文化祭の朝は、いつもより少しだけ空気がざわついていた。いつもなら眠そうな顔をして机に突っ伏している連中も、今日はそれなりに浮き足立っていた。
 ホームルームが終わると同時に、「係のやつは準備しろー」という担任の声が飛ぶ。クラスメイトたちがぞろぞろと動き出す中で、海斗は自分のカメラバッグを肩に掛けた。

「悪い、午前は写真部行ってくる」

 同じ係のやつにそう声をかけると、「いいなー」とか「あとで交代なー」とか適当な声が返ってくる。教室を出て廊下を歩きながら、スマホで時間を確認した。
 展示開始まで、あと一時間だ。
 写真部の展示は、二年棟の端にある空き教室を借りて行う。扉の前まで行くと、既に中からガムテープをちぎる音と、パネルを動かす気配がしていた。

「おそーい、篠宮」

 扉を開けるなり、真帆の声が飛んでくる。

「他のクラス、もう準備終わってるってよ。うちだけ遅れてるのにさー」
「部長が遅刻してるからだろ」

 教室の奥で、パネルに写真を並べていた三年の部長が「聞こえてるぞー」とだるそうに返した。片手にはいつものコンビニコーヒー。もう片方の手で、白いパネルを支えている。

「篠宮、その段ボール運んで。さっき印刷してきたやつだから」
「はいはい」

 指示された段ボール箱を開けると、光沢のある紙に印刷された写真がぎっしりと並んでいた。各部員の「日常の断片」。部室、通学路、家の近所、友達の横顔。モノクロのものもあれば、派手な色合いのものもある。

「篠宮のは、そっちのファイルな」

 部長が指で示したクリアファイルを手に取る。中には、昨日まで悩みに悩んで絞った十枚のプリントが入っていた。
 塀の上を歩くシロ。伸びをしているシロ。砂利道であくびをしているシロ。
 それから──一番最後に差し込まれている一枚を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
 夕焼けの逆光の中で、白い猫を抱いて笑う横顔。
 プリントすると、液晶画面で見るよりもさらに輪郭がはっきりした気がする。

(……やっぱ、でかいな)

 L判のサイズでも、自分のフォルダの中にある時とは違う存在感があった。
 この一枚を、パネルに貼って、人目のある場所に出す。
 本当にこれでいいのか。迷いは、まだ完全には消えていなかった。

「お、来た来た」

 真帆がひょい、と覗き込んでくる。

「それ、あんたの分でしょ。どれどれー……あ、いた」

 狙ったみたいに、例の写真を引っ張り出した。

「これだよね? タイトルは?」
「……まだ決めてないけど」
「もう決まったようなもんでしょ」

 真帆は勝手にニヤニヤしながら、写真を光に透かして見ている。

「いいじゃん。君が初めてちゃんと人を撮ったやつでしょ?」
「……勝手に撮ったけどな」
「その子、きっと怒らないタイプでしょ。ていうか、もう見せたんじゃないの?」

 的確すぎて、返す言葉が詰まる。
 花音のリビングで、この写真を一緒に見た時の事が頭に浮かんだ。
「これが一番好きです」と言った声。
 その時の表情。無意識に、小さく頷いていた。

「だったら大丈夫。あとは本人がどう思うかだね」

 真帆はそう言って、写真をそっとクリアファイルに戻した。

「この一枚は、真ん中ね」
「真ん中?」
「展示の」

 教室の中央に置かれた、少し大きめのパネルを指差される。
 そこには、シロの写真を中心に、周囲に他の部員の『日常の断片』が配置される予定になっていた。

「猫シリーズでまとめるんでしょ? だったら、この一枚が『断片の真ん中』ってことで」
「勝手に決めんな」
「勝手に決めないと進まないの。ほら、タイトルカード書いて」

 真帆が、白いカードとマジックペンを手渡してくる。
 カードの片隅にはすでに印刷された『作品タイトル』『撮影者名』という文字。
 空欄を見つめる。ペン先が、しばらく紙の上で止まった。

(放課後……)

 あの校舎裏の時間。塀の上を歩く白い猫と、後輩と、自分。誰も知らない、小さな世界。
 そこに付ける名前なんて、ちゃんとしたものでなくてもいい。
 ただ、あの時間を思い出せればいい。
 気づけば、ペン先が動いていた。

