それからは、トントン拍子に話が進んでいった。
男の家にお邪魔したこともあるし、三人でちょっとした旅行に行ったりなんかもして、なんだかんだと距離が縮まり、男のことを家族になる人だと君は認めるようになったので、蘭にも男を紹介することにした。
自分を支えてくれる一番大切な友達だときちんと説明すると、男は君が紹介してくれたことに感謝を述べて、それから蘭に、「これからもよろしくね」と伝えてくれる。蘭は笑顔でそれに「もちろんです」と答えていた。
が、それ以来、蘭は男のアンチになる。
「なんでそんなに嫌うの?」
「だって良い人なんだもん。君も懐いてるし」
それの何がいけないの?と、君には蘭の言い分がさっぱり理解できなかったけれど、蘭もそこには深く触れず、話題に出せばピリつくので、二人の間で男の話が出ることはどんどん減っていった。
そうこうしているうちに二年生も終わり、ついに君達は三年生になって、進路を決める話が出始める。
——その辺りから、段々雲行きが怪しくなっていった。
「進路のことなんだけど、高校生になったら三人で新しい家に住んで、そこからこの高校に通うのはどうだろう」
男に渡されたパンフレットは、新しい家になる予定のマンションから通いやすい場所にある私立高校のものだった。正直、引っ越す予定はなんとなく聞いていても時期については今初めて聞いたわけだけど、適当に今のアパートから一番近い公立の高校に進学するつもりだった君は完全に寝耳に水で、もうどこからどう何を突っ込めばいいのかもわからない。
「もちろん、ただの僕の提案だよ。提案なんだけど、今からきちんと説明するから、真剣に考えて、その上で決めて欲しい」
そう言って、パンフレットを広げた男は一から十まで、それはそれは丁寧に、この高校に入学するメリット、その先の人生の選択肢、通いながら君にできること、など、どれだけ調べて考えてきたのかと驚くほどに、詳細に、現実的に、君の将来について語ってくれた。
そうして聞いているうちに、君はいつも現状については深く考えてきたけれど、将来について明確に考えたことはなかったことに気づく。だっていつもその時々を生きることで精一杯だったから。
話すことすらできなかった君だ。今だって部分的にはそう。でも、いつまでも今のままで居られるわけじゃない。だっていつかは大人にならないといけないんだから。
そんな君を、君が大人になるまでしっかりサポートする意志があるのだと、説明される中で男の保護者としての責任感を君ははっきりと感じ取った。そして隣に座る母も理解した顔で君を見据えていて、あぁ、もう二人の間では何度も話し合った結果なんだなということを、君はこの場で理解する。
だったら、答えはもう決まっている。
「……わかった、そうする」
君がその提案を受け入れると、二人はホッとしたようで、それまでどことなく漂っていた緊張感がふっと和らいだ。それを君は、今までだったら言うことを聞くか様子を見られていた、と感じただろうけれど、今回は、君の意見を大事に思って、真剣に考えてくれていた証拠だ、と受け止めていた。
そう受け止められるほどの熱量だったのだ。実際のところ高校なんてどこでも良かったし、一緒に暮らすのも仄めかされていたので、突然のことに驚きつつ、調べてくれてありがとう、くらいの気持ちで聞き始めたのに、まさかこんな一大事だったなんてと、認識が変わった。
もしかして、家族ってこういうものなのかな。
お互いのことを自分のことのように真剣に考えてくれる人の集まり、というか。自分を心配して、支えてくれる人達、というか。
母と君もそうだったはずなのに、男のそれは母のそれとは規模も展開も違った。
それが父親、ということ?
