「あ、やっと帰ってきたのね。紹介したい人が居るの」
ある日、帰宅すると珍しく先に家に帰ってきていた母に玄関でそう告げられ、リビングへ案内されると、そこには見知らぬ男が一人、ソファに座っていた。
「こちらが、新しくお父さんになる人、名前は——」
——え、なんて?
母の言葉に君の思考がぴたりと止まる。耳がぼんやりと音を拾うけれど、それを君はうまく処理することができなかった。
心臓がどくどくと動いて、嫌な汗がぶわっと吹き出す。
今、なんて言った?
「ほら、何してるの。さっさと挨拶しなさい」
ピシャリと告げられた母の言葉で、君は目の前の現実に引き戻された。
あ、挨拶? この人に?
品の良さそうなその男は、にっこり微笑んで自分の名前を告げると、君に向かって右手を差し出してきた。
——答えなければ。
今君は挨拶を求められている。無視していると思わせてはいけない、嫌な気持ちにさせてしまうから。黙っていると怒っていると捉えられて、不安にさせてしまうだろう。早く対応しなければ。
それに何より、母がこの手を取り君が挨拶をすることを強く求めている。
それに応えなければ。応えなければ。
思い切って君は目の前のその手を取った。ぎゅっと力強く握られた君の手は、他人の熱がじわりと手のひらに広がって、そこから君の中へ、何かが入り込んでくるような感覚がする。
知らない人の、知らない感情。知らない繋がり。知らない誰かが、土足で君の中に、そのテリトリーに踏み入ってくる。そんな感覚。
——気持ち悪い。
吐きそうなほど喉元まで感情が込み上げているのに、そんな感情を外に出すわけにはいかなかった。けれどもう、ここまで込み上げている。口を開けばきっと飛び出してしまう。
君はぎゅっと喉を締めて感情を飲み込んだ。
「ほら、名前は?」
母がぐずぐずしている君を急かしてくる。そうだ、名前。挨拶。言わないとこの状況を終わらせることができない。
押さえつけることで必死に閉じた口を君は無理やり開いた。息を吸って声を出そうと試みるも、グッと喉が詰まる感覚がする。身に覚えのある感覚だった。
それを察した母が、「あぁ、また?」とため息をつく。
「ごめんなさい、この子昔から話すのが下手で。なかなか喋らないの」
「最近できるようになってきてたんだけど、」と、俯く君を刺すように、上から見つめる母の視線を後頭部に感じる。
できるならやれと言われている。早くしろと言っている。
でも声が出ない。出せるようになってたのに。なんで? 喉が詰まってる。なんで?
「大丈夫だよ。初めての対面だから緊張したよね、ごめんね」
手を離すとその人がそっと君の肩に手を置いた。
「ごめんなさい、気を使わせてしまって。私がちゃんと躾けられなかったのがいけないの」
母の声がする。
「君はずっと一人で頑張ってきたのだから、自分を責めちゃいけないよ。これからやり直していけばいいんだよ」
知らない人が、知ったように母を慰める。
「君が心を開いてくれるまで、ゆっくり待つからね」
それは、いつまでかかることなのだろう。心を開かなければ終われない、ということ?
それとも、心を開いてからが始まり、ということ?
今ここから何が始まる?
いつまで続く? 終わりは来る?
感情が、胸の奥に詰まって破裂しそう。
もう無理だと、無理やりお辞儀をすることでその場を離れ、君は自分の部屋に入った。
怖くて怖くて、君はベッドに潜り込むと、頭まで布団をかぶってじっとしている。
汗が止まらない。
暑い。
なのに寒い。
寒い、寒い——なんで?
なんで今、君はそんな状況に陥っているのだろう。
さぁ、考えてみよう。
現状、君は知らない男と挨拶するよう言われたね。
確か、新しくお父さんになる人、と言っていた。
初めてみたその人はどうだった? 怖そう?
いや、良い人そうだったね。君の母親よりよっぽどしっかりしてそうだったよ。
じゃあそんな人となんで挨拶できなかったの?
