われたっていいです、僕はかなたセンパイが好きだから……絶対、貴方よりセンパイを幸せにできます」
「っ……」
苦虫を噛み潰したように伍が表情を歪める。
なにか言いたげに喉を動かしたが橋爪の圧に負けたのか、舌打ちをしながら情けなく背中を向けて立ち去った。残されたのはオレと橋爪だけで、大通りの方へ目を向けても人の気配はない。
終わったのか、これで大丈夫なのか。
脳が正しく状況を理解すると、疲れが波のように押し寄せてくる。壁に体重を預けながら深く息を吐くと、迷子の仔犬のようにオレへ顔を向ける橋爪を横目で見た。わかっている、今回の件は全面的にオレがこいつを巻き込んでしまったと。
「お前……いい加減オレに構うのはやめた方がいい、今回の伍の件みたいな奴や今までの女にも絡まれる……橋爪にも、いつ矛先が向くかわからないだろ」
もう、オレのせいで迷惑をかけたくなかった。
自分で招いた事だ、最後まで責任はオレが取るべきなのに。それなのに橋爪を巻き込むのは罪悪感しかなく腹の底でドロドロとした感情が溜まっていく。
「本当にセンパイは……そういうとこですよ」
どこまでオレの気持ちを汲み取ったのか、幸せそうに笑う橋爪はそっとオレの目にかかった髪を梳く。割れ物に触れるように、なによりも優しい笑顔と共に。
「かなたセンパイ」
「な、なんだよ」
「センパイがそうやって優しいのも意地っ張りで人に助けを求めるのが苦手なのも、もうわかってます」
「お前、喧嘩売ってる?」
「まさか、僕が好きなセンパイの一面を話しているだけです」
けどねセンパイ、と続けた言葉はどこまでも澄んでいる。
「僕、すごく頑固なんです」
「頑固って」
「はい、とっても頑固で……だからセンパイが僕の事を思って言ってくれても僕が納得できないので離れません。例え世界に後ろ指をさされたって、センパイが僕を考えて距離を置いたって……僕自身が納得できるまで、僕はかなたセンパイの傍に居続けます」
負けだよ、完敗だった。
向けられた感情はどれも刃物のように鋭くて、オレの息苦しさを突き刺していく。けど、だからこそだ。
「どうして、こんなクズの事好きになっちまったんだよ……別に可愛い系じゃないし抱き心地だって女みたいによくない……愛想だって良くないのに」
きっとこいつの未来には沢山の選択肢があったはずなのに。それなのに踏み外した道の先を歩いていたオレを見つけてしまったこいつを、オレは哀れだと思う。
「どうしてって……」
指先が触れた、呼吸が重なった。
鼓動すら聞かれてしまいそうなほどの距離で、橋爪は嬉しそうに笑っている。
「女とか男とか関係ないです、かなたセンパイだから好きになったんです」
熱が、じんわりと伝わってくる。
幸せに満ちた笑みを浮かべて、橋爪はオレを見つめる。
「センパイが優しいのも不器用なのも、笑顔も怒った顔も、すべてが僕にとっては愛おしいんです。だからせめて、初めてはだめでも僕がセンパイの最後でありたい」
だめですか、なんて聞かれたらなにも言えない。
わかっているから、こいつに心まで持っていかれているって。わかっていてもそれを認めなかったのはオレで、今だって腹の底ではまだ抗っている。けど、半分は守ってくれたご褒美の気持ちもあるから。
「なぁ、橋爪」
声を潜める。自分でも目眩がしそうなほど甘ったるい声で囁いてやる。
「キスより先はまだ誰にもあげてねえって言ったら、若羽に取っておいてやってもいいって言ったら、どうする?」
敢えてゆっくり、丁寧に。名前だって呼んでやりながら言葉を紡いだ。
「え、は……」
