文化祭まで、あと三週間。
 そんなアナウンスが朝のホームルームでさらっと告げられたその日の放課後、写真部の部室はいつになくざわついていた。

「今年は『日常の断片』ってテーマでまとめようと思うんだけどさー」

 顧問代わりをしている三年の部長が、コンビニコーヒーを片手にホワイトボードを叩く。

「各自、十枚前後候補出しといて。そこから全体のバランス見て選ぶ感じでいこう。締め切りは……来週の火曜な」

「早っ」と誰かが小さく文句を言い、部長が「早くねえよ」と苦笑する。そんなやり取りを他人事みたいに聞きながら、海斗は自分のノートパソコンを開いた。
 モニタに映し出されるフォルダの山。その中から「校舎裏」という名前のフォルダを選び、ダブルクリックする。
 写真のサムネイルが、画面一杯に並んだ。
 白、白、白。塀の上で伸びをしているシロ。砂利の匂いを嗅いでいるシロ。花音のおやつに鼻先だけ近づけて、わざと時間をかけてからかぶりつくシロ。
 どれも、ここ最近の放課後をそのまま切り取ったような一枚だった。

(『日常の断片』、ね)

 部長の言葉を思い出しながら、カーソルを動かしていく。
 シャッターを切った時には気付かなかったような細部が、画面いっぱいに広がると妙にはっきりした。
 耳の切れ込み。尻尾の動き。砂利の一粒一粒。
 それから……シロの隣に、当たり前みたいな顔をしている一年の姿も。
 花音がシロにおやつを差し出している写真。スカートの裾を片手で押さえながら追いかけている写真。抱き上げて笑っている写真。
 その中に、あの日に撮った一枚があった。
 逆光の夕陽の中で、白い猫と、柔らかく笑う横顔。
 カーソルが、そのサムネイルの上で止まる。
 ほんの少し、指先に力が入った。

(……これは)

 文化祭の展示に出す、という事は。
 この写真を、不特定多数の目に触れさせる、という事だ。
 シロだけならまだしも、そこにははっきりと花音が写っている。ピントはシロではなく、花音に合っていて、ぼかしも誤魔化しも効かない。
 体育祭の日の事が、ほんの少しだけ脳裏をよぎる。

『勝手に撮らないでくれる?』

 あの時の声と、スマホの画面に流れた文字。
 ──でも、あの日。彼女は写真を見て笑ってくれた。「これ、好きです」とも言ってくれた。
 頭ではわかっていても、心臓のあたりだけは妙に頑固で、簡単に割り切らせてくれない。

「篠宮はー?」

 背後から、真帆の声が飛んできた。

「猫シリーズで攻めるんでしょ?」
「勝手に決めんな」
「だって、画面ほぼ猫だし」

 のそりと隣に椅子を引き寄せて、真帆がモニタを覗き込む。

「でもさ、これ、文化祭のテーマ的にはかなりアリだと思うよ。『放課後の猫』。わかりやすいし、ウケもいい」
「……検討しとく」
「ほら出た、『考えとく』」

 真帆が呆れたように笑う。

「真面目に選びなって。せっかくいい写真多いんだからさ」

 そう言われると、反論しづらい。
 海斗は深く息を吸って、ひとまずシロがメインの写真をいくつか候補フォルダへドラッグした。
 塀の上を歩く姿。あくび。伸び。砂利道をとことこ歩く後ろ姿。
 どれも、「これまでの放課後」の記録だった。
 最後に、例の一枚の上にカーソルを滑らせる。
 サムネイルの小さな画面の中で、花音は笑っている。猫を抱き上げ、その重みを当たり前みたいに受け止めながら。
 指が、そこで止まった。

(……これは、まだかな)

 候補フォルダと、元のフォルダの境目で、カーソルは宙ぶらりんになる。
 何となく、今日決める必要はないような気がした。
 モニタの右上の時計を見ると、放課後のチャイムから、それなりに時間が経っている。