『放課後キャットウォーク』

 その下に、少し小さな字で『撮影者:篠宮海斗』と書いておいた。
 カードを持ち上げた瞬間、真帆が覗き込んだ。

「お、いいじゃん。らしいタイトル」
「適当だろ」
「そういうのが一番ハマるんだって」

 真帆が勝手にカードを受け取り、パネルの一番中央にマスキングテープで貼り付ける。
 その横に、例の写真を位置決めしながら当ててみせた。

「ほら。悪くないでしょ」

 パネルの真ん中。
 まだテープで固定していない写真の余白が、教室の蛍光灯の光を反射してかすかに光った。
 花音の笑顔と、猫の白。
 その周りを、他のシロの写真が囲むような配置になる。
 塀の上を歩く姿。砂利道を進む後ろ姿。「外を歩いていた時間」が、そこでひとまとまりになる。
 胸の内側がざわざわした。期待と、不安と、それからわずかな誇らしさみたいなものが、ごちゃ混ぜになっている。

「ビビってんの?」

 真帆が、からかうように肩を小突いてくる。

「……まあ、ちょっとだけ」

 素直に答えると、彼女は意外そうに目を丸くした。

「自分で認めるんだ。珍し」
「ほっとけ」
「でも、いいと思うよ」

 真帆は、今度は少し真面目な顔で写真を見つめる。

「猫だけじゃない方が、『日常』っぽい。そこに誰がいたかっていうのも、ちゃんと写ってるし」
「…………」
「これ、あんたしか撮れない写真でしょ。あんたがそこにいたから、こうなったと思うよ」

 さらっと言うな、と思う。
 そこまで大げさじゃない、と反射的に否定しかけて、やめた。自分でもそう思いたいのかもしれない。
『たまたま』じゃなくて、『自分がそこにいた意味』が、少しはあったんだと。

「よし、貼るぞー。部長、テープ!」

 真帆が手を差し出すと、部長が「はいはい」とガムテープのロールを放ってよこした。
 写真の裏にテープを四隅に貼って、パネルの中央に、慎重に位置を合わせる。少し息を止めて、ぴたりと押さえた。
 放課後の校舎裏が、白いパネルの真ん中に固定されて……これで、もう簡単には剥がせない。

(やるって決めたの、俺だしな)

 心の中で小さく呟いて、指先に残るテープの感触を振り払うのだった。
 午前中は、クラスの模擬店の手伝いでほとんど潰れた。
 焼きそばを焼き、紙皿を渡し、後輩に間違えられそうな声で「いらっしゃいませー」と言う。
 油とソースの匂いに包まれていると、さっきまでパネルと向き合っていた時間が少し遠く感じられた。
 昼過ぎになってようやく交代が回ってきて、海斗は「写真部の様子見てくる」とクラスを抜け出した。
 二年棟の端にある展示教室は、思っていた以上に盛況だった。
 入口には手書きのポスター。

【写真部展示 テーマ『日常の断片』】

 その前で数人の生徒が立ち止まり、「見てく?」とかなんとか話している。
 教室の中に入ると、ひんやりした空気が頬を撫でた。
 人はいるのに、声はそんなに大きくない。
 写真を見ている時の人間は、みんな少しだけ静かになるらしい。
 壁際に並んだパネル。そのひとつ、中央近くに『猫シリーズ』のパネルがある。
 自分の写真の前に、二人ほど生徒が立っていた。

「この猫、かわいくない?」
「白いから映えるよねー。なんか気取ってるし」
「ほら、この抱っこされてるやつ。飼い主さんもかわいくない?」

 何気ない会話。声のトーンは軽いのに、自分の耳だけ妙に敏感になっていた。

(……飼い主)

 そう呼ばれるのが、なんだか不思議だった。
 校舎裏で見慣れた、その人の姿。それが今、知らない誰かに『かわいい』と評されている。
 嬉しいような、くすぐったいような、気恥ずかしいような感覚。まとめて言葉にできなくて、海斗は入口近くで立ち止まったまま、教室全体をぐるりと見渡した。
 他の部員の写真も、ちゃんとよく撮れている。自転車の影。教室の窓。コンビニ前でたむろする友達。その中に、自分の『放課後』が混ざっていた。

