君はどうして、


 蘭と君はいつも放課後を二人で過ごしている。
 公園で遊ぶ日もあるし、どちらかの家で母親が帰ってくるまで夕方のチャイムをこえても長く入り浸ることもある。
 親も一人でいるより安全だろうとそれを公認していたので、「まだ帰んないで〜」と蘭にお願いされれば当たり前に君は帰るのをやめるわけだけど、最近はそれがずっと続いていることに、君はまだ気づいていなかった。
 そしてその日は、たまたま君の母親が早く帰ってくる日と重なっていた。

 窓の外で夕方のチャイムが鳴る。
 それは近所の公園で遊んで、そのまま蘭の家で一緒に宿題をした後、「次何する〜?」と言いながら蘭がテレビをつけたタイミングだった。いつも通り楽しかったけれど、いつもよりだいぶ短かったその時間が終わりを迎える。君は少し物足りなさを感じつつも、今日はもう、帰らなければならない。

「え、いつももっと暗くなるまで居るよね? 今日帰ってくるの早いの?」

 それに君がうん、と頷くと、蘭はしょんぼりした顔で、「そう……」と玄関まで見送りに来たと思ったら、君の家の前までついてきた。君の家は蘭と同じアパートの上の階なので大した距離じゃない。
 ガチャリと玄関を開けると夕飯のいい匂いが漂ってくる。「おかえり〜」という君の母の声が奥から聞こえてくると、蘭は最後にぎゅっと君の手を握ってから、「じゃあね」と自分の家に帰って行った。
 なんだかいつもの蘭と違う。短い時間だったからかなと、それが君の心に残ったけれど、久しぶりに仕事から早く帰ってきた母親に先にお風呂行っちゃいなさいと言われて素直に従うと、あがった頃には美味しそうな夕飯が出来上がっていて、食べ終わった時にはもう、すっかり蘭のことは頭の中から消え去っていた。

 そして、その夜のことだ。
 君の部屋の窓からはアパートの階段を上る人影がよく見えるのだけれど、自室に戻った二十一時頃。小さな影が上ってくるのが目に入った。
 ——もしかして、蘭?
 直感のようなものでそう感じとった君はそっとカーテンを開けて外を覗いてみる。すると思った通り、そこには蘭の姿があって、思わず窓を開けた君に蘭が気づいて駆け寄ってくる。夜の暗さで見えなかった蘭の表情が、目の前にやってくるとはっきりと見えた。
 蘭が、泣いている。
 ハッとした君は息を吸い、どうしたの?と、声をかけようと試みる。……が、喉に詰まって声が出てこない。こんな時ですら声が出せない。
 だって、こんな時間に声を出して母親に聞こえでもしたら大変だ。ものすごい剣幕で早く寝ろと怒られるに決まっているし、蘭がこんな時間にここに居ることだって絶対にバレてはいけないことだ。蘭も一緒に母の怒りに巻き込まれてしまう。
 悩んだ君はそっと手を伸ばして蘭の頭を撫でた。するとワッと蘭が更に泣き出してしまって、君はもうどうすればいいかわからない。
 とりあえず、蘭の涙が拭えるようにハンカチでも持ってこようと蘭の頭から手を離そうとすると、その手を蘭にギュッと掴まれる。蘭はそのまま君の手に縋りついて、「どうしよう」と、掠れた声でぽつりと呟いた。

「お母さんが帰ってこないの……っ」

 その言葉で自室の壁掛け時計に目をやると、時刻は先ほどより少し進んでいて、二十一時十分といったところ。
 君の母親も片親で仕事をしているから遅い時はそれくらいの時間になる時もある。当然それは蘭の家でもそうだと思っていたけれど、どうやら他にも事情があるようだった。