対する橋爪と言えば目を丸くして、まだ話が処理できていないのか言葉になっていない言葉を落とす。ゆっくりと噛み締めて、呼吸を整えて。やっと理解ができてきたのか徐々に唇を震わせると、じわじわと顔が赤くなっていく。
「センパイ!」
「ふは、いい反応」
かっこいい癖に少し茶化してやればこれだ、本当に詰めが甘くてちょろい奴。
普段通りの可愛い橋爪に頬を緩めると、じとりと悔しげに睨みつけてくる橋爪の顔がある。けどその中で少し、ほんの少しだけアンバーの瞳が鈍く光った気がした。獲物に狙いを定めたような目にゾクとしたのは、きっと気のせいじゃない。
「いいんですか」
酷く曖昧な確認だ。
「僕が本気になっても、本気でかなたセンパイの事奪おうとしてもいいんですか?」
宣戦布告には少し甘くて、決意にしてはあまりにも欲を孕んでいる。可愛い後輩の曖昧で逐一お伺いを立てる様子は忠犬のようだ。
チョロくてクソ真面目で律儀な、忠犬であり駄犬のような後輩。
「オレに勝てるならな、受けて立つよ」
啄むようにキスをする。
それはこいつが避けてきた唇で、呼吸や吐息が混ざり合う。大きく見開かれた橋爪の瞳はずっとオレだけを映していて、それを可愛いと思ってしまう辺りオレが一番手遅れなんだ。
こいつのやる事なす事可愛いくせに、時折見せる獣の目はずっとオレを狙い続けている。
「これよりもっと先の事、期待しててやる」
だからきっとこの先負けるのはオレなんだ。
負け戦だとわかっていても不敵に笑ってやる、この可愛くも獰猛な仔犬に今日も一矢報いるために。
この後喰われるのも全部許しているのはまだ教えてやらない。まだもう少しだけ、この詰めが甘い後輩を楽しみたいと思ったから。
そう思うオレは、きっと悪いセンパイってやつだ。
うわの空になっている自覚はじゅうぶんすぎるくらいある。
「最後って、それってつまり」
多分だけど、橋爪はそんな事意識していない。ただオレを想って出ただけの、それだけの言葉。そのはずなのにオレ自身がその先を意識しているみたいで、一人で勝手に浮かれてその先を考えてしまっただけだ。
だめだと、そうじゃないともちろんわかっている。
あの時みたいに勘違いをしてはだめだと、自分に言い聞かせて靴を履き替えた。
「橋爪の奴、今日はこないのか……?」
いつもなら鐘が鳴ってそこそこに教室まできていた橋爪の姿を、最後まで見なかった。委員会に入っているとかも聞いた事がないからまたどうせクラスの奴に捕まったのかもしれないと考えると、わかりやすいくらい胸の奥がざわつく。この感情の名前も知っているはずなのに、知らないふりをした。
「……先帰るか」
約束はしていない、ただあいつがくるだけで。それで今日は、たまたまこないだけ。
他でもない自分自身に言い聞かせながらシューズボックスで靴を履き替えると、早足に校門の外へ出てしまう。最早逃げているみたいだ。あいつから、橋爪から。
このうるさい心臓の音にも気づかないふりをして、コンビニには目もくれず前へ進んでいく。
「帰ってなにやろう……」
思えば最近あいつと放課後も一緒だった。
なにをするでもなく教室やフードコートにいたから、正しく言うとあいつが着いてきたからまだ普段なら帰る時間ではない。駅前で適当に飲み物でも買おうかと考えた時だ。駅の手前にある道路の真ん中で、その声が聞こえたのは。
「あれ、彷徨じゃん」
「――え?」
耳元が、ザラりとした感覚だった。
その声は聞きたくない、もう二度と聞かないと思っていたもので、息をするのすら忘れてしまう。指先まで冷たくなる感覚に怯えを隠すと、そいつは楽しそうに目を細めながらゆっくりと近づいてくる。
「やっぱり彷徨じゃん、全然見ないからどこ行ったかと思ったけど隣の学校だったんだな」
「あ、伍……」
