あの日——君は、ポケットの中で震えるスマートフォンに手が伸ばせなかった。
 もう精神的に参ってしまっていて、着信があるだけで心は形を変え、身体は言うことを聞かなくなっていたから。
 蘭と君は、まるで噛み合わない歯車のように、隣り合えば互いの存在が自身を傷つけ合う、そんな二人になってしまっていた。あれだけお互いしか居ないと、ぴたりと合わさった存在同士だったのに。


「ごめんね、あんなの全部嘘なの。あんなこと思ってないよ、君はわたしにとって一番大事で大切な、特別な人なの。あんなことを言ったわたしを許して。君が取られちゃうと思ったら自分が止められなかったの……っ」

 真夜中に窓がノックされたと思ったら、ボロボロと泣いた蘭が窓の外に立っていて、君はそんな可哀想な蘭に寄り添った。
 蘭の責める言葉に打ちのめされたあの時、君の様子に気づいた蘭は、すぐにごめんねと、こんなつもりじゃなかったと君に謝り続けた。それまで聞こえてくる言葉が自分のものかどうかもわからないほどに衝撃を受け、呆然としていた君はそこからどうにか持ち直し、もういいよと蘭に答え、解決させてなんとか部屋に戻った、これはその夜の話だ。
 おそらく、君が許して部屋を出た後も、蘭は感情のまま自分がしてしまったことに苛まれ続け、夜になっても眠ることもできないくらいに思い詰めてしまい、どうしようもなくなって君の元へやって来たのだろうと思う。
 そんな精神的に不安定になり、泣きじゃくる蘭を前に、君はもう蘭の言葉が辛かったとか、悲しかったとか、そういう感情全てをよそにやって、蘭を支えなければと再び立ち上がることを決心した。それは間違いなく君の意思で決めたことだった。

 そうして君達はまた、二人で一つのように寄り添いあう日々に戻っていったのだけれど——。

「今家に居ないみたいだけど、どこに居るの? 何時に帰ってくるの?」

 それからの蘭は、今までと様子が変わって、心の中にしまっていた君への執着を隠すことがなくなっていった。
 君が謝罪を受け入れたことで、蘭は君へのこの感情ごと受け入れられたと感じたのだと思う。
 学校生活ではいつも通りに振る舞うけれど、家に帰ってからはずっと君の行動を監視したがるようになり、君のスマートフォンには蘭と居場所を共有できる監視アプリも入れられるようになった。

「今どこに居るの? 何の用があるの?」
「手紙出しにポストまで来ただけだよ」
「何の手紙? お父さん?」
「お母さんが懸賞にハマってんだよ。どうしようもない理由だから蘭に声かけなかっただけ」

「いつもちゃんと声かけるでしょ?」と確認すると、電話越しでも蘭が安心したのが伝わって来た。
 やれやれと、君は一息つく。
 こういうやり取りを窮屈に思う気持ちもあるけれど、君はその蘭の執着の全てを容認することにしていた。全ては君が招いてしまったことだと思っていたからだ。蘭は嘘だと言ったけれど、あの日の蘭が君にぶつけた言葉は全て心の奥にあった蘭の本音だと理解していたから。
 だって、そうだとすればこんな君を蘭が必要とする謎の全てが解けたのだ。

「これからもちゃんとわたしのそばを離れないでね。君が居ないとわたしの人生じゃなくなっちゃうから」
「わかってるよ」

 それはつまり、蘭はずっと、蘭の人生のために君を利用していて、そのために喋れもしない君をそばに置いていた、ということ。君は蘭の人生において、蘭を輝かせるための脇役を担っていたのだ。
 きっと初めて出会った時からずっと、蘭によってそう決められていたのだと思う。そして、言い換えるなら、君の人生においての蘭もそういう立ち位置に居るということになる。だって喋らない君の人生は蘭が居ないと輝かないのだから。

