それから数日──いや、一週間、二週間と数えてみれば、思っていたよりもずっと時間が経っていたのかもしれない。
放課後の校舎裏に、白い猫と黒髪の後輩・三島花音がいる光景は、いつの間にか「特別」から「いつもの」に変わっていた。
チャイムが鳴ってから少し遅れて、海斗は教室を抜け出す。写真部の活動日でも、とりあえず部室に顔を出す前に、足は自然と校舎裏へ向かっていた。
ブロック塀。ひび割れ。雑草。グラウンドから吹き込んでくる砂ぼこり。
そして、その少し先で──。
「シロ、ほら。今日は高級おやつですよ〜」
しゃがみ込んだ花音が、小さなパックから猫用のおやつを取り出していた。指先でつまんだそれを鼻先に近づけると、シロはふん、と一度そっぽを向いてから、何事もなかったかのようにぬるりと近寄ってくる。
結局、食べる。いつもの事だ。
「……今日も逃げられました〜」
最初の数歩は素知らぬ顔で歩き去り、二、三歩先でくるりと振り返って戻ってくる。
そのツンデレを見慣れた頃合いで、花音が半ばあきれ、半ば嬉しそうにそうこぼした。
その横で、海斗はカメラを構えていた。
シロが匂いを嗅いでからおやつにかぶりつく瞬間。花音の指先が少し汚れて、それを気にして笑う横顔。そんな細々したものを、彼は無意識のうちに拾い集めていた。
シロの白、花音の黒髪や横顔、それから夕方の光。
画面の中のそれらは、思いのほかよく馴染んでいた。
別の日は、シロが唐突に花音の足元から離れて、ブロック塀の上にぴょんと飛び乗った。
「あ、ちょっと!」
花音が慌てて追いかける。スカートの裾を押さえながら小走りでついていく姿を、海斗は少し離れたところからレンズ越しに見ていた。
(……今日も元気だな)
猫の方も、女の子の方も。
シロが塀の上をすたすたと歩き、ふいっと花音の手の届かない位置まで行っては、また戻ってくる。
そのたびに花音の表情がころころ変わるのがおもしろくて、ついシャッターの回数が増えた。
また別の日には、花音がコンビニの袋をぶら下げて現れた。
「シロのご飯のついでに、海斗先輩の分も買ってきました」
そう言って差し出されたのは、値引きシールの貼られたおにぎりと、ペットボトルのお茶だった。
「……悪い」
「いえいえ。いつも見守ってくれてるお礼ってことで」
何でもない風を装っているが、こういう気遣いは案外ずるい。
一緒におにぎりをかじりながら、二人はシロを眺めた。猫はふたりの足元で、何かをねだるでもなく、ただ気ままに砂利を掘ったりしていた。
そんな、他愛もない放課後が積み重なっていった。
「……そういえば」
いつものようにシロにおやつを与え終えたところで、花音がぽつりと零した。
「家ではあんまり外に出しちゃダメって言われてるんです」
しゃがんだまま、シロの背中を撫でながらの言葉だった。
「前に体調崩した時に、お医者さんにも怒られて。それ以来、母がすごく神経質になっちゃって。窓もすぐ閉めろって言われるし……」
「でも、こいつは抜け出してくるわけだ」
「そうなんですよねー。網戸をすり抜ける技を覚えちゃって」
苦笑しながらそう言う横顔は、どこか困り顔と甘さが混じっていた。
「だから、ほんとは今日みたいにここにいるの、怒られるかもです。でも、この子とここにいると落ち着くんですよね。……海斗先輩も、そうだったりしますか?」
花音が、少しだけこちらを見上げる。
夕方の光をたたえた瞳に、自分が映っているのが分かった。
海斗は、少し迷ってから、素直に頷く。
「まあ……教室にいるよりは、だいぶマシ」
「それ、結構な言い方ですね?」
花音がくすっと笑う。からかうようでいて、どこか共犯めいた響きがあった。
(ここが落ち着くのは……たぶん、猫だけのせいじゃない気もするんだけどな)
そんな考えが一瞬頭をよぎったが、すぐに追い払った。
この場所が好きなのは、きっとシロのせいだ。そう決めつけておきたかった。
シロを介した会話は、とりとめもなく広がっていった。
「海斗先輩は、写真部ですよね?」
「まあ、一応」
「『一応』って。ちゃんと活動してます?」
「してる。たぶん」
あいまいな返事に、花音は笑いながらも首を傾げた。
「じゃあ今度、作品見せてくださいよ。シロのだけじゃなくて」
「……考えとくよ」
今はそれくらいがちょうどいい。
写真部で撮った人の写真の事を思い出すと、胸の奥がざわつくので、深入りしたくなかった。
そんな気持ちを見透かしたように、花音が少し真面目な顔をした。
「海斗先輩って、人は撮らないんですか?」
ちょうどその時、シロがブロック塀の上で立ち止まり、大きく伸びをしていた。その姿をレンズ越しに追いながら、海斗は言葉に詰まる。
「……あんまり。風景とか猫の方が、文句言わないから」
少しだけ冗談めかして答えたつもりだった。けれど口に出してみると、自分で思っていた以上に本音に近かったと気づく。