(こうやって見ると……)

 パネルの真ん中の一枚は、やっぱりどうしても目を引いた。
 白い猫と、笑っている横顔。
 猫の耳の切れ込み。頬に落ちた睫毛の影。
 あの時、画面の中だけで見ていたものが、今は紙の上に定着している。

「篠宮ー、交代ありがと」

 奥の方から、真帆が手を振ってきた。

「一時間くらい、見張りよろしく。変なやつが写真触ったら止めて」
「変なやつって」
「ほら、シャーペンでつつこうとする中学生とか」
「……そんなの来るの?」
「去年いたんだってさー。部長のトラウマ案件」

 真帆は笑いながら、入口近くまで来る。

「で、どうよ。自分の写真が人に見られてる気分は」
「……胃がキリキリする」
「わかるー。でも、それも悪くないよね」

 彼女はパネルに顎を向ける。

「ほら、ちゃんと立ち止まる人いるじゃん」

 ちょうどその時、小さな背中がパネルの前で止まった。
 制服のスカートと、黒髪を真っ直ぐに下ろした後ろ姿。
 その見慣れた輪郭に、海斗の心臓が一瞬で跳ね上がった。

(……花音?)

 声には出さなかった。
 でも、足は勝手に前へ出ていた。

「じゃ、私は他んとこ見てくるわ。頑張れ、新進気鋭のカメラマン」

 真帆が小声でからかい、気を利かせたのか、そのまま別のパネルへと移動していく。
 教室の中央。
 人の流れが途切れた隙間に、花音が立っていた。
 制服は、いつも通り。でも、今日は胸ポケットに小さな文化祭用の缶バッジがついている。
 教室の賑わいから、ほんの少し外れた位置で、彼女はじっと一枚の写真を見つめていた。
 視線の先は、予想通りだった。
 パネルの真ん中。

『放課後キャットウォーク』

 花音の横顔が、紙の上と同じ角度で並んでいる気がして、妙な感覚になる。
 しばらく迷った末に、海斗はパネルの横にそっと立った。

「……来てくれたんだ」

 声を掛けると、花音がびくっと肩を揺らした。
 振り向いた瞳が、一瞬驚きで丸くなり、それから少しだけ緩む。

「はい。どうしても見たくなって」

 ほんの少し恥ずかしそうに笑いながら、そう答える。

「前にも見ただろ」
「大きいとまた違うじゃないですか。それに……やっぱり、この写真好きですし」

『好き』という言葉が、予想以上に真っ直ぐ届いてきた。
 花音の視線は、写真から離れない。
 自分の姿とシロの姿。紙の上の自分を見ながら、現実の彼女は小さく息を整えているようにも見えた。
 周りのざわめきが、少し遠くなる。

(こんなふうに、見られるのか)

 自分が撮った写真を被写体本人がじっと見ていて、その横に自分が立っている。
 文化祭という『場』が、これを許していた。
 放課後の校舎裏では、きっとこんな距離感にはならなかった。
 言おうか、迷っていた言葉が、喉のところまでせり上がってくる。

「……俺さ」

 自分の声が、思ったよりも静かに出た。

「猫の写真ばっか撮ってたけど……気付いたら、ここばっかり見てた」

 指先で、写真の中の『花音』の部分を、触れないようにそっと示す。
 ブレザーの肩。笑っている口元。猫を抱く腕。
 一瞬、花音の呼吸が止まったように見えた。
 すぐに、頬がじわじわと赤くなる。

「それは……ちょっと恥ずかしいですね」

 照れ笑いの中に、どこか嬉しさが混ざっていた。
 視線を逸らすでもなく、写真と海斗の顔を、何度か行き来させている。

(あー……)

 言ってしまった、と思う。
『好きだ』とか、そういうはっきりした言葉はどこにもないのに。それでも、自分が何を一番撮りたかったのか、その輪郭に触れてしまった気がした。
 花音は、少しだけ息を吐いてから、写真を見上げた。

