蘭はその日、帰ってすぐに例の男子に連絡をしたらしい。それからお互いSNS上のやり取りがあって、そのうちに実際に会うようになり、ついには付き合うこととなった。
そうなると、君と居た時間の一部をその彼氏に使うようになるわけで。
「ごめん、明日は彼氏と帰る約束してるから別ね」
部活終わりに明日は部活休みだねという話題になり、いつもの橋を渡り始めると蘭は、さらりと君にその報告をする。それに君はいつも通り、うんと頷いた。折角の少ない休みなんだから彼氏と過ごすのは当然のことだと思っている。
「君は明日何するの?」
続いて蘭にそう問われて、君はうーんと考える。いつも蘭といて蘭に誘われるままに休日も過ごしていたから、別にこれといって君の中で何かが決まっているわけじゃない。
「……別に何も」と答える君に、「そっか」と、蘭は前を向いたまま答え、鞄からラムネを取り出すと、プチッと一粒押し出す。
「これあげる」
手渡されたそれを受け取り君がそのまま食べると、「食べたね?」と蘭はニヤリと笑った。
「はい、ひらめき×でした〜! 明日の予定はあんまりひらめかない方がいいかもね」
どうやらバツが出たとわかってて君に食べさせたらしい。毎日のように蘭が食べているとはいえ、ずいぶん×が出るものだと、君はその占いを疑う。子供が泣くぞと。
「……×ばっかり食べてる気がする」
不満げな表情で呟く君を見て、蘭は「ごめんごめん意地悪した!」と、笑いながら君の頭を撫でつけた。
「本当は◎! 良いことがひらめくかもね」
「……嘘だ」
「本当だよ〜」
そういってサッとラムネのシートを隠す蘭の動きをみていればバレバレだった。なんだかんだ言って君はいつも蘭に×をこっそり押し付けられているし、それに君が気づいているのを蘭もわかっている。
つまり、蘭なりの君への甘え方なのだ。
「まぁでも実際×はなくてもいいよね、だって気分落ちるだけだし。どーせ嘘だってわかってるのに毎回確認して意識しちゃうのなんでだろう」
蘭はこの占い付きのラムネが好きだ。子供の頃からではなく、中学生になってからだと思う。毎回絶対に蘭はその占い結果を確認している。嘘だなんて口では言っているけれど、きっと信じたい何かがあるのかもしれない。慰められたい何かというか、縋りたいもののような何か。君にはそういう思考回路がよくわからないけれど、それで蘭が少しでも楽になれるならそれでいいと思っている。
「……いいよ、×で」
蘭が不安になる×は、全部君が貰ってあげればいいだけの話だ。そうしたら蘭はずっと変わらず元気でいてくれる。
「蘭の×は全部食べてあげる」
君は蘭にとってそんな役割でいいのだ。だって蘭は君にたくさんの◎を与えてくれた存在だから。今君がここでこうして話せているのも全部蘭のおかげだったから。
けれど、君の言葉に蘭はグッと何かを飲み込んだような顔をすると、フンッとそっぽを向いてしまった。
「別にそんなこと望んでないし。本当に君ってわかってないよね」
どうやら君は蘭の機嫌を損ねてしまったようだ。こうした気持ちのすれ違いのようなものが最近多くなっていた。
元々の考え方や感じ方が違うタイプなのだと最近の君は感じ始めていて、君が自分の気持ちを言葉にする度に、蘭の考え方との違いが露わになる。
だから蘭には間違えないように黙るんじゃなくて、伝えていきたいと思っているのに、なんだか上手くいかなかった。
蘭は昔から変わらず素直に気持ちを表してくれていると思う。それなのに上手くいかないとするのなら、君に責任があるのだと君は感じている。
どうすればもっと伝えられるのだろう。
先を行く蘭の背中を見つめながら君はため息をついた。悩んだって仕方ないのだ、力不足の自覚がある。
今の君はその後ろを自分のペースで着いていくしかなかった。
+
「蘭ちゃん今日は彼氏と帰るんだってね」
次の日の放課後。帰る準備をしていると、原が君に声をかけてきた。
「最近よく二人でいるの見るなと思ったらいつの間にか付き合ってるっていうし。びっくりだよ」
「まぁ元々モテてたよね、蘭ちゃんって」と、原は言う。それに君はうんうんと強く同意する。本人が気づいてるのかどうかはわからないけれど、蘭が人に好かれるというのはそういう意味も含まれている。
「でもまさかあの蘭ちゃんがって感じ。君しか見えてなかったからね、本当。依存してるっていうか……あ、いや、悪く言いたいわけじゃないんだけど、でも言葉にするとそういうことになるじゃん?」
君もそう思ってたでしょ?と、まるで共通の理解のように原が告げたその概念に、君は目を丸くする。
——依存している。
原の告げた言葉の意味はわかっている。けれど君にはそれが君との関係の中での蘭と結びつかなかった。
蘭が君に依存している?