花音が、何かに気付いたように、ふとこちらを振り返った。
「文句、言われたことあるんですか?」
その問いかけに、海斗は視線をファインダーから外した。
嫌な記憶は、思い出そうとしなくても勝手に蘇る。
「ちょっとだけ。それ以来、人はいいかなって」
さらりとした口調を装いながらも、指先にはわずかな力が入っていた。
花音は、それ以上は何も聞かなかった。
追及する事もできたはずだ。けれど、ただ小さく頷いて、いつも通りの声で言った。
「じゃあ、先輩はシロの専属カメラマンってことで」
その一言に、張りつめていた何かがふっと緩む。
「……安い専属だな」
「報酬は、シロの癒しです」
「こいつの機嫌次第じゃん」
「そこは、ほら。共同制作ってことで」
花音の苦し紛れの言い訳に、思わず噴き出した。
そんな他愛もないやり取りをしているうちに、さっきまで胸の奥でざわついていたざらつきは、いつの間にか薄れていた。
*
そんなふうに、穏やかな放課後が続いていく一方で、ほんの少しだけ、違う一日もあった。
シロが、来ない日だ。
いつもなら鉄製のフェンスの隙間から、どこからともなくひょっこり現れるはずの白い影が、その日に限って姿を見せなかった。
海斗が校舎裏に着いた時、先に来ていた花音がブロック塀の近くでしゃがみ込み、地面をじっと見ていた。
「……いない?」
声を掛けると、花音が顔を上げる。
「あ、海斗先輩」
いつも通りの笑顔。けれど、その口角はどこか控えめで、目の下には薄く影が落ちているように見えた。
「今日、窓開けても全然出ていかなかったから。もしかしたら、具合悪いのかなって」
そう言いながらも、花音の指先は無意識に地面の砂利をいじっている。
「まあ、ずっと外にいるのもアレだし。たまにはこっちが寂しいくらいの方が、ちょうどいいのかもですけど」
冗談のように付け加えたけれど、その笑いは少し空回りしていた。
立ったまま話しているのも変な気がして、海斗も近くのコンクリートの段差に腰を下ろす。カメラは今日はあまり仕事がなさそうだ。
「家で、何かあったのか?」
気付けば、口が勝手に動いていた。
花音は「……ええっと」と少し考える素振りを見せる。
「ちょっとだけ、母と喧嘩しました」
その言い方があまりにも軽くて、一瞬、本当に「ちょっと」なのだと思いかける。
しかし続く言葉が、それとは少しだけ違う事を示していた。
「『あんたはすぐ猫にかまけて勉強サボる』って怒られて。テスト前でもないのに、そんなに言う? って思って、こっちも言い返しちゃって」
膝の上で握った手が、少しだけ力を込めた。
「なんか、私の事よりも、この子の事になると急に厳しくなるんですよね。病気の事があってから、余計に」
「心配なんだろ」
「まあ、そうなんですけど。でも、『そんなに心配なら自分で見ててよ』ってつい言っちゃって。そしたら『口の利き方』とか『反抗期』とか、一気にセットで召喚されちゃいました」
そこで一拍置いて、花音は自分で言った事を思い出したように、苦笑を浮かべた。
「……すみません。愚痴っぽくなっちゃいましたね」
「別に」
海斗は視線を空に向けた。
西日が、校舎の角に引っかかるようにして差し込んでいる。雲一つない夕空は、やけに眩しすぎて、じっと見ていると目が痛くなった。
「ここで猫撫でながら愚痴るくらい、普通だろ」
「猫、いないですけどね」
花音が小さく笑った。その笑いは少し掠れていたけれど、それでもちゃんと笑おうとしているのが伝わってきた。
「でも、ここにいると、何だか落ち着くんですよね。……海斗先輩は?」
以前にも、似たようなことを訊かれた。
あの時と少し違うのは、どこかすがるような響きが混ざっていたことだろうか。
「……まあ。ここに来るの、習慣になってるし」
海斗は、少しだけ言葉を探してから答えた。
「習慣?」
「放課後、教室から真っ直ぐ家に帰るのって、何か負けた気がして嫌なんだよ。かといって、どっか寄り道するほどの元気もないし」
そう言ってから、自分でも何を言ってるんだろうと思った。
花音は思い当たることがあったのか、「あー」と妙に納得したように頷いた。
「わかる気がします。真っ直ぐ帰ると、『ちゃんとしてる自分』を見られてる感じがして、そわそわするというか」
「それはそれで変じゃないか?」
「かもしれないですけど」
ふたりで中途半端に笑っていると、さきほどまで重たかった空気が、ほんの少しだけ軽くなった。
結局、シロは来なかった。
*
次の日には、シロは何事もなかったかのようにフェンスの隙間から現れた。いつもと変わらない足取りで、花音の足元へ向かっていく。
「昨日、全然外出なかったくせに……」
文句を言いながらも、花音の声には明らかな安堵が滲んでいた。
その日の夕焼けは、やけに綺麗だった。