「でも……なんか、わかる気もします」
「わかる?」
「シロの写真って、どれもシロが真ん中なんですけど」

 彼女は指で、周りの写真を順番に示していく。

「この一枚だけ、私も一緒に『放課後の一部』になれてる気がしますから」

 その言い方が、やけに花音らしかった。
『写ってしまっている』んじゃなくて、『一部になれている』と受け取る。

「……勝手に撮ったけどな」
「ふふ。でも、ちゃんと見せてくれたから、帳消しです」

 柔らかく笑いながら、花音が言う。
 その笑顔は、写真の中のそれとよく似ていた。
 けれど今は、少しだけ違うニュアンスが混ざっている。海斗のためだけに向けられているような、そんな感覚。
 言葉が続かなくなって、少しの沈黙が落ちた。
 教室の別の場所から、誰かの笑い声とシャッター音が聞こえる。
 その静けさを破ったのは、花音の方だった。

「そういえば、シロのことなんですけど」

 話題を変えるようでいて、ちゃんと繋がっている。

「シロ、少しだけなら外に出てもいいって言われました。リードつけて、近所を歩くくらいなら、ですけど」
「そうなんだ」

 思わず、顔が上がった。
 それは嬉しい報告だ。あいつもきっと、いい加減退屈しているだろう。

「……じゃあ、また撮らせてもらってもいいか?」

 自然と出てきた言葉に、自分で少し驚く。
 花音は、目を丸くしたあとで、いたずらっぽく笑った。

「もちろんです。あ、でも」
「でも?」
「今度はちゃんとモデル料もらわないとですね」
「モデル料?」

 意外な単語に、思わず聞き返す。

「そうです。モデルさんですから」

 花音は、写真の中の自分を指さした。

「シロと私」
「……猫の方がメインだろ」
「さっき『ここばっか見てた』って言ってましたよね?」

 ぴしり、と軽く突かれた気がした。

「い、今のはその……」

 言葉を濁すと、花音はくすくす笑う。

「冗談ですよ。半分くらいは」
「半分は本気なのか」
「そうですね。モデル料は……撮った写真のデータ、って事で」

 花音は指を一本立てて見せる。

「この写真も、ちゃんとくださいね? 文化祭が終わったら、プリントもしてほしいです」
「ああ、それくらいなら」
「それと、もうひとつ」

 彼女は、少しだけ真面目な顔をした。

「たまに、放課後付き合ってください」
「……付き合う?」
「シロのお散歩に、ですよ」

 慌てて付け加えるその様子が、いかにも花音らしい。

「一人でも別にいいんですけど、なんか……」

 言葉を探すみたいに、彼女は視線を写真に戻した。

「こうやって誰かが一緒に見てくれていると、ちょっと安心できますから」

 その『誰か』の中に、自分も含まれている。
 その事実が、じわじわと胸に広がった。

「……いいよ」

 短く答えると、自分の声が少し掠れていた。

「あいつ、歩くの遅いけどな」
「その方が、写真撮りやすいじゃないですか?」
「まあ、そうかも」

 言葉を交わすたびに、胸の奥に少しずつ何かが積み上がっていく感覚があった。
 まだ名前の付けようがない、不安定な何か。
 でも、それを嫌だとは思えなかった。
 パネルの前。放課後の校舎裏を切り取った一枚の前で、今は昼間の賑やかな文化祭の音が遠くに聞こえていた。

(この先、どうなるかなんてわからないけど)

 少なくとも、シロがまた外を歩き出す時。
 そこに自分も一緒にいたいと思っている自分がいる。
 それだけは、はっきりしていた。

       *

 文化祭が終わって、二日後の放課後。
 校舎裏には、久しぶりに柔らかい足音が戻ってきていた。

「シロ、ゆっくりでいいからね〜」

 細いリードの先で、とことこ歩く白い猫。
 首輪には、病院で新しくつけてもらったらしい小さな鈴がぶら下がっている。
 その一歩ごとに、かすかな音が鳴った。

「思ったより元気そうだな」

 少し後ろから歩きながら、海斗はシャッターを切った。
 リード付きとはいえ、地面に足をつけて歩いている姿を見ると、ほっとしたような、不思議な安心感が湧いてくる。
 
「はい。でもまだ本調子ではないみたいで、お医者さんにも『あんまり無理させない範囲で』って言われてます」

 リードを持つ花音は、シロの様子を確かめながらゆっくりと歩いていた。

「ここまで来るのもドキドキでしたけど、シロ、玄関出た瞬間めちゃくちゃテンション上がってたんですよ。外出るの、久しぶりでしたから」
「テンション上がってるわりに、歩幅ちっちゃいな」
「そこがかわいいんですよ」