なんで君は今ここにいるの?
なんでこんなに怖くて仕方ないの?
扉の向こうにまだ二人がいると思うと、身動きできないくらい君は恐れている。
なんで? どうして?
——うるさいっ!
君は耳を押さえて縮こまったけれど、その声は止まらない。
それはそうだ、だってこれは君の中にいる知らない誰かの声だ。
それが君にずっと頭の中で話しかけてくる。
いつも考えろと、自分の現状を理解し、解決させるために行動しろと、君にその声は訴えてくる。
人に話せない分、この声が君と話し合ってくれていた。幼い頃からずっとそう。こういう何かの節目に現れて、君を導くように語りかけてくる。最近はこんな風に出てこなかったのに。
今はもう黙っていて欲しい。うるさくて仕方ない。そのせいで頭がガンガンする。
ガンガンして、ズキズキして、グルグルする。
イライラして、ムカムカして、真っ赤になって、真っ黒になる。
ムカつく、イラつく、なんでなんて考えなくてもわかるだろ、いきなりこの人がお父さんだなんて紹介されて、受け入れる前提で話が進められて、あの女、ほんとイカれてるのか!
ずっと二人の家族だっただろ! だからずっと我慢してきたんだ、ようやく自分の世界で息ができるようになったのに、声が出せるようになったのに、なんでまたこんなことに! なんでいつもこうなるの!
もう君の頭の中はめちゃくちゃだった。こんなに怒りと嫌悪を感じるのは初めてのことで、それをどう制御したらいいのかわからない。でも外に出したらいけないものだとわかってるから、じっと丸くなって耐えていた。押さえ込んで、守っていた。
——どれくらいそうしていただろう。
トントン、と、君の部屋のドアがノックされて、開かれる音と共に母親の声が聞こえてきた。
「もう帰ったわよ。いつまでそこに居るの?」
怒ってる。それは君の耳に染みついた母の声色だった。
「本当は夕飯を一緒に食べる予定だったのに、それも無くなったの。わかる? 今自分が何をしたのか」
知らない、わからないそんなの。
「折角の機会だったのに、なんでこうなの? なんでいつもこんなのばっかりなの。私がどれだけ頑張ってきたかわかる?」
知らないよ、そんなこと。そんなことこっちが聞きたいよ。
「……はぁ、何も言わないのね。いつもそう、何考えてるかさっぱりわからない。付き合わされるこっちの身にもなってよ」
パタンと、ドアが閉まる音がした。
——付き合わされるこっちの身にもなってよ。
その言葉が、グサリと君の心に突き刺さる。深く、深く刺さって、致命的な部分に触れている。
君に付き合わされているのだとしたら、君がこんな弱くて喋れない人間じゃなければ、始めから普通の人間だったなら、全てはもっとうまくいって、君も、君の周りの人間も、母親も、もっと違う世界を生きられていたのかもしれない。
始めから全部、君のせい?
痛い。
痛いね。
苦しい。
苦しいね、かわいそうに。
頭の中の声が寄り添ってくる。慰めてくる。誰かの声、なんて言っても、結局全部自分の声だ。
だって全部、君にしか聞こえない声なのだから。
君が君のために現状を把握し、解決へ向かうために作り出しているだけなのだから。
その声が、問いかけてくる。
あの時さ、蘭はどうしたのか、覚えてる?
——あの時。
はっと君の脳内に浮かびあがったのは、泣きながら窓の外に立つ小学生の蘭の姿。
そう。あの時蘭は君に助けを求めにきたよね。頼る相手が君しかいなくて。でもそれって蘭には君が居たってことでもあるよね。
じゃあ君には?
君には誰が居る?