「悪い。ちょっと校舎裏行ってくる」
「また猫? それとも、一年生の方?」
「うるさい」

 悪態をつきながらも、口元がわずかに緩んでいるのを自覚していた。真帆が「はいはい、行ってらっしゃい」と手を振る。
 カメラを肩にぶら下げ、部室を出る。
 廊下を抜け、階段を降り、人気の少ない裏側へ。
 コンクリートの匂い。ブロック塀。雑草。さらさらと吹き抜ける砂交じりの風。
 その先に、白い猫と黒髪の後輩が──なかった。

「……あれ?」

 思わず、声が漏れた。
 フェンスの隙間付近。いつもなら、どこからともなく姿を現すはずの白い影はなかった。
 それだけではない。花音の姿もなかった。
 時間が早すぎたのかと思って、スマホの時刻を確認するが、そんな事もなかった。むしろ、いつもより少し遅いくらいだ。

(まあ、たまたま、だろ)

 今日は部活かもしれない。家の事情かもしれない。猫の気分次第かもしれない。
 自分にそう言い聞かせて、海斗はゆっくりと踵を返した。
 その日は、カメラの電源を入れることもなく、家に帰った。
       *

 次の日も、その次の同じ時間に校舎裏へ向かったが、いなかった。
 カメラを肩から下ろして、手の中で回す。
 電源を入れて、レンズを覗いた。レンズの向こう側は、ただの塀と雑草だ。
 ピントを合わせ、シャッターを切る。カシャン、と音が鳴った。
 撮れたのは、寂しいくらい何の変哲もないブロック塀だけだ。

(……何やってんだ、俺)

 苦笑とも溜め息ともつかない息が、口をついて漏れる。
 シャッターを切っている間だけ、世界が狭まってくれる感じが好きだった。けれど、被写体が「何でもいい」というわけじゃない事に、今さら気づかされる。
 ここに来れば、シロがいた。
 ここに来れば、花音が「先輩」と笑顔で呼んでくれた。
 その「いつもの」が、勝手に続くものだと思っていた。
 何の保証もないのに。
 四日目の放課後、校舎裏まで行ったものの、そのまま引き返した。カメラの電源は入れずじまいだった。

       *

 グラウンド側から回らず、校舎の正面を抜けて帰路につくと、いつもと違う景色が目に入った。
 駅へ続く商店街は、今日も人混みでごった返していた。
 その人混みの向こうに、見覚えのある横顔があった。
 黒髪を真っ直ぐに下ろし、両手で猫用のキャリーバッグを抱えている少女。
 透明なプラスチック越しに、中からのぞく白い毛並み。

(……花音?)

 瞬間、足が止まる。
 信号の手前。人の流れは、少しずつ赤から青へと変わろうとしていた。
 彼女はキャリーバッグを大事そうに胸に抱きかかえながら、信号が変わるのを待っていた。明るい店の窓に、その横顔がちらりと映る。シロの姿も、はっきり見えた。

「…………」

 呼びかけようとして、声が喉の奥で絡まる。
 名前を呼ぶべきかどうか、迷った。今の距離なら、呼べば届くかもしれない。追いかければ、間に合うだろう。
 けれど、「病院帰りかもしれない」という考えが、足元を縛り付けた。
 信号が青に変わって、人の波が一斉に動き出す。
 彼女の小さな背中は、その波に紛れるようにして横断歩道を渡っていった。
 キャリーバッグの白い影も、あっという間に他の色に飲み込まれていく。
 迷っているうちに、彼女の姿は完全に見えなくなった。
 取り残された横断歩道のこちら側で、海斗は立ち尽くす。
 さっきまで握っていたカメラのストラップが、妙に重く感じられた。

(……何やってんだよ)

 信号が赤に変わる。
 人の流れは途切れず続いていくのに、ここだけ時間が余分に余ってしまったみたいに、取り残された気分だった。

       *

 花音の家の場所について、海斗はほとんど何も知らなかった。意図的に聞かなかった、というのもある。
 放課後の校舎裏で話す分にはいい。けれど、「どこに住んでるの?」と踏み込むのは、相手のテリトリーに土足で入るみたいで嫌だった。
 それでも、会話の断片から、なんとなくの位置だけは頭に残っていた。

