「部活行こー」
君を迎えにきた蘭の声で君は席を立つと、誰に挨拶するでもなくまっすぐに蘭の元へ向かう。
「今日は話せた?」
「……駄目だった」
母とのことがあってから、君は、折角仲良くなったクラスメイトが話しかけてくれても、それに答えようとするとまた喉の奥に言葉が詰まってしまう感覚に襲われるようになってしまった。
突然のことでみんなは戸惑っていたけれど、色々君を気にして支えようとしてくれたけれど、君はもういいやとその好意の全てを切り捨てた。
だってもう、以前のように戻る必要性も感じられないし。
君が自分の世界を広げる努力をしたのは全部、蘭のためだったのだから。君はもう、君と蘭の世界で言葉が喋れるならそれでいいやと、そのための努力をするつもりもなかった。
「もういいよ、別に困らないし」
またうまく話せなくなってしまってぽつりと一人で居ることが増えたけれど、別にどうでもいい。よく考えればもともと君はそういうタイプの人間だった。
蘭が特別なだけだった。あとはみんな同じ、同じ外の世界の人間だ。
「蘭が居るし」
君がそう言うと、蘭は嬉しそうににっこりと笑った。
いつもそうだった。蘭は君のその言葉を嬉しそうに受け取って、幸せそうに笑う。
特別な二人。外の世界にそんな人間は居ない。この距離感は間違っている。
そんな常識はもうどうでもいいのだ。だって蘭も君もそれでいいのだから。
簡単な、ただそれだけの話だった。
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「そうだ、来週食事会だから。忘れないでね」
帰宅した君の目も見ずに母が言う。「今度こそちゃんと挨拶してよ」と。
誰となんの食事会なのかその台詞ですぐにわかった君は、どっと胸が苦しくなる。そんな君を見つめる母の、君の心を突き刺し、喉を押し潰してくる鋭い圧迫感から逃げるように、君はそのまま自分の部屋に引き篭もった。
と、見せかけて、窓から外へ出て蘭の家に向かった。こうして抜け出してきた君を、いつも蘭は笑顔で招き入れてくれるから。
「食事会! そんな言い方するんじゃきっと外食ってことだよね。あれから会うの初めて?」
いつものように蘭の部屋に通されて、今起こった出来ごとを端的に伝えると、蘭が君の話を聞くために次へと促すように訊ねてくれる。うんと、君は頷きながら右手でそっと胸をおさえた。胸の奥に泥が詰まっているみたいな気持ち悪さがある。
「そうなんだ。うちはそういう気配もないからなー……多分。知らないけど。てかそのお父さん候補の人にわたし会ったことないけどさ、どんな人?」
どんな人……。
「君がそんなに嫌がるんだから、太ってるとか、ハゲてるとか、臭いとか?」
そう蘭に訊ねられて、君は見当違いなことを言われた気分になる。
そういうことじゃないし、そんな簡単な話じゃなくて、と。けれど蘭の言葉で違う視点を見つけられたような気持ちになった君は、素直にその問いについて考えてみることにする。
あの人はどんな人だった?
穏やかに話す人だった。外見の生理的に受け付けない感じは一切なかったし、むしろ小綺麗で品のある感じ。母と自分には不釣り合いな感じの。
「背が高くて……なんか落ち着いてる人だった」
「へー!」
「普通にいい人そう、には見えた。うちの母より」
「え、全然アリじゃん」
じゃあ他に何が嫌なの?と蘭が首を傾げる。それで改めて君も考えてみて、確かになと思う。
何が嫌だったんだろう。
胸に詰まるこの重さは本物だ。君の中にその男を思い浮かべるだけで腐ったヘドロのようなドロドロした感情が湧き上がる。けれど、今のところ男自身に嫌なことをされたわけではない。
いや、嫌なことはされたし、今もされているか。だっていきなりそんなこと言われても受け入れられるわけがないし、外見がいいとか人柄がいいとか、そういう話ではないのだから。突然やってきて挨拶しろって言われたって何が何だかわからないし、父親なんてものそのそもよく知らないし、そんな急に親しく接しろって言われても——あれ?
今挙げた嫌だと思う理由、全部あの人のせい?
急に新たな現実が現れて、君はショックでうろ覚えになっていたあの日を必死に思い出してみる。
あの日は、パニックになっていた。とにかく自分を守るために跳ね除ける姿勢になっていたような気がする。怒りで頭がいっぱいだった分、冷静に考えられなかったというか。
なんで冷静じゃなかったかと言ったら突然だったからだ。押し付けられたからだ。プレッシャーをかけられて、ちゃんとしろと責められたからだ。となると——もしかしたらその人は悪くないのかもしれない。
元凶は全て、母だったのかもしれない。
だってそれらは全部母からされたことだ。今回だってそう。突然の母の報告とその口調で追い込まれて、だから吐き出さないように感情を押し込んで蓋をした。
——それが、胸にある気持ち悪さの原因?
もしかして、何の相談もなかった裏切られ感と、知らない男と親密な関係になれと強要された不快感が解消されていないだけ?
もしかして、ただ突然変えられたことに向き合わされることへのストレスが溜まっているだけ?