西の空が橙から薄紫に移ろい、そのグラデーションがブロック塀を薄く照らしている。シロの白い毛並みが、その光を受けて輪郭を柔らかく滲ませていた。
シロが低い塀の上にぴょんと飛び乗った。
細い足で砂埃を軽く払ってから、とことこと歩き始める。
花音はそのすぐ下、塀に沿うようにして歩いていた。
「シロ〜、落ちないでよ〜?」
軽口を叩きながらも、万が一に備えて両手はいつでも受け止められるようにしていた。
海斗は、少し離れた位置からカメラを構えた。
ファインダーの中に、白と黒と夕陽が収まっていく。
(……なんか、絵になるな)
そう思った瞬間だった。
塀の上を歩いていたシロが、くるりと方向を変えた。
ふいに足を止め、すたすたと戻ってくる。その先には、花音の足。
花音のローファーのつま先に、シロが頭をぐいっと押し付けた。
「わっ」
バランスを崩しかけた花音が、思わず立ち止まる。
見上げるようにしてシロがにゃあと鳴いた。何かを訴えているような、甘えているような、不思議な声。
「……なに、そのツンデレ」
花音が笑いながらしゃがみ込む。
塀の上にいたはずのシロは、いつの間にか地面に降りていて、その足元でぐるぐると花音の周りを回っていた。尻尾が靴にからまる。
「はいはい。抱っこね」
花音が両腕を広げると、シロはほとんど迷うことなく、その中に収まった。
胸元へと抱き上げられた白猫。柔らかい毛並み。小さな前足が花音のブレザーの襟のあたりにちょこんと乗る。
花音の口元が、自然にほころんだ。その笑顔は、最初に出会った日のものよりもずっと、力が抜けていた。
気取っていない。作っていない。誰かに向けた「優等生」じゃなくて、ただ自分の猫に向けた、素の表情だ。
気づいた時には、もう指が動いていた。
──カシャン。
シャッター音が、夕方の空気を切る。
撮った瞬間、海斗は息を飲んだ。
ファインダーから目を離し、すぐさま再生ボタンを押す。
液晶画面に映った一枚。逆光気味の画面の中で、白い猫と、そのすぐ後ろにある柔らかな笑顔があった。
シロの輪郭は、夕陽の光に溶けて少しだけ滲んでいる。毛並みの一本一本まではっきりとは見えない。代わりに、その猫を抱き上げている花音の横顔には、きちんとピントが合っていた。
(あっ……)
胸の奥で、小さく音がした気がした。
いつもなら、猫にピントを合わせていた。シロの耳の切れ込みとか、瞳の光とか、毛並みの流れとか。
でも今、画面の中で一番くっきりしているのは、花音だった。
睫毛の一本一本。その影が頬に落ちるライン。わずかに上がった口角。猫に向けた視線。
全部が、シロじゃなくて花音を中心に据えていた。
(何やってんだ、俺)
指先が、わずかに震える。
猫を撮るはずだった。猫を撮っていれば安全だと思っていたのに──。
「海斗先輩?」
不意に名前を呼ばれて、海斗は画面から目を離した。
気づけば隣に花音が来ていた。シロを抱いたまま、ひょいと覗き込むようにして、海斗の手元を見つめている。
「今の、撮ってました?」
まっすぐな問い。
聞き覚えのある言い回し。初めて会った日の、少し戸惑い混じりの声と同じ言葉。
あの時は咄嗟に「すぐ消す」と返した。
けれど今は、あの頃ほど慌ててはいなかった。胸の奥はざわついているのに、指先は妙に冷静で、画面を消す事もできずにいる。
迷った末に、海斗はカメラを少し傾けた。
「……見る?」
「いいんですか?」
花音の瞳が、わずかかに大きくなる。期待と不安の入り混じった表情だ。
頷いて、再生画面を花音の方へ向けた。
一瞬、その表情が固まる。
ほんの数秒の沈黙。花音は、画面の中の自分と、腕の中のシロを交互に見つめた。
「私……こんな顔してたんだ」
ぽつりと零れた言葉は、驚き半分、照れ半分だった。
からかいの色は、まるでない。
自分の頬に片手を当ててみたり、画面をもう一度覗き込んだりしているその仕草が、やけに新鮮に見えた。
「変……ですか?」
「いや」
即答してから、自分でも驚く。
「普通に……いいと思う。猫も、楽しそうだし」
慌てて付け加えた「猫も」に、花音が小さく吹き出した。
「そこ、猫に気を遣わなくていいのに」
「いや、一応主役だろ」
「主役はシロで、私は背景みたいな?」
「そんな事言ってないだろ」
口ではそう返しながらも、画面の中の構図を思い返す。
どう見ても、この写真の主役は花音だ。
シロは、その腕の中で、ただ『そこにいるだけ』に過ぎない。白い塊として確かに存在感はあるけれど、それ以上に目を引くのは、抱き上げている側の方だった。
花音は、もう一度写真を見た。今度はさっきよりも、少しだけ長く。
「……いいですね、これ」
ぽつりと、そう言った。
自分の写真を褒めている、というよりも。画面の中の時間を気に入っている、という言い方だった。
