あの日——君は、ポケットの中で震えるスマートフォンに手が伸ばせなかった。
 
 ブー、ブー、
 スマートフォンが振動する。
 それは蘭からの着信だったけれど、君が出ることはなかった。
 画面を確認しなくてもわかる。君に電話をかけてくるのは蘭くらいなものだったから。
 だから出たかったのに、蘭に応えたかったのに、でも、どうしてもできない状況だった。
 だってちょうど橋の手すりを乗り越えて、意を決してその下へ飛び込んだ瞬間だったから。

 その日は、大雨警報が発令していて、バケツをひっくり返したような雨がいつもの橋の下を流れる川に大量に降り注いでいた。大荒れの川は大変危険で、水辺には近づかないよう注意喚起がされた影響もあり、人も車も普段より極端にその橋を通らなかった。
 だから、誰もその現場を見ていなかった。
 だから、止める人はいなかった。
 川に人が落ちたのだと——橋から君が飛び降りたのだと知る人はいなかった。

 荒れる川面に打ち付けられる君の身体は、そのまま激しい流れに飲み込まれていってしまう。
 川の流れは早過ぎて、身動きなんて取れるわけがない。もがけばもがくほど川底に引き摺り込まれていき、ポケットのスマートフォンが今どこにあるのかなんてもうわからない。
 けれど頭の中は電話に出ないといけない、その思いでいっぱいだった。
 蘭が今、辛い思いをしている。君に電話が来るのはいつもそういう時と決まっている。
 今この瞬間も蘭が悲しんでるかもしれない、出てあげないと。
 でも——もう、出てあげられない。
 もう、蘭と話せない。
 目の前に迫った岩に頭をぶつけたところで、ぶつりと意識が途切れた。


 そうして気づけばまた、君はこの橋に立っていた。ちょうど飛び降りた位置の、安全な手すりのこっち側。向こう側に落ちたはずだったのに。
 そうだ、スマホ。蘭から電話がきてたんだ。
 ポケットに手を入れてみても、そこにスマートフォンはなく、代わりに駄菓子のラムネのシートが一つ入っていた。
 
「これは……あの時蘭にもらった……」

『わたしの全部も君にあげるし、わたしの運勢ごと未来もあげる』

 頭の中に、あの日の蘭が声と共に蘇る。
 ——けれど、

『言ったよね? わたしの未来も全部あげるって。なのに今、君はいらないって捨てたんだよ』

 それと同時に、飛び降りる前に言われた蘭の言葉が、それを上書きする。

「……捨ててないよ。だってこれは二人の未来だから」

 それなのに、なんでこんなことになってしまったのだろう。
 もしかしたら×を食べてしまったのがいけなかったのかもしれない。
 蘭の言う通り、川に捨ててしまえば良かったんだ。
 ラムネを一つ、川へ落とす。
 けれど、何も変わらない。
 世界が変わる、気配がない。

 もしかしたらまだ足りないのかもと、それから毎日×を捨てる作業を繰り返しているけれど、世界は何も変わらないままだった。
 もう×も⚪︎も関係ないのかもしれない。そんなことはどうでもいいことなのかも。
 こんなラムネが決めることじゃない。これはただのラムネだ。それに意味を持たせたのは蘭で、その蘭がここにいなければ意味がない。
 蘭と顔を合わすことが無くなって、今はどれだけ経ったのだろう。その間、君はずっとここで一人きりだった。
 ひとりぼっちの、冷たい世界に君は居る。
 いつまでここに居るんだろう。
 決してここに居たいわけではない。どこかへ行かなきゃならない気がする。でもここにしか居られない気もする。
 ——もう一度飛び降りたら変わるだろうか。
 意を決して実行してみたけれど、結局何も変わらずここに戻ってきていた。
 なんで?
 なんで?
 なんで飛び降りたのに、まだここに居るんだろう。
 終わりにしたかったのに。
 終わらせるつもりだったのに。
 もう終わったのに。
 だってあの日、蘭は言ったのだ。君のためだけの世界なんてないと。こんな君はいらないと。
 いらないのなら捨てなければと思ったから、だから終わりにしたのだ。自分だってこんな自分はいらないから、ちょうど良かった。
 これは二人の意見が一致した結果だったはずなのに——それなのに、どうしてまだここに?

