グレがいつも、この窓辺から外を眺めていたこと。クロの石碑のこと。
心臓が激しく跳ねた。
グレは……グレはきっと、おばあちゃんの墓地にいる。
***
翌朝。その確信は揺るがなかった。
私は、千鶴さんに電話した。
「千鶴さん、グレはきっと、おばあちゃんのお墓にいます」
千鶴さんは長い沈黙の後、静かに口を開いた。
「ああ、そうかもしれないわ。クロもね、最期の日、あそこにいたの。あなたのおばあさまが気づいた時には、もう墓石の前で静かに座っていたのよ」
千鶴さんの声が震える。
「まるで、お別れを言いに行ったみたいに。おばあさまはね、クロを抱いて泣いていたわ。『ありがとう』って、何度も」
「やっぱり……」
私は立ち上がった。
「行ってらっしゃい、栞ちゃん。あなたが今、何をすべきか、もう分かっているでしょう?」
千鶴さんの声は、穏やかだった。
私は店を飛び出した。
***
丘へと向かう坂道を、私は息を切らしながら必死で駆け上がる。
八月の強い日差しが容赦なく照りつける。汗が額に滲み、吐く息が荒い。
足は重く、疲労で何度ももつれた。転びそうになった時、私は初めて、誰かに助けを求めるように声を上げた。
「グレ、待ってて! お願いだから……!」
足の痛みを無視し、歩を進めているうちに、墓地の入口に着いた。木々が風に揺れる音だけが聞こえる。静寂が、焦りを増幅させる。
心臓が破裂するんじゃないかってくらい、激しく打っていた。
もし、いなかったら。もし、この考えが間違っていたら……私は、もう立ち直れないかもしれない。
そんな不安が何度も頭をよぎる。だけど、足は決して止めない。
祖母の墓へ向かって小道を歩く。落ち葉が足元でカサカサと音を立てる。
どうか、グレが無事でいてくれますように。そう何度も祈りながら、歩を進める。
そして──。
視線の先に、小さな影が見えた。灰色の、小さな影が。
グレは、クロの石碑に鼻を寄せ、静かに座り込んでいた。まるで、報告をしているように。背筋を伸ばし、祈りを捧げているように。
「グレ……!」
声が震えた。足が動かない。
グレがここにいる。無事でいてくれた。
その事実が、ゆっくりと胸に沁み込んでくる。
「グレッ!」
もう一度呼ぶと、グレは振り返った。琥珀色の瞳が、真っ直ぐ私を見つめている。
そして、いつものように短く声を出した。「ニャア」
その声を聞いた瞬間、私の中で張り詰めていた心の糸が、パチンと音を立てて切れた。
膝をつき、手を伸ばす。
グレは近づいてきて、私の手に顔を擦り付けた。柔らかい。温かい。生きている。
私は、グレを胸に抱き寄せた。
グレは抵抗せず、私の腕の中で低いゴロゴロという音を響かせ始めた。
「良かった……無事で、本当に良かった……っ」
嗚咽と共に涙が溢れて止まらない。私は、グレの柔らかな体に頬を押し付けた。灰色の柔らかい毛、懐かしい匂い。
「ごめんね、グレ。冷たくして、ごめん……! 心配したんだよ……ずっと、ずっと探してたんだよ……」
グレは私の腕の中で、満足げに身体を震わせた。私の頬に、温かい頭をグリグリと押し付けてくる。
私は墓石に向き合った。
「おばあちゃん……私、やっとわかったよ」
涙を流しながら、語りかける。風が吹いて、木々が揺れる。
私は、クロの石碑に手を伸ばす。冷たい石の表面。長い年月を経た、滑らかな感触。
「おばあちゃん、クロ。そしてグレ。教えてくれて、ありがとう」
グレも、石碑に鼻を近づける。挨拶をするように声を出した。
***
しばらくそうしていると、後ろから足音が聞こえた。
振り返ると、千鶴さんが立っていた。
「千鶴さん……」
「やっぱり、ここにいたのね」
千鶴さんは私とグレを見つめ、安堵の表情を浮かべる。
「グレちゃん、無事で良かった……本当に良かった……」
千鶴さんの瞳から、とめどなく涙が溢れた。
千鶴さんは墓石の前にしゃがみ込み、クロの石碑を優しく撫でる。
「栞ちゃん、あのね。私、ずっと思っていたの」
千鶴さんは静かに話し始めた。
「グレはね、きっとクロと何か繋がりがあるんじゃないかって」
「繋がり……?」
「ええ」
千鶴さんはグレを見つめた。
「グレが生まれ変わりなのか、偶然の出会いなのか。それは私にも分からない。でもね、グレはきっと、クロと同じ役割を持って、あなたの元に来たのよ」
千鶴さんの声が、まるで子守唄のように優しかった。
「誰かを癒すために。誰かに寄り添うために。そして、人は一人じゃないと教えるために」
私はグレをぎゅっと抱きしめた。
「グレは……クロの意志を継いでいるんですね」
「ええ。そう信じたいわ」
クロの石碑に、陽の光が当たる。祖母の墓石も、穏やかな光に包まれる。