「このシロ、ちょっと誇らしそうな顔してません?」
そう言って、腕の中のシロの顔を覗き込む。
「ほら、ちゃんと外を歩いて、ちゃんと私のところに戻ったぞって顔」
「猫がそんな高等な事考えるかよ」
「考えてますって。たぶん」
軽口を叩き合いながらも、花音の指先は慎重に画面の縁をなぞっている。
「でも……今度は私を撮る時は、ちゃんと撮るって言ってくださいね?」
ふいに、花音が顔を上げて言った。
夕焼けの光が、瞳の中で小さく揺れる。
その一言は、冗談めかしたようでいて、少しだけ真剣だった。
レンズを向ける事を、嫌がっていない。むしろ、少しだけ期待しているようにさえ見えた。
そう思った途端、胸の奥がざわついた。
「……考えとく」
それが精一杯だった。
花音は、その返事に納得したのかしていないのか、曖昧な笑みを浮かべた。
「約束してくれないんですね」
「簡単に約束すると、ろくな事にならないからな」
「慎重派だなぁ。じゃあ、気が向いたらでいいですよっ」
弾んだように、いつもの笑顔を向けてくる。
気が向いたら。
その言葉が、どこか後を引いた。
*
数日後。
写真部の部室で、海斗はひとりパソコンの前に座っていた。
文化祭の展示用に、そろそろ作品を選ばないといけない。部長からはそう言われているが、正直、まだ何も決まっていなかった。
モニタの画面には、ここ最近撮った写真がずらりと並んでいた。
シロの写真が殆どだ。
一枚一枚をクリックして、ピントや構図を確認していく。
猫の毛並みが綺麗に撮れているもの。夕陽の光がうまく入っているもの。逆に、ちょっとブレているけれど躍動感があるもの。
そんなふうに画面とにらめっこしていると、背後から椅子を引く音がした。
「お、篠宮。また猫?」
聞き慣れた声に振り向くと、そこには同じ写真部の新山真帆がいた。肩までの髪を一つに結び、カーディガンを羽織ったまま椅子に腰を下ろす。
「この猫の写真、いいね」
モニタを覗き込みながら、真帆が指で画面を指す。
そこに映っているのは、塀の上で背中を丸めて伸びをしているシロだった。背後にはブロック塀と、ぼやけたグラウンドのフェンス。
「最近、よくここで撮ってる」
「校舎裏? ああ、あそこか。あんた、そこ気に入ったよね」
真帆はマウスを操作しながら、他の写真も次々と開いていく。
「おー、猫ばっか」
「うるさい」
「褒めてんの。ちゃんと追えてるし、光の入り方もいい感じじゃん。猫の毛並みとか、めっちゃ綺麗」
そう言っているうちに、例の一枚が画面に映し出される。
夕陽の中で、白猫を抱き上げて笑う花音。
思わず、海斗の指がピクリと動いた。
「あれ?」
真帆が、小さく首を傾げる。
「これさ……猫よりも女の子の方にピント合ってない?」
どきり、と心臓が跳ねた。
自分でもうっすら自覚していた事を、他人の口から言われると、やたらと生々しく感じる。
「たまたまだろ」
「たまたまで、こんな綺麗に合う?」
真帆は、画面を拡大した。花音の横顔が、モニタいっぱいに映し出される。
睫毛。口元。シロの耳の影。全部がくっきりしている。
シロの毛並みは、むしろ少し滲んでいるくらいだ。
「ふーん?」
意味ありげな声を出しながら、真帆が横目でちらりと海斗を見る。
「誰、この子。新キャラ?」
「一年」
「それは見れば分かる。なんで一緒に猫抱いてんの」
「……飼い主」
「へぇ」
真帆の口角が、ニヤニヤと持ち上がった。
「これ、文化祭の展示に出せば?」
「は?」
思わず、声が裏返る。
「いや、人の写真は……」
「出さない主義?」
「主義っていうか。前にいろいろあったし」
視線をそらしながら答えると、真帆は「ああ」と短く相槌を打った。
「体育祭の時のやつ、まだ気にしてんの?」
「別に気にしてるわけじゃない。ただ、また面倒だなって」
「めんどくさいだけで、全部避けてたらもったいなくない?」
耳が痛い。
真帆の言う事は、時々やたら核心を突いてくるから嫌だ。
「でもさ、その子撮ってる時のあんた、ちょっと楽しそうだよ」
「……は?」
何を言っているんだ、この女は。
「だってほら、さっきデータ見てた時の顔。猫の時より、ちょっとにやけてた」
「にやけてねーし」
「いやにやけてた。完全に。百パーセント。いーや、百五十パーセントはにやけてたね」
断言されて、言葉に詰まる。
そんなに分かりやすかっただろうか。
真帆はもう一度画面を見てから、肩をすくめた。
「まあ、無理に出せとは言わないよ。でも、こういう写真撮れるなら、猫だけってのはもったいないなって思っただけ」
「…………」
「猫の専属カメラマンを続けるのも悪くないけどさ。たまには〝飼い主〟の方も撮ってみなよ」
軽い調子で放たれた言葉が、妙に心の奥に残った。
画面の中で笑っている花音と、それを見ている自分。