 蘭の言葉の中に何かヒントはないかと、君は必死に記憶の中の蘭の言葉を辿る。

 そうだ、一生話すなって言っていた。蘭のいない世界で一人だけ幸せになるなって。
 自分を捨てきれていないってこと?
 だったらそれを捨てないと。でも、どうやって?
 ちゃんと捨てられたら、そうしたらまた、この止まった世界は動き出す?
 でも動き出した先でどこに向かうのだろう。
 もう君の隣に蘭は居ないのに。
 蘭が居ないと、君の世界は動かないのに。
 そうか、蘭が居ないから、蘭の望みを叶えられない自分だからこの世界は動かないんだ。
 だってあの時、電話に出なかったから。
 だから蘭は君を迎えに来てくれない。最後のチャンスをくれたのかもしれないのに、君はそれに答えられなかったから。
 こういうところが駄目なのだ。どこまでも蘭の望みに応えられない自分は消えてしまえと思うのに、ここに居る意味なんてないのに、それでも君はまだ、ここに居る。
 そんなところも全部、全部最悪だ。



「えっと……聞こえてます、よね?」

 高幡の声にハッと君は、自分の中に潜っていた意識を今この場へと切り替える。

 なんで電話に出られなかったのか、だっけ。

「……ここから飛び降りて、流されてたから」

 高幡ははっと息を呑むと、「飛び降りて、流されてた……」と、絞り出したような声で君の言葉を繰り返す。そうして、

「それで、亡くなったんですか……?」

 恐る恐る口にしたその結論に、君はきっぱり、

「そう」

 と、肯定した。
 流されるまま岩に頭を打って意識を飛ばして、そのまま君は溺れ死んだのだ。あの強い雨の日、この橋から飛び降りたのだから。
 その部分だけははっきりと覚えている。けれどそれからは割とぼんやりしていて、あれからどれだけ時が経ったかなんてわからなかった。だってついさっき飛び降りたような気もするし、もう何年も同じ場所に立たされている感覚もある。
 わからないのだ。実感がない。だって君は死んでしまったのだから。
 死んでからの君はずっとあの日と今日の境目を生きているような気分だった。

「自分が幽霊だって……その、自覚があるんですね」
「……あぁ、そっか。幽霊」
 
 だからか、人に話しかけられたのが初めてだったのは。
 おかしいと思ったんだ、ずっとここに居るのに誰も何も言わないから。
 今自分は幽霊なのだと思うと、人生何が起こるかわからないものだなと、君は他人ごとのようにさっぱりとした感覚でその事実を受け取っていた。
 現状に納得できたことの方が君にとっては価値があったのだ。

「……じゃあ、高幡さんにだけ見えてるってこと?」
「は、はい、そうだと思います。普段は見えてない振りするんですけど、今回はその、蘭の話を聞いていたので」

 蘭、と口にされて、君の心臓が酷く嫌な反応をする。

「えっと、蘭とは高校に入ってからの付き合いですが、それなりにお互いのことはわかりあえてる関係だと思っています。でも蘭はその、あまり自分のことは話してくれなくて、代わりに君のことはよく話してくれました。この橋のこととか、ラムネのこととか。今もそのラムネ食べてますよ、蘭」

 もう止まったはずの臓器が動き出したみたいに、身体の中身が重く、気持ち悪くなる。

「でもこの橋を使うのは自分だけで、蘭は通らないんです。君を思い出すからって。君が電話に出なかったあの日を思い出して辛くなるっていうんです。だから仲良かったのに喧嘩別れしちゃったのかなって思ってて、」

 高幡が話しかけてきてからずっとそうだった。蘭の名前を聞いて、声が出るようになって、世界が回り出したと感じて、それからずっと、気持ち悪い。

「ずっと蘭は君に対して何か抱えてるみたいだし、それが何か知りたくて、なんとか間に入って仲を取り持てたりしないかなってずっと思ってて、」
「蘭に伝えてほしい」

 だから、わざと遮った。もう聞きたくなかったから。

「ちゃんと一人で幸せになってないから大丈夫。安心して、と」

 もう、ぐちゃぐちゃだった。
 蘭に対して自分がしてしまったことが蘇って身体の中がぐちゃぐちゃだ。
 あの日の蘭の言葉が、理解してあげられなかった自分の愚かさが、自分の人生だなんて、価値を見誤った自分の滑稽さが、今まで君が自分を責め立てていた全てが今、蘭の形を持って現実に現れる感覚があった。
 蘭が居なくなって、この世界はこんなに無意味で寂しくて、悲しくて虚しい。辛い。このままここに閉じ込められていたくない。けれどそれが勘違いした自分に相応の世界だ。
 あ、そうか、そのためにここに居るのか。
 罪悪感でちゃんと苦しむように、死んで逃げたりなんてできないように、現実と向き合うように、神様がここに用意したんだ。
 これが君の×の未来。

 高幡が何かを君に言っていた気がするけれど、君の耳には届かなかった。
 気づいたら高幡は居なくなっていて、君はまたラムネを川の下に落とす。
 自分と一緒だなと思った。×の自分は落ちる運命だったのだ。


