まだ午前中のうちに布団から出ることができた私は、三日ぶりに洗濯機を回した。
洗い上がった洗濯物を干すためにベランダの窓を開けると、301号室側の衝立の下から猫がにゅっと顔を出す。
「わっ……!」
大きな私の声に一度は頭を引っ込めた猫だったが、しばらくすると衝立の下をくぐってうちのベランダに入ってきた。
「え、また来たの?」
質問に答える代わりに、猫が私の足に頭を擦り寄せてきた。
ちょっとなついてくれたのかな。
キュンとして手を伸ばすと、猫がそれを綺麗に避けて部屋の中へとぴょんと逃げ込む。そうして腰をおろしたのは、定位置のフロアクッションだった。
「もう来ないと思ったよ」
急いで洗濯物を干して猫のそばに行くと、首輪に細長く折った紙が結ばれていた。
私が昨日つけた水色の紙ではなく、白い紙だ。
「ちょっと失礼しますね」
首輪に結ばれた紙をはずして開くと、角ばった几帳面な文字でメッセージが書かれていた。
【302号室様
この度は、うちのスフレが失礼いたしました。】
そこまで読んだところで、ちらりと猫を見る。
「君の名前、スフレだったのね」
幼馴染の家の猫と同じお菓子由来の名前に笑みが溢れたが、スフレは私に興味なさそうに欠伸している。
隣人からの手紙は、まだ続く。
【ベランダの窓の鍵をうっかり開けたままにしていて、自分で出入りする方法を覚えたようです。
先程ご挨拶に伺いましたが、出られなかったのでスフレにメッセージを託します。
このマンションから徒歩十分ほどの場所にあるpâtisserie AYAはご存知ですか?
ご迷惑をかけたお詫びに、お店のキャラメルりんごのミルクティープリンを『栗栖』の名前で取り置いています。
本日中の賞味期限となりますので、ぜひお訪ねください。】
手紙に書かれていた、『栗栖』という取り置き名義にドクンと胸が騒いだ。
栗栖というのは、幼馴染の綺の名字。そして、pâtisserie AYAは私の受賞作に出てくる洋菓子店の名前だ。
一年ほど前、pâtisserie AYAという店が近所にできたと知ったとき、私はとても驚いた。
淡いブルーの屋根に薄いベージュの壁。木製のピンクのドアには、パティシエの帽子とエプロンをつけた耳折れ猫のプレート。
SNSに載っている店の外観は、私が幼馴染の綺と空想をそのまま現実にしたものだったのだ。
pâtisserie AYAの詳細は、私と幼馴染しか知り得ない。
受賞作を応募した小説コンテストには、「WEBサイトにも掲載していない未発表の作品に限る」という規約があって、私の書いた作品は世の中のどこにも出ていない。
しいて言えば、コンテストを主催した編集部はpâtisserie AYAを認知しているだろうが、さすがにデビューもしていない作家の小説に出てくる空想の店を再現しようと思うほど暇ではないはずだ。