レンズ越しの距離はあるのに、その距離は前よりも少しだけ近づいてしまっている気がした。
放課後の校舎裏に、白い猫と黒髪の後輩・三島花音がいる光景は、いつの間にか「特別」から「いつもの」に変わっていた。
チャイムが鳴ってから少し遅れて、海斗は教室を抜け出す。写真部の活動日でも、とりあえず部室に顔を出す前に、足は自然と校舎裏へ向かっていた。
ブロック塀。ひび割れ。雑草。グラウンドから吹き込んでくる砂ぼこり。
そして、その少し先で──。
「シロ、ほら。今日は高級おやつですよ〜」
しゃがみ込んだ花音が、小さなパックから猫用のおやつを取り出していた。指先でつまんだそれを鼻先に近づけると、シロはふん、と一度そっぽを向いてから、何事もなかったかのようにぬるりと近寄ってくる。
結局、食べる。いつもの事だ。
「……今日も逃げられました〜」
最初の数歩は素知らぬ顔で歩き去り、二、三歩先でくるりと振り返って戻ってくる。
そのツンデレを見慣れた頃合いで、花音が半ばあきれ、半ば嬉しそうにそうこぼした。
その横で、海斗はカメラを構えていた。
シロが匂いを嗅いでからおやつにかぶりつく瞬間。花音の指先が少し汚れて、それを気にして笑う横顔。そんな細々したものを、彼は無意識のうちに拾い集めていた。
シロの白、花音の黒髪や横顔、それから夕方の光。
画面の中のそれらは、思いのほかよく馴染んでいた。
別の日は、シロが唐突に花音の足元から離れて、ブロック塀の上にぴょんと飛び乗った。
「あ、ちょっと!」
花音が慌てて追いかける。スカートの裾を押さえながら小走りでついていく姿を、海斗は少し離れたところからレンズ越しに見ていた。
(……今日も元気だな)
猫の方も、女の子の方も。
シロが塀の上をすたすたと歩き、ふいっと花音の手の届かない位置まで行っては、また戻ってくる。
そのたびに花音の表情がころころ変わるのがおもしろくて、ついシャッターの回数が増えた。
また別の日には、花音がコンビニの袋をぶら下げて現れた。
「シロのご飯のついでに、海斗先輩の分も買ってきました」
そう言って差し出されたのは、値引きシールの貼られたおにぎりと、ペットボトルのお茶だった。
「……悪い」
「いえいえ。いつも見守ってくれてるお礼ってことで」
何でもない風を装っているが、こういう気遣いは案外ずるい。
一緒におにぎりをかじりながら、二人はシロを眺めた。猫はふたりの足元で、何かをねだるでもなく、ただ気ままに砂利を掘ったりしていた。
そんな、他愛もない放課後が積み重なっていった。
「……そういえば」
いつものようにシロにおやつを与え終えたところで、花音がぽつりと零した。
「家ではあんまり外に出しちゃダメって言われてるんです」
しゃがんだまま、シロの背中を撫でながらの言葉だった。
「前に体調崩した時に、お医者さんにも怒られて。それ以来、母がすごく神経質になっちゃって。窓もすぐ閉めろって言われるし……」
「でも、こいつは抜け出してくるわけだ」
「そうなんですよねー。網戸をすり抜ける技を覚えちゃって」
苦笑しながらそう言う横顔は、どこか困り顔と甘さが混じっていた。
「だから、ほんとは今日みたいにここにいるの、怒られるかもです。でも、この子とここにいると落ち着くんですよね。……海斗先輩も、そうだったりしますか?」
花音が、少しだけこちらを見上げる。
夕方の光をたたえた瞳に、自分が映っているのが分かった。
海斗は、少し迷ってから、素直に頷く。
「まあ……教室にいるよりは、だいぶマシ」
「それ、結構な言い方ですね?」
花音がくすっと笑う。からかうようでいて、どこか共犯めいた響きがあった。
(ここが落ち着くのは……たぶん、猫だけのせいじゃない気もするんだけどな)
そんな考えが一瞬頭をよぎったが、すぐに追い払った。
この場所が好きなのは、きっとシロのせいだ。そう決めつけておきたかった。
シロを介した会話は、とりとめもなく広がっていった。
「海斗先輩は、写真部ですよね?」
「まあ、一応」
「『一応』って。ちゃんと活動してます?」
「してる。たぶん」
あいまいな返事に、花音は笑いながらも首を傾げた。
「じゃあ今度、作品見せてくださいよ。シロのだけじゃなくて」
「……考えとくよ」
今はそれくらいがちょうどいい。
写真部で撮った人の写真の事を思い出すと、胸の奥がざわつくので、深入りしたくなかった。
そんな気持ちを見透かしたように、花音が少し真面目な顔をした。
「海斗先輩って、人は撮らないんですか?」
ちょうどその時、シロがブロック塀の上で立ち止まり、大きく伸びをしていた。その姿をレンズ越しに追いながら、海斗は言葉に詰まる。
「……あんまり。風景とか猫の方が、文句言わないから」
少しだけ冗談めかして答えたつもりだった。けれど口に出してみると、自分で思っていた以上に本音に近かったと気づく。