 自分の人生では自分が主人公だ。けれど人の人生では自分は脇役。その人の人生はその人のためにあって、魅力的な脇役とともに生きることで、より充実した人生を送ることができる。
 そうやって脇役を利用してハッピーエンドを目指すのが自分の人生を歩むということなのだとしたら、君と蘭の二人はそのために利用し合い、刺激を与え合う役目に決められた二人だったのだと、それが主人公かつ脇役である自分達二人の人生の在り方なのだと、君は気がついた。
 主人公として二人で同じ人生を歩むことは不可能だ。けれど脇役として互いの人生に登場するのなら、お互いに影響しあい、共に生きていくことが可能になる。
 自分のためだけの世界なんて存在しないというのはそういうこと。あの時蘭が教えてくれたのはそういうことだったのだと、君は解釈し、納得した。

「ちゃんと一緒に居るから、もっと気を楽にしてよ。その方が嬉しい。蘭の人生が良くなることがしたいから」
「それは、わたしのためにってこと?」
「そう。それと自分のためでもある」
「……そうなんだ」

 だから君はお互いのためにも、蘭とはこの関係を続けていこうと心に決めたのだ。そうすることで互いの人生に良い影響があるのだと、それが君達二人の支え合い方——利用し合い方なのだと、今までの経験を信じて。

 けれど、卒業が近づくにつれて蘭はどんどんおかしくなり、卒業式を終えた中学最後の日。
 蘭は君に告げた。

「死にたい」

 君と蘭は二人きりで、同じ制服を着て歩く最後の通学路をアパートに向かって歩いていた。その途中にあるいつもの橋の真ん中で、突然足を止めた蘭が君の方へ振り返ると、その言葉を皮切りに橋の手すりへ迷いなく近づいていくので、君は慌てて蘭を引きとめた。

「なんで止めるの? もう嫌なんだよこの先の人生を考えるのが。いいじゃん、放っといて! もう別々の高校なんだし!」

 出た、その理論、と、君はもうまた始まったな、くらいの気持ちだった。だからいつもみたいに「呼べばちゃんと会いに来るし、いつでもうちにも来ていいんだよ。毎日電話もすればいいし、アプリだって入れてるんだし、どこに居るか毎回確認してよ」と、不安を解決させるためにとった手段や約束、事実を確認していく。
 いつもはこれで納得してくれる。けれど、この日の蘭は違った。

「わかってるよ、でもそれ全部やったって、君が居なくならない保証にも理由にもならないじゃん。わかってるんだよ、こんなの気休めだって」

 ぐるぐると、また蘭の目の奥が真っ黒に染まっている。気休めと蘭は言うけれど、君にとってのそれらは気を重くさせるものだった。蘭の人生の脇役としてこれ以上の何を差し出せばいいのか、犠牲にするものが見つからない。

「じゃあどうしたらいいの?」

 そう、君が蘭に訊ねると、蘭は逡巡したのち、君の手をぎゅっと握って答えた。

「一緒に死んで」

 ——ついにこの日がきたか。
 君は今、とんでもないお願いをされているのに、そんなことを考える頭はどこか冷静だった。事前にいつか起こることだと予想して、それに答える覚悟がついていたのだと思う。

「それはできないよ」

 だから、きっぱりとそのお願いを断ってみせる。だって君と蘭はお互いの人生にとっていい方向に影響し合うために利用し合う存在なのだから、その存在が自分達の人生を終わらせる理由になるのはおかしい。そんなのは間違っている。
 けれど、もちろん蘭がそれに納得するはずがない。

「なんで? わたしは君に命をかけられるのに、君はかけられないの? 大切に思ってくれてるんでしょ?」
「思ってるよ……でも蘭を死なせたら意味がない」
「でもわたしはもう死にたいって言ってるんだよ。なんでお願いを叶えてくれないの?」
「それを止める存在の方が蘭の人生のためになると思うから。違う?」
「違うかどうかとかじゃないの! なんなの? その人生のため、みたいな言い分。いつもそうだよね。この方がいい、こうした方が合ってる、みたいなのばっかり。そのためだったらわたしの感情はどうでも良いってわけ?」
「だから、その感情を宥めるために蘭との間に約束とか手段があって、それを今まで実践してきたんじゃないの? 全部蘭を思っての努力だよ。なのにどうしたらこっちの考えをわかってくれるの? てか、蘭はわかってくれるつもりないよね」

