+++

 301号室のハチワレ猫は、次の日もうちにやってきた。
 昼過ぎまでベッドの中にいた私は、また、カリカリカカリ……という窓を引っ掻く音に起こされたのだ。
「君、また来たの……?」
 ベランダの窓を少し開けた瞬間、猫がするりと隙間から部屋に滑り込んでくる。
 二日連続で猫が抜け出してくるなんて。
 窓を開けっぱなしで出掛けているんだろうか。それとも、在宅なのに猫の不在に気付いていない……?
 いずれにしても心配だ。
 衝立越しに隣を気にしつつ、窓を閉める。
 振り向くと、左耳の折れたハチワレ猫は昨日の同じようにフロアクッションの上を陣取っていた。
 まるでデジャヴ……。
 どうやら、あのクッションがお気に入りらしい。
 座り込んだそばから、うとうとと目を閉じかけている。
 もしかして、うちに昼寝に来たの……?
 気ままな猫の行動に苦笑いしつつ、今日も座布団代わりに床に枕を敷いて座る。それから、ローテーブルの上に開いたままになっているノートパソコンの電源を入れた。
 起きあがってしまった以上、せめて締め切りの迫ったライターの原稿だけは進めないといけない。
 新卒で入った大学事務の仕事も二年前にやめてしまって、生活のためには働かないわけにはいかないのだ。
 しばらくデスクトップをぼんやりと眺めていたが、今日はなかなかやる気が湧いてこなかった。
 まあ、やる気が湧かないなんていつものこと。
 ひさしぶりに集中できた昨日が特別だったんだ。
 ごろんと床に寝転ぶと、のんびり寝ている猫とちょうど顔の距離が近くなった。
 私も何も考えずに一日中のんびりできたらいいんだけど。
 じっと見つめていると、視線に気付いた猫が薄らと片目を開けた。
 縦に瞳孔の伸びた目が、何さぼってんだよとでも言いたげに私を見ている。
「はいはい、やりますよーっと」
 ひとりだとそのまま仕事を放棄してしまうところだが、猫の目があるだけで少しは身が引き締まる。
 私が動き出すのをじっと見ている猫の顎の下をこちょこちょとくすぐるように撫でてから、私は身体を起こしてパソコンに向かった。
 二日後が締め切りの記事は昨日であらかた書き終えている。あとは推敲、修正するだけだ。
 二時間ほど集中して原稿を終えると、猫はそれを待っていたようにフロアクッションから立ち上がった。
 私の仕事を見張っていたのかと思ってドキッとしたが、どうやら単純に帰りたくなっただけのようだ。
 カリカリカリ……。
 ベランダの窓を引っ掻いて、開けるように要求してくる。
「はいはい、おうちに帰るのね」
 窓の鍵を開けてやろうとして、私はふと思いついた。
「猫さん、ちょっと待って」
 仕事用の水色のメモ帳を一枚破くと、黒ボールペンでメッセージを書く。
【あなたの家の猫が、ベランダからうちに遊びに来ています。困ってはいませんが、ご報告まで。302号室の住人より】
 メッセージを書いたメモは細長く折って、猫の首輪の目につきやすい位置にゆるく結んだ。
 猫のおかげで私は癒されたり仕事が捗ったりしたけれど、二日も続けて猫が部屋から脱走してきていることは問題だ。
「また会えて嬉しかったけど、脱走はだめだよ」
 耳の横を撫でながら注意すると、猫が短く「にゃあ」と鳴く。まるで人語を理解しているみたいなタイミングに、おもわず笑ってしまう。
「じゃあね、猫さん」
 猫と会うのは、これで最後になるだろう。
 窓を開けると、猫はするりとベランダに出て隣の部屋へと帰っていった。