今日の六限目は、誠だけゼミがある。

 図書室の前まで送ってもらうと、誠が眉を八の字にしながら小声でぼやいた。

「あーもう、すっげー心配。なんかあったらゼミの途中でも全然いいから連絡して」
「そうならないように大人しく気配を消してるよ。それに図書室なら騒げないから。ほら、万が一遭遇しても周りの目があるだろうし」

 俺も小声で返したけど、誠の八の字眉毛はそのままだ。

「そうだけど……とにかく、絶対出ないで。な?」

 思い切り顔に心配と書いてある今日も綺麗な誠の顔を見上げながら、俺は笑顔で頷いた。

 大学の図書室は、基本ここの学生しか利用できないようになっている。ビジター登録すれば利用はできるけど、手続きが面倒なんだとか。ここの学生である颯真くんは勿論利用できるけど、入退室が管理されているし人の目もある。だから俺は待つ場所にここを選んだ。

 俺は専用の認証カードを取り出し人差し指と中指の間に挟むと、反対の手でまだ躊躇している誠の背中を軽く押した。

「ほら、遅れちゃうから。遅刻はうるさいんだろ?」
「う、うん……じゃあ行ってくるけど、本当に僕が来るまで出ちゃダメだからな!」
「うん、出ないから。ほら、行っておいで」
「くう……っ! 行ってくる!」

 誠は半ばヤケクソ気味に踵を返すと、一気に走り去って行った。

 誠の後ろ姿が消えたところで、カードをゲートに翳し図書室の中に入る。中に進むと席は殆ど埋まっている状況だった。前と左右にパーテーションがある席がひとつ空いていたので、そこに腰掛ける。

 リュックから教科書を取り出すと、この前のコマで受けた講義の復習をすることにした。

 てっきり大学にも課題はあるもんだと思っていたけど、基本講義は一方的に聞くだけで提出物も課題もなかった。前期と後期に試験があって、そこで及第点を取れれば半年分の単位を取得できるという仕組み。

 つまり、コンスタントに勉強するも試験前に一夜漬けするも、本人次第ってことなんだ。元々頭の作りがいい人はその中でも部活やサークル、バイト生活も楽しめるだろうけど、かなり背伸びして入ってきた俺にはどうしたって勉強面に不安が残る。

 なお、誠は推薦で入ってきたそうで、出身校は都内でかなり頭のいい高校だった。綺麗で優しくて背が高くて思いやりもあるのに頭までいいなんて、すごすぎるんだけど。

 そして俺は、そんな誠と楽しいキャンパスライフを送りたい。その為には、留年なんてできない。ならやることは一択、小まめに復習しかない。

 講義で取ったノートと教科書を見比べながら、記憶に少しずつ刻んでいく。

 基本俺と誠は同じ講義を取っているので、教室でも隣に座っている。誠は見た目がパンクだけど、授業態度は非常に真面目だ。今日は後ろのほうで騒ぐ学生がいたんだけど、当然のように「来、前に行こ」と声をかけて移動してくれたりしたし。

 でも多分あれは、「うるさいな」と思った俺の表情を機敏に読んだんだと思う。誠のこういった行動力の高さも空気を察せられる気遣いも、俺が誠を尊敬している一部だった。

 先程の講義で前を見ながらノートを取っていた、誠の真剣な横顔をふと思い出す。まるで人形のようなスッとした鼻梁とほんのり開いた薄い唇の麗しさに目を奪われてしまい、暫く惚けてただ見つめていた。

 すると俺の視線に気付いた誠が、横目で俺を見た後くしゃりと照れ臭そうに笑った、あの笑顔。見た瞬間に心臓がバクンと跳ねて、暫くの間は講義内容に集中できなかった。

 なんでだろうなんて、考えるまでもない。俺は颯真くんの時に、この感情が何かを学んでいるから。

「はあー……。どうしよう」

 ごく小さな声で呟くと、ノートに顔面を伏せた。

 多分、これは恋だと思う。颯真くんの裏切りが発覚して失意のどん底にいた俺を魔法のように掬い上げてくれた人を、俺は好きになってしまっていたんだ。

 誠は優しくて友達思いで、俺が男もイけてしまうことも理解してくれている貴重な存在だ。しかも俺の料理を美味しいと言って毎日モリモリ食べてたくさん褒めてくれるし、颯真くんが俺に接触しようとしているとわかったら、全力で守ろうとしてくれている。

 ……こんなの、好きにならない筈がないじゃないか。しかも誠の顔は俺の好みど真ん中だし、俺のことを誰よりも大切に扱ってくれる。

「そりゃ、勘違いもするって……っ」

 もしかしたら、誠も俺のことを憎からず思っているんじゃないか。何度そう思っただろう。思ってすぐに、誠は俺が女の子だと思ったから下心満載で近付いたと言っていたことを思い出し、調子に乗りそうな自分を戒めた。

 それでも誠が俺に優しくしてくれる度に、どんどん惹かれていってしまう。これは拙い状況だぞと、自分でもわかっていた。

 なので目下、颯真くんの不気味さよりも、この恋心をどう隠し通そうかというほうが俺にとって重要になりつつあった。

 何故なら、どうも俺は恋心が顔に出やすいみたいだからだ。以前誠に見せた颯真くんとのツーショット写真に写っていた俺は、誠の言う通り目が乙女になっていた。あの頃は無自覚だったこともあるので今は細心の注意を払っているけど、でもふとした瞬間にあの目で誠を見ている可能性はなきにしもあらずだ。

 俺はこの先も誠といたい。そして普通に女の子が恋愛対象の誠と一緒にいるには、この恋心は邪魔でしかない。

 でも、誠の行動も見た目も格好良すぎて好きを止められないから、なら表面上そう見えないよう取り繕うしかないじゃないか。

 そりゃ、誠と両思いになれたら嬉しい。でも、恋っていうのはあっさり終わることもあるんだと、颯真くんとのことで身に染みている。誠と変な感じになって離れるくらいなら、俺は今のままでいい。

 だから、俺は誠の親友ポジションをキープすべく乙女な目を向けないよう、頑張らなくちゃなんだ。

 心の中で改めて決意を固めていた、その時だった。どこか聞き覚えのある声が聞こえてきて、何気なく振り返る。

「――ッ!」

 慌てて前に向き直ると、机に齧り付いて勉強に集中しているふりをした。心臓がドッドッと言っている。嫌な汗が、背中の溝を伝い落ちていった。

 図書室に入ってきたのは、颯真くんとあの時の男の子だった。

「えーっ。並びの席、空いてないじゃん」
「バラバラなら座れそうだけど」
「えっ、やだーっ」
「うーん。じゃあ学食に行こうか?」
「うん、そうするー!」

 大きな甘える声できゃっきゃとはしゃいでいるのは、颯真くんの浮気相手だ。なんというか、自分だけを見て! とでも言うような態度に、乙女な目をしていた頃の周りが見えていない自分と重なってしまい、不快さを覚える。

 その後も二人は図書室だと言うのに普通の大きさの声で会話しながら、暫くして出ていった。ようやく、図書室に静寂さが戻ってくる。

 やっと行った――。

「はあ……」

 脱力すると、背もたれに寄りかかった。