 つい、スイッチが入った止まらない蘭に対して、いい加減にしろという気持ちの棘が言葉の中に含まれてしまった。いつもはこんな失敗はしない。こんな言い方はしない。けれど積もり積もったものが君の中にも気付かないうちにあって、そのかけらが外へ出てしまったのだ。
 しまったと我に返った君が蘭へ目をやると、蘭は目を丸めて言葉をなくして、その内に静かに涙を流し始める。

「……ごめん、そうだね。わたしはわかろうとしてないで我儘ばっかり言ってた」

 そう言って、今までが嘘のようにすんなり君の訴えを受け入れる蘭の態度に、てっきりまた機嫌を悪くして怒り出すものだとばかり思っていた君は驚いてしまう。
 蘭はそんな君をじっと見つめながら、涙を含んだ声で続けた。

「我慢する。ちゃんと良い子にする。ちゃんと一人で頑張ってみるから、だからもし、どうしても辛くなった時は電話してもいい……? それには絶対に出て欲しいの。ね? お願い」

 縋るように君に頼み込む蘭に、

「……うん、わかった」

 君が断る理由なんて存在しなかった。


 そして、約束を交わした君達は各々別の高校へ進学し、そこから蘭との関わりは目に見えて減っていった。
 毎日電話がかかってきて蘭の家まで通うことになるのかなと想像していた君は拍子抜けした。なんだ、蘭も思ったより大丈夫なんじゃないかと。
 けれど、回数を減らした分、蘭からかかってくる電話は毎回重かった。

「もう無理。限界」
「でも蘭のことだから新しい友達もできたんでしょ?」
「欲しいのは友達じゃないって気づいた」
「じゃあ違うもの作ってみたら? 彼氏とか」

 解決策を提案してみたり、

「わたしのことなんて誰にもわかってもらえない。こんなの意味ない」
「そんなことないよ。蘭が気づいてないだけでみんな蘭のことを見てるし考えてるし、わかりたいと思ってる。ずっとそうだったよ」

 励ましてみたり、

「君はいいよね。人生前向きに進んでしかないんだから。わたしだけずっと置いてけぼりで惨めだ」
「違うよ、ずっと誰より一番後ろに居た人間だから、少し普通になっただけで前に進んでるように見えてるだけ。だから自分に自信が持てなくて惨めに感じる気持ちはわかるよ。辛いよね」

 寄り添ってみたり、たくさん蘭の苦しみに答えてきた。どうすれば蘭が元気になるかなって、会いたいと言われれば会いに行ったし、帰らないでと言われればそのまま一晩中蘭を慰めて、君なりにきちんと蘭の不満と向き合ってきた。
 けれど、

「もう無理。死んだほうがマシ」
「死にたい」
「今から死のうと思う」
「一緒に死んでよ、お願い」

 そう電話がかかってくるようになってからはもう、出るのが辛かった。
 かかってくる度に胸が重たくなって、うまく声が出なくなっていった。

「ねぇ、聞いてる?」

 蘭の声を聞くと体調が悪くなって、吐き気を催すようにすらなってしまい、もう自分でもどうにもできなかった。
 なんでこんなことになったんだろう。
 なんでこんなことをしているんだろう。
 これになんの意味があるんだろう。
 大事な存在だと思っていた。君の人生において蘭の存在は必要不可欠なものなのだと。一生付き合っていく、お互いにとって大事な役割を持った存在なのだと。
 ……そうなのかな。
 本当に?
 本当に、こんな辛さを我慢してまで付き合う必要がある存在?