隣の高校の制服に身を包んだそいつは、オレが知っている黒髪の姿とは違い明るい色に髪を染めていた。似合わない髪のセットをして、少し小麦に焼けた肌がボタンを開けたシャツから覗いている。あの時と、高校の時とは少し違う。けど確かにそいつはオレの知っている男だった。
「後ろ姿見てもしかしてって思ったんだよな」
「ぐ、偶然だな、伍がうちの高校の方くるなんて」
川野辺伍は中学時代のクラスメイトだ。
それだけの、その程度の関係ならどれだけよかったか。
記憶の底に隠していた重い蓋がゆっくりと開くようだ。逃げるように一歩下がると、それに気づいたのか気づいていないのか伍が手を伸ばしてくる。
「なぁ彷徨、せっかくだしこの後さ」
「かなたセンパイはだめです」
凛としたテノールの声が遮る。
今一番求めていた。一番ほしいと思ってしまった声だ。
一つ年下のくせに大きい図体がオレを背中に隠して、伸びていた伍の手を掴んでいた。
詰めは甘いしチョロいしヘタレのくせに、こういう時は悔しいくらいヒーローだ。
「こんにちは、かなたセンパイに御用ですか?」
ギシ、と伍の腕から骨の軋む音が聞こえた。
「は、橋爪……?」
なんでとは、喉の奥に言葉が詰まり吐き出せない。
「は、お前彷徨のなに?」
「貴方には関係ない話です」
唸るような声だ。
オレですら一瞬身震いをしてしまう声音に伍も怯む、それを橋爪は見逃さなかった。
「あいにくセンパイには先約がありますので、お引き取りください」
重かった。言葉の圧はオレにも伸し掛るようで、普段の橋爪からは想像もできない。初対面なら尚更なのか喉を鳴らした伍も、分が悪いと思ったのかつまらなさそうに目を細めながら少しその場で下がった。けどそれでもなにかを思い出したように笑うと、橋爪を通り越してオレをじっと見つめている。玩具を見つけたように、意地悪な笑顔を。
「なぁ彷徨、もしかしてお前――まだ男の事好きだったりする?」
「っ……!」
呼吸の仕方がわからなくなる。
血の気が引いていく感覚だった。指の先まで冷たくなるような、オレがオレではなくなるような感覚。自分が今どこに立っているのかすら曖昧になるような感覚に喉を鳴らすと、堕ちていく感覚を遮るように抱き寄せられた。伍からオレを見えないように、冷たくなった指先に熱を分け合うように。ゆっくり、なんとか顔を上げると橋爪が心配するようにオレの事を覗き込んでいた。
「センパイ、かなたセンパイ」
その声に、らしくもなく酷く安心してしまう。
「行きましょう、センパイ」
そっと手を引いてくれた、今のオレにはそれだけでじゅうぶんだ。ゆっくりと歩幅を合わせて、伍に背中を向けて歩く。とてもじゃないけど後ろは見れなかった。怖かった、きっと後ろを見たらオレはどうにかなってしまいそうだから。早く離れたかったんだ、早くどこかへ連れて行ってほしかった。角を曲がった先、ようやく後ろを見ると伍は追いかけてこない。それだけで安心できて肩から力を抜くと誰もいない公園に着く。手を引かれたまま入るとベンチがあり橋爪はなにも言わずオレを座らせてくれた。
鳥の声と草木の音が支配する世界。
最初に口を開いたのは、オレの方だ。
「……ダサいとこ見せた、悪い」
「センパイはいつだってかっこいいです」
またこいつ適当な事をと思ったが、さすがに橋爪若羽という男の生態はわかってきた。今の言葉も本心だろう。深く息を吐くと身体から力が抜けていくようで、それを橋爪が支えてくれた。
「センパイっ」
「ちょっと安心したら力が抜けた、大丈夫だ」
本当に、なにもかもがらしくない。情けなくて呼吸を整えていると、それを見守ってくれていた橋爪はなにかに悩むように視線を一瞬だけ落としけどすぐに持ち上げて不安げにかなたセンパイ、とオレの事を呼ぶ。
