その夜はそのまま蘭がちゃんと家に入るのを見送ると、君は窓から部屋に戻った。
母親に気づかれることはなく、この方法は有効だと理解した君は、その後、同じ方法でちょくちょく抜け出すようになる。
そして君達が中学生になると、もう大きくなったのだしと、親は互いの家にいるならば夜に出ていくことも認めるようになって、堂々と君と蘭は深夜の映画鑑賞会を開いたり、そのままどちらかの家に泊まることも増えていった。
とにかくずっと一緒な二人。周囲からのイメージはそんな感じ。
「蘭ちゃんが来るの待ってるの? 今日も一緒に帰るんでしょ?」
中学でも同じクラスだった原に声をかけられた君は、それにうんと頷く。原はあの出来ごとから君と蘭の良き理解者となって、違うクラスになってしまった蘭の代わりに無口な君の世話を焼いてくれていて、今も一人で席に座って蘭を待っている君に声をかけにきてくれた。
「今日は何するの?」
特に何か決まっているわけでもない君は、うーんと首を捻ってから、「わからない」と一言答える。
すると原から「おぉ!」と、声があがった。
「君が喋ってくれるのいまだに感動するんだよね」
初めてはあの夜の蘭への感謝の言葉。それから少しだけ、本当に少しだけだけど、君は必要に応じて返す言葉を口にできるようになっていた。
『自分から声かけるのはまぁ、ハードル高いよ。でも返事はさ、ないよりあった方が嬉しくない?』
そんな蘭の助言をきっかけに、こうして一言ずつでも今の君は蘭以外の人に返事が返せるようになっている。
「蘭ちゃんも喜んだだろうねぇ……今年はクラス違うし心配だっただろうから。でも困った時は任せてよ。手伝うからさ」
「……うん、ありがとう」
素直に返ってくる君の言葉を心に沁み渡らせる原は、感慨深げにうんうんと大きく頷いて、「よかったよかった」とニコニコ笑う。
君は原ならこうして喜んでくれるとわかっているから、原に対しても蘭のように声の出し易さを感じていた。それも全て小学生のあの日に蘭が君の代わりに話をしてくれたからだなと実感すると、一つ一つの出来ごとが繋がった先に今日があるのだなと君はひしひしと感じる。
今日までの君の毎日に間違いはなかった。君は、君だけの人生を歩んで今ここに居る。
これから先はどんなことがあるのだろうと、君が物思いに耽っていたその時。バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきて、なんだろうと君と原が廊下の方へと目を向ける。するとやってきたのは、息を切らしながらこちらに向かってくる君の待ち人、蘭だった。
「な、何? どうしたの蘭ちゃん」
ただごとじゃない感を漂わせる蘭に原が若干引き気味に訊ねると、「もう、聞いてよ!」と、蘭は苛立ちを隠さず話し始める。
「放課後は空いてないって言ってんのにマネージャーになれってうるさいの! しつこい勧誘は違法だっつってんのに!」
「あぁ、男バレのね……」
またかと原が呆れ顔をするのを見て、君も以前から蘭に愚痴を聞かされていた内容を思い出す。
蘭のクラスには男子バレー部の部員が何人か居るらしく、丁度三年生の先輩マネージャーが辞めてしまってマネージャーが一人も居なくなってしまったため、新規マネージャーを募集している最中らしい。
蘭は昔と変わらず、どこでも誰にでも物怖じしないで話し掛けられるし、男女問わず友達が多いタイプだ。だから部活に入っていないならぜひと、次期マネージャー候補として目をつけられている。
「嫌だって言ってんのに男女問いません!とか言って。わたし女ですけどその言い方なに?みたいな。話し通じてなくて怖い!」
「でも別に蘭ちゃん実際のところなんの部活も入ってないんだし、放課後空いてるよね?」
「んなわけないじゃん! わたしと君の時間は有限だし。ねっ、そうだよね!」
蘭は君の顔を覗き込んで、ねっ、と同意を求めてくる。君はそんな蘭をみて、蘭はずっと変わらないなぁと、蘭からしたら見当違いな方向に思考を飛ばす。そんな君の考えごとなんて流石の蘭にはお見通しである。
「ちょっと! 真剣に考えてよ! てか君も一緒に断ってよ!」
「……なんで?」