君が蘭を縛っているんじゃなくて?
ピンときていない君の反応を見て原はしまった、という顔をする。原は君が気づいて受け入れているものだとばかり思っていたのだ。
ごめんと謝ると、原は話し出した。
「蘭ちゃんはさ、昔から君しか見てないじゃん。君だけ特別で、それは君もわかってるよね? 君が前はもっと本当に喋らなかったから、蘭ちゃんはそのサポートをしてるって感じになってたけどさ、実際のところ、君と話せるのは蘭ちゃんだけだったんだよ。だって君に話しかけようとしても蘭ちゃんが間に入っちゃうから。それで結局みんな蘭ちゃんと仲良くなるんだけど、多分仲良くなることが目的じゃなかったと思う。誰にもとられないようにしてたんだと思うよ、君のこと」
「ほら、君になんで喋らないか聞いたあの時、あのタイミングを逃したらもうずっと君と話すことなかったと思うし」と指摘され、君はあの時のやり取りを思い返す。当時、君にとって違和感はこれっぽっちもなかったけれど、確かにあの時話したから今、原とこうして話せる関係になっていると説明されると、他に君にはそういう機会を得た友達がいない事実に気がついた。
「だから君と蘭のクラスが変わってどうなるかと思ったけど、本当、部活入ってよかったね。世界が広がったんだよ、君と蘭ちゃんの。それでいいんだと思うよ、君も随分変わったしね」
「…………」
「あ、意地悪とかじゃなくて本当に、本心で言ってる。仲良いまま関係が変わっていくことって普通だと思うし……えーと、なんていうか……今の話きいて、君は落ち込んでない……?」
大丈夫?と、心配そうに君の様子を窺う原に、君はうんと頷いた。
落ち込んでは、ない。今の話は全部君の知らない君の周りの世界の話だったけれど、落ち込むことではなかった。
だって、結果としてはいい方向に進んでいる、ということなのだから。
衝撃的ではあったけれど、でもそれだけ。
君一人ではわからなかった蘭との正しい距離感を教えてもらっただけ。
「……ありがとう、ようやく気づいた」
君は蘭に依存されようが、蘭に縛られようが何も迷惑と思わない。むしろ君にはその世界しかなかったのだから、いつも通りの生きやすい世界といってもいい。
けれどそれは間違っているのだと、今、原が教えてくれた。だって、世界は広がっていく方が正しくて、関係が変わっていくことは普通のことで、それが二人の仲を悪くするようなことではないのだから。
蘭にとっても君にとっても、そうあるべきなのだと、今までが少し歪だったのだと外の世界から見た常識を教えてもらえた。
蘭の世界を広げたい。それは君も思っていたこと。けれどそれにはどうやら君の世界を広げる必要もあるみたいだ。
君が蘭に縛られる限り、蘭も君に縛られてしまうなら、君たちは一人と一人にならなければならない。
「……原が居てくれてよかった」
少し寂しいけれど、二人きりの世界にさようならをしよう。
君の、蘭と二人きりの世界に。
今ここで君はその覚悟を決めたのだ。
「……よかったら、一緖に帰らない?」
君の提案に、原はものすごく驚いた顔をしたけれど、すぐに笑顔で「うん、帰ろう」と頷いてくれた。
君が蘭以外の誰かと一緒に帰るのは、これが初めてのことだった。
——その日から、段々と君の世界は変わり始めた。
原との距離が近くなると、その分だけ次は原の世界を君は知ることになる。
原は真面目でクラス委員をしているタイプ。明るく色々な人に接するけれど、特定の仲の良い友達も数人居て、君はそこに少しずつ混ざるようになった。
そうして原の友達はいつの間にか君の友達にもなって、君は人と話すことが増えていった。話さなければならない場面が増えた分、言葉を口にすることに慣れていったというか。
今までの君と蘭との会話は、蘭から投げかけられることに答える形が基本形で、君が黙っていても何も気まずいことも間違っていることもなかったけれど、今君が居る蘭との世界の外側はそうはいかない。
黙っていれば怒っているのかと不安にさせてしまうこともあるし、無視をしているのかと嫌な気持ちにさせることもある。自分の都合なんて関係なく、人の希望を読み取りそれに応える反応が必要とされるのだ。
今までの世界で君は自分がどれだけ楽をしてきたのか、それを突きつけられる日々を送ることになり、気疲れすることもあったけれど、それでも君は自分から世界を閉ざしてしまおうとは思わなかった。
だってここには、新しい毎日が、広い世界が広がっていたから。
君が、君のままで居ればそれでいいだけの世界ではない。人との繋がりの間に必要なものがたくさんある。だから毎日君は成長していく。新しい自分になる。
