二年前に綺が亡くなったとき、私は葬儀に出なかった。綺の死を認めることが、怖くて悲しすぎたから。
だけど、ちゃんと頭では理解していた。綺が、もういなくなってしまったこと。だから……。
「……そうだったらいいな、って思ってた」
でも、そうじゃないこともほんとうは心のどこかでちゃんとわかっていた。
「綺がいなくなったあと、チハのお母さんから聞いたんだ。チハが家から出られなくなったこと」
奎くんの言葉に、ドキッとした。
奎くんと綺のお母さんと私の母は今もつながりがある。
綺を失った痛みは奎くん達家族だって大きかったはずなのに、私ばかりが弱くて情けない。
「だから、pâtisserie AYAを作った。チハはきっと、綺のことになら興味を持つと思ったから」
恥ずかしくてうつむく私の耳に、奎くんの声が届いた。
「でも、チハは頑固だからなあ。スフレがチハの部屋に入り込まなければもっと長期戦になってた。もっと早く、スフレに力を貸してもらっとけばよかったなあ」
奎くんがクスッと笑う声がする。
ドキッとして足元を見ると、腰を落ち着けてくつろいでいるスフレと目が合った。わずかに口元を動かしたスフレが「なに?」と不敵に笑っているように見える。
「も、もしかして奎くん……わざと窓のカギを開けてスフレのこと……」
「いや、初めの二回は完全に俺の油断。こいつ、いつのまにか爪でスライドドアを開けるスキルを習得しててさ……でも、それ以降はわざと。チハが首輪に手紙つけてくれるのが嬉しくて」
視線をあげると、奎くんがくしゃっと笑う。その笑顔に、胸がドクンと鳴った。
奎くんのことは昔から知っているはずなのに、彼がこんなふうに表情を崩して笑っているのを近くで見たのは初めてだ。
「じ、じゃあ……私が隣に住んでることも初めから知ってた?」
「そりゃあ、まあ……ていうかこの部屋、ほんとうは綺が住む予定だったんだよ」
「え……?」
「帰国したらここに住んで、今の場所にpâtisserie AYAをたてるってところまで計画を立ててさ。マンションの契約とか、俺がこっそり手伝ってて……留学から帰ったら、チハにサプライズ報告するつもりだったみたい。結局叶わなかったんだけど……それで、俺がスフレと住むことにしたんだ」
「全然、知らなかった……」
一年半くらい前に隣の家の人の出入りがあったことは知っていたけど、綺がいなくなってから外の世界とのかかわりとたっていて、まったく気付かなかった……。
「そりゃそうだろ。気付かれないようにしてたし。それにチハは、綺がいるときもいなくなってからもあいつのことしか見てないもんな。店でひさしぶりに会ったときも、すげー驚いてたし」
奎くんが唇を歪めて苦笑いする。さっきとは対照的な悲しそうな笑顔が、私の胸を苦しくさせた。
「ごめんなさい……ケーキを取りに店に行ったとき、ほんとうは奎くんの顔を見なくてもわかってたんだ。pâtisserie AYAのオーナーパティシエは綺じゃないって。焼き菓子の棚にメレンゲ似のクッキーを見つけたから」
二年前、綺にサプライズプレゼントをしたいと言った私に猫のアイシングクッキーの作り方を教えてくれたのは奎くんなのだ。
「今さら気を遣ってくれなくてもいいよ」
作り笑いを浮かべる奎くんに、私はゆっくりと首を横に振る。
「そうじゃない。私、ちゃんと前を歩いて進むために奎くんとスフレに会いにきた」
「チハ……?」
「猫のクッキーは、大切な人へのプレゼントにおすすめなんでしょう」
目を見開く奎くんに、きゅっと口角をあげて笑ってみせる。誰かに笑いかけるのなんてひさしぶりで、今はまだ表情筋をうまく動かすのが難しいけど。いつかまた、自然に笑えるようになればいいと思う。
「綺がいなくて悲しかったんだ。今もすごく悲しい。綺の時間が止まってるのに、私の時間だけが動いていていいのかなって罪悪感に苛まれる。だけど、奎くんが私に届けてくれたプリンもケーキもおいしくて……スフレのふわふわに触れるのは心地がよくて……ひさしぶりに、感情が動くのがわかって……だから、奎くんとスフレと一緒に、私も止まった時間の先を歩いてもいい?」
泣かないように。そう決めてきたのに、メガネの視界が曇る。その向こうで、ぼんやりと奎くんが笑うのが見えた。
「もちろんだよ」
奎くんの声が耳に届くのと同時に、私の足元で「にゃあ」とスフレが鳴いた。