 花音が笑う。
 その横顔に、数日前までの不安の影はもうあまり見えなかった。
 代わりに、少しだけ疲れの名残と、それを上回る嬉しさみたいなものが浮かんでいる。
 ブロック塀の前まで来ると、シロがぴたりと立ち止まった。
 鼻先を上げて、ひくひくと匂いを嗅ぐ。

「……覚えてるのかな」

 思わず呟くと、花音も「かもしれないですね」と頷いた。

「ここから、よくぴょんって飛び乗ってましたもんね」

 リードがあるので、今日はさすがに飛び乗ろうとはしない。
 ただ、前足を塀にちょんと乗せて、その上を見上げていた。

「ほら、あんまり無茶したら、また怒られちゃうからね」

 花音が優しく声を掛ける。
 シロは「にゃ」と短く鳴いて、また地面に前足を戻した。
 その一連の動きを、海斗は少し後ろから追うように撮っていく。
 リードの線。白い猫の背中。そのすぐ横で歩く、花音のローファーとスカートの裾。

(……そうか)

 文化祭のパネルの前で、自分が言いかけて飲み込んだ言葉が、ふっと頭の中に蘇る。
 猫の写真ばかり撮っていたはずなのに、気付いたら「ここ」ばかり見ていた。
 猫の隣にいる誰か。その表情や、歩幅や、影。
 今、ファインダーの中にあるのも、やっぱり同じだった。
 シロがリードをぴんと張らせて、花音が「はいはい」と足を速める。
 それに合わせて、海斗も一歩分だけ歩くスピードを上げた。
 校舎裏の砂利道。
 夕方の光が、三人分の影を長く伸ばしていた。

「先輩、そんなに連写して、あとで選ぶの大変じゃないですか?」

 振り向きざまに、花音が笑いながら言う。

「後悔するよりマシだ」
「後悔?」
「撮っとけばよかったって思うよりは、撮りすぎた方がまだいい」

 自分で言いながら、その言葉が思いのほか自分の中にしっくりきた。
 体育祭の時に、「勝手に撮らないでくれる?」と言われたあの日から、ずっとどこかでブレーキをかけていた。
 撮らない理由を探していた。
 でも今は──。

「……まあ、モデル料はしっかり取られるみたいだけど」
「ちゃんと請求しますよ。データ全部くださいね?」
「全部かよ」
「その中から私が選ぶんです。待ち受け用とか、飾る用とか」

 それだと、あとで選ぶのが大変なのは花音ではないだろうか。
 そう思ったが、敢えて言わなかった。

「贅沢だな」
「モデルですから」

 花音は、少しだけ胸を張った。
 その仕草がおかしくて、思わずシャッターを切る。

「い、今のはなしで!」

 すぐに、花音が怒った。

「遅い。連写した」
「えー!?」

 軽口を叩き合う声が、校舎裏の空気に溶けていく。
 数日前までの、ぽっかり空いた静けさが嘘みたいだった。
 シロがふいに立ち止まる。
 伸びた三つの影も、一緒に止まる。
 猫の視線の先には、ただいつものブロック塀と雑草、夕方の光。
 この先、どんなふうに変わっていくのかなんて、まだ分からない。
 高校生活も、写真も、人との距離も。
 今日みたいな時間が、いつまで続くのかも。
 それでも。
 でも、猫の歩幅に合わせて並んで歩くくらいの距離なら、きっとずっと保てる気がした。

 シロがまた一歩踏み出す。
 隣で花音も一歩いて、少し後ろから、海斗も一歩続く。
 ファインダーの中で、三つの影が同じ方向へ伸びていった。
 放課後のキャットウォークを、三つの足音がそっと進んでいく。
 カメラのピントは、猫の隣を歩く彼女に、しっかりと合っていた。