「最近ずっとそうなの……帰ってくるのが遅くてね、ずっと待ってるの。もう二十一時過ぎてるのに、まだ帰ってこない……」

 そうか。毎日こんなに遅くまで一人きりだったなら、不安になってしまうのも仕方ないだろう。

「どうしよう。わたしもう、捨てられちゃうのかな……お母さん、もう帰ってこないのかな……」

 普段、あんなにハッキリとした意志を持って自信満々で物を言う蘭からは想像がつかない様である。蘭の瞳は不安げに揺れていて、君は今、そんな蘭に自分がしてあげられることはないかと考え始める。
 さぁ、どうする? うちに呼んで一緒に待つ? でも君の母親は許してくれるかな。君がちゃんと説明しないと、蘭にも蘭の母親にも迷惑がかかってしまうかも。だって君の母親はヒステリックだものね。
 じゃあこっそり蘭を今窓から君の部屋に入れる? そうしたら蘭は親が帰ってくるまで安心できるだろうけど、次は空っぽの部屋に帰ってきた蘭の母に蘭が居ないことがバレて、騒ぎになるよね。そんなことになったら警察とか学校まで連絡がいって大変なことになってしまうかも。
 そうなると、選択肢は一つ。
 ——君がこっそり窓を抜け出して、蘭のそばに居てあげるしかない。
 だけどそれって、すっごくリスクが高い選択になるよ。大丈夫?
 だってもし君の母親に抜け出したことがバレたら?
 今日は早く帰ってこれるからって、仕事の後に君のために美味しいご飯を作ってお風呂も沸かして待っていてくれたのに、その夜勝手に家を抜け出すようなことをする悪い君を知った時、君の母親は一体どんな思いを抱くだろう。そしてそんな君にどのように接するだろう。
 蘭は大丈夫。君が秘密にすれば何事もなく今夜を終えることができる。
 でも君は? その時君はどうなる?
 怖い目で睨んできたと思ったら、キンキンする声で君を罵って、振り上げられた右手が君の頬へ振り下ろされる——それが向こうの気が済むまで続くんだから、行動に移すには覚悟が必要だよね……もう怯える蘭のために自分が何をするべきか、答えは出ているのに。
 “蘭が辛い時や悲しい時は自分が助けてみせよう”なんて、ついこの間まで意気込んでいたはずなのにね。
 君は臆病で弱虫だ。だからいつまで経っても声が出せない。
 仕方ないのかな? 仕方ないよね。だってこれはそういうルールで人格が形成された君視点の人生だ。抗う力がなければ、そのまま話は進んでいってしまう。
 だけど、蘭は違う。

「……わかった。探しに行けばいいんだ」

 蘭は弱虫じゃない。蘭はわがままで支配的で寂しがりな甘えん坊だけど、現状を変える為に動き出す力がある。だから君達二人は一緒に居る。

「わたし、お母さんを探しに行ってくる」

 そう決心した蘭の目は、いつもの意志の強さを宿していた。もう止められない。行ってしまうよ、夜の真っ暗闇の中、たった一人で。
 どうする? それでいいの? 蘭を行かせてしまっていいの?
 君に助けを求めにきた蘭を、君は一人で行かせてしまうの?
 走り出す蘭は考える時間なんて与えてくれなくて、けれどそれは今、蘭の頭の中に君が存在していないことを表してもいることで。
 でも仕方ないよ。助ける手段を持たない君は今、蘭にとって役に立たない人間なんだもの、仕方ない。突然走っていちゃったし、仕方ない。
 仕方ない。仕方ない。
 
 ——本当に?

 ……そんなの、嫌だよね。
 だって君はもう、蘭のことが大好きなはずだから。

 君は立ち上がると、大急ぎでベッドの布団の中に枕やぬいぐるみを詰め込んで膨らみを作り、そっと玄関の靴を取りに行って、自室の窓から外へ出た。玄関の開閉音に人は敏感だから、そっと開けたところで母親にバレてしまうと思ったからだ。
 作戦は成功。家の奥から人が動く気配は感じない。そのまま走って蘭の後ろ姿を追い、その肩に君は手を伸ばした。


「びっ、くりした……なんで?」

 アパートの前の大通りへ続く道に出たところで、どうにか君は蘭に追いつくことができた。目を丸くして振り返った蘭が、肩で息をする君の背中を落ち着かせるように撫でる。

「なんで? なんでついてきたの? もうこんな時間……君なんてパジャマだし」

 君は蘭にそう指摘されてハッとする。そうだった。寝る前だったからもうパジャマ姿だったんだった。

「もう……こんな格好じゃ家から抜け出してきたのすぐバレちゃうじゃん。仕方ないなぁもう……ほら、帰るよ」

 やれやれと、蘭は君の手を取り「仕方ないんだからぁ〜」なんて言いながら歩き出す。けれどその声は何だか嬉しそうに君には聞こえて、君はあれ?と首を傾げる。
 だって蘭はお母さんを探しにきたんじゃないのかと。そう決意してこんな時間に一人で飛び出して……それなのに、こんなにあっさり引き返していいものなのかと。しかもなんだか、今はもうそれでよかったみたいな穏やかな顔をしていて——あぁ、そうか。そういうことだ。
 これでよかったんだ。
 そう、君の行動は正しかった。蘭は今、あんなにからっぽで寂しさに支配されていた心がとても満たされているのだから。
 だって君が、来てくれたから。君が蘭のために行動に移してくれたから。
 君の心が、孤独な蘭の心を救ったのだ。
 「行こっか」と言う蘭に頷いて、君達二人は並んで今駆け抜けてきた道を戻っていく。二人の住む、アパートに向かって。

