小田原城址の空を見上げ、指でフレームを作る。
陽光の反射を感じさせる、霞んだブルーを背景に、満開の桜。
フレームの中にまで花びらが舞い折り、私の瞼に当たった。
マルマンのスケッチブックに、Hの鉛筆でサッとアウトラインだけ描いていく。
スマホで写真は撮らず、なるべく記憶に残す。花びらの質感とか、色合いとか。
このやり方は、自分に課したルールだ。
公園のほど近く、二宮尊徳さんに因んだコーヒーショップに入る。
ジンジャーカプチーノを頼み、再びスケッチブックを開く。
自分の脳内で解釈された、雲、梢、花の集まりなどの印象を描きこんでいく。
カップの中身がなくなると同時に鉛筆を置く。
後は部屋に帰ってから、粗めの水彩氏に書き写し、仕上げていこう。
スケッチブックをぱらぱらと見返すと、風景画ばかりだ。
以前は、人の姿が入った景色や、人物そのものも描いていたが、今はそれが描けなくなった。
私のフィンガー・フレームに入った大切な人たちは、次から次へと枠の外に出て行ってしまう。
小学校の時に初めて描いた人物画、対象は母親。
絵画コンクールで入賞し、展示会場に掲出されたが、当の母親は、それを見ることもなく亡くなってしまった。
美大に入って、モデル代わりになってくれた彼氏。すれ違いや誤解から、半年で別れ、虚しく彼の肖像画だけが残った。
多分だけど、私たちはちゃんと愛し合っていたと思う。
風景はいい。
例え、フレームからもこの世からも消えてしまっても、季節は巡り、再び美しい姿を現してくれる。
人間はそうはいかない。一度フレームから消えてしまうと、私の前には二度と戻らない。
嫌いだ。人物画なんて。
美大を出てデザイン会社に就職したが、木炭や鉛筆や筆を持って絵を描くことはなく、専らペンタブを使ってIllustratorやXDに入力する。便利だけど、何か物足りない。だから週末はこうやって散歩がてら、スケッチブックを持って歩き回っている。
人物は描きたくないけど、絵は描きたい。この矛盾が心の中でモヤモヤと蠢いているのを感じながら、その習慣をやめられないでいる。
心地よい春風が通り抜けた。
このお店は、開放的な造りになっていて、報徳二宮神社の樹木を借景として、美しい眺めを楽しめる。
無意識に指でフレームを作り、覗く。
長四角の枠の中に、オープンテラス席に座る老夫婦が収まった。そこに、飲み物をトレーに載せたお店のスタッフも入り込んでくる。
私はフレームを顔から遠ざけ、自然の風景だけを切り取った。
〇
その日の午後、海を描きたくなり、コペンのルーフを上げ、一三四号線を走って鎌倉方面に向かった。
相模湾の沖を見ると、波待ちをしている多くのサーファーの黒い頭が僅かに上下し、まるでアザラシの群れのようだ。
腰越漁港に着くと、堤防を歩き、海越しに江ノ島が見渡せる場所を探す。
春の午後の陽光に輝く海。ゆっくり揺れる漁船の列。江ノ島の右側には頂に雪を残す富士山も望める。
これらを全部納めることはできないかとフィンガー・フレームを作り、少しずつ移動しながら覗いてみた。
ん?
今、指の枠の中に、何かが映りこんだ。
堤防から十メートルほど離れた水面でバシャバシャと動くもの。魚ではない。
子猫だ。
猫は泳ぎが得意なのかどうかわからないけど、あれはどう見ても溺れそうになって、もがいている。声も出せないで。
私は周囲を見回し、長い棒や縄などが無いか探した。釣り人は、遥か離れた場所に何人かいるだけ。
どうする?
大声を出して、釣り人に助けを求める。こっちに来てくれるまで時間がかかりそうだ。間に合うか?