『駅からちょっと遠いんですよねー。商店街抜けて、図書館の方行って……』

 そんな話を、シロの抜け出しルートのことを笑いながら言っていた事がある。
 商店街を抜けた図書館の先。
 あの日、キャリーバッグを抱えて消えていった方向も、たしかにそっち側だった。
 
(……だからってなぁ)

 下校途中、足が自然とそっちに向かいそうになるたびに、自分でブレーキをかけた。
 わざわざ様子を見に行くなんて、完全にストーカーだ。
 頭ではそう分かっている。けれど「シロ、大丈夫かな」という気持ちが、背中を押していた。
 猫は言葉を喋らないし、SNSもしていない。状態を知るには、飼い主に訊くしかなかった。
 結局、一度だけ──いや、「一度だけ」と言い訳しながら──いや帰り道を遠回りした。
 商店街を抜け、図書館の前を通り、その先の住宅街へ。
 夕方の光が少しずつ薄れていく中で、似たような家々が並んでいる。
 
(バカじゃねえの、俺)

 自分で自分に毒づきながら、足は止まらない。
 しばらく歩いた先で、小さな二階建ての家が目に入った。
 白い外壁。玄関横のポストには「三島」と苗字が書かれている。窓辺には、猫のシルエットがプリントされたカーテン。その内側、ガラス越しに、キャットタワーの一部らしき影が見えた。
 だからといって、呼び鈴を押す勇気はもちろんない。
 ただ、その前を通り過ぎるフリをして歩くだけ。足音がやけに大きく響いているような気がした。
 その時だった。

「……あ」

 玄関のドアが開く音。
 振り返る前に耳に届いたのは、聞き慣れた声だった。

「海斗先輩?」

 振り向くと、ゴミ袋を片手に持った花音が立っていた。
 Tシャツにパーカー、ジャージ姿。学校の時よりもずっとラフな格好だけれど、黒髪はいつも通り綺麗にまとめられていた。
 目の下には、ほんの少し隈が見える。
 それでも、海斗の顔を認めた途端、その表情が柔らかく緩んだ。

「あー……」

 間抜けな声が、自分の口から漏れた。
 まさか本当に出てくるとは思っていなかったので、完全に不意打ちだった。

「えっと、その……」

 言い訳を考える暇もなく、花音の方から口を開いた。

「もしかして、帰り道でした?」

 ゴミ袋を軽く持ち上げてみせながら、少し照れたように笑う。

「ここら辺って、帰り道ですよね?」
「まあ……ちょっと寄り道だけど」
「ですよね。ご近所さんだって、前に言ってましたし」

 そんな話をしただろうか。今はあまり気にしないでおこう。
 花音は少し視線を落とした。

「海斗先輩、校舎裏……来てました?」
「まあ、うん。何回か」
「ですよね……」

 花音の肩が、申し訳なさそうに窄まる。

「シロ、ちょっと体調崩しちゃってるんです。お医者さんからも『しばらく外は控えましょう』って言われてて」

 用意していたみたいに、すっと言葉が出てきた。
 実際、何度も頭の中でリハーサルしていたのかもしれない。

「だから、校舎裏にも行けなくて……先輩にもちゃんと伝えなきゃって思ってたのに。ごめんなさい」

 花音はぺこりと頭を下げた。
 謝られるような事じゃないと分かっていても、その仕草には胸がちくりとした。

「そっか。教えてくれて、ありがとう」

 本当にそう思った。
 何も知らないまま、空っぽの校舎裏で立ち尽くすのとは、天地の差だ。

「シロ、大丈夫なのか?」
「だいぶ良くなってきてるみたいですよ。ご飯も、ちょっとずつ食べてくれるようになりましたし」

 そこで一度言葉を切り、花音は玄関の方を振り返った。

「でも、お医者さん的には、もうちょっと様子見てほしいって。外のばい菌とかで悪化しちゃうこともあるらしくて……だから、ここしばらくはずっと家の中です」

 口調は努めて明るくしている。けれど、指先がわずかにゴミ袋のビニールを握りしめているのが見えた。

「あそこに行くの、私も楽しみにしていましたから。シロが一番楽しんでたかもしれないですけど」

 ふっと、寂しそうに目尻が下がる。
 その表情は、校舎裏で見せていた笑顔とは別物だった。
 部屋の中に置きっぱなしになったリード。窓の外をじっと見つめる白い影。そんな光景が、言葉にしなくても想像できてしまう。