「こ、こんにちは……」

 声が聞こえて驚いた君は、その方へ反射的に振り返る。既視感があった。制服姿のこの人は、

「……高幡さん」
「! はい、そうです! 良かった、前回急に聞こえなくなっちゃったみたいだったから」

 高幡はそう言って、ほっと緊張感を和らげる。
 君はそんな高幡をじっと観察した。なんでまたここに来たのかさっぱりわからなかったからだ。訝しみ、警戒する君の様子を感じ取った高幡はぎくりとしつつ、「えっとですね、」と、頭の中に言葉を探しに行く。

「その、あれから考えたんですけど……なんだかしっくりこなくて。すれ違いがある気がするんです。だから蘭について、擦り合わせができたらなと思うのですが」

 ——蘭。

「……嫌だ」

 名前を聞いて、また身体の中が気持ち悪くなってきた君はその思いのままに拒絶した。
 すると君の返答に高幡は困った顔をして、「なんでですか?」と訊ねてくる。
 なんでも何もない。

「高幡さんから蘭のことを聞かされると、気持ち悪くなるから」
「じゃあ君が話してくれるのは? 君と蘭のことを知りたいです」
「……どうして?」

 そんなことに意味があるのだろうか、と思う。

「高幡さんはなんの関係もない人間なのに」

 そう、君と蘭の世界に高幡は何の関係もない。必要じゃない存在だ。それなのに今更、なんで現れたのだろう。
 高幡は君の言葉に気まずそうに目線を逸らした。君の言葉が刺さったのだ。けれど次に君と目があった時、高幡の表情には決意を込めた強さが見られた。

「今までは、そうですね。一切関係ない存在だったと思う。でもこれからは……今は、違います。だって君が死んでから蘭を支えてるのも、ひとりぼっちの君と話せるのも、今ここに居る自分だけだ。君達のことを心配して、前を向いて欲しいって、どうにかいい方向に進めたいって思ってるたった一人の人間の自覚がある。だから、君のために話してほしいなと思うんです。その誰にも言えないまま閉じ込められている辛さを、吐き出してみてほしい」

「そうしたら、一人じゃ気づけなかった答えが見つかるかもしれません」そう、高幡はまっすぐな瞳で君に告げる。それは何もできない君を引っ張ってくれたかつての蘭を思い起こさせる優しい強さを持っていた。
 そうして君はハッと思い出した。この気持ちの悪い感覚は、感情に蓋をしている時に感じるものだと。
 蘭について聞かされることで君の中で生まれる、外へ飛び出してしまいそうになる思いを抑え込んでいるから、だから身体の中に押し込んだそれが君を気持ち悪くさせるのだ。
 あの時は両親に対する汚い、嫌な感情だった。
 けれど今のこれは違う。

「……だって、怒ってる」

 口にしてみると、身体の中でぐちゃぐちゃになっていた感情が外に出るために綺麗に整列し始めた。

「この橋に近寄らないって、高幡さんが言ったんだ。思い出したくないって。それはもう蘭にとって思い出したくもないくらい嫌な人間として覚えられてるってことだ。ちゃんと蘭の望み通り、居なくなったのに、居なくなれないから一人苦しんでるのに、それでも蘭に許してもらえないのはきっと、あの時蘭の電話に出られなかったからだ」

 次々に飛び出していく思いはきちんと今の君の現状を整えていった。そうして整えられたから、くっきりと浮き彫りになる。

「蘭は怒ってる。飛び降りる前からずっと……それを知らされるのが、怖い」

 そう、そういうことだった。蘭が今、君を恨んでいている現実が確かになるのが怖い。
 蘭の思いに応えるように死んでみせたのに、それなのにそんなことには意味がなかったのだと、許されなかった自分を第三者の視点から蘭の意見として肯定されるのが怖い。
 世界が終わらない理由を考える中で、自分に×を与えて全ての責任を負わせて、こんな自分は最悪だと、だから仕方ないのだと言い聞かせてきたのだとしても、本当のところ、答えはわからないままだった。けれどそれが真実なのだと認められてしまったら、君はもう、自分のことを責めながらこの場にぼんやりと立ち続けることはできなくなる。
 蘭が今も君を恨んで、あの日のことを怒ってることを、仕方ないと誤魔化すことができなくなる。
 そんなの辛すぎるじゃないか。耐えられない。
 現実を知ることは世界が動き出すことと同じ意味を持っている。けれどそれが怖かった。ずっと願っていたことなはずだったのに。
 ——本当は、全部嘘だよ、大好きだよって言ってもらえる時を、そんな世界を、待っていたのに。

