放課後のチャイムが鳴ってから、どれくらい時間が経っただろうか?
 グラウンドからはまだ部活の掛け声が聞こえてくる。どこかのクラスが窓を開けっぱなしにしているのか、廊下の方からは笑い声やら足音やらが混ざったざわめきが風に運ばれてきていた。
 けれど──ここ、校舎裏まで届くそれは、もうだいぶ遠い。
 西日が伸びた校舎の影と、コンクリートの匂い。ひび割れたブロック塀の足元には、名前も知らない雑草が好き勝手に伸びていた。グラウンドの砂が風にさらわれて、時折さらさらと靴のつま先を撫でた。
 その少し奥で、篠宮海斗(しのみやかいと)は膝をついていた。
 片膝を地面につき、カメラを構える。両手でしっかりボディを支え、片目だけをファインダーに押し当てると、世界がすとんと狭まった。
 視界の中にあるのは、コンクリートでも雑草でもない。
 真っ白な毛並みをした、小さな影。
 砂利交じりの地面を、とことこと歩いている白猫を、海斗は息を潜めて追いかけていた。

(今日はどんな歩き方を見せてくれる?)

 自分でも、少しおかしな問いかけだと思う。
 けれど、ここ最近の放課後は、決まってこの問いから始まっていた。
 白猫は、こちらをまるで気にしていない様子で、ブロック塀の際をなぞるように歩いていく。尻尾はすっと真っ直ぐ伸びていて、ときどき先だけぴくりと揺れた。
 片方の耳には、小さな切れ込みがある。喧嘩の名残なのか、それとも生まれつきなのかは知らないが、ただそのわずかな欠けが、白い毛並みの中で却って印象的に見えた。
 砂利を踏む小さな足音に合わせて、海斗の指がわずかに動く。
 猫が立ち止まった。前脚を伸ばし、背中を弓なりに反らす。喉の奥で、かすかな欠伸の音がしたような気がした。
 その瞬間を逃さず、シャッターを切る。
 カシャン、と小気味いい音が、ひとつだけ響いた。
 ファインダー越しに見ていた白猫の姿が、一瞬だけ黒く途切れ、すぐに元の画に戻った。確認するまでもなく、今の一枚はきっと悪くない。
 そう思うと、胸のあたりがほんの少しだけ軽くなった。
 カメラを構えている間だけは、世界がここ一か所に縮まってくれる。クラスのざわめきも、体育館のバスケットボールの音も、教室に残してきた宿題の山も、全部画面の外に追い出されていく。
 この狭い四角形の中にいるのは、白い猫と、柔らかな夕方の光だけだ。

(……やっぱ、猫はいいな)

 無意識にそう思って、苦笑が漏れそうになった。
 人はいろいろ考えないといけない。表情とか、構図とか、撮っていいのかどうかとか。それに比べれば、猫はただそこにいるだけだ。いくらカメラを向けても文句は言わないし、レンズを嫌がって顔を隠したりもしない。
 この白猫と出会ったのは、二週間ほど前の事だ。
 その日は雨だった。
 授業が終わる頃には土砂降りになっていて、帰ろうかどうしようか迷いながら校舎裏を通りかかった時、ブロック塀の隅で丸まっている白い塊を見つけた。
 濡れた段ボールの上で、雨を避けるように身体を小さくしている子猫。毛並みは泥で少し灰色がかっていて、耳の切れ込みがやけに痛々しく見えた。
 その時も、海斗は思わずカメラを取り出していた。
 撮るかどうか迷って、結局、一枚だけシャッターを切る。びしょ濡れになった制服の袖が重くて、指先から体温が奪われていく様な感覚があった。

(風邪ひかないでくれよ)

 心の中でそうつぶやきながら、撮ったばかりの画像を見て、ふと我に返った。
 あんまり、良くない癖だ。
 レンズを向けるより先に、何かできる事があったんじゃないか。そんな後悔が、あの時は確かに胸を刺していた。
 だから翌日も、海斗は校舎裏に足を運んだ。
 段ボールは片付けられていて、代わりにそこには誇らしげにあくびをしている白猫がいた。毛並みは昨日よりずっと綺麗で、ふわふわに乾いている。誰かがちゃんと世話をしたのだろう。
 以来、白猫はちょくちょくこの場所に姿を見せるようになった。
 雨の日も、晴れの日も。部活の賑やかな声が遠くに響くこの場所で、ひとりと一匹──いや、一人と一匹は、何となくの距離感を保ちながら、同じ時間を過ごしている。

