二年前、パティシエになるために留学をしていた綺が帰国した。
 ちょうどそのタイミングで賞を取った私の小説の書籍化が決まった。
『日本に着いたら一番にお祝いを伝えに行くからね!』
 綺がそう言うから、私はマンションの302号室で綺を待っていた。
 綺を喜ばせたくて、こっそりサプライズも準備した。
 メレンゲをモデルにした耳折れ猫のアイシングクッキー。
 フランスで修行してきた綺は、日本に帰ってお店を開くことを考えていて。クッキーは私からのお祝いだった。
 パティシエになる人にお菓子のプレゼントもどうかと思ったけど、綺だったら喜んでくれると思った。
 だってクッキーは、pâtisserie AYAの看板猫を模ったものだから。
 だけど、どれだけ待っても綺は来なかった。
 連絡もとれず、ようやく電話が繋がったと思ったら奎くんが出た。
 その電話で、綺が亡くなったことを報された。
 私のうちに来る途中での事故だった。
 私のせいだと思った。
 綺は早く私にお祝いを伝えるために急いでいたんだと思う。事故に遭った綺の手には花束握られていて、そこにはメッセージが書かれていたそうだ。
『チハ! 夢が叶っておめでとう!』
 全然めでたくなかった。だって、綺の時間は止まってしまって、もう夢を叶えられない。
 それなのに、私だけが。私の時だけが動き続けていくなんて。
 耐えきれなかった。
 綺の不在を受け入れられなかった。
 待っていたら、いつか綺がひょっこり姿を表すんじゃないか。そう思ったら、家から出られなくなった。
 仕事に行けなくなった。書籍化にも前向きになれなくなって、出版の話を断った。
 綺の家族には――、特に奎くんには申し訳なくて、綺の葬儀にも顔を出せなかった。
 そうして、二年が経ったのだ。
「待って、知花!」
 奎くんに手首をつかまれて立ち止まる。
「驚かせてごめん。だけどせめて、これだけは受け取って。ちょっと崩れちゃったかもしれないけど」
 奎くんが差し出してきたのは、側面に両耳の折れた看板猫のイラストが印刷されたケーキ箱。
 メレンゲそっくりの猫は、たぶん子どもの頃の綺が描いたものだ。
 奎くんも、高校を出たあとは製菓学校に行ってパティシエを目指していた。
 いつから奎くんがパティシエになりたいと思っていたのかはよくわからない。
 だけど奎くんは、綺の夢を継いだんだと思う。
 ふたりは仲が良かったし、奎くんにとって、双子の綺はきっと自分の半身みたいな存在だった。
 だからこそ、私は奎くんに顔向けできない。
「ごめんなさい。私にそれをもらう権利ない……」
「なんで? これは一番に小説を読ませてくれたお礼だよ」
「でも、私のせいで綺は――」
「綺は、チハのせいだなんて思ってない。それよりもきっと、小説を書かないチハに怒ってるんじゃないかな」
「そんなはずない……だって、私の夢だけ叶ったって意味がない」
 涙声で言い返すと、奎くんが眦のあがった目をふっと細めた。
「綺の夢は俺が叶えた。あの店は、綺の理想を詰めた綺の夢だよ。だから、今度は知花の番。はい、これ」
 奎くんは私にケーキ箱を無理やり押し付けると、店へと戻っていった。
 フラフラした足取りで家に着くと、スフレはもういなくなっていた。
 こんなときこそ、ふわふわの身体に触れて癒されたかったから少し悲しい。
 奎くんが渡してくれた箱の中にはケーキが二種類入っていた。
 約束していたストロベリーショートケーキと秋の新作のショコラマロンミルフィーユ。
 箱の中に入っていた木のフォークを手に取ると、ショートケーキを掬う。
 口の中で溶けていくスポンジは、今まで食べたケーキの中でいちばんふわふわで。生クリームはしっとりなめらかで。
 綺と笑って想像していたとおりの、世界でいちばん、甘くて優しい味がした。