 ブー、ブー、
 スマートフォンが振動する。
 どっと君の身体から冷や汗が噴き出る。

 蘭からの連絡だ。出なければならない。君が出ることで蘭はまだ君の中に自分が存在していることを確かめているのだ。出ることは絶対条件。じゃないと蘭が怒ってしまう。
 ——怒ってしまう?
 怒るのかな、蘭は。違うよね、がっかりするんだ。
 君に失望して、自分に失望して、世界に絶望する。
 だから守るためにずっとこの着信に出ていた。でも、守りたいものって何?
 蘭は変わってしまった。昔の眩しく君を引っ張っていってくれる蘭はもう居ない。
 君の人生のために存在した蘭はもう、どこにも居なくなってしまったんだと思う。
 君のために必要だったあの日の蘭はもうどこにも居ないのだ。
 それなのに、この電話に出る必要がある?
 
 ブー、ブー、
 スマートフォンが振動する。
 それは蘭からの着信だったけれど、君が出ることはなかった。

 その日は、大雨警報が発令していて、バケツをひっくり返したような雨がいつもの橋の下を流れる川に大量に降り注いでいた。大荒れの川は大変危険で、水辺には近づかないよう注意喚起がされた影響もあり、人も車も普段より極端にその橋を通らなかった。
 だから、誰もその現場を見ていなかった。
 だから、止める人はいなかった。
 川に人が落ちたのだと——橋から蘭が飛び降りたのだと、次の日のニュースで君は知った。



「蘭とは高校に入ってからの付き合いですが、それなりにお互いのことはわかりあえてる関係だったと思います。それなのにあんなことになって……」

 高幡の声にハッと君は、あの日々から今この場へと意識を切り替える。
 そう、蘭は死んだのだ。あの強い雨の日、この橋から飛び降りて。
 君が電話に出なかったから。

「死因を確認する中で、蘭の発信履歴を遡ったそうです。そしたら家を出る前の段階で君にかけていることがわかって、でも繋がらなかったみたいだって……折り返しもなかったって。別におかしなことではないと思うんですけど、それまでも結構な頻度で君の名前が並んでいて、蘭にとっての特別な何かがあったのは一目瞭然というか、だからずっとそこに理由があったんじゃないかって、個人的に思ってて」

 高幡が君をじっと見つめている。それを君は、君を突き刺す覚悟を決めた顔だと思った。

「蘭が死ぬ原因を作ったのは、君だと思いますか?」

 ——ついにこの日が来たと感じた。

『一緒に死んでよ』

 蘭の声が聞こえる。

『わたしの居ない世界で一人だけ幸せになれると思うな』

 そうだよね。この世界は蘭に影響される君の世界。君一人で回してるものじゃない。
 蘭がこの世界を回す。蘭がこの世界の色を決める。そこで君は主人公として生きていて、行動を選択していく。

 ——あの日、電話に出ていても、きっといつかはこうなっていたと思う。
 きっともう決まっていたことだったんだ。何が正解で何が間違いかじゃない。
 この結果は、決まっていた。

「……始めから死ぬのが決まってたんなら、だったら一緒に死んであげればよかったんだ」

 だって一人で生きていたって世界が回らない。君一人の世界にはなんの意味もない。
 どうせ最後に死ぬのなら、蘭の望みを叶えて、二人でこの世にさよならするべきだった。そうしたかった。だって蘭が居なきゃ寂しい。あんなに辛かったのに、そんなに死にたいなら勝手に死ねよって、そう思った気持ちがなかったかと言ったら嘘になるくらい鬱陶しく思っていたのに、それなのに、蘭からかかってこない着信が、蘭の温度を感じられない虚しさが、君を寂しくさせて仕方ない。
 寂しい、寂しいよ。
 なんで死んじゃったの?
 本当に死ぬしかなかったの?
 なんでもっと強く生きてくれなかったの?
 もっと、もっと強ければ。
 そうしたらまた、きっとまた二人で生きていけたのに。
 そんな未来だってあったはずなのに。
 ……違う。決まってたんだよね、これはきっとそういうお話だったんだ。
 そういう、君と蘭のお話。
 ついにその時が来たのだ。蘭の願いを、君の願いを叶える時が。