「だって私と一緒に居られなくなるんだよ! 嫌じゃないわけ? 君だって寂しいでしょ?」
蘭に問われて、君は考える。
蘭と一緒にいられなくなること。君だってそれが寂しくないわけじゃない。でも部活が終わったら結局蘭は君の家の下の階に帰ってくるのだ。部活なんてほんの数時間の間だしなと、一緒に居過ぎた弊害か、君としては蘭の必死さがしっくりこない。
それ以上に最近の君が思うのは、君が蘭を縛り付けているんじゃないかということ。正直、少し悩んでいたのだ。
君は自分の寂しいという感情で蘭の交友関係や私生活の幅を狭めたりはしたくないと思っている。だって、蘭は蘭だから。違うクラスになって余計に感じる。蘭は人を惹きつける力があるし、みんなを引っ張っていく強さがある。だからみんな蘭のことを好きになるんだなって、そんな蘭を君は誇らしくも感じていた。
蘭にはきっと、もっとたくさんの可能性がある。こんな自分の気持ちも上手く喋れない君と違って。
一緒に居たいと言ってくれて嬉しいけれど、君は、そんなに蘭にと頼まれるなら一度引き受けてみてもいいんじゃないかと思う気持ちがあった。だから蘭に訊かれて今、自分の寂しさだけでうんと、頷くことはできなかったのだ。
そんな君の反応に、信じられない!と眉を釣り上げる蘭に、原は嫌な予感がする。
蘭は、「なるほどね」と、低い声を出して君を睨みつけた。
「そっか、君は原が居るからもう寂しくないんだ」
「ちょっ、蘭ちゃん」
「わたしは中学入ってからずっと一緒に居られなくて寂しかったのに、だから放課後が嬉しかったのに、君は違うんだ」
「今日だって原と待ってたもんね」と、恨めしさすら感じさせる声で、俯き加減の上目づかいで、君に責める言葉を、視線を送ってくる。
蘭が君にそんな態度を取るのは初めてのことで、君は驚いて頭が真っ白になってしまった。
途端に心臓の音が大きくなる。君の胸の奥で心臓がどくどくと嫌に動いている。
険悪な空気に、原は君と蘭の間に入り、「そんなことないって、落ち着いて」と蘭に声をかけている。
それでも蘭の視線は君から外れることはない。
君しか見えていない。
「君はもう、わたしのことなんてどうでもいいんだ。放課後も無くなっちゃったら全然会えなくなっちゃうのに、どうせ君にとっては大したことじゃないんでしょ? だから君は今もそうやって関係ない顔できちゃうんだ」
……関係ない顔?
君はハッとして自分の顔を触る。今君は、そんな顔をしていた?
……わからない。
だって自分の顔は見えないから。もともと表情が乏しいタイプだと君は自覚している。頭の中で考えている時、君はその考えごとに集中してしまって周りが見えなくなってしまうから。
今も君はずっと考えていた。蘭が教室にやってきてから、ずっと君は蘭のことを考えていた。自分には関係ないなんて思ってもなかったのに、なんでそんな顔に見えたのだろう。
なんで? どうして?が止まらない。だって蘭が怒ってしまったから。君は今、ちょっとしたパニックを起こしていて、考えごとが進められないでいる。だからいつもみたいに答えに辿り着くことができないのだ。
心臓がバクバクと動き、早くしろと君の焦りを加速させる。
どうしよう、どうしよう。
そんな君へ、助け舟が出された。
「そんなこと、思ってないよね。だって蘭ちゃんのことを君は大事に思ってるはずだから。ほら、君からも何か言ってあげな。蘭ちゃんはただ不安がってるんだよ」
原が、蘭を宥めながら、励ますように君を諭す。大丈夫。蘭は今不安がっているだけなのだと。君に怒ってるわけではないのだと。
その言葉で、君はスッと頭が透き通っていくのがわかった。そうか、蘭は不安で確認したかったけど、君は考えを言葉に出さないから。だから蘭の中でどんどん不安が大きくなって外に飛び出したのが、今の君と蘭の状況なのだ。そうして納得したのなら、君の中でふと蘭に対して疑問が生まれる。
——そんなに不安がることなのかな。
だって君と蘭はずっと一緒だと、君は信じて疑っていなかったから。君にとっても蘭にとってもお互いは特別な存在なはずなのに、その認識から何も変わっていないのに、蘭の中では何かが違ったことで、不安になってしまったということだ。
一体何が違う? 何が変わった?