そんなことを考え始めるとなんだか心の奥がむずむずして、早くこの話を蘭に吐き出してしまいたかった。
きっと蘭なら受け止めてくれる。よかったねって言ってくれる。
そんな希望を持って後日、君は蘭に話したわけだけど——蘭から返ってきたのは、君の想像と全く違う反応だった。
「え……同じ高校に行くんじゃないの?」
今の今まで楽しく話していた蘭のにこやかな表情がスッと真顔になり、その目から光が失われる。
「言ってたよね? ここから一番近いとこ受けるって。引っ越しの話も、全然知らなかった」
これについては蘭が男の話題を避けていたことと、仄めかしから突然の大発表だったので、君の中でもこれでも蘭に対して最速の報告であるので仕方ないことだった。
この時点で君と蘭は三年生になり志望校について考え始めた段階だったので、今から予定の高校を変更することになんの問題もない。
が、二人で通う高校となると話が変わってくる。重要なのは私立の高校だということ。
「わたしそこには通えないよ、うちお金ないもん。あ、でも引っ越したとしてもさ、君は最初に決めてた高校に志望校戻すこともできるよね? 通える距離ではあるんでしょ?」
まぁ、君にはできないわけではない。遠いけれど、無理すれば通えない距離ではないし。
——けれど。
「それはできないよ」
無理してまで通う必要がある高校かというと、そういうわけではなかったから。なぜその私立の高校が良いのかをパンフレットを手に熱弁する男の顔を思い出すと、蘭と同じ高校に通いたいから、なんて理由でその提案を断るわけにはいかなかった。これはこれから先の人生に、家族に大きく関わってくる話だ。
ちゃんと蘭に説明しないと。
「あの人がね、将来のこととかたくさん考えて説明してくれて、それに自分でも納得したんだよ。だから高校は同じとこには通えないけど、でも会えない距離じゃないからまた休みとか使って、」
「は?」
蘭が、突然君の言葉を遮ったので、君はハッと口をつぐむ。
「何言ってんの? 約束したじゃん、ずっと一緒だって」
——君を見る蘭の目が真っ黒に染まっていく様を、君は見逃さなかった。
「ねぇ、ずっと隣に居るんじゃなかったの? つまり全部嘘だったわけ? 君にとってはその程度のことだったってこと?」
「ち、違うよ。だって蘭が居るから今があるんだし、これからもずっと一緒に居るに決まってる」
「でも別の高校に行くんだよね? なんで? 引っ越す必要ある? あ、てか君だけうちに住めばいいんだよ。それで一緒に高校に通って、今までみたいに一緒に……」
そこまで言って、君の顔を見た蘭がぴたりと話すのを止める。
「何その顔。困ってんの? 何? わたしの何が間違ってる?」
瞬きもしない蘭の目が、心の奥底を覗き込むようにじっと君から視線を逸らさない。
何が間違ってる?と訊かれた君は必死に考えた。どう答えたら良いのか、何が今の正解なのか——……けれど、見つからなかった。見つけられなかった。
「……間違っては、ない」
「そうだよね、だって約束したもんね。わたしの言ってることは何も間違ってない。わたしの全部は君にあげたし、君の全部はわたしがもらったんだもんね」
そう、その通り。君の全部は蘭にあげた。蘭以外に何も持っていない君は、蘭以外の人間のことはもちろん、自分のことすらどうでもよかった。だからあげた。蘭しか欲しがってくれないし、あげれば蘭が手に入ったから。
それでよかったんだ。それが正解だったんだ、二人の間では。特別な二人なんだから。
——そのはずだった。
「でも、あの人をガッカリさせたくない」
今の君は、あの時の君と少し違っていた。君は君だけのものじゃなくて、いつのまにか蘭だけのものでもなくなっていた。
「あの人の望みに応えたいと思うんだ。だって、たくさん考えてくれたから」
真剣に、君達親子のことを考えてくれた。君の未来を君より本気で考えてくれた。
あんな母とこんな君を、優しく受け入れてくれた。
あの人の言葉を信じて、あの人の希望を受け入れて、人の期待に答えられる新しい自分になってみたい。
自分では考えもしなかった自分の未来を、将来を、現実になるか試してみたいのだ。
「だから高校は別になるけど、でもそれ以外の全部は今まで通り蘭のものだ。進む先以外全部、過去から全部蘭のもの。だから何も変わらないよ」
「いや、変わってるじゃん」
けれど、蘭の冷え切った声が、君の思う理想像にストップをかけた。
「何? あの人って。君にはわたししか居なかったじゃん。ずっとわたししか居ない、それが君だったでしょ? それが君なんだよ」
「そ、うだけど……」
思わず、息を呑んだ。まさか蘭にそんなこと真っ正面から言われると思わなかったから。
“君にはわたししか居ない”、“それが君だった”
“それが君なんだよ”
何度も何度も自分の心の中で繰り返し認識してきた事実だったけれど、それを蘭から指摘されるなんて。
蘭は、いつからそう思っていたのだろう。
「それが何? 全部がわたしのものだったのに、なんで? なんであんな人が来ちゃったの? なんであの人のものになっちゃうの? なんなの? わたしを裏切るの?」
「! だから、そういうことじゃなくて、」
「そういうことなの。今君が言ってるのはそういうこと。わかってないのは君の方。言ったよね? わたしの未来も全部あげるって。なのに今、君はいらないって捨てたんだよ。わたしの目の前で。もうわたしなんて居なくていいって。わたしが居たら都合が悪くなったんでしょ? あの人はきっといい暮らしをさせてくれるもんね。いつも君を責めるお母さんとの間にも入ってくれるし、もう一人きりであのアパートで怯えることもない。君はいつも冷静に考えて合理的な方を選ぶから、それでわたしが切り捨てられたんだ」
「いつかこうなるんだろうなってずっと思ってたんだよ」と、蘭は底の見えない真っ黒な瞳で恨みつらみを吐き出すように、そう君に言って聞かせた。
——そんなことを、ずっと思ってたの?