「……よし」

 シャッターを数枚切ったところで、海斗は小さく息を吐き、カメラを一旦下ろした。膝をついていたせいで、ズボンの膝部分がうっすらと土で汚れている。
 気にも留めず、背伸びをする。
 肩の力が抜けて、頭の中のざわめきも薄れていく。今日のホームルームでクラスメイト同士が言い合いをしていた事も、机の上の数学の小テストも、今はどうでもいい。
 ここは、そういうものを一旦全部置いてこられる場所だ。
 カメラをしまわず、ぶら下げたまま歩けば、足元では白猫が相変わらずマイペースに砂利を踏んでいる。
 名前も知らない誰かの捨て猫かと思っていたけれど、こうして毛並みが綺麗なままなのを見ると、ちゃんと飼い主はいるのだろう。首輪こそついていないものの、痩せ細っている様子はないし、目もよく光っている。
 しゃがみ込んで指先を出すと、白猫はふん、と興味なさげに顔を背けた。

「ツンツンだな、お前」

 思わずぽつりと呟く。
 猫は返事をするわけでもなく、そのままくるりと背を向け、ブロック塀に沿ってゆっくり歩き出した。
 夕日が傾く方向へ、白い毛並みが淡く光をまとって伸びていく。
 その後ろ姿を眺めていた時──。

「シロ!」

 校舎側から女の子の声がして、反射的に海斗は振り返った。
 それと同時に、癖のようにカメラを目に当てていた。ファインダーの中に、ブレザーの袖口を翻しながら走ってくる影が飛び込んでくる。
 長い黒髪が、まっすぐに揺れていた。
 肩より少し長い黒髪のロングヘア。風に踊るそれが、夕日の光を浴びてやわらかく艶めいている。
 制服をきっちりと着ていて、楚々だとか清楚だとかという形容詞がよく似合う女の子。ネクタイの色的に、どうやら彼女は一年生らしい。
 走ってきた彼女は、白猫を見つけるなり、ぱっと表情を明るくした。

「シロ、またここにいたの……?」

 そう言ってしゃがみ込むと、腕を伸ばして白猫を抱き上げる。猫は一瞬だけ「にゃ」と文句を言うように鳴いたが、すぐに諦めたかのように彼女の胸元に顔をうずめた。
 その仕草を見て、思わずシャッターに指がかかる。
 彼女の口元が、ふわりとほどけて笑った。
 猫に向ける、優しい笑顔だった。
 ──カシャン。
 無意識に切ったシャッター音が、静かな校舎裏に小さく響く。
 その音に、彼女がぴくりと肩を震わせた。
 白猫──シロ、と呼ばれていたその猫に頬をすり寄せていた彼女が、ゆっくりと顔を上げる。黒く長い睫毛の下で瞳が揺れて、カメラを構えている海斗をくっきりと捉えた。
 目が合った。
 しまった、と思うより先に、彼女の口が動いていた。

「もしかして、撮ってました?」

 真正面からそう言われて、海斗は固まった。
 脳裏に、嫌の場面がよぎる。
 体育祭の日。延長コードに足を引っ掛けて転びそうになったクラスメイトを咄嗟に撮ったら、「は? 勝手に撮らないでくれる?」と眉をひそめられた事がある。
 それだけならまだよかった。
 その日のうちに、クラスのグループラインに「盗撮とかマジ引くんだけど」というスタンプ付きのメッセージが流れた。誰を指しているのかは書かれていなかったけれど、タイミング的に心当たりがありすぎた。
 それ以来──人にレンズを向ける時には、躊躇がつきまとうようになった。
 今も、同じように何か言われるかもしれないと思った瞬間、海斗の身体は条件反射で動いていた。