「センパイはどうして、嘘をついて生きてるんですか」
見透かされた、なにもかもを知られている。
そんな気がして指先が跳ねた。滲み出た感情を隠して、力なく首を横に振る。
「嘘なんかついてない、これがオレだよ」
「けど僕は、かなたセンパイが本当は優しいって知ってます」
「お前を助けたのは気まぐれだよ、後味悪かっただけで」
「違います、もっと前です」
心当たりがない話で話が見えない。オレの中でこいつを助けたのはあの時の一回なのに話が噛み合っていないようで言葉を待つと、橋爪はそっと宝物に触れるよう言葉を落とす。
「入学式の時、校内で迷子になって……それで、その時です。センパイに会ったのは。在校生の手伝いをセンパイはサボって中庭のベンチで寝てて、それで僕に会って……笑いながら、僕の事を案内してくれたんです。一生に一回の入学式でポカやらかすのは嫌だろって」
「お前、あの時の……?」
覚えている、覚えているけどそれはこいつを助けた以上に些細な事だったのに。中庭のベンチで昼寝をしていた時偶然目に留まってしまったから自然と身体が動いていた。けど、本当にそれだけなのに。
「……それだけ、なのか?」
「それだけでじゅうぶんなので……センパイが優しくて愛情深いと知っているのは、僕だけでじゅうぶんです」
わかった、いやでも理解できた、オレはきっとこいつに敵わない。ドロドロな優しさでずっとオレを絡めとってそれをオレもいいと思ってしまうんだって。
「……お前ほど、橋爪ほどオレは強くない。不器用なのは自分が一番わかってるし、感情を伝えるのが下手なのだって自覚はある」
ポツリと、言葉を落とした。
それはオレの感情だった。
それはオレの記憶だった。
「……昔、一度だけな。男を好きになったんだ」
橋爪の瞳が、微かに揺れる。
苦しそうで、その目を直視できなくて堪らず視線を逸らす。
「自分がそういうタイプだって、そこでわかった。腹の底に隠して墓場まで持っていくつもりだったのに、その相手に好きって事バレてさ……それで、みんなの前で指さされて笑われて、振られたんだ。まじで男を好きになるって信じられないって」
「そんな……!」
「いいんだよ、それが正しい反応って教えてくれたんだ」
浅はかだったんだ、少し自由になった世界ならいいんじゃないかとほんの少しでも思った考えが。結局オレはまだ異端で、パンドラの箱だったんだ。
「伍は、あいつはその時好きになった奴。それでオレを軽蔑して散々バカにして捨ててくれた、最後の奴」
世界の当たり前を教えてくれたんだ、感謝はしている。けど同時にオレの中に現れたのは明確な恐怖と怯えで、あの時を思い出すだけで指先が跳ねた。そしてそれを、橋爪は見逃さなかった。なにかに気づいたように顔を上げると、苦しそうに息を吐きながらかなたセンパイ、とオレの事を呼ぶ。
「もしかして、色んな人と付き合ったのも」
「忘れようと、オレなりにしたのかも。けどオレってそんな器用じゃないから、気づいたら毎回修羅場っててさ。バカみてえだろ」
女と付き合えばこの気持ちも捨てられると思っていた。
けど適当に付き合えば付き合うほど深みにハマっていく感覚で、答えはずっと出せずにいた。この人と付き合えばなにか変わるのか、もしかしたら男を好きになる事もないんじゃないかって。あの時の記憶はオレの中で枷になり、ずっと腹の底に居座ったままだ。
やっと顔を持ち上げた。
合わせられなかった視線をぶつけると、ついオレの方が顔をしかめてしまう。
「……って、なんでお前が泣きそうなんだよ」