——あ、そっか。クラスが違うから一緒にいる時間が減ったのか。
その単純な答えに、君はようやく辿り着いた。蘭はずっとその話をしていたのに、君は君の中の優先度として一緒にいる物理的な時間の長さというものが低かったから、そこを重要視して考えることができていなかったのだ。
——そっか、蘭は一緒に居たいんだ。
その気持ちを理解できていない君の顔を、関係のない顔という言葉で蘭は表したのだということ。それが答えだ。
だったら、君はどうしたら蘭を安心させてあげられるだろう。
蘭の言う通り、マネージャーの件を断りに一緒にいってあげる?
でも君は話すのが下手だ。ついていったところできちんと説明して断れる気がしないし、結局蘭が後日誘われ続けるのが目に見えている。意味のある行動だとは思えない。
だったらそんなの無視して今まで通り一緒に放課後居ればいいと提案する?
でも折角蘭を見つけてくれて声をかけてくれる人達を無視するのは蘭にとって良くないと思う。きちんと答えを返すべきだと思うし、引き受けてみるのも蘭の世界が広がるいいチャンスなんじゃないかとも思っているし。
でも今、蘭はやりたくないと言っている。君との時間が減るからと。君との時間が減ることで蘭は心の距離も遠くなると思っている。だから今、こうして不安がっている。
やりたくないのは、それだけが理由?
だったら、訊いてみればいい。
「……嫌な人が居たり、やりたくないことがあるの?」
君は思い切って訊ねてみることにした。すると蘭は驚いた顔をして、「そういうわけじゃ、ないけど……」と、不貞腐れた声で答える。
そうか、そういうことではないのか。
そうだと思う。君の知ってる蘭はもともとお祭りごとというか、みんなで何かをすることが好きなタイプの人間だ。君との関係でわかる通り、気がきくし、人の世話を焼くのも好き。保育園の時の劇の練習なんてものすごく張り切っていたし、すごく楽しそうだった。
向いてると思うんだけどな、マネージャー。やってみたらいいのに考えたところで君はハッと閃いた。
「……一緒にやろうか」
そうだ、そうすれば蘭の不安も無くなるし、全部解決するじゃないか。
君はとてもいい案だと思った。これが正解だと自信を持って提案したつもりだった。
けれど、君の提案に二人は目を丸めて固まっている。どうしたというのだろう。
「あのー、君さ、わかってる? 男子バレーボール部って運動部なんだよ。だからこう、元気とか求められるわけ」
原が言いづらそうに君に告げるそれに、君はうんと頷いた。それくらい、君だって知っている。
「だからその、さ、やっぱり喋れないとその、テンションが合わないっていうか、いくらマネージャーとはいえ部の方針的に大変なんじゃないかって、」
と、原が話の本質をつこうとしたその時。
「いいね! それじゃん! そうしよう!」
蘭が生き生きとした声で原の説明に割って入った。キラキラさせた瞳で君の提案を受け入れた蘭は先程と打って変わってご機嫌で、原がそんな蘭にギョッとした目を向ける。
「ちょっと待って、本気で言ってる?」
「本気本気! 二人でやったらめっちゃ楽しそう!」
「楽しいこともあるだろうけど、でもきっと大変だと思うよ」
何が、なんて言われなくてもわかってる。君がうまく話せないことについてだ。
「大丈夫〜できないところはわたしがサポートするし!」
「サポートって言ったって……」
「平気平気! 一緒なら絶対大丈夫。ねっ、そうだよね?」
蘭はすっかりやる気満々で自信満々で、それとは正反対に原は心配そうに不安げに君の反応を待つ。
「……うん、大丈夫」
君はそれに、冷静な頭できちんと答えた。
そうだよね。だって言い出したのは君だもんね。きちんと覚悟くらいはついているよね。
それで蘭が安心してくれるなら君は多少キツくても大丈夫だと思ったんだ。
例え自分の気質に合っていないことをすることになって他人に怒られてしまったとしても、蘭の世界がそれで広がるなら、蘭のためになれるなら、君は大丈夫だと思ったし、思えるようになっていた。
蘭に怒られるのは怖い。嫌われるのは怖い。でも、他の人ならある程度は大丈夫。
以前とは違う、そんな君が今、ここに居たのだ。



