今年で三十歳になる私は、茅花 綺(ちはな あや)という名のアマチュア小説家だ。
 これはペンネームで、本名の茅嶋 知花(かやしま ちはな)にちなんで付けた。
 子どもの頃から空想好きだった私は、小説家になるのが夢でちょっと不思議な要素がある物語をたくさん書いていた。
 WEBの小説投稿サイトに小説を掲載しながら、いろいろな小説コンテストに応募するようになったのが大学生の頃。
 なかなか芽が出なくて夢を諦めそうになったが、ついに三年前、ある出版社のライト文芸小説賞に応募した作品が大賞を獲った。
 受賞した小説の舞台は、東京に似ているけど架空の『さわがし町』
 そこに、ある日突然、耳折れ猫がオーナーパティシエの洋菓子店ができる。
『さわがし町』は、いつも何処かで事件が起きている文字通り騒がしい町。耳折れ猫のパティシエが、持ち前の適当さと宝石みたいなキラキラしたスイーツで困っている人助けたり癒やしたりする。
 私が書いたのは、そんなお話。子どもの頃からずっとあたためてきてようやくカタチにしたものだった。
 耳折れ猫のパティシエのモデルは、幼馴染の飼っていた猫のメレンゲ。小説の中では、名前をアヤにした。
『さわがし町』に突如として現れた洋菓子店は、pâtisserie AYA。
 淡いブルーの屋根に薄いベージュの壁。木製のピンクのドアには、パティシエの帽子とエプロンをつけた耳折れ猫のプレート。可愛い外観のその洋菓子店の物語を、私は幼馴染の栗栖 綺(くるす あや)のために書き上げた。
 受賞作には書籍化の話がきて、デビューに向けて準備を進めていた。けれど、結局、受賞作の出版はできなかった。
 それが今から二年前のこと。それ以来、小説を書けていない。
 

 カリカリカリカリ……。
 ノートパソコンに向かって三時間が過ぎた頃、窓のほうから音がした。
 ふと見ると、フロアクッションに座っていたはずの猫がベランダの窓のそばに移動していた。
 後ろ脚で立つようにして前脚の爪でカリカリと窓をひっかき、外に出たそうにしている。
「家に帰りたいの?」
 声をかけると、猫がなんだかふてぶてしい顔で振り向いた。
 突然やって来たくせに、勝手だなあ。
 だけど、その表情も可愛いから許せてしまう。それに、猫のおかげか今日はひさしぶりにパソコンの前で集中できた。
 と言っても、書いていた原稿は新作小説ではなく、生活のために最近始めたライターの仕事用原稿だ。ちょうどペットに関係する記事の依頼を受けていたこともあり、もふもふに触れたことでいい感じに脳が刺激されたのかもしれない。
 猫の隣に行ってしゃがむと、耳の後ろをグレーと白の混ざった毛の流れに沿ってそっと撫でる。指がふわふわのやわらかな毛に沈んでいく感覚が、とても心地良かった。
「来てくれてありがとね」
 お礼を言うと、猫がちょっと面倒くさそうに目を閉じながら「にゃあ」と答える。反応が返ってきたことに、ひさしぶりにきゅんと胸がときめいた。
 そういえば、ここ最近は誰かと会話することすらなかった。
 誰かから反応があるって、嬉しいことだったんだな。そんなあたりまえなことを、猫を前にして思い出す。 
 いろいろと『ひさしぶり』を体験させてくれた猫におやつでもあげたい気分だが、他所の家の子に勝手はできない。もちろん、ひとり暮らしの部屋に猫のおやつなどないのだが。
 ベランダの窓を少し開けると、猫はその隙間に体を滑り込ませて外に出た。こちらを振り向きもせずに猫が潜っていったのは、左隣。301号室のベランダの衝立の下。
 やはりお隣から来た猫だったようだ。
 そろそろご主人様が帰ってくる時間なのか、はたまたお腹が空いたのか。
 何時間も人の部屋に居座っておきながら、去り際はあっさりしている。そんな猫の気まぐれさに、私はひさしぶりに「ふふっ」と声を出して笑えたのだった。