小学生になっても君は相変わらず自発的に話すことが苦手で、それをよくわかっている蘭がいつも君のそばで君のサポートをしてくれた。
 なんでこんな喋らない自分なんかのそばに居るのか君にはわからなかったけれど、蘭といるのは当たり前になっていたので、喋らない自分に対しても当たり前に感じるようになっていた。
 だから、

「ねぇ、なんで喋らないの?」

 掃除当番でクラスメイトの原と二人きりになった時にそう訊ねられて、君は答えられるちゃんとした理由がすぐに浮かんでこなかった。喋ると怒られるから、静かにしていないと叩かれるから、そんな理由を口にしようとして、でも喋ったくらいで別に怒られないよな?と、首を傾げることになる。
 だって最近の君は蘭と過ごすことが増えて母に怒られることが減っていたのだ。君の母は蘭の母に出会ってから同じ境遇に身を置く仲間と助け合えるようになり、きちんと友達と遊べている君が居ることを知って、以前より心が少し落ち着いたようだった。でもそんなこと、君にわかるわけがない。染みついたルールはそう簡単に変わらない。
 どうしよう、わからない。わからないから答えられない。
 君の声はまた石みたいに固まって、喉の奥につまってしまう。
 いつもそうだった。君は何かを話してみようと頑張ってみたけれど、結局言葉になって口から出てきてはくれないのだ。

「授業中は喋ってるじゃん。なのになんでこうやって声かけると何も喋んないの?」

 本当にその通りだと、君もその意見に同意する。保育園の頃と違って授業中なら小さな声で発言できるようになっていた。だってそれは正しいことだったから。言わない方が先生も母親も怒ってしまうのだから。でも友達との会話になると途端にこれだ。

「ねぇ、聞いてんの?」

 あぁ、苛つかせてる。急いで何か答えないとと君は考え始める。
 でもなんて? だって怖いから、なんて通じる?
 そう、君は気持ちを言葉にするのが怖かった。言葉にした何かで人を怒らせてしまうのが怖いなんて、普通に喋れる人達はこの気持ちを理解してくれるのだろうか。今だって何も言わないでも怒らせているのに、ここで何か言ってしまったらどうなるのだろう。それが間違いだったら? それでもっと嫌な目にあったら? 結局何が正解なの?
 一生懸命頭の中で話している内にどんどん気持ちを伝えるタイミングがなくなっていく最悪な状況。そんな君の前に、「わ!」と蘭が現れた。

「何してんのー? 何話してたの〜?」

 蘭はにっこり笑って原と君の間にやってくると、「掃除当番終わったー?」と君に声を掛けてくるので、君はそれにうんと頷いた。

「じゃっ、帰ろ。今日お小遣いもらったんだ、お菓子買いに行ってうちで食べよーよ」

 そう言って君の手を引く蘭に、「ちょっと待って」と声がかかる。君と話していた原だ。

「いつも一緒に居るけどさ、二人はどんな話してんの?」
「えー? どんな話って言われても別に普通だけど」
「それってつまり、蘭ちゃんと居る時は何か喋ってるってこと?」

 誰のことかなんて言われなくてもすぐにわかった。もちろん、君にわかるんだから蘭にだってわかる。

「別に喋んないけど」

 チラリと君を見た蘭は、当然と言った態度でそれに答えた。そして、

「でもどう思ってるかはわかるし。今はそうだな〜、早く一緒に帰りたい、とか?」

 そう君に向かってご機嫌を窺うように訊ねるので、君はちょっと考えながらもまぁそうかもと、うんと頷く。すると「だよね〜っ、さすがわたし!」と、蘭は嬉しそうに笑った。

「あんな風に原に二人きりで責められたら早く帰りたくなるよね。だってめっちゃ怖いし」
「……は? 何が言いたいわけ?」

 蘭の無遠慮な発言に原が怖い声を出す。空気がまたピリつき始めて慌てて君は訂正しようと蘭の袖を引っ張って大きく首を振ったけれど、蘭はまぁまぁと君を宥めると改めて原に向き直った。

「だけどさ、原はただ喋りたかっただけなんだよね。何も言ってくれないから寂しくなっちゃったんだよね。話せないわけじゃないはずなのにって。そうだよね?」
「……そうだけど」
「やっぱり? でもね、この喋らないのわざとじゃないんだよ。だって保育園の頃からずっとそうだし。ずっと一緒のわたしだってまだちゃんと話したことないんだよ? ウケるよね。家帰っても一緒に居んのに」
「……嫌じゃないの?」