「だって、だってセンパイの事僕が一番わかってなくて、悔しくて!」
「いや、それは話した事ないから仕方ないだろ」
「それに……そんなセンパイが、もっと知らない人達から後ろ指さされるのが悔しくて」
「っ……」
やっぱりこの男は、橋爪若羽はクソ真面目だ。
真面目で欲張りで、なによりもまっすぐな男。
「あの人にセンパイが奪われるなら、僕がセンパイを攫います」
告白よりも熱烈だ。太陽よりも熱いそれは、呼吸をするだけで喉の奥が爛れる。こいつになにもかも焼き尽くされそうで感情を押し殺しながら薄く作り笑いを貼り付ける。とびっきりの、誤魔化しに近い挑発と共に。唇をわざとらしく指さしてやる。
「キスもできないくせに?」
「それはっ……」
橋爪が悔しそうに顔を歪めた。けどそれも一瞬の話で、だめです、とはっきりと拒絶をされる。
「どれだけセンパイが開けてくれてもだめです、そこはセンパイが本当に許してくれた時に取っておきたいので」
クソ真面目が服を着た姿は、見ていてつい笑ってしまう。けど次に見せたのは違っていた、ふと顔を出したのは獰猛な視線でゆっくりと手を伸ばしオレの首筋に触れてくる。
「けどセンパイ、僕だって男です」
スス、と指が撫でていく。橋爪に支配されるようで肩を揺らすと面白がったのか今度は息がかかった。
「首筋にならできるってセンパイも知っているはずです、挑発するなら僕も本気にしますよ?」
「それ、は」
「僕はちゃんと言いました、僕をセンパイの最後にしてくださいって。全部本気です」
首筋に噛みつかれる。童話の吸血鬼の方がまだお行儀のいい捕食に喉から声は出たが、嫌とは思わない。
その感情の答えには、まだ気づかないふりをさせてほしかった。
***
「センパイすみません、今日ちょっとクラスの話し合いがあって帰り遅くなりそうで……!」
「そもそも一緒に帰る約束はしてないぞ」
帰り際のシューズボックスの前。
さも当然のように謝ってきた橋爪が面白くて、つい頬を緩めてしまう辺りこいつに毒されてきたのかもしれない。
あの日から伍の事は見ていない。いや、見ないのが正しいのかもしれない。授業が終われば一目散に教室へやってくる大型犬のボディーガード様は鐘が鳴るなりしっぽを振りながら最寄り駅まで送ってくれるのが日常になっていた。伍が近くにいたとしても、オレの視界は橋爪でいっぱいだから。
「大丈夫だって、一人で帰れるから」
「嫌です、僕がセンパイと帰りたいです……だめですか?」
それは、その顔と言葉はずるい。
良心が傷んだ、捨てられた仔犬のような顔を向けられるとなにも言えない。
「センパイの事、心配なんです」
どこまでもまっすぐな言葉がオレを貫いた。
オレの返事を聞かないと動く気もないらしくわかったよ、とだけ言うとそれこそ褒められた仔犬のように目を輝かせた。
「すぐ、すぐ終わらせてくるんで!」
取ってこいをされた大きすぎる仔犬は教師の声を無視して廊下を走り去っていく。背中を眺めて見送ると、深く息を吐きながらぐっと身体を伸ばした。
「……誰が待つかよ」
嫌味ではない、申し訳なさがずっと腹の底にあったから。オレのせいであいつの時間を奪っているような気分だった。あいつの選択肢を、橋爪の交友関係を邪魔している自覚だってあった。たまにはこいつもオレから距離を置いてくれたらなんて願ってもそれに居心地の良さを見出してしまっているオレが一番悪くて、たまにはあいつのためにも距離を置いてやろうとそう思っただけだ。
早足で靴を履き替えて校舎を出る。
久々の一人は足取りが軽い……はずだった。
「っ……」
門を一歩だけ出た先、足が止まる。