「……蘭が居る」
そうだよ、君には蘭が居る。
蘭は、付き合わされるなんて言わない。
蘭は、何考えてるかわからない君に対して、それでいいのだと言ってくれる。
それが自分達なのだと、蘭は君を受け入れてくれるはずだ。
バッと布団を剥いだ君は、そのまま窓から外へ出る。アパートの階段を降りて、下の階の蘭の家のインターホンを押す。
パタパタと中で人が動いた音がしたと思ったら、ガチャンと玄関のドアが開かれた。
「え……ちょ、どうしたの? 泣いてるの?」
俯いて佇む君の顔を蘭は覗き込んで、ギョッとすると急いで君を自宅へ引き入れた。そのまま蘭の部屋に通されるといつものクッションに座るよう促され、隣に座った蘭が君の背を優しく撫でる。
「どうしたの?」
優しくも、戸惑いを隠せない蘭の問いに、君は答えようと口を開いて、その瞬間、心の中に溜まった感情全部が大きな波となって押し寄せてくるのを感じて、慌てて口を閉じる。
全部は言えない。言ったらいけない。汚い感情を吐き出すことになる。
するとまた、喉が詰まって苦しくなる。声が、出てこない。
「……怖いの?」
また君が話せなくなっていると察した蘭が、丁寧な声で訊ねてくる。それに君は迷いつつも、うんと頷いた。
「そう、怖かったんだ。それは辛かったね」
君に何が起こったのか、蘭は何もわからないはずなのに、わかっているように君に寄り添う言葉をくれる。
「でもわたし、辛い時の乗り越え方知ってるよ。それはね、人に頼ること。だってわたし、経験あるし」
そう言って、蘭は君をぎゅっと抱きしめる。突然のことで君はとても驚いたけれど、じんわりと蘭の体温に包まれると、強張った身体と心が一緒に柔らかくなっていくような感じがした。
解けて崩れていく、そんな感覚。
「あの夜のこと、覚えてる? わたしが君に泣きついた時。君に頼って、わたしはあの日、確かに君に助けられたんだよ。だから君もわたしを頼るべき。わたし達ってそういう二人だったじゃん」
「だからうちに来た君は大正解」と、ぽんぽんと背中を軽く叩きながら蘭は思い出を語る。まるで子供を寝かしつけるようなその優しさに、止まりかけていた君の涙がまた込み上げてきて、ぼろぼろとあふれだした。
「君も泣くことあるんだね……初めて見た。こんなに長く一緒に居るのにね」
しみじみとその事実を告げる蘭の言葉で、本当だ、と君は思った。記憶にある限り、君がこうして人の前で泣いたのは初めてのことだった。
だってうるさくすると怒られたもんね、と、頭の中の声が言う。だから君は泣けなかったし、話せなかったんだよね、と。
だけど今はそうじゃない。蘭は君を怒らない。
ならきっと、大丈夫。
大丈夫。君はちゃんと話せるよ。
「……蘭」
そうして、君は一つずつ、自分の頭を整理しながらゆっくりと今起こった出来ごとを、抱いた感情を、口から外へと出していった。
長い時間がかかってしまったけれど、その間、蘭は一度も急かすようなことはしなかった。だから君は、君が思う以上に蘭に甘えて、全てを晒していって、それを蘭はうん、うんと頷きながら大切に聞いてくれた。一つも漏らさず、君の全部を受け取るように。
話し終わった頃には、君は頭がぼうっとするほど力を使い果たし、君の中身の全てが空っぽになっていた。
何も無くなったのではなくて、嫌なものを外に出せたということ。
今ここには、まっさらになったただの君が居た。
「……これで全部?」
君の様子を見て訊ねる蘭に、君はうんと頷く。
だって本当に、これで全部だったから。わかったと蘭は頷くと、少し考えた上で口を開いた。
「もしわたしが君の立場だったなら、絶対同じようにパニックになると思う。で、大暴れしてお母さんにわからせる。まずわたしをなんとかしないとその話は先に進まないぞって。だってそうじゃん? 当然の権利だよ」
うんうんと頷く蘭に、さすがだと君は呆気に取られた。自我が強いと幼い頃から母親を困らせてきただけのことはある。