心が、黒く染まっていく。
——そんな心を隠して、ずっと笑ってたの?
蘭は全てを見せてくれていたわけではなかった。
何も、何も気付かなかった。気付けないまま今日まで来てしまったんだ——。
あまりの衝撃に君は声も出なくて、そんな君に気づいた蘭が眉を下げてふっと笑いかける。「あれ? また声が出なくなっちゃった?」と。
「可哀想にね。そんなんでどうやって全部捨てて別の人生歩むつもりなの?」
——別の人生。
さて、君にとっての別の人生ってなんのことだろう。
今とは違う人間になるってこと?
違うよね。新しい自分になりたいとは思ったけど、期待に応えられる人間になりたいってだけで、君は君だ。蘭が大切で大好きな君が変わるわけではないよね。
じゃあ全部捨てるつもりってこと?
そんなことないよね。一つも捨てたものなんてない。捨てたいものも。
そう。捨てるものなんてないんだよ。だって始めから蘭しか居なかったし、蘭を捨てるつもりなんてないんだから。
蘭は勘違いしてるんだ。君が蘭を簡単に捨てられる人間だと思ってる。
君にとっての別の人生というのは、蘭を捨てて違う人生を始めるということじゃない。
「蘭は蘭の人生を、お互い隣同士に並べた別々の人生を歩んでいこうってことが言いたかったんだ」
その道が交わることもあるし、離れることもあるかもしれない。でも自分の道を歩んでいく決心も、隣に蘭が居るのだとわかっていればつく。こんな自分でもできる。だって寂しくて辛くなっても、いつでも隣に寄り道すれば蘭がいるのなら、それでいいだけの話だ。
そんな未来はきっともっと新しくて明るいと思う。
そんな未来で蘭と何度も会いたい。隣を歩いていたいし歩いて欲しい。
「……そう。君はもう決めたんだ」
——が、君は、気づいていなかった。無意識に辿り着いた答えを口にしていたことを。
考えごとに夢中になったその先の話、蘭に伝えたいと思った部分だけは口に出ていなかったことを。
「じゃあもういい。わたしと別の人生を歩く君なんてもういらない。そんなの価値ない。てか、今までずっとなんだったんだろ。なんのために君と居たんだろ。全部、なんの意味もなかったじゃん、ウケる。ぜーんぶ無駄。ここまで全部全部。わたしの人生、君が全部台無しにした。わたしにとってそうなんだからさ、もちろん君もそうだよ? だって同じ運勢だって言ったよね?」
「わかってる?」と、蘭は冷たく言い捨てる。
「そろそろ目を覚ましな、わたしのために君は居たんだよ。だって君の人生なんてわたしが居なきゃ何も始まってないし、なーんのドラマも生まれない、つまらないお話なんだから。なのに別の人生なんて言い出して勘違いもほどほどにしなよ。主人公気取りですか? 話せもしないくせに、勝手に自我持ってんじゃねーよ。一生話すな、わたしの居ない世界で自分だけ幸せになれると思うな」
「始めから君のためだけの世界なんてここにないんだよ」
——まるで、心に釘を打ちこまれた気分だった。
深く、深く刺さったそれは、もう抜けそうにない。
「…………ごめん。こんな、こと……こんなつもりじゃ、なかったのに」
その謝罪が、呆然とした君の耳に届く。が、それが無意識に呟いた君のものだったのか、それとも蘭のものだったのか、朦朧とした意識の中で君は判断がつかなかった。
言葉に引きづられるように後悔で身体の中身がいっぱいになる。
ただただ、突きつけられた現実に、君は打ちのめされていた。