「……元気になったら、また来ればいいさ」

 自分でも驚くほど自然に、そんな言葉が口をついて出た。

「こっちも、ちょっと静かすぎて落ち着かないし」
「ふふ。海斗先輩がそんな事言うなんて、レアですね」

 花音が、少しだけ肩の力を抜いて笑う。
 その笑顔を見ていると、玄関の向こう、家の中の様子がふと気になった。

「あのさ」

 自分の声が思ったよりも低く響いて、少し驚く。

「最近のシロは撮れてないけど……前のやつなら、ちょっとあるよ」

 カメラのストラップを持ち上げる。

「……見てく?」

 言ってから、一瞬だけ後悔した。
 いきなり人の家の前で何を言ってるんだと自分でも思う。断られたらどうしよう、という不安が一瞬よぎった。
 けれど花音は、目を丸くしたあと、ぽん、と手を叩いた。

「見たいです!」

 即答だった。

「シロも、きっと喜びます。あ、でもその前にゴミ出してきますね。変なタイミングですみません」
「いや、別に」
「ちょっとそこで待っててもらえますか?」

 そう言って、花音は軽く会釈してから駆け足でゴミ集積所の方へ向かった。
 その背中を見送りながら、海斗はようやく自分がこれから「後輩の家に上がる」事実に気づいて、こっそり心臓を押さえた。

「どうぞ。散らかってますけど」

 案内されたリビングは、拍子抜けするくらい普通だった。
 窓辺には、ふかふかそうなクッションが一枚。カーテンの隙間から外を覗けるような位置だ。
 そのクッションの上で、シロが丸くなっていた。

「……よう」

 思わず、声が小さくなる。
 シロは片目だけ開けてこちらを見た。
 外で見ていた時よりも、少しだけ痩せたように見える。毛並みは綺麗に整えられているが、動きにはまだ本調子の時のようなキレはなさそうだ。
 
「シロ、ほら。先輩が来てくれたよー?」
 
 花音がそっと近づき、床に膝をつく。
 シロは小さく「にゃ」と鳴いて、首だけを持ち上げた。その様子は、「まあ座れよ」とでも言いたげな、いつもの偉そうな雰囲気をわずかに残している。

「まだあんまり走り回れないんですけど、こうやって窓際で外見てると落ち着くみたいで」

 花音が、クッションの端を少しだけ撫でる。

「病院行く時はすごく嫌そうに鳴くくせに、帰ってくるとここから動かなくなるんです。……わかりやすい子ですよね」

 言葉の端に、ほっとした色が混じる。
 海斗はローテーブルの前に座り、カメラを膝の上に置いた。

「とりあえず……写真、見る?」
「はい」

 花音が、シロのそばから少しだけ移動して、海斗の隣に座った。
 ……距離が近い。けれど、それを意識している余裕はあまりなかった。
 電源を入れて再生ボタンを押すと、校舎裏の写真が、一枚ずつ液晶画面に映し出される。
 彼女は、一枚一枚、食い入るように画面を見つめていた。
 画面が切り替わるたびに、「あ。これ、この前の」「これ、こけそうになったやつですよね」と小さく呟く。
 指先が液晶に触れないぎりぎりのところで、そっと動いた。
 シロが塀の上からぴょんと飛び降りる写真に切り替わった時、花音の指先がぴたりと止まった。

「やっぱり……外を歩いてるこの子、すごく楽しそうですね。外に出せないの、可哀想だってずっと思ってたんですけど……こうして残ってるなら、少し安心できるかもです」

 ぽつりと漏らした言葉には、ほんの少し涙の膜がかかっていた。
 花音の目尻が、ゆっくりと赤くなっていく。

「シロにはずっと悪いって思ってるんです。外出たいだろうなーって。私のせいで病気になったわけじゃないって分かってても、なんか、そういうふうに自分を責めちゃうっていうか」