「だから、蘭のことを知りたくない」

 そんな世界が自分の妄想でしかないのなら、現実なんて知らないままでいい。

 君の話をじっくりと聞いていた高幡は、うんと一つ、頷いた。
 何だか酷く悲しく、穏やかな顔をしていた。

「きっと、蘭もそう思ってる。だから君の居る橋に寄りつかないんですよ」
「……嘘だ」
「本当です。君の伝言、伝えました。蘭は真っ青な顔してた」

 高幡は遠くを見つめるように視線を投げると、「そんな蘭は初めて見ましたよ」と呟く。

「蘭って、なんでもできるじゃないですか。人のこともよく見てるし要領がいいから、しれっとした顔で簡単にこなしちゃう。それなのに普段は自分の都合できっぱり断ってきたりして、できないのに断れないからぐずぐずになってる自分とは正反対で……きっとこんな自分のことなんか馬鹿にしてるんだって、最初はめちゃくちゃ嫌ってたんですよ。でも結局そういう感情がきっかけでぶつかってからなんだかんだ仲良くなったっていうか……それで気づいたんです。この人は踏み込ませない壁みたいな、心の距離を置いてるなって。こっちにはズカズカ入ってくんのに自分の全部はこっちに見せてくれる気がない人だなって」

 全部を見せてくれてはいなかった。それは君にも身に覚えがあった。

 ——そんなことを、ずっと思ってたの?
 ——そんな心を隠して、ずっと笑ってたの?

 最後に蘭と話した時の感覚が蘇る。高幡の言葉に自分が重なる。

 蘭は全てを見せてくれていたわけではなかった。
 何も、何も気付かなかった。気付けないまま今日まで来てしまったんだ——。

 あの日の絶望が、後悔が蘇る。

「蘭は自分の深い部分を徹底的に話してくれませんでした。まるで蓋をして隠してるみたいに。だけど君との思い出はよく話してくれましたよ。それしか自分について話せる部分はないと言われてるみたいで寂しかったんですけど、仕方ないことだったんだと今ならわかります。電話に出てくれなかったんだ、という言葉でいつも終わる君の話は、きっとそれ以上言葉にしたら自分の蓋が空いちゃうから、その言葉で閉じてたんだと、今君と話して気づきました。まるで自分に言い聞かせるみたいだったのはそれが理由だったんだなって」

 そして、高幡は言った。「蘭は怒ってなんてない」と。

「君が電話に出なかったことを怒ってるわけないです。だって蓋をして隠しているのが君への怒りだったら、向き合わされた時、真っ青な顔はしないでしょ?」

『君の伝言、伝えました。蘭は真っ青な顔してた』

 ——向き合えなくて、今も隠している蘭の気持ち。
 蘭は、君の伝言を聞いて真っ青な顔をしたらしい。君は蘭がその伝言を聞いて喜ぶと思っていたのに。君に対してそうであれと、蘭は願っていると思ったのに。
 では一体、蘭がしまい込んでいるのはどういう感情なんだろう。
 高幡が言うことから考えると、蘭がこの橋に寄りつかないのは、君のことを思い出して辛い気持ちになるから、ということになると思う。
 それはつまり、電話に出なかった理由を考えないように、君とのことを向き合わないで心の中で収めておきたかったから、ということになる? だってもし考えて向き合った先で最悪な想像が的中して現実になってしまったら、知らないふりはできなくなってしまうから。その流れはわかる——身に覚えがある。
 そんなの全部、同じじゃないか。
 今君が蘭に対して抱いてるものと、蘭の話題を避けたいと感じた理由と同じだ。

「蘭に会いませんか?」

 その事実に気づいた瞬間に、高幡から持ち出された提案。心に光スッと差し込んだように、今までと違う心持ちでその提案を受け取った君が居たけれど、

「……会えないよ」

 目の前に、悲しい現実が横たわる。

「だってもう死んでるし。蘭からは見えない」
「間に入って通訳します」
「でもここにいる証明ができないと信じてくれないと思う。高幡さんの信用問題にも関わるよ。そんな笑えない冗談を言う人間だと思われたら、もう一生蘭は高幡さんに心を開いてくれなくなるかもしれない」
「そんな、そんな怖いこと言わないでください……!」
 
 でもその通りなのだから仕方ない。蘭からしたら一番触れられたくない部分を無理矢理こじ開けるような嫌な嘘をつかれたようなものなのだから。
 じゃあどうしたら……と考え込んだ高幡が、ふと顔を上げると、「そうだ!」と、ガサガサ自分の鞄を探り、メモ帳とボールペンを取り出した。

「ここに書いたりできないんですか? 幽霊が文字を残すからノートを置いておく、みたいな確認方法あるじゃないですか」
「……?」
「あれ? 知りません? やっぱりゲームの中だけなのかな……定番なのかと思ってたんですけど。まぁ、物は試しで、とりあえず頑張ってみましょうよ!」