「ごめん、すぐ消す」

 そう言って、慌ててカメラを下ろす。液晶画面を表示させようとして、指先がもつれた。
 撮ったばかりの画像が出てくる前に、画面ごと消してしまおうと、電源ボタンに親指を伸ばす。
 ──その親指を、細い指がぱしっと押さえた。

「待ってください!」

 思いのほか強い声だった。
 ぐっと押さえられた感触に驚いて顔を上げると、目の前にいた彼女が、少しだけ息を弾ませながらこちらを見つめていた。
 黒髪が走ってきた勢いのまま肩口で揺れている。制服の襟元には、小さな猫の刺繍が入ったピンバッジが光っていた。

「……えっと」

 予想していたものとは違う反応に、海斗は言葉を失う。
 彼女は小さく息を整えてから、腕の中の白猫──シロの頭を撫でた。

「この子のこと、好きでいてくれたんですよね?」
「え?」

 あまりに予想外の言葉に、思わず間抜けな声が漏れた。
 彼女は自分の質問を補うように、少しだけ言い方を変える。

「だって、前からここでカメラ構えてましたよね? シロの事、ずっと撮ってくれてたんじゃないかなって」

 そう言って、少し照れくさそうに笑った。
 肩にかかった黒髪がさらりと揺れる。至近距離で見ると、彼女は思っていた以上に整った顔立ちをしていた。ほんのり茶色がかった瞳が、夕日を反射して柔らかく光っている。
 長い睫毛の動きに合わせて、その光もささやかに揺れた。

「だったら……残しておいてもらえたら嬉しいです。私、家の中の姿しか知らないから」

 言葉を選ぶように、ゆっくりとした口調で続ける。
 家の中──その言葉で、ようやく状況に理解が追いついた。

「……飼い主さん、なんだ」
「はい。一応、うちの子で」

 彼女は腕の中のシロを見下ろした。シロはさっきまでのツンツンした態度が嘘のように、彼女の腕の中で喉を鳴らしている。
 くう、と小さく鳴く声が聞こえた。

「この子、昔ちょっと体調崩した事があって。それからあんまり外に出すなって獣医さんに言われてるんです。だから、基本は家の中ばっかりで」

 そこで一度言葉を区切って、彼女は少しだけ遠くを見た。

「でも、全然止められなくて。気がつくと窓から抜け出してて、最近はよくいなくなるんですよね……。学校の近くまで来てるって事は、きっとここが好きなんだと思います」

 その声には、呆れと、それ以上に愛しさがにじんでいた。

「だから、その……外でのシロの事、私、あんまり知らないんです。どんな風に歩いてるのかとか、どんな顔してるのかとか」

 視線が、カメラに落ちる。

「さっきのも、ここで何してたのかなって、ちょっと気になってました。それを、撮ってくれてたなら……見てみたいなって」

 海斗は、手の中にあるカメラを改めて見下ろした。
 いつだって自分の都合で構えてきたレンズだ。何かを残したいと思ったのは、自分の側の気持ちでしかなかった。
 けれど、今、目の前で自分が持っているものを「見たい」と言ってくれる人がいる。
 その事実に、胸の奥が不意にくすぐったくなる。

「……嫌じゃないのか?」

 つい、確認するように問う。
 彼女は、きょとんと目を瞬かせた。

「何が、ですか?」
「その……勝手に撮られたっていうか。そういうの、あんまりいい思い出なくて」

 言いながら、自分でも言葉がつたないと思った。
 体育祭の日の事を詳細に説明するつもりはなかったし、言ったところでどうしようもないともわかっている。それでも、黙っているにはどこか引っかかった。
 彼女は一瞬だけ考えるような表情を浮かべた後、すぐに首を横に振った。

「私は、嫌じゃないです」

 はっきりとした口調だった。

「だって、きっとシロの事を悪く撮ったりしないですよね? さっきも、すごく優しい感じで見てましたし」
「優しい感じ……?」
「はい。なんか、『モデルさんお願いします』っていうより、『今日も元気でよかった』って顔してました」

 思いがけない言葉に、胸の奥を軽く突かれたような気がした。
 そんな顔を、していたのか。
 自分では気付いていなかった表情を言い当てられたようで、むず痒さと同時に、どこか救われる様な感覚があった。
 彼女は、少しだけ視線を落とし、抱き上げたシロの耳をそっと撫でる。