私が海に飛び込む……だめだ。二十五メートルプールを泳ぎ切れるかどうかの泳力だ。
「これにつかまれ!」
手をメガホン代わりにして叫ぼうとした瞬間。男性の大きな声がした。
猫のそばに漁船が近づき、漁網が投げ込まれる。
キジトラの毛から水を滴らせながら、子猫はそれに掴まった。
網がゆっくりと引き揚げられ、その子は男性の腕の中に収まった。
小さな漁船は動き出し、港の奥に向かっていく。私は堤防沿いに追っていった。
船は船着き場に固定され、青いTシャツに胴長靴の男性が猫を抱いて降りてきた。
日焼け顔に短髪の若い漁師は私の姿を認めると、白い歯を見せて近づいてきた。
「あの……助けてくれて、ありがとうございます」
「いいや、たまたま近くを通ったからね……こいつ、君んちの猫かい?」
漁師はキジトラに目を遣り、私に尋ねた。その子はタオルにくるまれているがブルブル震えている。
「いいえ、違います」
「そうか……多分その辺の野良猫で、親とはぐれてしまったんだろうなあ」
「……どうしましょうか?」ちょっと無責任な聞き方だったか。
「念のため、交番に届けてみるかな。預かってはくれないと思うけどね」
「わかりました。その前に獣医さんに診てもらった方がいいですよね。塩水飲んだでしょうし」
「そうだな。じゃあ近くに知り合いのペット病院があるから連れてってやろう……悪いが、一緒に来てこいつを抱っこしてやってくんない?」
そう言って彼はタオルごと子猫を渡してくる。私の腕に抱かれたキジトラは初めて「ニャア」と鳴いた。
若い漁師が運転する軽トラの助手席に乗り、タオルにくるんだまま子猫を膝の上に乗せる。車が揺れるとモソモソともがくが、背中をさすってあげると落ち着く。それを何度か繰り返しているうちに病院に着いた。
年輩の女性の獣医さんに診てもらったところ、健康状態は悪くないとのことで、感染症の予防をしてもらい、子猫用のミルクとキャリーケースを購入した。
交番に行き、漁師さんが「拾得物届」の書類を書いてくれた。本来は動物愛護センターに連れて行くことになるが、一旦彼が預かり、飼い主が見つかったら警察から連絡をもらうことにした。
「あの、いいんですか? 預かってもらって」
私は助手席でキャリーケースの中の子猫を見つめながら運転手に尋ねた。
「いやいや構わないよ、ウチのばあちゃんがさ、今まで何匹も育ててっからさ」
「ありがとうございます」
一応、警察から沙汰があったら連絡してもらうようにとLINEを交換し、彼と子猫と別れ、腰越漁港を後にした。
〇
あれから三か月が経ち、彼からメッセージが入った。子猫の写真つきだ。
💬飼い主からの届けはなかったから、こいつは晴れてうちの家族だ。
ほんとうにいいんですか? 飼ってもらっても💬
💬もちろん!
君は街中のアパートで一人暮らしって言ってたから、大変だろう?
ありがとうございます。
あの、子猫に会いに行ってもいいですか? 💬
💬ウエルカム! あ、それからコイツには、
勝手に『ミナト』って名前つけさせてもらったよ。
その週末、車を飛ばして江ノ島に向かった。
腰越漁港近くの海沿いにある漁師さんの家に着くと、彼と子猫が出迎えてくれた。
ミナト君は、あの時よりも毛がフサフサとしていて、体も少し大きくなったようだ。
「せっかくだから、写真撮るよ。スマホ貸してごらん」
ありがとうございますと言ってカメラのアプリを起動して彼に渡した。
ミナト君を抱き、スマホのレンズを見つめる。
「おう、君もミナトもいい顔してるよ!」
そう言って彼はシャッターボタンを押した。
「あの、あなたとミナト君の写真も撮らせてもらっていいですか?」
「ラッキー!」
そう言ってから、私は少し考えた。
「えーっと、私も一緒に入っていいですか?」
彼は少しびっくりしたようだが、もちろん! と言って家の中に入り、お婆さんを連れてきて、私に「ミナトの飼い主のラスボス」と紹介してくれた。
お婆さんにスマホの写真の撮り方を教え、彼は子猫を抱く私の隣りに立つ。