 ねっ!と、ニコッと明るく笑って君にノートとペンを差し出す高幡に、君はなんだか懐かしい気持ちになった。蘭もこんな風にぐずぐずする自分をよく導いてくれたなと。
 うん。やってみよう。

 ——が、そう上手くはいかず。

「ペンを持つことすらできないとは……」

「じゃあなんでラムネは持てるんですか?」と、君の手元に目をやる高幡に、「わかんないけどポケットに入ってた」と君が答える。

「じゃあポケットからノートとペンを出してみてくださいよ」
「……無理だね」

 そもそもそんなことができるのは猫型ロボットくらいのものだ。

「違いと言ったら、これは蘭からもらったものだったから、とかかな……蘭との繋がり、というか」
「言うなら今も繋がってますもんね、蘭もきっとそんな思いでラムネ食べてますよ」
「そうだ、蘭から×は貰わない方がいいよ。死んだ時一人でここに立つことになる」
「やめてくださいよ……てか、それ聞きました。全部食べてあげてたんでしょ? やり過ぎですよ。だからあんな我儘に育ったんですよ」

 ゲンナリする高幡を見て、君は「あはは!」と、声を出して笑った。蘭のお願いに迷惑がっている高幡がありありと目に浮かんだからだ。
 君と蘭の関係は少し特殊だったから、君にとっては何ともなかったことでも、他人からしたら違う受け取り方になることも多いと思う。これは以前、原と話した時にも経験した感覚だ。蘭の我儘は全部君が受け止めてきたけれど……そうか。今はもう、別の人が引き受けてくれてるんだな。
 蘭はもう、過去に蓋をして新しい人生を歩き始めたんだ。

「高幡さんに我儘言えてるんだね、良かった」

 本当、良かったと思う。それならきっと、蘭は大丈夫。蘭のためにこんなところにまで君を探しに来てくれた、高幡がそばに居るのだから。これから先の未来もきっと。
 ふと空を見上げると、さっきまで真っ青だった空が綺麗な赤色に染まっていた。あの夕日が海の向こうへ沈んだら、次は夜がやってくる。
 時間が動いている。毎日を過ごしている気分になる。まるであの頃のようだった。

「じゃあ、もう蘭は大丈夫だね」

 君の言葉に、高幡が目を丸める。「どういうことですか?」と。
 君の言葉の真意を察したようで、警戒とも心配ともとれる真心を君へ向ける高幡と目が合うと、君はふっと肩の荷が降りたような、そんな感覚を得た。
 関係のない人がなぜ?じゃない。だからここに現れたんだね、と。

「蘭には高幡さんが居るから大丈夫ってこと。これから先ももう心配ないんだなって。それに蘭が怒ってなかったことも知れたし、なんか気が抜けた感じがする。もうすぐちゃんと夜も来そうだし」

 世界が動いている。想像もしなかった方向で。このまま回っていくのならもう、ここに立ち続ける理由はない。

「いつか蘭に伝えてよ、ちゃんと最後は一人じゃなかったって。幸せな最後を迎えられたって。高幡さんのおかげで吹っ切れた、」
「何言ってんですかこのバカッ!」

 ば、バカ……?
 驚きのあまり言葉を飲み込み、パチパチと瞬きをする。そんな君を、高幡はギッと睨みつけた。

「だから、蘭はまだ君とのことを抱えてるって言ったでしょ! その心を軽くしてあげたくて君を探しに来たの! このまま勝手に納得して成仏なんてしてみろ、一生君を恨むからな!」
「えぇ……」
「今ここで一番蘭を救えるのは君なの! 自分だけじゃ無理なの! だからいい? 明日絶対連れてくるからここに居てくださいね。逃げたら絶対許さないし、君の悪口を蘭に言う!」
「わ、悪口は別にいいけど……でも蘭はきっと信じてくれないよ、来てくれないだろうし。君が逆に悪く思われる、」
「だから、そんなこともう全部わかった上で覚悟決めてつれてくるので! 絶対! 絶対! だから君はここに居ること、約束です!」

 そう言って小指を突き出してくる高幡に、反射的に小指を差し出していた。約束は指切りをするもの。蘭にそう叩き込まれていたから無意識に身体は動く。
 けれどその小指が触れ合うことはなかった。だって君は幽霊で、実体のない存在だったから。でも完全に目がキマっている高幡にそんなことは関係なくて、指を絡めた素振りをすると、大真面目に指切りの歌を歌いきって、君に約束を残して帰っていった。
 不思議と泣きそうな気持ちになった。
 こんなことをして本当に明日連れて来れなかったらどうするのだろう。約束をしたせいで、君がここで一生蘭が来るのを待つようになったら? そんなことになったら高幡が辛い思いをするだろうに。
 ……そこまで考えてないだけ?
 だとしたら、今君にできることはなるべく期待しないことだ。
 そうすれば、思い通りの現実に向かえなくてもがっかりすることはないから。

