カリカリカリカリ……。
ベランダのほうから妙な物音が聞こえてくるような気がしたのは、洋菓子店・pâtisserie AYAのSNSアカウントを布団の中でぼんやり眺めていたときだった。
――――――――――――――――――――――――
【pâtisserie AYA】
秋の新作できました!
・キャラメルりんごのミルクティープリン
・ショコラマロンミルフィーユ
・洋梨のクリームチーズタルト
――――――――――――――――――――――――
pâtisserie AYAは、一年ほど前に近所にオープンした洋菓子店だ。
淡いブルーの屋根に薄いベージュの壁。木製のピンクのドアには、パティシエの帽子とエプロンをつけたハチワレの耳折れ猫のプレート。店構えの可愛さはもちろんのこと、ショーケースに並べられたケーキは見た目も味も絶品だと、オープンして間もなく行列ができるほどの人気店になった。
SNSに載せられた新作ケーキは、配置の仕方、器、背景、光の当て方など、最高に美しく、とびきり美味しそうに見えるように計算しつくされて撮られている。
私はまだpâtisserie AYAに行ったことも、そこのケーキを食べたこともない。けれど店のSNSは、ほぼ毎日チェックしている。
投稿されるケーキがイメージと一致するのか。それを確かめるのが、今や日課となっているのだ。
写真に載っているケーキのひとつを手にとって、フォークで掬う。それが舌の上で甘く蕩けていくところを想像しながら目を閉じたとき。
カリカリカリカリ……。
また、ベランダから物音がした。
風の仕業にしては妙だ。鳩でも飛んできたのかな。
しばらく放っていたが、カリカリという妙な物音は収まらない。一度意識すると、その音がやけに耳について気になってしまう。
スマホに表示された時刻は、現在昼の一時半。
「う~、めんどくさい……」
本音はそれにつきるが、世間一般ではそろそろ起きて活動したほうが良い時間だ。
もぞもぞと這うようにベッドから出たわたしは、ベランダの窓の向こうにぼやけて見えた黒い影にぎょっとした。
「え、何あれ」
メガネをかけると、おそるおそる近付いてレースのカーテンを開ける。
カリカリカリカリ……。
「え、ウソ……」
メガネのフレームをあげながら、窓ガラスの向こうに見えたものを二度見する。
ベランダの窓ガラスを懸命にひっかいていたのは、一匹の猫だった。
開錠して窓を開けると、その猫が待ってましたとでもいうように部屋の中に飛び込んでくる。
真ん丸な愛らしい目でワンルームの部屋を見回したあと、猫が腰を落ち着けるのに選んだ場所はローテーブルのそばに敷いた円形のフロアクッションの上。そこで香箱座りすると、ふわーっと欠伸した。
ふわふわな毛に丸みのある体。グレーと白のハチワレ。ぺたんと片方だけ折れた左耳。
突然現れた猫は、幼馴染の家で飼っていたスコティッシュフォールドのメレンゲに似ている。名付けたのは大手料理教室で製菓の先生をしていた幼馴染のお母さん。
メレンゲもグレーと白のハチワレだった。あまりに似ているから、一瞬メレンゲかと思ったが、よく見ると違う。メレンゲの耳は、両方ともが前に折れていた。
それにしても……この子はどこから来たのだろう。
ブルーの首輪をつけているから、きっと飼い猫。
うちの部屋はマンションの302号室。
ベランダのそばに飛び移ってこられそうな木なんてない。だとすると、ベランダの衝立の下の隙間を潜り抜けてきたか……。
うちの両隣には人が住んでいるが、どんな人が住んでいるのかはまったく知らない。
社会人になって一人暮らしを始めてから、私はずっとここに住んでいる。以前は近所の人とも顔見知りだったが、この二年ほどで住人が入れ替わった。そうなってからは、近所との交流を絶ったから、私は両隣の住人の顔を知らない。
「ねえ、君。どっちの部屋から来たの?」
ハチワレ猫の前にしゃがむと、右、左とお隣を指差して訊ねてみる。けれど当然ながら、猫からの返事はない。
フロアクッションに座ったままスンとした顔で私を見つめたあと、どうでもよさそうに目を閉じてしまった。
「……そっけないなあ」
猫は見た目だけでなく、ちょっとつれない仕草まで幼馴染の家のメレンゲにそっくりだ。
でも、目の前に丸まっているもふもふ、ふわふわした生き物はとんでもなくかわいい。
「ちょっとだけ、触らせていただけないでしょうか」
お伺いをたてると、猫が片目だけをうっすら開けてだるそうに見てきた。
好きにすれば? と、その目が言っているような気がする。
「それでは、お言葉に……? 甘えて」
猫の背中にそっと触れると、ふわふわな毛の中に指が沈む。ひさしぶりの感覚がとてもなつかしい。
そのあいだ猫は嫌がることなく、好きなだけ触らせてくれた。
猫のおかげで心が満たされた私は、ひさしぶりに自分の意志で書きたくなった。
猫の座るフロアクッションのそばに座布団がわりに枕を敷くと、ローテーブルに置きっぱなしているノートパソコンを開く。
しばらく猫の様子をじっと観察してから、私はキーボードで文字を打った。