「今行くね。遅くなってごめん」

 そう呟いて、手すりに足をかけた君を、駆け寄ってきた高幡が慌てて止める。君はめちゃくちゃに暴れたけれど、高幡の意思は強かった。
 意味がわからない。
 なんなんだこいつは。何が目的なんだ。

「蘭を殺したって責めに来たんじゃないの? なんなんだよ!」
「違う、確認をしにきたんです!」
「誰が蘭を殺したかって? だから合ってる。その責任をとるよ、ごめんね高幡さんから大事な蘭をとって」
「そうじゃない!」

 そうじゃないんだと、がむしゃらに君にしがみつく高幡が叫ぶ。

「自分が蘭を殺したんだって、ずっとそう思ってたから! だから君に会って話が、真実が知りたかった!」

 その高幡の叫びは、心の奥底から振り絞るように込み上げてきた本物の言葉だと、君は感じた。だから耳に、心に、その声が届いた。

 ——真実?

 ふっと君の身体から力が抜けると、ドシャッと二人でその場に崩れ落ちる。
 鼓動が激しく、息が荒い。落ち着かない。

「……それは、どういう意味?」

 脳がドクドク脈打っている。
 知らない場所に、知らない答えが、知らない蘭が居るのだと今、初めて知らされている——そんな、嫌な気配。
 息を整えた高幡は、君の心境に応えるように真っ直ぐに君と向き合うと、口を開いた。

「あの、先に言ったんですけど、蘭とはそれなりに仲良くしてて……というか、お互いにわかり合ってるって思うくらい、近い存在だった時があって……でも、蘭を裏切るような形になっちゃったから、だからずっと後悔してて、なんであの時蘭を受け入れられなかったんだろうって……」

 それは、君と蘭の関係と、君の蘭に対して抱いている感情と、とてもよく似ていた。

「蘭は最後に何も言ってくれなかったから、だから、何か残ってないか探したんです。なんでこんなことをしたのか、何のせいでこんなことになったのか、はっきりさせたかった。じゃないと一生後悔を上手く背負っていけないなって思ったから」
「……後悔を、上手く背負う……」
「はい。蘭を傷つけた事実を、変に捻じ曲げていつか自分のせいじゃなかったって言い訳して、忘れたふりして生きるようになるんじゃないかって。そんなことはしたくないと思ったので。真実として受け止めて、蘭の心と一緒に生きていこうと決心しました。そうじゃないとこのままここに立っていられない自分がいたから。自分の人生から逃げる前に、本当のことが知りたかった」

 ——この人は、自分の人生を一人で生きる覚悟がついている人だ。
 一人で生きられない自分達だったからこんな結末になってしまったけれど、もし高幡が君の代わりに蘭と今までを生きてきてくれたのなら——いや、そんなことを考えても意味がない。だって何があっても過去は変わらないのだから。

 君は高幡と比べることで、自然と今の自分の情けなくて卑怯な部分が浮き彫りになり、後悔というよりも未練に縛られた自分がここに居るのだと気がついた。
 自分を被害者のように仕立て上げて、君を残して死んでしまった蘭のせいで世界は回らないのだと、蘭の弱さを責めて君は自分を慰めている。好き勝手に解釈して、結局最後は自分の都合で蘭のことを突き放したくせに。そのせいで蘭は死んだのに。それなのに、そんな自分を許したいし、蘭からも許されたい、その未練でここに立ち続ける自分を、君はひどく汚い存在だと思った。
 そんな君とは正反対に後悔を背負う覚悟で自分の過ちと向き合う高幡は眩しくて、その強い光は何もできない自分を引っ張って世界を回してくれたかつての蘭と重なった。