「私、家ではずっとこの子を見てるけど、外の事まで全部見守ってやれなくて。でも、ここでこうやって見ていてくれる人がいたなら、それだけでちょっと安心なんです」

 言葉の端に、ふわりとした笑みが乗る。
 その笑顔を見ていると、「消さなきゃ」という焦りが、いつの間にか薄れていた。
 指先に残っていた力が抜けていく。

「……わかった」

 短くそう返事をして、海斗は液晶画面をもう一度表示させた。
 撮ったばかりの一枚が、そこにある。
 夕日を背に、白い猫を抱き上げて笑う女の子。
 飛び出すように駆けてきた息遣いは、もう画面の中には残っていないのに、まだどこかに余韻を感じる気がした。
 彼女が、その画面を覗き込む。

「わぁ……」

 小さな息が漏れた。
 自分の姿を見て、恥ずかしそうに眉尻を下げながらも、視線はなかなか画面から離れない。
 腕の中のシロは、写真の中でもここでも変わらず気ままそうにしている。けれど、その小さな身体を支えている彼女の指先には、確かに柔らかな愛情が宿っていた。

「こうやって外を歩いてるシロ、初めて見ました」

 彼女は、そう言ってそっと笑った。

「実際には全然見れてなかったんです。探してる時はいつも必死で。今日だって、いなくなったって聞いて、急いで走ってきて……。でも、こうして残ってると、ちゃんとここで楽しそうにしてたんだなってわかります」

 言葉を紡ぎながら、彼女の指がそっとシロの頭を撫でた。
 猫は気持ち良さそうに目を細める。
 その様子を見ていると、ここが自分だけの場所じゃなかったんだという実感が、じわじわと湧いてきた。
 校舎裏のこの一角は、勝手に自分の避難場所だと思っていた。
 クラスの喧騒から逃げてきて、カメラ越しに猫を追っていれば、それでよかった。
 けれど、この白猫には、ちゃんと誰かの手が伸びていたのだ。

「この子、シロって言います」

 改めて、彼女がそう紹介する。

「さっきも呼んでたけど」
「聞こえてました? いつも家では『シロ、シロ』って呼んでるんです。すぐどこか行っちゃうから、呼ばないと戻ってこなくて」

 苦笑しながらそう言う彼女の横顔は、どこか見慣れたクラスメイトの誰とも違って見えた。
 同じ制服なのに、雰囲気が違う。猫を抱き上げる腕の細さと、その中にある確かな温度が、画面越しではなく目の前で伝わってくる。

「よくここに来てるみたいで……迷惑じゃなかったですか?」

 ふと、不安そうに視線をこちらに戻してきた。
 さっきまでとは違い、ほんの少しだけ肩に力が入っている。自分の飼い猫が勝手に学校まで来ていた、と知らされた時の申し訳なさが、そのまま表情に出ているようだった。
 海斗は、一度だけ首を横に振る。

「迷惑どころか、助かってた。撮らせてもらってたし」

 それはきっと、嘘ではなかった。
 シロがここにいるから、海斗はこの場所に来る理由を持てた。カメラを構える理由も、シャッターを切る相手も。
 猫がいなければ、自分はただ教室か、自室でだらだらとスマホを眺めて終わっていたかもしれない。
 そう考えると、感謝すべきなのはむしろこちらの方だ。
 彼女は、その言葉を聞いた途端、ほっとしたように息を吐いた。

「よかった……。じゃあ、これからもよろしくお願いしますね、シロの専属カメラマンさん」

 くす、と照れ笑いを浮かべながら、そう言ってくる。
 シロの専属カメラマン。
 妙な呼び名だと思ったけれど、悪くはない響きだった。
 夕日が傾き、校舎の影が伸びていく。
 ブロック塀の際を、白い猫がゆっくりと歩く。
 その隣には、後輩の女の子。
 カメラをぶら下げた自分は、その少し後ろを歩きながら、どこか現実味のない光景を眺めていた。
 その日から、放課後の校舎裏は『俺と猫』じゃなく、『俺と猫と、彼女』の場所になった。