〇
海と江ノ島をバックに、夏の日を浴びて少し眩しそうな二人と一匹。
私は今、その画面を見ながらイーゼルに向かっている。
絵を描くとき、スマホは使わない。
そして、人物をフレームの中に入れない。
今まで頑なに守り続けてきた、その二つの掟を破ってみた。
つくること。
そのために、時には自分を縛りつけてきた鎖を壊すことも必要なんだと、今では思える。
その後。
海辺の水彩画は、私の家族の風景となった。
(了)
陽光の反射を感じさせる、霞んだブルーを背景に、満開の桜。
フレームの中にまで花びらが舞い折り、私の瞼に当たった。
マルマンのスケッチブックに、Hの鉛筆でサッとアウトラインだけ描いていく。
スマホで写真は撮らず、なるべく記憶に残す。花びらの質感とか、色合いとか。
このやり方は、自分に課したルールだ。
公園のほど近く、二宮尊徳さんに因んだコーヒーショップに入る。
ジンジャーカプチーノを頼み、再びスケッチブックを開く。
自分の脳内で解釈された、雲、梢、花の集まりなどの印象を描きこんでいく。
カップの中身がなくなると同時に鉛筆を置く。
後は部屋に帰ってから、粗めの水彩氏に書き写し、仕上げていこう。
スケッチブックをぱらぱらと見返すと、風景画ばかりだ。
以前は、人の姿が入った景色や、人物そのものも描いていたが、今はそれが描けなくなった。
私のフィンガー・フレームに入った大切な人たちは、次から次へと枠の外に出て行ってしまう。
小学校の時に初めて描いた人物画、対象は母親。
絵画コンクールで入賞し、展示会場に掲出されたが、当の母親は、それを見ることもなく亡くなってしまった。
美大に入って、モデル代わりになってくれた彼氏。すれ違いや誤解から、半年で別れ、虚しく彼の肖像画だけが残った。
多分だけど、私たちはちゃんと愛し合っていたと思う。
風景はいい。
例え、フレームからもこの世からも消えてしまっても、季節は巡り、再び美しい姿を現してくれる。
人間はそうはいかない。一度フレームから消えてしまうと、私の前には二度と戻らない。
嫌いだ。人物画なんて。
美大を出てデザイン会社に就職したが、木炭や鉛筆や筆を持って絵を描くことはなく、専らペンタブを使ってIllustratorやXDに入力する。便利だけど、何か物足りない。だから週末はこうやって散歩がてら、スケッチブックを持って歩き回っている。
人物は描きたくないけど、絵は描きたい。この矛盾が心の中でモヤモヤと蠢いているのを感じながら、その習慣をやめられないでいる。
心地よい春風が通り抜けた。
このお店は、開放的な造りになっていて、報徳二宮神社の樹木を借景として、美しい眺めを楽しめる。
無意識に指でフレームを作り、覗く。
長四角の枠の中に、オープンテラス席に座る老夫婦が収まった。そこに、飲み物をトレーに載せたお店のスタッフも入り込んでくる。
私はフレームを顔から遠ざけ、自然の風景だけを切り取った。
〇
その日の午後、海を描きたくなり、コペンのルーフを上げ、一三四号線を走って鎌倉方面に向かった。
相模湾の沖を見ると、波待ちをしている多くのサーファーの黒い頭が僅かに上下し、まるでアザラシの群れのようだ。
腰越漁港に着くと、堤防を歩き、海越しに江ノ島が見渡せる場所を探す。
春の午後の陽光に輝く海。ゆっくり揺れる漁船の列。江ノ島の右側には頂に雪を残す富士山も望める。
これらを全部納めることはできないかとフィンガー・フレームを作り、少しずつ移動しながら覗いてみた。
ん?
今、指の枠の中に、何かが映りこんだ。
堤防から十メートルほど離れた水面でバシャバシャと動くもの。魚ではない。
子猫だ。
猫は泳ぎが得意なのかどうかわからないけど、あれはどう見ても溺れそうになって、もがいている。声も出せないで。
私は周囲を見回し、長い棒や縄などが無いか探した。釣り人は、遥か離れた場所に何人かいるだけ。
どうする?
大声を出して、釣り人に助けを求める。こっちに来てくれるまで時間がかかりそうだ。間に合うか?