もしかして、その現状と感情を整理して理解できていない自分がただ駄々を捏ねているだけ?
嘘だろと、そんな単純なことなのかと、辿り着いた答えに目を丸くする君の耳に、「まぁ複雑よね、ごめん」と、蘭の謝る声が聞こえてきて、君は自分が黙りこくっていたことに気がついた。
考えごとが始まるとそれだけになってしまうのはずっと変わらない君の悪癖だ。けれど蘭もそれはわかっていて、立ち止まる君が先に進めるように、話を促してくれた。
「とりあえずさ、何にせよ君は嫌なわけじゃん。当日はどうするの? ちゃんと行ける?」
——ちゃんと行ける?
蘭から訊ねられたその言葉に、君は行かない選択肢もあるんだ、と、目から鱗が落ちる感覚だった。そんなこと思いつきもしなかった。きちんと話せるかとか、気持ち悪くならないでいられるかとか、行った先のそんなことばかり考えていたから。
「行かないでうちに来れば? それでいーじゃん」
続けて、君の背中を押すように、蘭がそんな提案をする。きっと動揺した君の心の内を察して、その隙間にはまる答えを差し出してきたのだろう。そっか、それでもいいんだと、その魅力的な提案に君の心は揺れ動く。
「……ちょっと考えてみる」
君の答えに、蘭はうんうんと満足げに頷いた。
「無理に頑張らなくってもさ、どうなろうと君にはわたしが居るんだから、好きにしたらいーんだよ」
そして、「いつでも逃げてきなね」と、蘭は君の頭をわしゃわしゃと撫でた。
——そうだ、君には蘭が居る。何かを間違えてしまっても、逃げられないくらい辛い目にあったとしても、悲しくて立ち直れなくなったとしても、そんなどうにもならない君になってしまったとしても、隣に蘭が居る。ずっと蘭は居てくれる。
その事実が、時にはあたたかく君を包み込み、時には優しく君の背中を押してくれる。
蘭は君の全てだ。君がここで生き続けるための全て。
蘭が君を君にしてくれた。
きっと始めから、ずっとそうだった。
そして迎えた食事会当日。
対面した父になる予定の男に君は挨拶を交わして、同じテーブルについた。
まず初めに、君が辛いなら無理に話さなくていいよと、それを前提として男は語り出す。
男は初めの印象通り穏やかで、印象以上に思慮深い人だった。
「僕の家も父が早くに亡くなってね、母が一人で僕を育ててくれたんだ。始めは不安定な君のお母さんを支えたいと思ったことがきっかけだったんだけど、その人に大切な子供がいると知ってから、自然と子供の頃の僕と君が重なって、勝手に君達の家庭の一員になりたいなと思うようになっていたんだ。突然知らない男が土足で入り込んできたようなものだから、君は驚いたし、嫌悪感があったと思う。当然の反応だよ。僕だってきっとそうした」
初日の君の行動を、男は責めなかった。それどころか、自分もわかるのだと身の上話をして、母のことまできちんと説明してくれる。何も言わないで勝手に決めて、従わないと怒り出して君を責める母とは正反対の対応だった。
「君の自由意志を尊重したいと思ってる。今すぐどうこうじゃなくて、ゆっくり距離を縮めた先で、家族の形になれたらな、というのが僕の希望だよ。だから今は、君達二人を支えたいと思ってる一人の人間を都合よく利用してくれればなと。それくらいからスタートしてみてもらえたら僕は嬉しい」
そう言って、君に自分の連絡先を渡す。受け取った君にホッとした表情を見せた男と、これで食事会も終わりだという雰囲気に、君は最後にどうしても言っておきたいことがあって、思い切って口を開いた。
「こんな家庭に関わったって何も良いことないですよ。母も子も、人として破綻してる」
ヒステリックな母親に、コミュ障の子供。家庭環境に難ありと、関わった人間ならみんなわかる。
それをわざわざ忠告したのは、想像より何倍もちゃんとしていたこの人が母に騙されてるなら可哀想だと思ったからだ。あまりにまともな人だったから、母を騙しているとは思えなかった。騙すとしたらこんな話の通じない頭のおかしい人は選ばないと思う。宗教の勧誘も持ち前のヒステリーで追い返す人だ。一人で生きてきた分お金にもうるさいし。警戒心の強い野生の動物みたいな、こんな女と、その子供と関わりたいなんて、
「頭がおかしいと思います」
君の言葉に、男はポカンとしたのち、思わずと言った感じで大きな声で笑いだした。今度は君がポカンとする番だったが、男はハッと我に返り、ごめんごめんと生理的な涙を拭う。
「それ、君のお母さんと全く同じ台詞」
思わず隣の母を見ると、気まずそうに目を逸らされた。まさか、こんなところで親子を感じることになるとは。
「そういうところが、なんか可愛いんだよ」
その優しい男の言葉が母に向けられてると思うと、親の恋愛なんて気色悪いものを目の前で見せられてゾッと鳥肌が立ったけれど、なんとなく、なんとなくだけど君はなんだか、自分のことも受け入れられたような、そんな気がした。