「わたしさ、一人が嫌いなの。だからお母さんが大好き。帰ってくると嬉しくなるから」

 わかるよと君は思う。例えどんなに怖くても君も母親のことが大好きだったから。
 怒られたくないし、嫌われたくない。怖いけど、でも大好き。だって君と母親はたった二人きりの家族。母がいなければ君は生きていけないし、母は君のために頑張ってくれているのだと君はちゃんと理解していた。

「でもさ、わたしには君も居るんだった。だからもしお母さんが居なくなったとしても、一人ぼっちにはならないよね。だって君はきっとまたこうやって、一人のわたしを追って来てくれるもんね」

「ありがとう」と、蘭は君の手をぎゅっと握る。
 じっと君を見つめる蘭の目は、透き通るように綺麗だった。そこにいつものぼんやりとした自分が映っているのを見つけて、君は途端に恥ずかしくなる。だって君の全てが蘭に見透かされてる気持ちになったから。
 本当はすぐに動き出せたはずなのに、君は母親に怒られることと天秤にかけて何度も何度も頭の中でシミュレーションをし、すぐに決断することができなかった。
 いつも君は怖いことから逃げようとする、弱虫で意気地なし。もしまた同じようなことが起こったとして、その時の君が同じように行動に移せるのか、君は自信が持てなかった。そんな風に信じてもらえる価値が自分にあるのかと、自分を情けなく思う気持ちが君の胸の奥で渦巻いている。それがバレるのが怖かった。
 けれどそんな君の気持ちなんてお構いなしに、蘭はぐっと君と距離を詰めると、君の奥底を覗くように君の目から視線を離さない。耐えられなくて君がそっと目を逸らすと、「あのさ、」と、蘭は君に真っ直ぐな声をかける。

「君が喋らない理由、わたし何となくわかるよ。声が出せなくなるくらい、君は怒られるのが怖いんだよね。嫌われるのが、怖いんだよね」

 ハッと、君は目の前の蘭に視線を戻す。蘭は変わらずに君を見つめている。

「わかるよ、だってずっとそばで見てきたもん。お母さんとか友達とか、話す前に考えちゃって、失敗しないようにって思うほど怖くなって喋れなくなっちゃうんだよね。わたしにだって。でもさ、大丈夫」

 その時、蘭の透明な綺麗な瞳に、君は強い光を見る。

「わたしと君の間に失敗なんてないよ。喋っても、喋らなくても、君はわたしに対して失敗しない。だって今だってこんな格好で、本当だったら駄目なことなのに君はいっぱい考えて、失敗するかもしれない行動を選んでまでしてわたしのために走ってきてくれた。そんな君の選択がわたしにとって間違ってるわけがない。失敗なんてありえない。君の行動は全部、わたしにとっての正解に決まってる」

 ——蘭にとってこの夜の出来ごとが、どれだけ嬉しかったことか。

「君がわたしを思ってくれるなら、どんなものでもわたしの宝物。わたしにとっての正解だよ。怖かったのにわたしを追いかけてきてくれてありがとう。わたしのそばにいてくれることを選んでくれてありがとう。わたしはもう、君が居れば何も怖くないよ」

 ——そしてそれは、君にとっても同じことで。
 君はずっと誰にも言えない苦しみを抱えていたね。自分でももどかしかったよね。なんで話せないんだろうって。
 君は初めから喋るのが苦手だ。駄目なことだってわかっていても、どうしても気持ちが声になって口から出てきてくれなかった。ずっとずっと怖かったから。いけないことだと怒られた経験と、怒らせると嫌われるのだという知識から、身体は自分を守るために勝手にルールを作ってしまった。それに縛られ続ける君の毎日だった。
 でも、今蘭は言ってくれた。君と蘭の間に失敗なんてないのだと。君が考えて選んだ行動は、蘭にとっての正解になるのだと。
 蘭はずっと君のことがわかってた。わかってずっと、君が動き出すのを待っていてくれた。
 そんな君たち二人が今日、ついにここで出会えたのだ。
 それが今夜の出来ごと。二人だけの大切な思い出になる、新しい君になるきっかけ。

 “君の行動は全部、蘭にとっての正解になる”

 その言葉が今、君の背中を押してくれた。

「——蘭、ありがとう」

 君が、蘭への気持ちを初めて声に出せた瞬間だった。
 目を丸くした蘭は、込み上げる涙を堪えることなくボロボロとこぼすと、「どういたしまして」と答える。
 そして、

「初めて聞こえた。でも君は今までも心の中で言ってくれてたよね。ずっと伝わってたよ」

 今まで見た中で一番の笑顔で君に教えてくれた。
 君の気持ちはちゃんと、蘭に届いていたのだ。