私が海に飛び込む……だめだ。二十五メートルプールを泳ぎ切れるかどうかの泳力だ。
「これにつかまれ!」
手をメガホン代わりにして叫ぼうとした瞬間。男性の大きな声がした。
猫のそばに漁船が近づき、漁網が投げ込まれる。
キジトラの毛から水を滴らせながら、子猫はそれに掴まった。
網がゆっくりと引き揚げられ、その子は男性の腕の中に収まった。
小さな漁船は動き出し、港の奥に向かっていく。私は堤防沿いに追っていった。
船は船着き場に固定され、青いTシャツに胴長靴の男性が猫を抱いて降りてきた。
日焼け顔に短髪の若い漁師は私の姿を認めると、白い歯を見せて近づいてきた。
「あの……助けてくれて、ありがとうございます」
「いいや、たまたま近くを通ったからね……こいつ、君んちの猫かい?」
漁師はキジトラに目を遣り、私に尋ねた。その子はタオルにくるまれているがブルブル震えている。
「いいえ、違います」
「そうか……多分その辺の野良猫で、親とはぐれてしまったんだろうなあ」
「……どうしましょうか?」ちょっと無責任な聞き方だったか。
「念のため、交番に届けてみるかな。預かってはくれないと思うけどね」
「わかりました。その前に獣医さんに診てもらった方がいいですよね。塩水飲んだでしょうし」
「そうだな。じゃあ近くに知り合いのペット病院があるから連れてってやろう……悪いが、一緒に来てこいつを抱っこしてやってくんない?」
そう言って彼はタオルごと子猫を渡してくる。私の腕に抱かれたキジトラは初めて「ニャア」と鳴いた。
若い漁師が運転する軽トラの助手席に乗り、タオルにくるんだまま子猫を膝の上に乗せる。車が揺れるとモソモソともがくが、背中をさすってあげると落ち着く。それを何度か繰り返しているうちに病院に着いた。
年輩の女性の獣医さんに診てもらったところ、健康状態は悪くないとのことで、感染症の予防をしてもらい、子猫用のミルクとキャリーケースを購入した。
交番に行き、漁師さんが「拾得物届」の書類を書いてくれた。本来は動物愛護センターに連れて行くことになるが、一旦彼が預かり、飼い主が見つかったら警察から連絡をもらうことにした。
「あの、いいんですか? 預かってもらって」
私は助手席でキャリーケースの中の子猫を見つめながら運転手に尋ねた。
「いやいや構わないよ、ウチのばあちゃんがさ、今まで何匹も育ててっからさ」
「ありがとうございます」
一応、警察から沙汰があったら連絡してもらうようにとLINEを交換し、彼と子猫と別れ、腰越漁港を後にした。
〇
あれから三か月が経ち、彼からメッセージが入った。子猫の写真つきだ。
💬飼い主からの届けはなかったから、こいつは晴れてうちの家族だ。
ほんとうにいいんですか? 飼ってもらっても💬
💬もちろん!
君は街中のアパートで一人暮らしって言ってたから、大変だろう?
ありがとうございます。
あの、子猫に会いに行ってもいいですか? 💬
💬ウエルカム! あ、それからコイツには、
勝手に『ミナト』って名前つけさせてもらったよ。
その週末、車を飛ばして江ノ島に向かった。
腰越漁港近くの海沿いにある漁師さんの家に着くと、彼と子猫が出迎えてくれた。
ミナト君は、あの時よりも毛がフサフサとしていて、体も少し大きくなったようだ。
「せっかくだから、写真撮るよ。スマホ貸してごらん」
ありがとうございますと言ってカメラのアプリを起動して彼に渡した。
ミナト君を抱き、スマホのレンズを見つめる。
「おう、君もミナトもいい顔してるよ!」
そう言って彼はシャッターボタンを押した。
「あの、あなたとミナト君の写真も撮らせてもらっていいですか?」
「ラッキー!」
そう言ってから、私は少し考えた。
「えーっと、私も一緒に入っていいですか?」
彼は少しびっくりしたようだが、もちろん! と言って家の中に入り、お婆さんを連れてきて、私に「ミナトの飼い主のラスボス」と紹介してくれた。
お婆さんにスマホの写真の撮り方を教え、彼は子猫を抱く私の隣りに立つ。
〇
海と江ノ島をバックに、夏の日を浴びて少し眩しそうな二人と一匹。
私は今、その画面を見ながらイーゼルに向かっている。
絵を描くとき、スマホは使わない。
そして、人物をフレームの中に入れない。
今まで頑なに守り続けてきた、その二つの掟を破ってみた。
つくること。
そのために、時には自分を縛りつけてきた鎖を壊すことも必要なんだと、今では思える。
その後。
海辺の水彩画は、私の家族の風景となった。
(了)