 ——それなのに。

「本当に! 本当に無理なの、離してって言ってる!」

 聞こえてきたそれは、懐かしい声だった。

「ほんとデリカシーない! こんなとこ連れてこられたって何も変わらない! なんなの? 意味わかんない!」

 蘭だ。そこには高幡に手を引かれてめちゃくちゃに抵抗している蘭の姿があった。高幡はもう汗だくになりながら「いいからこっち! 絶対居るから! 約束しちゃったから!」と蘭を引き摺りながら、目を丸くしている君と目が合うと、パッとその険しい表情を明るくさせた。
 
「やりました! つれてきました! 蘭です!」
「……こんな感じになると思わなかった」

 素直な感想が口からこぼれると、高幡が照れくさそうに、「こうでもしないと来ないので」と、頭をかいて笑った。
 そんな高幡を、蘭が見つめる。その視線に気づくと高幡が説明をした。

「ここに今、居るよ。言いたいこととか聞きたいこととか話しなよ、通訳してあげるから」
「は……? え? いや嘘でしょ、嘘だ……だって高幡は知らないでしょ? 何があったか……」
「知らないのに亡くなってるの知ってるのがもうここに居る証拠じゃん。本人に聞いたんだよ、ずっと蘭が気にしてた電話に出られなかった理由も」
「! いや、ちょっとま、」
「ちょうど飛び降りたところだったんだって。だから出られなかったんだって。落ちて流されてたらそりゃあ出られないよ。でも出られなかったから蘭が怒ってるって言ってる。ちゃんと蘭の望み通り居なくなったのに居なくなれないって。蘭が許してくれてないって。そうなの?」

 ハッと、蘭は高幡が指差す君の方へ目を向ける。君と蘭の目が合った。が、

「本当に、そこに居るの……?」

 蘭の目に君は映らない。それはそうだ。そんな都合のいいことは起こらない。

「居るよ。でも納得したら居なくなっちゃうから早くした方がいい。多分全部答えてくれるし、蘭の言葉なら全部受け取ってくれるよ。だってそういう人だったでしょ?」

 高幡のその言葉に、蘭の瞳が揺れる。思い当たる節があったのだろう、蘭と君が歩んだ人生の中に。
 蘭の人生の中で生きていた君の姿が、蘭の中で縁取りを濃くして現れる。
 
「電話……そう、電話したの。謝ろうと思って。だってわたし、最低なことしたから」

 蘭が、震える声であの日を語る。

「わたし、そんな君はいらないって、君の世界なんてないって……君の全部を否定しちゃったから。あの時、自分の全部が否定された気がして、同じだけ君も傷付けばいいって、そう思って……そしたら謝る君の力の入らない声が聞こえて、気づいた。とんでもないことをしちゃったって。だってそんなこと言われたら、わたしだったら……死んでる」

 振り絞った声と共に、蘭の涙がこぼれ落ちる。

「だって生きる価値ないって思う。君にもしそんな風に突き放されたら、もう生きる意味ないじゃん。今までの全部意味なかったって捨てられたってことだよ。ずっと迷惑かけてた自覚があったから、もう許してもらえないと思って、出てった君を追いかけられなかった。でもずっと気持ち悪くて、頭痛くて、雨が強くてずっと夜みたいに暗くて、風の音とかすごくて、早く電話しろって急かされてるみたいな、怒られてる気がして、すごく心細くなって……思い切って電話したの。でも、繋がらなかった。だからもう終わったんだなって思った。こんなこと、今まで一度もなかったから」

 そう、今まで一度も君は蘭の電話を無視したりなんてしなかった。どんなことがあっても、何をされたとしても、蘭が呼びかければ君はその思いに応えてきた。応えるのが君の役目だと思っていたし、応えたいと思い続けてきたから。
 でもあの日、君は電話に出られなかった。

「あとになって君があの日死んじゃったって知って、もう死ぬつもりだったから電話に出なかったんだなって思った。それかもう、わたしがぐずぐずしている間に死んでしまって、間に合わなかったんだって……どっちにしろわたしが殺したんだ、君を。君の人生を無駄にしたのはわたし。ここにはわたしへの恨みしか残ってないのに、こんなところ来たくなかった。死にたくなるから。でもきっとわたしが死んだところで君は喜ばないよね。君と同じところにわたしがまた来たら、君は嫌だと思う。またこいつに付き合わされるのかって、やっと離れられたのにって思うと思ったら、死にたくても死ねなかった。まだ生きていないとって……君がまた生まれ変わってこっちに戻ってきたら、その時がわたしの死ぬ番だって。でも——わたしが怒ってるって君が思ってるってことは、もし電話が間に合ってたら、君は出てくれたってこと……?」

 真っ赤になった蘭の目が、見えないはずの君の方へ向けられる。求められている、蘭から。今蘭は君の答えを必要としている。
 でも、君の声は届かない。その目に、君の存在は映らない。

「……絶対に出たよって、蘭に伝えて」

 高幡に伝える声が、震えてしまう。

「ずっとずっと、蘭を恨んだことはないよって。だってそういう二人だったじゃんって、伝えて」

 あの時の自分の選択は間違いだったのかな。蘭はそんなこと君に望んでなかったってこと?