「大騒ぎして困らせたっていいじゃん、だってお前の子なんだぞって言ってやんな。我慢させ過ぎたお前のせいだって。向こうは気づいてないんだから。いいんだよ、全部君が請け負わなくてさ。君ってそういうところあるよね。自己犠牲タイプだなって思う」
「ほら、ラムネの×の話、覚えてる?」と続ける蘭に、もちろんだと君は答える。部活の帰り道、いつもの橋で蘭の×を全部引き受けることを伝えた時の話だ。
「わたしはさ、君にラムネを渡してたのは、同じ運勢をわけあいたいなって気持ちがあったというか、同じ人生を歩めますようにっていう願掛けだったというか……だから結局×とか⚪︎とか、君が居ればどっちでもよかったんだよね。×でも君と一緒なら⚪︎になるっていうか」
「……でも、川に投げようとしたことあったよね?」
「投げようとしたのに君が食べちゃったから、そういう考え方をするようになったんだよ! 食べさせちゃってショックだったんだから……でもそこで君が×じゃなくなるって言いだして、そういう考え方もあるんだなって思った。君はいつも突然すごいこと話しだすからびっくりするんだよ」
すごいこと、と蘭が言うそれはつまり、思いつきもしなかったこと、という受け取り方でいいのだろうか。
君的にはすごいことをした覚えがないので、いまいちピンとこないけれど、そう変換すれば納得がいった。君にとっても蘭の言動はいつも思いつきもしないものだったから。
「だから何が言いたいかっていうと、わたしは君に自分の×を押し付けて幸せになるつもりはないってことで、もし君が×を引いたなら、一緒に×の運勢を歩んでいきたい覚悟があるっていうか、一緒なら×でも嬉しいから⚪︎になるってこと。ていうかさ、」
ゴソゴソと、蘭が鞄の中を探ると、まだ新しいラムネのシートを一枚取り出して、「はい」と君に手渡した。
「君がわたしに今みたいに全部くれるなら、わたしの全部も君にあげるし、わたしの運勢ごと未来もあげる。そう、そういうこと。そういうことがずっと君に言いたかったんだと思う。だから何も気にせず今日みたいに君はわたしに全部吐き出しな。お母さんとかお父さんとか、友達とか部活とか、いろいろあると思うけどさ、全部全部君の心はわたしに見せて。わたしの心も、君に全部あげるから。交換して、大切の持ちあっていこうよ」
嬉しそうに、とてもすっきりとした顔で蘭はそう言って、幼い頃のように君に小指をさし出す。指切りげんまんの合図だ。
君は自然とその指に自分の指を絡めていた。蘭との指切りは何度もしてきたから、差し出されたらどうするものか身体に染み付いているし、この時、蘭の提案を当然のもののように君は受け取っていたから、お互いの全部をあげるというそれが、君の心を引き寄せた。母のことでだいぶ君の心はボロボロになっていて、そこに特別大きな愛情を注がれたから、考えるまもなく君は喜んで飛びついたのだ。
もう、それが一番良い。始めからそういう二人だったのだからと。
それが一番、今の傷ついた君が、過去も未来も受け入れられる答えだった。
——次の日、蘭が彼氏と別れたと聞いた。
問いただすと、蘭は当然の顔をして答えた。
「だって君の全部をもらった分、わたしの全部は君にあげるんだし」
それが間違っているのだと警告する声が頭の中で聞こえている気がしたけれど、「そっか」と、君は受け入れていた。
蘭が言うならそういうことなのだ。君とのことで、蘭が求めてくれたのはそういうこと。
母とはあれから険悪なままで、また声の調子が悪くなっていた君にはもう、蘭しか居なかった。
蘭しか居ない。けれど君の世界はそれがあればまた回り出す。
蘭が必要だった。蘭が居ないと息もできない弱い人間、それが君。
そう割り切ってみると、君はまた生きやすい世界に戻ってきていた。
あんなに時間をかけて広げた世界は、あっという間にまた二人きりの世界になっていた。