 原の言葉が、グサリと君の胸に突き刺さる。
 嫌じゃないの? それは君も思ったことがある。でもそんなこと気にした様子も見せないでいつも蘭は君に声をかけてくるから。だからもうそれが当たり前になっていたけれど、やっぱり普通は嫌だと思うものなのだと、君は今ここで改めて考えさせられる。
 でもさ、君にだってそれくらいちゃんとわかってたよね。怖いから喋らないなんて、蘭に対してもそうだなんて、そんな自分が間違っていることくらい、君だってわかってるよね。でもできないんだもん、仕方ないだろって。どうしてもできないんだって。蘭なら許してくれるからって、そう思ったんだよね。
 だけど、もし今蘭が嫌だって答えたらどうしようか。
 今ここで蘭は何て答えるだろう。
 突き放されるかな。本当は話して欲しいって、出来るなら頑張ろうって、今から頼まれるかな。
 その時君はそのお願いに答えることができるかな。
 蘭はなんて、答えるだろう。
 じわりと背中に汗をかきながら、じっと君は次の言葉を待った。そんな君の前で、蘭は言った。

「別に、嫌じゃないよ。だって話してくれるまでそばに居ればいいだけだし」

 ——あぁ、そうなんだ。
 そうだ、これが蘭なんだ。
 君はそう、素直にその言葉を受け取っていた。当然のことだと言い切る蘭の姿勢が、まっすぐでひたすらに眩しい。
 蘭は、ずっと君のそばに居るつもりなのだ。今はこんな君でもいつかその日はくるのだと信じていて、今の君ごと全部の君を受け入れている。
 きっと話せる日が来ると、変われる君が居ることを、その隣に自分が居ることを、その未来を疑っていないのだ。

「だから別に。今はその分わたしが喋り倒すから大丈夫って感じかな! そういうの全部わかったっていうなら原もそうしてやって」

 そして、「じゃあね」と、君は蘭に手を引かれて教室を出る。君を導くように前を歩いていた蘭は靴箱で靴に履き替えると、今度は君の隣に並び、君達二人はアパートまでの帰り道を二人の歩幅で歩き出した。
 それは辺りに他の小学生がいなくなり、二人きりになった頃合いのことだった。

「さっきのさ、大丈夫だった? わたしが来る前にもっとなんか嫌なこと言われたりしてない?」

 蘭は心配そうにその大きな目で君のことを覗き込んで訊ねてくる。それに君はううんと、横に首を振った。
「そっか。それならよかった」と、君の返事に蘭はホッとした様子だった。

「何も言わなくてもわかってるつもりだけど、きっと全部はわからないから。ちゃんと困った時は言うんだよ。辛いとか、悲しいとか、嫌だとか」

 蘭の意思の強い瞳に射抜かれて、君はうんと自然と頷かされる。
 蘭は言動や仕草の全てに力を持っている人だった。君はきっと、始めからずっと蘭のその力に引っ張られてきて、だから今、一人ではなく二人でここに居る。

「嫌な時は嫌だってちゃんと言えるといいんだけど。それがわたしは心配だな。それだけはちゃんと表してね。声に出なくてもいいから」

 そう言って寂しそうに笑った蘭の笑顔が、ギュッと君の心をしめつける。まるで、例え蘭のことであってもちゃんと拒絶しろと言っているように感じたから。それは君が蘭のことを嫌がっている可能性もあるのだと、蘭がそう受け取っていることだと思ったから。
 そんなことはないのに。そんなことをすることはないと、君は強く思う。だって君にとっても蘭は特別なのだ。悲しい思いも、辛い思いも、君だって蘭にして欲しくないと思っているのだから、蘭が君を必要とする限り、君が蘭を拒絶することはない。
 どうしたら君のこの気持ちを蘭に伝えることができるのだろう。
 伝えたいと強く思った君は、隣で歩く蘭の手をぎゅっと握りしめてみる。すると蘭が目を丸くして君を見て、えへへと嬉しそうに微笑み返してくれた。
 これで少しは君の思いが伝わっただろうか。言葉にしなくてもこの思いが届きますようにと、君は繋いだ手の温かさにそう願う。
 そうだ、蘭が辛い時や悲しい時は自分が助けてみせよう。そうすれば、言葉にしなくても伝わるはずだから。
 君は今、そう決心した。

 ——そしてその決心は、すぐに試されることになる。