花音が、何かに気付いたように、ふとこちらを振り返った。
「文句、言われたことあるんですか?」
その問いかけに、海斗は視線をファインダーから外した。
嫌な記憶は、思い出そうとしなくても勝手に蘇る。
「ちょっとだけ。それ以来、人はいいかなって」
さらりとした口調を装いながらも、指先にはわずかな力が入っていた。
花音は、それ以上は何も聞かなかった。
追及する事もできたはずだ。けれど、ただ小さく頷いて、いつも通りの声で言った。
「じゃあ、先輩はシロの専属カメラマンってことで」
その一言に、張りつめていた何かがふっと緩む。
「……安い専属だな」
「報酬は、シロの癒しです」
「こいつの機嫌次第じゃん」
「そこは、ほら。共同制作ってことで」
花音の苦し紛れの言い訳に、思わず噴き出した。
そんな他愛もないやり取りをしているうちに、さっきまで胸の奥でざわついていたざらつきは、いつの間にか薄れていた。
*
そんなふうに、穏やかな放課後が続いていく一方で、ほんの少しだけ、違う一日もあった。
シロが、来ない日だ。
いつもなら鉄製のフェンスの隙間から、どこからともなくひょっこり現れるはずの白い影が、その日に限って姿を見せなかった。
海斗が校舎裏に着いた時、先に来ていた花音がブロック塀の近くでしゃがみ込み、地面をじっと見ていた。
「……いない?」
声を掛けると、花音が顔を上げる。
「あ、海斗先輩」
いつも通りの笑顔。けれど、その口角はどこか控えめで、目の下には薄く影が落ちているように見えた。
「今日、窓開けても全然出ていかなかったから。もしかしたら、具合悪いのかなって」
そう言いながらも、花音の指先は無意識に地面の砂利をいじっている。
「まあ、ずっと外にいるのもアレだし。たまにはこっちが寂しいくらいの方が、ちょうどいいのかもですけど」
冗談のように付け加えたけれど、その笑いは少し空回りしていた。
立ったまま話しているのも変な気がして、海斗も近くのコンクリートの段差に腰を下ろす。カメラは今日はあまり仕事がなさそうだ。
「家で、何かあったのか?」
気付けば、口が勝手に動いていた。
花音は「……ええっと」と少し考える素振りを見せる。
「ちょっとだけ、母と喧嘩しました」
その言い方があまりにも軽くて、一瞬、本当に「ちょっと」なのだと思いかける。
しかし続く言葉が、それとは少しだけ違う事を示していた。
「『あんたはすぐ猫にかまけて勉強サボる』って怒られて。テスト前でもないのに、そんなに言う? って思って、こっちも言い返しちゃって」
膝の上で握った手が、少しだけ力を込めた。
「なんか、私の事よりも、この子の事になると急に厳しくなるんですよね。病気の事があってから、余計に」
「心配なんだろ」
「まあ、そうなんですけど。でも、『そんなに心配なら自分で見ててよ』ってつい言っちゃって。そしたら『口の利き方』とか『反抗期』とか、一気にセットで召喚されちゃいました」
そこで一拍置いて、花音は自分で言った事を思い出したように、苦笑を浮かべた。
「……すみません。愚痴っぽくなっちゃいましたね」
「別に」
海斗は視線を空に向けた。
西日が、校舎の角に引っかかるようにして差し込んでいる。雲一つない夕空は、やけに眩しすぎて、じっと見ていると目が痛くなった。
「ここで猫撫でながら愚痴るくらい、普通だろ」
「猫、いないですけどね」
花音が小さく笑った。その笑いは少し掠れていたけれど、それでもちゃんと笑おうとしているのが伝わってきた。
「でも、ここにいると、何だか落ち着くんですよね。……海斗先輩は?」
以前にも、似たようなことを訊かれた。
あの時と少し違うのは、どこかすがるような響きが混ざっていたことだろうか。
「……まあ。ここに来るの、習慣になってるし」
海斗は、少しだけ言葉を探してから答えた。
「習慣?」
「放課後、教室から真っ直ぐ家に帰るのって、何か負けた気がして嫌なんだよ。かといって、どっか寄り道するほどの元気もないし」
そう言ってから、自分でも何を言ってるんだろうと思った。
花音は思い当たることがあったのか、「あー」と妙に納得したように頷いた。
「わかる気がします。真っ直ぐ帰ると、『ちゃんとしてる自分』を見られてる感じがして、そわそわするというか」
「それはそれで変じゃないか?」
「かもしれないですけど」
ふたりで中途半端に笑っていると、さきほどまで重たかった空気が、ほんの少しだけ軽くなった。
結局、シロは来なかった。
*
次の日には、シロは何事もなかったかのようにフェンスの隙間から現れた。いつもと変わらない足取りで、花音の足元へ向かっていく。
「昨日、全然外出なかったくせに……」
文句を言いながらも、花音の声には明らかな安堵が滲んでいた。
その日の夕焼けは、やけに綺麗だった。