「……高幡さんは、強いんだね」
「いや、全然そんなこと……なんだろう。強いというか、一人で生きるにはそういう割り切り方が必要だったから身に染みてるっていうか……強がり癖が、あるっていうか」

 そう言うと、ふっと高幡は力を抜いたように笑う。

「できないって、言えないんです。言いたくないっていうか、そんな自分を許せないっていうか。それに蘭が気づいてくれて、急に世界がガラリと変わったっていうか、世界が動き出した感じがして。ほんと正反対のタイプだったから蘭との日々はムカついたしイライラもしたけど、でも新しくて楽しかった」

「きっともうあんな人には出会えないと思う」と、高幡は慈しむ心をいつかの蘭に向けるように、優しい目で寂しく笑った。

「蘭のこと、好きでしたよ。でも蘭は全部を見せてはくれなくて、それに不満が募ってすれ違って、追い詰めて吐き出させた本音を、上手く受け取ることができなかった。それが蘭を傷つけたんです、最悪ですよね。でもどうにもならないことで……どうにも、ならなかったのかなぁ。わからないんです。時間が経てば変わったこともあるのかも。でもあの時はそんなこと考えられなかった。だからそれがきっかけだったのかなって思ってて……」

 そうして、高幡はグッと言葉を飲み込んだ。君は高幡のぎゅっと力のこもった目元に込み上げる涙が、ゆらゆらと揺れている様を見つめながら、あぁ、一緒だと思った。
 この人は、蘭に自分と同じ繋がり方した人だ。
 だから今、そんな高幡と蘭との思い出を共有したくなった。お互いの中にある蘭の記憶を。

「……蘭と出会ったのは保育園の頃で。精神的に弱くて思ったことが口に出せない、話すのが下手な子供だった……というか、その頃から今までずっと声にならないことがよくあって、それに気づいて支えてくれたのが蘭で……蘭は、人のことをよく見ていて、察するのが上手だったから」
「! そうなんです。だから心の中を覗かれてる気分になって怖いと思う時もありました」
「怖いか……そうかも。だけど伝わらないことの方が怖かったなぁ……どう言葉にすれば伝わるのかわかんないし、なんなら言葉にしても伝わらないから、もうそのまま覗いてもらって、全部預けていたかった。全部、全部あげたのに、あげたかったのに、人生の中であげられないものができちゃって、それがすれ違い始めたきっかけだったと思う。最後には電話に出たくないくらい関係も悪化して……でもそっか、高校生になった蘭には高幡さんが居たんだ。高幡さんと仲が良かったんなら、もしかしたらあの電話は全部、高幡さんとのことを相談したくてかけてきてたのかもしれないなぁ」

 高校生になって思っていたより電話がかかってこなかったのは、蘭の隣に高幡が居て、高幡を頼りに毎日が良い方向に進み始めていたからだったのかもしれない。
 それなのに高幡とすれ違い始めてどうすればいいのかわからなくなった蘭が、君を頼りに辛い気持ちを吐き出す電話をかけて来ていたとしたら、毎回重い内容だった理由になるのではないだろうか。
 

『欲しいのは友達じゃないって気づいた』

 ——高幡のことを友達だと思っているとして、蘭にとっての君のような、自分の本音をなんでも言えて受け入れてくれる存在のことを友達とは表さないのだと気づいたのかもしれない。それと同時に、友達という存在に自分の本音の全てを晒け出すことができない自分が居るのだと、蘭は君と離れてからの経験で知ったのかも。


『わたしのことなんて誰にもわかってもらえない。こんなの意味ない』

 ——それなのに友達の枠を越えて高幡に思い切って晒け出した本音が受け入れられなかったとしたら、頑張ったのにうまく行かなかった今までを意味がないと表したかもしれない。もしかしたら、そんな自分の価値に対することでもあったのかも。


『君はいいよね。人生前向きに進んでしかないんだから。わたしだけずっと置いてけぼりで惨めだ』

 ——その一つ一つの悩みに見当違いな返答をする君と今の自分の人生を比べて、余計に寂しく思ったのかもしれない。心は誰とも繋がっていないのだと、ひとりぼっちだと、孤独にさせたのかもしれない。