隣に誰もいないのは酷く寒くて、静かで。それが当たり前ではなくなってしまったこの一歩は妙に落ち着かなくなっている。誰もいないはずの横を眺めた。誰もいないはずの少し上へ視線を向けてしまう。
「……やっぱり、待っててやるか」
踵を返そうとした、校内に戻ろうとした時だ。
「彷徨」
身体が動かなくなってしまったのは、その声に対してだ。
なにが起きたのか理解できず、けどその目を向けた先にいるのは今一番会いたくなかった相手だ。
「あ、伍……」
声が引き攣る。心臓の音はうるさくて指先まで冷たくなっていく。ほんの一瞬鈍くなった動きを伍は見逃さず、オレの腕を掴んで近くの路地に引っ張りこんだ。
「なんで避けるんだよ、やっと見つけたと思えば後輩クンが一緒だし」
「お前には関係ないだろ」
「あるよ、彷徨に会いにきてたんだから」
壁に追い込まれ退路を塞がれると伍の楽しそうな表情が視界に入る。昔はあれほど焦がれたはずなのに指先が跳ねるのは、きっと心が空っぽになったからだ。空っぽになって満たされなくて、それを別のなにかが満たしてくれているから。それは、その正体はなにかわかっている。
橋爪、と無意識に名前を呼びそうになる。
ここにいないはずの幻想に手を伸ばしたかった。
「オレにって、なんだよ。オレは用事なんてないけど」
気丈に振舞ったつもりだ、それがどう見えているかはわからない。ただ腹の底にある怯えを隠す事に必死で喉を鳴らした。そんな情けない姿は伍にどう映ったのか楽しそうに目を細める。ゆっくりと手を伸ばしてオレの頬に触れると、あの時と変わらないバリトンボイスのまま耳元で囁いた。
「なぁ彷徨、まだ俺の事好きだったりする?」
「は……?」
こいつ、今なんと。
指先まで、呼吸までフリーズしたような感覚だ。
「もし好きなら、遊んでやってもいいけど」
「お前、言ってる意味わかって」
「あぁ、お前の事もう少しわかってやればよかったんだよなって思ってさ。そしたら男同士で付き合うのも面白そうだなって」
違うこれは、こいつの目はそうじゃないと言っている。
伍はただ面白い玩具を見つけた事を喜んでいる、オレとはまた違う人間としてのクズが見えた。
「なぁいいだろ彷徨」
「伍、突然どうし、て……」
頬に触れていた手が下に降りて、なにかに気づいたように止まった。目を細めながらじっとオレの首筋を見ると、おもむろに襟を引っ張る。
「お前、あの一年生にだいぶん許してるみたいじゃん」
「それ、は……!」
首筋の赤くなった場所を指さされた。あの時の、挑発してやられたもの。なにをどう解釈して気を良くしたのか、橋爪の痕に伍は息をかけた。
「あいつに許すなら、俺だって少しくらいいいだろ?」
警鐘が鳴り響く。あれだけあの時は好きだったはずなのに違う、このままなにもかもを許してはいけないと。
指先が思考より早く動く、乾いた音が路地裏に響いた。
振り払った伍の手は、ほんの少し赤くなっている。
「お前は、橋爪以外はだめだ」
言葉にしたら認めてしまう、オレはあいつでずっといっぱいなんだって。
爪の先まであいつで、橋爪若羽でいっぱいになっている。注がれた愛も感情も全部吐き出す事なく、オレの中にあるから。
「……へえ?」
伍の声音が変わる。
地を這うような声にオレの方が肩を揺らす。
「彷徨と同じでこっちの学校行った奴に聞いたけど俺に振られてから女と手当り次第付き合ってたらしいな? それでもあの後輩クンに心を許すって事は、結局誰でもいいんだろ?」
「ちが、あいつは……!」
サアと血の気が引いた。なんでその事をとは言葉にできなかった。伍の耳にも入っていたらしい事実にあからさまなくらい狼狽えると抵抗する力も抜けてしまって、けどその視線はある一点に固定された。本当に、どこまでもかっこいい奴に。どれだけ遅れても助けてくれる仔犬のような後輩に。