西の空が橙から薄紫に移ろい、そのグラデーションがブロック塀を薄く照らしている。シロの白い毛並みが、その光を受けて輪郭を柔らかく滲ませていた。
シロが低い塀の上にぴょんと飛び乗った。
細い足で砂埃を軽く払ってから、とことこと歩き始める。
花音はそのすぐ下、塀に沿うようにして歩いていた。
「シロ〜、落ちないでよ〜?」
軽口を叩きながらも、万が一に備えて両手はいつでも受け止められるようにしていた。
海斗は、少し離れた位置からカメラを構えた。
ファインダーの中に、白と黒と夕陽が収まっていく。
(……なんか、絵になるな)
そう思った瞬間だった。
塀の上を歩いていたシロが、くるりと方向を変えた。
ふいに足を止め、すたすたと戻ってくる。その先には、花音の足。
花音のローファーのつま先に、シロが頭をぐいっと押し付けた。
「わっ」
バランスを崩しかけた花音が、思わず立ち止まる。
見上げるようにしてシロがにゃあと鳴いた。何かを訴えているような、甘えているような、不思議な声。
「……なに、そのツンデレ」
花音が笑いながらしゃがみ込む。
塀の上にいたはずのシロは、いつの間にか地面に降りていて、その足元でぐるぐると花音の周りを回っていた。尻尾が靴にからまる。
「はいはい。抱っこね」
花音が両腕を広げると、シロはほとんど迷うことなく、その中に収まった。
胸元へと抱き上げられた白猫。柔らかい毛並み。小さな前足が花音のブレザーの襟のあたりにちょこんと乗る。
花音の口元が、自然にほころんだ。その笑顔は、最初に出会った日のものよりもずっと、力が抜けていた。
気取っていない。作っていない。誰かに向けた「優等生」じゃなくて、ただ自分の猫に向けた、素の表情だ。
気づいた時には、もう指が動いていた。
──カシャン。
シャッター音が、夕方の空気を切る。
撮った瞬間、海斗は息を飲んだ。
ファインダーから目を離し、すぐさま再生ボタンを押す。
液晶画面に映った一枚。逆光気味の画面の中で、白い猫と、そのすぐ後ろにある柔らかな笑顔があった。
シロの輪郭は、夕陽の光に溶けて少しだけ滲んでいる。毛並みの一本一本まではっきりとは見えない。代わりに、その猫を抱き上げている花音の横顔には、きちんとピントが合っていた。
(あっ……)
胸の奥で、小さく音がした気がした。
いつもなら、猫にピントを合わせていた。シロの耳の切れ込みとか、瞳の光とか、毛並みの流れとか。
でも今、画面の中で一番くっきりしているのは、花音だった。
睫毛の一本一本。その影が頬に落ちるライン。わずかに上がった口角。猫に向けた視線。
全部が、シロじゃなくて花音を中心に据えていた。
(何やってんだ、俺)
指先が、わずかに震える。
猫を撮るはずだった。猫を撮っていれば安全だと思っていたのに──。
「海斗先輩?」
不意に名前を呼ばれて、海斗は画面から目を離した。
気づけば隣に花音が来ていた。シロを抱いたまま、ひょいと覗き込むようにして、海斗の手元を見つめている。
「今の、撮ってました?」
まっすぐな問い。
聞き覚えのある言い回し。初めて会った日の、少し戸惑い混じりの声と同じ言葉。
あの時は咄嗟に「すぐ消す」と返した。
けれど今は、あの頃ほど慌ててはいなかった。胸の奥はざわついているのに、指先は妙に冷静で、画面を消す事もできずにいる。
迷った末に、海斗はカメラを少し傾けた。
「……見る?」
「いいんですか?」
花音の瞳が、わずかかに大きくなる。期待と不安の入り混じった表情だ。
頷いて、再生画面を花音の方へ向けた。
一瞬、その表情が固まる。
ほんの数秒の沈黙。花音は、画面の中の自分と、腕の中のシロを交互に見つめた。
「私……こんな顔してたんだ」
ぽつりと零れた言葉は、驚き半分、照れ半分だった。
からかいの色は、まるでない。
自分の頬に片手を当ててみたり、画面をもう一度覗き込んだりしているその仕草が、やけに新鮮に見えた。
「変……ですか?」
「いや」
即答してから、自分でも驚く。
「普通に……いいと思う。猫も、楽しそうだし」
慌てて付け加えた「猫も」に、花音が小さく吹き出した。
「そこ、猫に気を遣わなくていいのに」
「いや、一応主役だろ」
「主役はシロで、私は背景みたいな?」
「そんな事言ってないだろ」
口ではそう返しながらも、画面の中の構図を思い返す。
どう見ても、この写真の主役は花音だ。
シロは、その腕の中で、ただ『そこにいるだけ』に過ぎない。白い塊として確かに存在感はあるけれど、それ以上に目を引くのは、抱き上げている側の方だった。
花音は、もう一度写真を見た。今度はさっきよりも、少しだけ長く。
「……いいですね、これ」
ぽつりと、そう言った。
自分の写真を褒めている、というよりも。画面の中の時間を気に入っている、という言い方だった。
「このシロ、ちょっと誇らしそうな顔してません?」