 そうだとしたら、死にたいという答えに辿り着いてしまっても仕方なかったのだと、君は今ここで初めて思った。だって本当の蘭のことを理解して、受け入れてくれる人は蘭にとって一人も居なかったのだから。
 何度も、何度も君に電話でそれを告げていたのに、君はまた始まったと、きちんと取り合わなかった。気づかなかった。
 蘭が弱かったんじゃない。気づいてあげようとしなかった自分が弱かった。もっと知ろうとすれば気づけたことがあっただろうに、近づくのが怖かった。これ以上傷つき、傷つけられるのが怖かった。
 だから、こんなことになってしまった。

「……電話に出なかったのはあの時だけだったんだ。自分なりに蘭とはきちんと向き合ってきたつもりだから、きっともう一度あの時を繰り返しても、その自分は同じ対応をするんだと思う。それなのに、もっとちゃんと蘭と向き合えばよかったって今思ってる。きっと何度繰り返しても毎回思うことになるんだと思う……情けない。蘭はいつも気づいてくれるのに、なんで気づけないんだろう。なんでこうも蘭の願い通りに動いてあげられる自分じゃないんだろう」

 電話は君にかかってきていた。
 蘭にとって君はもう電話でしか繋がっていない存在だったから。

「高校生になった蘭が落ち込むきっかけを作ったのが高幡さんだったとしても、結局最後に蘭を突き落としたのは高幡さんじゃない。最後に蘭が縋ったのも、頼ったのもあの電話だったのだとしたら、全ての責任は高幡さんにない。それが真実だと思う」

 だって、あの電話はそういう電話だったのだから。

「高幡さんの中に蘭への後悔があるなら潰されない程度で上手く背負っていけばいいと思う。でもそこに責任はないよ。きっと蘭は高幡さんのことを恨んでないと思うから。高校に入ってからは、毎日かかってきてた電話が嘘みたいに減ったから。高幡さんが居たから蘭は変わろうとしてたんだと思う。それに気づいて支えてあげる責任はこっち側にあった」

 だって君の人生は君のためだけにない。蘭の人生は蘭のためだけにない。
 これはそういう二人の人生の、君視点のお話だったから。

「……蘭はきっと怒ってるね。それで今も、恨んでる。一緒に死なないと許してもらえなかったのに」

 もう、きっと許してもらえない。

「そんなことない。絶対にない!」

 力強い声が、川へと吸い込まれていく君の視線を引き戻す。
 高幡の、力の漲る瞳が君に向けられていた。

「蘭は自分のことを全然話してくれませんでした。でも君のことは……君との思い出の話だけは、たくさん話してくれた。今思えば、それこそが蘭にとっての自分のことだったんだと思います。蘭はいつも、君が駄目な自分をきちんと立たせてくれるって言ってました。不安定ですぐブレちゃう自分がしっかり立てるのは君のおかげだって。それで、これ」

 そう言って、手渡されたのは一通の手紙。
 開いてみると、そこには懐かしい蘭の手書きの文字が並んでいた。

『わたしの一番駄目で嫌なところを知ってる君へ』

「これ……」
「まず、読んでみてください」

『これから起こることは君のせいじゃないよ。君を苦しめるわたしの人生に付き合いきれなくなっちゃっただけだから、そこは絶対に間違えないでね』

 その文字を辿りながら、まだ耳の奥に残っている蘭の声でそれが読み上げられる。
 そんな君の隣に立つ高幡が、そっと説明をしてくれた。

「自分のせいで蘭が死んだんだって落ち込んでいる時に、これが蘭の部屋から見つかったんだって、今の蘭と一番親しかったのはあなただからって渡されたんです。でも、これは本当に自分宛なのかなってずっと疑問に思ってて。絶対に違うとも言い切れないけど、なんだろう。知ってる蘭と比べてなんとなく違和感があるっていうか。でもここに来て、君と話してわかりました。これは君宛だったんじゃないかな」