そんな君を支えて見守ってくれる、優しい人たちに恵まれた環境だった。変わるなら今だった。
今、君の世界は急激に変化し、君は急速に変わっている最中だった。
「部活行こー」
放課後になると蘭が君を迎えにくるのがいつものお決まりだ。今日もその呼びかけで、君はクラスメイトに挨拶をしながら蘭の元へと向かう。
「お待たせ」
「ううん、行こ」
君をつれて歩き出す蘭に、「あ、ちょっと待って」と声をかけると、君は急いで教室に戻り、友達に借りていたものを返してからもう一度蘭の元に戻った。
「ごめんね、行こうか」
「何だったの?」
「漫画返すの忘れてたから」
「借りたんだ」
「うん、面白かったよ。蘭にもおすすめ」
そして君はそのタイトルを告げたけれど、蘭は「ふーん」と、あまり興味がなさそうな様子だったので、あ、求められてないなと感じた君は漫画の話題はやめることにした。
「そういえば、明日蘭は彼氏と出かけるんだっけ」
そう君が話題を変えてみると、蘭は「まぁ、そうだね」なんて人ごとみたいに答える。なんだか上の空、というか。
「……蘭?」
様子を窺うように君が訊ねると、ハッとした蘭が、「何?」と笑顔で君の方を向いた。その反応に、君はどんどん不安になる。
「もしかして調子悪い? 今日は休んだらどうだろう。先輩に伝えておくよ」
そんな気遣う君の顔を、蘭はじっと見つめながら、「ううん、大丈夫」と首を振る。が、君は心配で仕方なかった。だって、最近の蘭はよくこうなるから。
急にどこかに思考を飛ばしているような、違う世界に行ってしまう瞬間があって、君の言葉なんて聞こえていないような時がある。
「なんでも言ってよ。蘭のことが心配だよ」
だからそう、君はいつも伝えるようにしているけれど、それを伝えるたびに蘭はにっこり笑うと、「平気平気。全然元気!」なんて答えて「ありがとう」と、この話題を終えてしまう。
本当に大丈夫なの?と、君は心配していた。でも、君が心配したときに見せる蘭の笑顔は、いつも嘘じゃない。昔から見た喜んでる時の蘭の笑顔で間違いなかったから、だから君は、それが正しい距離感なのかなと、そこで踏み込むのをやめていた。
人には人の距離感がある。べったり二人きりで、自分の中の何もかもを把握し合うような人間は、確かに周りにいなかった。秘密にしておきたいもの、自分だけのテリトリー、人は皆そんなものを抱えているから互いの距離を測るのだと、蘭以外の人と友達として関わる中で君は学んだのだ。ちょうどいい距離感というのは、お互いを尊重して、自分を押し付け過ぎず、無理矢理踏み込まないことをいうのだと。
今の君と蘭の距離感は、今までの話さない君とその代わりに話す蘭、という関係の頃と違っている。君が話せるようになった分、胸の奥を言葉にできるけれど、見えない部分まで覗き込むほど近づけなくなったというか。
言葉に出来る分……踏み込んできて、くれなくなったというか。
そこまで考えて、君はハッとする。いけない、またこれだと。
正しいことなのだ。君は友達も増えて話せるようになったし、蘭は彼氏とも順調で、変わらず君以外の友達とも仲良くやっている。二人で一緒にいることだって相変わらずだ。それはきっと君と蘭の世界が広がり、物ごとが増えたということ。お互いだけじゃなくなったってだけで、君と蘭が互いにとって大切な存在なことには何も変わりない。
変わりない、はずだけれど、でもその分君の中で、遠くなってしまったなと感じる心がいつも、シクシクと痛む。
互いだけが目に入る世界だった頃は、何も言わなくてもわかり合えていると繋がりを感じられた。
けれど今、言葉が届く分だけ、互いに言葉でしか繋がれなくなった、そんな風に感じている。その距離感はきっと人として正しいものなのだろう。そうだとわかっているけれど、二人きりの世界を知っている君にとってそれは、人より遠く感じるもので。
——だけど君は、わかってる。
何度も言い聞かせることになるかもしれないけれど、君はちゃんとわかってる。
蘭の世界が広がることはいいことで、そのために自分の世界を広げることは、必要なこと。
今はその途中なのだから、辛く感じることもあるだろうけど、それは仕方のないこと。
そもそも君は人としてマイナスからのスタートのようなものだし、それを忘れちゃ駄目なのだ。
そうだ、そう。だから仕方ないこと。
こんな君の心が痛むのは仕方ないこと。
寂しく感じるのも仕方ないこと。
全て受け入れられるまで、それまでの辛抱で、その先にはまた新しい君になった、二人の世界が待っているはず。
これを受け入れられるまで、あとどれくらいかかるのかな。
早く明日になれ、そんな未来よ早く来いと、君は毎日願いながら、前向きに蘭の隣を歩いていた。