「センパイに、なにしようとしたんですか」
その声には怒りが孕んでいた。
その言葉には刃物が仕込まれていた。
すべてを伍に向けた橋爪はオレの手を引いて、唸り声に近い言葉を落とした。
「お前、彷徨の後輩……」
「懲りないですね、勝ち目なんてないのに」
呆れたように目を伏せた橋爪は、オレの手を掴んだ方とは反対に持っていたなにかを操作していた。
「これ、なにかわかりますか?」
橋爪が見せたのはスマホの画面で、おそるおそるオレも横から覗き見た。動画らしいそれに映っているのはオレと伍で……ついさっきの、オレが伍を払い除ける様子がハッキリと見えた。
「本当は殴りかかりたかったんですけど、証拠を抑えなきゃいけなかったので。それにあの時のセンパイ、すごくかっこよかったです」
「まさかさっきの見てて」
「はい、僕以外はだめってとこもバッチリです!」
急に羞恥心が押し寄せてきた。バカみたいに声を張ったのを、あろう事か橋爪自身に見られていた。それだけで穴があったら入りたい気持ちでいっぱいになっていると、ふと橋爪の匂いを近くで感じる。抱き寄せられたまま伍からオレを隠すように立つ橋爪の視線は見た事がないくらいに冷たい。
「ですので残念ですが、今のセンパイからの愛なんて貴方に向いてません……センパイを汚すのはやめていただきたい」
刃物のようだ。言葉と視線の刃物を向けたまま、橋爪は突き刺す。
「これの意味がわかるなら二度とかなたセンパイに……僕達に近づかないでください」
その言葉がトドメだったらしい。
あからさまなくらいに顔をしかめた伍はオレと橋爪を何度も見ながら鼻で笑っていた。
「ハッ、男同士で傷の舐め合いかよ。気持ち悪い」
「お前、橋爪は関係ないだろ!」
「大丈夫ですセンパイ、痛くも痒くもないので」
笑う橋爪は余裕そうな表情のまま、けど確かな怒りを伍の方へ向けた。
「気持ち悪いと言われたっていいです、僕はかなたセンパイが好きだから……絶対、貴方よりセンパイを幸せにできます」
「っ……」
苦虫を噛み潰したように伍が表情を歪める。
なにか言いたげに喉を動かしたが橋爪の圧に負けたのか、舌打ちをしながら情けなく背中を向けて立ち去った。残されたのはオレと橋爪だけで、大通りの方へ目を向けても人の気配はない。
終わったのか、これで大丈夫なのか。
脳が正しく状況を理解すると、疲れが波のように押し寄せてくる。壁に体重を預けながら深く息を吐くと、迷子の仔犬のようにオレへ顔を向ける橋爪を横目で見た。わかっている、今回の件は全面的にオレがこいつを巻き込んでしまったと。
「お前……いい加減オレに構うのはやめた方がいい、今回の伍の件みたいな奴や今までの女にも絡まれる……橋爪にも、いつ矛先が向くかわからないだろ」
もう、オレのせいで迷惑をかけたくなかった。
自分で招いた事だ、最後まで責任はオレが取るべきなのに。それなのに橋爪を巻き込むのは罪悪感しかなく腹の底でドロドロとした感情が溜まっていく。
「本当にセンパイは……そういうとこですよ」
どこまでオレの気持ちを汲み取ったのか、幸せそうに笑う橋爪はそっとオレの目にかかった髪を梳く。割れ物に触れるように、なによりも優しい笑顔と共に。
「かなたセンパイ」
「な、なんだよ」
「センパイがそうやって優しいのも意地っ張りで人に助けを求めるのが苦手なのも、もうわかってます」
「お前、喧嘩売ってる?」
「まさか、僕が好きなセンパイの一面を話しているだけです」
けどねセンパイ、と続けた言葉はどこまでも澄んでいる。
「僕、すごく頑固なんです」
「頑固って」