 優しく、寂しく微笑む高幡に促されて、君は続きを目で追った。

『君は悲しんだのかな、それとも喜んだのかな。わたしにはわからないけど、電話が繋がらなかった時、これだ!って、ピンと来たらいてもたってもいられなくなっちゃって。だから君がどう捉えてたとしてもどっちでもいいかなって、今はもうワクワクした気持ちでいっぱいなんだよ。最悪だよね。でもわたしが最悪なのなんていつものことでしょ? 結局君はわたしの我儘を受け入れてくれるって知ってるけど、念のためこうして手紙を残します。そうしたら絶対に君はこの手紙と一緒にわたしのことも捨てられないはずだから』

 その内容とこのあと起こった出来ごとを照らし合わせると、こんなにラフな感じで残されてもと、君はとても複雑な気持ちだった。けれどそれが蘭だし、だからこの手紙が自分宛に残されたものなのだと、その証明がされている内容なような気もした。

「散々振り回したのにごめんね。でももうわたしは、この人生は君の心の中で一緒に生きることに勝手に決めちゃったから。これが一番自分で納得できる一番明るい答えだったんだ。君と一緒ならわたしはいつだって幸せだから、誰より大きな愛情で君の心の中をいっぱいにするよ。辛い時も、悲しい時も、もちろん楽しい時も、嬉しい時も、ずっと君と同じように君の中で感じてる。君と一緒に生きて、その未来を見てみたいんだ。だから君はちゃんと前に進み続けて、元気にたくさん生きて、これからも一緒に頑張っていこう! 約束! ずっとずっと大好き!
君とわたしのための人生を生きることに決めた、我儘なわたしより』

 ——あぁ、そっか。そういうことだったんだ。
 蘭は決めたのだ、同じ人生を歩けないのなら、君の心の中で君の人生を一緒に生きていこうと。
 許すとか許さないとか、恨みとか絶望とか、そんな感情は一切ここにない。
 電話が繋がらなかったことで、蘭はこの方法に踏み切る決心がついたのだ。
 それが、君と蘭の同じ人生の歩み方。
 君と蘭で辿り着いた、君たち二人の人生のあり方。
 蘭は死ぬつもりで飛び降りてない。
 蘭はこれからも、君の心の中で生きていく選択をした、ただそれだけのことだと思ってる。

「これを読んで、他にも自分のせいで蘭が死んだって追い詰められてる人が居るんだって気づいて、電話に出なかったって内容を頼りに、蘭が飛び降りたあの橋に、蘭から聞いた君だと見当をつけて会いに来ました。良かった、話で聞いていたラムネを持ってる君に会えて。あの日の蘭にもっと違う何かを返せたら変わったんじゃないかって思ってたから、蘭のためにも君に絶対これが渡したかった。渡す前に君が思い詰めて行動に移してたらどうしようって、見たこともない君のことを考えるといてもたってもいられなくて……本当に、今日ここで出会えて良かった」

 安心したように笑う高幡の目から涙が落ちる。

「蘭は今も君と生きてるって。それを自分で選んだんだって。だから生きてください。心が重かったらいつでも一緒に抱えるから、半分持たせてください。それがこの手紙が先に自分のところにやって来た理由だと思うから。それが蘭と自分のために——君のために、できることだと思うから」

 その涙は、君の頬を伝うものと同じ温度をしているのだろうと、君は思った。
 寂しいけれど、また歩き出さないと。そうしてまた新しく生まれ変わった世界を生きていかないと。

『これからも一緒に頑張っていこう! 約束!』

 蘭は君がずっと頑張っていたのをわかっていた。だからきっとまたいつもの笑顔で君に小指を差し出している。
 大丈夫。君は歩けるよ。だってこの世界ではもう、誰もひとりぼっちではないのだから。 



 『君はどうして、』完