ドクドクと激しい動悸がする。それをどうにかして落ち着かせようと、メッセージの書かれた白い紙を折り目に沿って丁寧にたたみ直す。
 それでも、動悸はうまくおさまらない。
 私は肩を大きく上下させて深呼吸すると、フロアクッションでのんびりくつろいでいるスフレのほうを見た。
「スフレのご主人様は綺なの……?」
 ひさしぶりに幼馴染の名前を口にすると、スフレがゆっくりと目を開いた。
 何を話しかけても面倒くさそうな顔ばかりするスフレが、今は真ん丸なガラス玉の目で私をじっと見上げてくる。そのまなざしの無垢な美しさに胸がきゅっと鳴った。
 これは、肯定のサインなのだろうか。
 綺の夢は、パティシエになって自分のお店を持つことだった。
 料理教室の製菓の先生だったお母さんの影響で、綺も子どもの頃からお菓子作りが大好きだった。
 お菓子だけじゃなく、綺は絵を描くのも得意だった。
 私が家に遊びに行くと、綺は将来パティシエになって作るお菓子のデザイン画をたくさん見せてくれた。
 お菓子の話をするときの綺の笑顔は、いつもキラキラまぶしくて。私は綺が大好きだった。
 しっかり夢を持っている綺はかっこよくて、自慢の幼馴染だった。
 そんな綺にだったから、私も小説家になりたいという自分の夢を話せた。
 綺は私を応援してくれて、ふたりで考えた不思議なお店・pâtisserie AYAの出てくる小説が受賞したときは自分のことみたいに喜んでくれた。
「私も早くお店を出せるように頑張らなきゃ」と、目を輝かせて意気込む綺はすごく綺麗だった。
 だから、一年前にpâtisserie AYAができたときに思った。あれは綺の店なんじゃないかって。
 一度気になり出したら止まらなくて、私は毎日のようにpâtisserie AYA のSNSのアカウントをチェックした。投稿がある日もない日も、それが綺の店である根拠を探そうとした。
 だけど、直接店に足を運ぶことはできなかった。
 どうしても怖かったのだ。
 なぜなら、綺と私は二年前から会っていない。ずっと仲がよかったのに。私のせいで、関係が壊れた。
 そんな私がpâtisserie AYAを訪ねてもいいものか、とても悩む。
 301に住むスフレのご主人様は、私に気が付いているのだろうか。わからないが、ひとつ気になることはある。
 SNSに写真が投稿されていた、キャラメルりんごのミルクティープリン。できれば、それを食べてみたい。
「ねえ、行ってもいいと思う?」
 顔を近付けると、スフレが迷惑そうに少し目を細めながらふわふわのしっぽをゆっくり振った。
『行ってみればいいんじゃない?』
 スフレの気まぐれな反応を、私は勝手にそう解釈することにした。自信を持てない自分への後押しが欲しかった。子どもの頃から、妄想だけは得意なのだ。
 急いで着替えを済ませると、肌に薄くファンデーションをのせる。外に出るのもメイクもひさしぶりで、身だしなみはどの程度整えるのが適切なのかも忘れてかけている。メガネをかけてあらためて見ると、洗面台の鏡に映った顔がなんだか白く浮いているような気がする。どうにもこうにもそわそわして、もうしばらく使っていなかったつばの大きいニット地のキャスケット帽を引っ張り出してきて深くかぶった。
 準備が整ったとき、スフレはクッションの上でうとうとしていた。
「行ってくるね」
 近くにしゃがんで声をかけたが、反応はない。ちょっと心細い気持ちになって、私はスフレの丸めた背中にそっと手をのせた。
 ふわふわの毛に沈んだ手の指先から伝わってくる温かさに、減りかけの勇気が充電されていく。
「ねえ、もしよかったらなんだけど……帰ってくるまで、ここで待っててくれたら嬉しいな」
 独り言みたいなつぶやきにスフレの反応はない。もちろん、私にはスフレの行動を縛る権利もない。
 だから、ベランダの窓の鍵は開けたままにしておいた。