「はい、とっても頑固で……だからセンパイが僕の事を思って言ってくれても僕が納得できないので離れません。例え世界に後ろ指をさされたって、センパイが僕を考えて距離を置いたって……僕自身が納得できるまで、僕はかなたセンパイの傍に居続けます」
負けだよ、完敗だった。
向けられた感情はどれも刃物のように鋭くて、オレの息苦しさを突き刺していく。けど、だからこそだ。
「どうして、こんなクズの事好きになっちまったんだよ……別に可愛い系じゃないし抱き心地だって女みたいによくない……愛想だって良くないのに」
きっとこいつの未来には沢山の選択肢があったはずなのに。それなのに踏み外した道の先を歩いていたオレを見つけてしまったこいつを、オレは哀れだと思う。
「どうしてって……」
指先が触れた、呼吸が重なった。
鼓動すら聞かれてしまいそうなほどの距離で、橋爪は嬉しそうに笑っている。
「女とか男とか関係ないです、かなたセンパイだから好きになったんです」
熱が、じんわりと伝わってくる。
幸せに満ちた笑みを浮かべて、橋爪はオレを見つめる。
「センパイが優しいのも不器用なのも、笑顔も怒った顔も、すべてが僕にとっては愛おしいんです。だからせめて、初めてはだめでも僕がセンパイの最後でありたい」
だめですか、なんて聞かれたらなにも言えない。
わかっているから、こいつに心まで持っていかれているって。わかっていてもそれを認めなかったのはオレで、今だって腹の底ではまだ抗っている。けど、半分は守ってくれたご褒美の気持ちもあるから。
「なぁ、橋爪」
声を潜める。自分でも目眩がしそうなほど甘ったるい声で囁いてやる。
「キスより先はまだ誰にもあげてねえって言ったら、若羽に取っておいてやってもいいって言ったら、どうする?」
敢えてゆっくり、丁寧に。名前だって呼んでやりながら言葉を紡いだ。
「え、は……」
対する橋爪と言えば目を丸くして、まだ話が処理できていないのか言葉になっていない言葉を落とす。ゆっくりと噛み締めて、呼吸を整えて。やっと理解ができてきたのか徐々に唇を震わせると、じわじわと顔が赤くなっていく。
「センパイ!」
「ふは、いい反応」
かっこいい癖に少し茶化してやればこれだ、本当に詰めが甘くてちょろい奴。
普段通りの可愛い橋爪に頬を緩めると、じとりと悔しげに睨みつけてくる橋爪の顔がある。けどその中で少し、ほんの少しだけアンバーの瞳が鈍く光った気がした。獲物に狙いを定めたような目にゾクとしたのは、きっと気のせいじゃない。
「いいんですか」
酷く曖昧な確認だ。
「僕が本気になっても、本気でかなたセンパイの事奪おうとしてもいいんですか?」
宣戦布告には少し甘くて、決意にしてはあまりにも欲を孕んでいる。可愛い後輩の曖昧で逐一お伺いを立てる様子は忠犬のようだ。
チョロくてクソ真面目で律儀な、忠犬であり駄犬のような後輩。
「オレに勝てるならな、受けて立つよ」
啄むようにキスをする。
それはこいつが避けてきた唇で、呼吸や吐息が混ざり合う。大きく見開かれた橋爪の瞳はずっとオレだけを映していて、それを可愛いと思ってしまう辺りオレが一番手遅れなんだ。
こいつのやる事なす事可愛いくせに、時折見せる獣の目はずっとオレを狙い続けている。
「これよりもっと先の事、期待しててやる」
だからきっとこの先負けるのはオレなんだ。
負け戦だとわかっていても不敵に笑ってやる、この可愛くも獰猛な仔犬に今日も一矢報いるために。
この後喰われるのも全部許しているのはまだ教えてやらない。まだもう少しだけ、この詰めが甘い後輩を楽しみたいと思ったから。
そう思うオレは、きっと悪いセンパイってやつだ。