「気付けないまま勝手に居なくなって、悲しい思いさせてごめんねって」

 もし、あと一歩飛び降りるのが遅かったら、何かが変わってい他のかな。

「電話、出られたら良かったのにな」

 そうしたら、この思いを直接届けることができたのに。
 君の言葉を高幡が一つ一つ蘭に伝えるのを聞きながら、じっくりと後悔していった。
 今更遅いのだ、全部全部。
 死んだことに後悔はない。あの時の自分の決断だ。でもそれで蘭を悲しませることしかできなかったことが、悲しい。

 ブー、ブー、

 ハッとした。ポケットの中で何かが振動している。
 取り出してみると、それは紛れもなく君のもの。あの日失くした君のスマートフォンだった。
 ……なんで?
 画面には蘭の名前が表示されていて、君はそっとそのマークに触れる。

「……はい」
「! 繋がった……!」

 目の前に立つ蘭は耳元にスマートフォンをあてていて、通話は蘭の端末と間違いなく繋がっていた。

「なんで……?」

 戸惑う君に、高幡が答える、「蘭と繋がってるならポケットから出てくるって言ったじゃないですか」と。
 もっと早く電話をしていれば、もしあの時電話に出ていれば、その気持ちが繋がったことで、君のポケットからあの日のスマートフォンが出てくるんじゃないかと思ったのだという、高幡の名案が正解に繋がった瞬間だった。蘭はずっと君の連絡先を消せずに、大事に取っておいていたのだ。
 ——今なら、直接蘭に言葉が伝えられる。
 心臓が興奮でバクバクと動くのを感じながら、何から伝えようかと君が口を開こうとした、その時だった。

「ごめんね、あんなの全部嘘なの」

 切羽詰まった様子の蘭の声が、スマートフォンを通して聞こえてきた。

「あんなこと思ってないよ、君はわたしにとって一番大事で大切な、特別な人なの。あんなことを言ったわたしを許して。君が取られちゃうと思ったら自分が止められなかったの……っ」

 それはあの日の蘭が君に告げた言葉への謝罪だった。ボロボロと涙を流してぐちゃぐちゃの顔をした蘭が君の前に立っている。
 あの日の蘭だ、と君は思った。蘭の心の蓋が開いている。君への執着が顔を出す。あの日を思い出して、あの頃の君達を思い出す。
 ——あぁ、そっか。

「いいんだよ、嘘じゃなくていいの。きっとさ、あの日の蘭の言葉は全て心の奥にあった蘭の本音だと思うから。それでいいんだよ。嘘だってことにして謝る必要はない」

 君の言葉に、蘭は息を呑む。「何を言ってるの……?」と、震える声で訊ねてくる。
 でもわかったんだと、君は蘭に見えないその表情を優しく柔らかなものにさせた。
 なんだか穏やかな気持ちだった。蘭の様子を見て、現実を知って、今、全ての答えを手に入れた気がする。

「もしあの時電話が繋がって、こうやって蘭が謝ってくれて、上手くあの場をやり過ごしたとしてもさ、蘭は本音に蓋をしたまま我慢して、また溜まっていって、そんな蘭に気付けないままいつかまた、その日は来てたのかもしれないなって思う。なんとなくだけど。だからさ、これで良かったのかもしれない」

 そう、これで良かったのだ。

「蘭の辛い気持ちは全部持っていくよ。だって蘭のことが大好きだから。このまま長引かせていつかの蘭が思い詰めて死んじゃう終わり方じゃなくて良かった。きっとこれが正解だったんだ」
「なんで、そんなこと言うの……? 君はわたしのせいで死んじゃったんだよ?」
「蘭のせいとは思ってないし、実際に死んだことには後悔がないんだ。悲しませちゃう選択をしたなら間違いだったと思うけど、でもこうして話してお別れもできたし、怒ってないことも知れたし。きちんと終わりにできたならそれで良かったと思う」
「違うよ、そんなわけないじゃん! 前に言ったよね? 辛さを全部引き受けるとかそういうの求めてないって。わたしのせいだったよ、わたしのせいだったけど、一緒に生きて欲しかった!」
「うん、ごめんね。でも一緒に生きてもきっと蘭は辛い思いをしたんじゃないかな。だって高幡さんみたいに蘭の苦しみに気づいてあげられないし、結局お互いに自分の押し付け合いしてるみたいなところあるじゃん。今もそう。不思議だよね、お互いが居ないと息もできないくらい辛いのに」