 そこまで言ってから、「あ、すみません」と自分の頬を指で押さえる。

「変な話、しちゃいました」
「別に、変じゃないだろ」

 言いながら、自分でも少し驚いていた。
 校舎裏で聞いた「愚痴」と同じように、花音は自分の弱さを隠しておけないタイプなのかもしれない。
 けれど今、このリビングでこぼされた言葉は、外から見えない場所に落ちる涙みたいに、静かにそこにあった。

「ありがとうございます」

 花音が、液晶画面から目を離さずに言う。
 液晶に映る光が、花音の瞳に小さく揺れていた。
 その目の奥に溜まった涙がこぼれないように、彼女は何度かまばたきをする。
 海斗は、小さく息を吐いた。

(俺が撮ってたのは、結局)

 自分のため、だけじゃなかったのかもしれない。
 猫が好きで、シャッターを切っている時間が好きで、ファインダー越しなら世界が少しだけマシに見えるから。
 そんな理由で撮っていたつもりだった。
 でも、こうやって誰かが「救われる」と言ってくれるなら。その「誰か」のために撮る、という理由も、悪くない。
 画面をスライドしていく。
 夕陽。ブロック塀。白い毛並み。そして──例の一枚が映った。
 花音がシロを抱き上げて笑っている写真だ。

「あ……」

 花音が、小さく息を呑んだ。
 自分が画面に大きく映っている事に気づいたのだろう。頬がうっすらと赤くなるのが分かった。
 彼女は一瞬視線を逸らしかけてから、もう一度しっかりと画面を見つめ直した。

「やっぱり私、これが一番好きです」

 小さな声だったけれど、はっきりしていた。

「シロが嬉しそうで……私も、なんか救われた気持ちになるんですよね」

 シロが嬉しそう──その前提が、何よりも彼女らしかった。
 けれど、その後に続いた「私も」という言葉が、海斗の胸のどこかに静かに落ちていく。

(ああ……)

 この一枚は、シロのためだけの写真じゃない。三島花音という、その猫の『飼い主』のための写真でもあった。そして、そんな二人を見ている自分のための写真でもある。
 文化祭の展示で、誰のためにどんな写真を並べたいのか。
 今までぼんやりしていた輪郭が、少しだけはっきりしてきた気がした。

「あの、もしよかったら」

 花音が、おずおずと口を開いた。

「この写真、もらってもいいですか?」
「プリントして?」
「はい。スマホの待ち受けにするっていうのもアリなんですけど……ちゃんと飾りたいなって」

 リビングの壁をちらりと見やる。そこには、シロがまだ小さかった頃らしき写真が何枚か飾られていた。

「いいけど。文化祭終わってからでよければ」
「文化祭?」

 花音が、小さく首を傾げた。

「ああ、うん。写真部で展示やるんだよ。『日常の断片』ってテーマで」

 説明しながら、自分の声が少しだけ軽くなっているのを感じる。

「……この一枚、出そうかなって思ってて」

 言葉にした途端、決心が固まった。
 体育祭の時の嫌な記憶が、完全に消えたわけじゃない。
 それでも、この写真を「ちゃんとした場所」に出したいと思う自分がいる。
 それは、たぶん──誰かに見せたいからだ。

「えっと……その」

 花音が、少しだけもじもじと指を絡める。

「私が写ってても、いいんですか?」
「嫌か?」
「い、いえ! そういう意味じゃなくてッ。なんか、こう……他の人にも見られるんだなって思うと、変な感じがして」

 そう言いながらも、花音の声はどこか嬉しそうだった。

「でも、シロがカッコいいからいいかなって、思います」
「そこは猫かよ」
「もちろん、撮ってくれた人の腕もですけど」

 さらっと付け足されて、逆にどぎまぎする。
 シロが、窓際のクッションの上で、あくびをした。
 小さな口を開け、喉の奥を見せてから、再び丸くなる。
 その姿は、校舎裏で見た時と同じように、どこかマイペースで、どこか頼りなかった。
 外にはしばらく出られない。
 けれど、ここにいる。
 この家で、窓辺で、クッションの上で。そして、画面の中にも、永遠に近い形で「外を歩いていた時間」が残っている。
 その事実が、花音を少しだけ救うなら。
 その写真を撮った事に、意味があったと胸を張っていいような気がした。