そう言って、腕の中のシロの顔を覗き込む。
「ほら、ちゃんと外を歩いて、ちゃんと私のところに戻ったぞって顔」
「猫がそんな高等な事考えるかよ」
「考えてますって。たぶん」
軽口を叩き合いながらも、花音の指先は慎重に画面の縁をなぞっている。
「でも……今度は私を撮る時は、ちゃんと撮るって言ってくださいね?」
ふいに、花音が顔を上げて言った。
夕焼けの光が、瞳の中で小さく揺れる。
その一言は、冗談めかしたようでいて、少しだけ真剣だった。
レンズを向ける事を、嫌がっていない。むしろ、少しだけ期待しているようにさえ見えた。
そう思った途端、胸の奥がざわついた。
「……考えとく」
それが精一杯だった。
花音は、その返事に納得したのかしていないのか、曖昧な笑みを浮かべた。
「約束してくれないんですね」
「簡単に約束すると、ろくな事にならないからな」
「慎重派だなぁ。じゃあ、気が向いたらでいいですよっ」
弾んだように、いつもの笑顔を向けてくる。
気が向いたら。
その言葉が、どこか後を引いた。
*
数日後。
写真部の部室で、海斗はひとりパソコンの前に座っていた。
文化祭の展示用に、そろそろ作品を選ばないといけない。部長からはそう言われているが、正直、まだ何も決まっていなかった。
モニタの画面には、ここ最近撮った写真がずらりと並んでいた。
シロの写真が殆どだ。
一枚一枚をクリックして、ピントや構図を確認していく。
猫の毛並みが綺麗に撮れているもの。夕陽の光がうまく入っているもの。逆に、ちょっとブレているけれど躍動感があるもの。
そんなふうに画面とにらめっこしていると、背後から椅子を引く音がした。
「お、篠宮。また猫?」
聞き慣れた声に振り向くと、そこには同じ写真部の新山真帆がいた。肩までの髪を一つに結び、カーディガンを羽織ったまま椅子に腰を下ろす。
「この猫の写真、いいね」
モニタを覗き込みながら、真帆が指で画面を指す。
そこに映っているのは、塀の上で背中を丸めて伸びをしているシロだった。背後にはブロック塀と、ぼやけたグラウンドのフェンス。
「最近、よくここで撮ってる」
「校舎裏? ああ、あそこか。あんた、そこ気に入ったよね」
真帆はマウスを操作しながら、他の写真も次々と開いていく。
「おー、猫ばっか」
「うるさい」
「褒めてんの。ちゃんと追えてるし、光の入り方もいい感じじゃん。猫の毛並みとか、めっちゃ綺麗」
そう言っているうちに、例の一枚が画面に映し出される。
夕陽の中で、白猫を抱き上げて笑う花音。
思わず、海斗の指がピクリと動いた。
「あれ?」
真帆が、小さく首を傾げる。
「これさ……猫よりも女の子の方にピント合ってない?」
どきり、と心臓が跳ねた。
自分でもうっすら自覚していた事を、他人の口から言われると、やたらと生々しく感じる。
「たまたまだろ」
「たまたまで、こんな綺麗に合う?」
真帆は、画面を拡大した。花音の横顔が、モニタいっぱいに映し出される。
睫毛。口元。シロの耳の影。全部がくっきりしている。
シロの毛並みは、むしろ少し滲んでいるくらいだ。
「ふーん?」
意味ありげな声を出しながら、真帆が横目でちらりと海斗を見る。
「誰、この子。新キャラ?」
「一年」
「それは見れば分かる。なんで一緒に猫抱いてんの」
「……飼い主」
「へぇ」
真帆の口角が、ニヤニヤと持ち上がった。
「これ、文化祭の展示に出せば?」
「は?」
思わず、声が裏返る。
「いや、人の写真は……」
「出さない主義?」
「主義っていうか。前にいろいろあったし」
視線をそらしながら答えると、真帆は「ああ」と短く相槌を打った。
「体育祭の時のやつ、まだ気にしてんの?」
「別に気にしてるわけじゃない。ただ、また面倒だなって」
「めんどくさいだけで、全部避けてたらもったいなくない?」
耳が痛い。
真帆の言う事は、時々やたら核心を突いてくるから嫌だ。
「でもさ、その子撮ってる時のあんた、ちょっと楽しそうだよ」
「……は?」
何を言っているんだ、この女は。
「だってほら、さっきデータ見てた時の顔。猫の時より、ちょっとにやけてた」
「にやけてねーし」
「いやにやけてた。完全に。百パーセント。いーや、百五十パーセントはにやけてたね」
断言されて、言葉に詰まる。
そんなに分かりやすかっただろうか。
真帆はもう一度画面を見てから、肩をすくめた。
「まあ、無理に出せとは言わないよ。でも、こういう写真撮れるなら、猫だけってのはもったいないなって思っただけ」
「…………」
「猫の専属カメラマンを続けるのも悪くないけどさ。たまには〝飼い主〟の方も撮ってみなよ」
軽い調子で放たれた言葉が、妙に心の奥に残った。
画面の中で笑っている花音と、それを見ている自分。
レンズ越しの距離はあるのに、その距離は前よりも少しだけ近づいてしまっている気がした。