 本当に不思議だ。本音を語り合えば結局ぶつかり合うのに、お互いが一番であるのが当たり前の関係なんだから。

「だからさ、蘭のせいで死んだんじゃなくて、これが二人にとっての一番の方法だったから自然と辿り着いたんじゃないかなって思うんだ。きっとそういう運命だったんだよ」
「……なんなの……何それ、運命って。いつもそうだよ君は……」

 蘭の纏う空気感が変わる。蘭の瞳が黒く染まっていく。

「そうやってさ、この方がいい、こういうことだっていつも綺麗にまとめようとしてさ、結局わたしの気持ちなんて全然考えてくれないよね」
「考えてるよ」
「考えてないよ、だってわたしのせいで死んでないってことはさ、わたしのことなんてその程度だったってことでしょ? わたしとのことに命をかけた君は居なかったってことじゃん! だったら恨まれてる方がマシだった! そんなあっさりまとめてさ、また何事もなかったみたいに終わらせようとして、もっと苦しんでよ! いつもわたしばっかりで、結局いつも君は同じだけ苦しんでくれない!」

 蘭の切実な訴えに、隣で高幡がギョッとした目で君と蘭を交互に見やる。高幡と目が合った君は笑って見せた。驚いたよねと。でもこれが蘭だ。

「同じように苦しんで、同じように気持ちをわけ合って、同じように生きていって欲しかった……っ」

 それが、蘭がずっと君に求めていたもの。生きている頃からずっと、蘭は君に同じように感じて欲しい、ただそれだけだった。同じように生きて欲しかった。一緒に、ずっと。
 ——でももう、ここに生きた身体を持つ君は居ない。

「ごめんね、蘭」

 ——でも、全てを理解した君の意思は、ここにある。
 まだ残せる。

「大丈夫。蘭のせいで死んだ人間は居ないけど、蘭のために死んだ人間ならここに居る。蘭と同じようにずっと苦しんだよ。蘭が怒ってるって、ずっと時が止まったままここに居たんだから。寂しかったよ、一人でこんなところに居続けるのは。ずっとずっと自分を責めて、蘭のことを考えてた。それだけだった。蘭がくれたラムネを川に落としてさ、運勢が変わらないかなって。そしたら高幡さんが見つけてくれて、それでようやく時間が動き出して、蘭とまた会えた」

 空の色が変わるのを見るのが好きだった。
 今日も終わったんだなって、蘭と過ごした今日と、蘭と迎える明日を感じられたから。
 ずっとずっと、隣に立って居なくてもずっと、それは変わらなかった。
 一緒には居なくても、記憶で、心で、共に生きられるのだと思った。

「会えたから、このままずっと心の中で一緒に居られるよ。こうして心がまた繋がったから、蘭の寂しい時、蘭が辛い時、苦しい時、ここでずっと温めてるし、これからはずっと蘭の人生の中で生きていく。今日の姿のままずっと、蘭が忘れない限り」

 きっとそのために死んだのだと、君は思った。
 蘭の一番の存在として、ずっと蘭の記憶の中にあり続ける。蘭のために死んだ、蘭を一番大切に思い続けた人間として。それが生きた自分ではできなかった、蘭の人生で一緒に生きるということ。

「でも忘れて欲しくないので、蘭と二人のための人生を生きることを高幡さんの前で誓うから、高幡さんにはそれを証明する人になってもらいます。半分背負わせるみたいで申し訳ないけど、自分で首を突っ込んで、蘭の蓋を開けたんだもん、仕方ないよね?」

 何とも言えない複雑な心境を表した高幡はここまで出かけた言葉を飲み込んで、「わかりました」と、渋々頷いた。こんな重たい話になるとは思っていなかったのだろう。でも相手は蘭だ。笑顔で手を振っておしまいで、満足する人間ではない。

「蘭の深淵を覗いてしまった……そこにこれからは君が居るんですね」
「そういうこと。蘭が忘れて暴走したら思い出させてやってね。一緒に生きてるんだからしっかりしろって」

 よし、と心を決めて唖然とする蘭へ目を向ける。最後の時間だ。

「蘭、だから元気にたくさん生きて。ずっと一緒に居たいから。それが二人の人生だから」

「約束だよ」と告げると、蘭はそっと小指を出すので、それに君は自分の小指を絡めた。

 ——プツリと通話が切れる。
 空は、綺麗な夕焼け色に染まっていた。
 夕陽が沈めば夜が来て、朝日が次の朝をつれてくる。
 それは一人きりでない、二人の朝だ。


 『君はどうして、』完