グレは私の腕の中で、小さく声を出した。
まるで、「もう大丈夫」と言っているように。
私は深く息を吸いこむ。空気が肺に入り、心の重荷が少しずつ軽くなっていくのを感じた。
***
丘を下る途中、坂本さんと沙月さんが待っていてくれた。
「栞さん!」
二人が私とグレを見つけ、顔いっぱいに安堵の表情を浮かべた。
「良かった……本当に良かった……」
沙月さんが笑顔で近づいてくる。手を伸ばして、グレの頭を撫でた。
「グレちゃん、心配したんだよ」
「見つかって良かった」
坂本さんも、安心したように微笑む。
私は深くお辞儀する。
「みなさん、ありがとうございました。本当に、ありがとうございました」
頭を下げたまま、涙が頬を伝った。
***
店に戻ると、みんなでお茶を飲んだ。
千鶴さんが淹れてくれた紅茶の湯気が、温かく店内を満たす。坂本さんが買ってきてくれたケーキ。沙月さんが持ってきてくれたクッキー。
グレは私の膝の上で、丸くなっている。その重み、温かさ。低く響く声の振動。
全てが愛おしく、かけがえのないものだった。
「グレちゃん、本当に不思議な子ね」
千鶴さんが目を細める。
「クロもそうだった。あの子は、人の心が分かる子だった。必要な時に、必要な場所にいてくれる子だったわ」
坂本さんがグレの背中を撫でる。
「この子、本当に僕を救ってくれたんです。バジルを育て始めて、人生が変わった」
坂本さんの顔は、以前とは別人のように輝いていた。隣の沙月さんも頷く。
「私も。グレちゃんがいなかったら、今の私はいなかった。自分が本当に撮りたいものを、撮れるようになった」
沙月さんは、スマホの写真を見せてくれた。
そこには、華やかな加工は一切なく、ただ、日常のありのままの光景が、温かい眼差しで切り取られている。
「もう、いいねの数なんか気にしなくなりました」
私は、みんなの顔を見回す。千鶴さん、坂本さん、沙月さん。そして、グレ。
本は、人と人を繋ぐ。猫も、人と人を繋ぐ。
「私こそ、みなさんに救われました」
私は心からの言葉を伝えた。
グレが私の手を舐めた。ざらざらした小さな舌の感触が、私を現実へと引き戻す。
その仕草が、愛おしくてたまらなかった。
***
その夜、みんなが帰った後。私は二階で祖母の古い日記を見つけた。
押し入れの奥に、埃を被った古い木箱があった。
私は箱を膝に置き、蓋を開ける。中には色あせた写真、手紙、そして一冊の分厚い日記が入っていた。
グレは、静かに私の膝に飛び乗ってきた。そして、日記の上をそっと前足で触れた。
まるで、「読んで」と促しているように。
「分かった。読むから」
グレを膝に乗せたまま、私は日記を開く。そこには、祖母の几帳面で、少し震えたような字が並んでいる。
『昭和五十年五月十五日。クロが来た。小さな灰色の子猫。雨の夜、店の裏口で鳴いていた。ずぶ濡れで、震えていた。タオルで拭いてあげたら、すぐに喉を鳴らし始めた。この子も、家族になった』
クロのことだ。グレと同じように、雨の夜に来たのだ。私はページをめくる。
『昭和五十年八月三日。クロがいるから、頑張れる。一人じゃないと思える。膝に乗ってくる重みが、こんなにも心を満たすなんて。この子は、私の一番の理解者だ』
祖母の字が、深い愛情と感謝に満ちている。
さらにページをめくる。
『平成十五年十一月一日。クロが旅立った。お墓の前で、静かに座っていた。私を見て、鳴いた。まるで「ありがとう」と言っているように。
私こそ、ありがとう。あなたがいてくれたから、私は頑張れた。
もし、またあの子のような猫が現れたら──灰色の、穏やかな瞳をした猫が──どうか温かく迎えてあげてください。きっと、その子も誰かを癒しに来たのだから』
涙が溢れた。祖母は、グレのことを予見していたのだろうか。
いや、そうじゃない。祖母は知っていたんだ。クロのような猫が、また誰かの元に現れ、その人を支えるために必要とされるかもしれないと。
それが生まれ変わりなのか、偶然の出会いなのかは、もう、どうでも良かった。
ただ、一つだけ確かなことがある。グレは、クロと同じように、私を癒し、救うために来てくれたのだ。
私は日記を閉じて、グレを抱きしめた。
「ありがとう、グレ。あなたが教えてくれたんだね。おばあちゃんと一緒に、大切なことを」
グレは私の顔に、信頼を込めたように、そっと額をつけた。
窓の外を眺める。空には星が瞬いている。夏の夜の空気の中で、星は静かに輝いていた。
グレの重み、柔らかさ。ゆっくりと繰り返される呼吸。
それは、生きている証。寄り添い合っている証。
「私たち、これからも一緒だよ」
グレは瞼を閉じて、安らかな寝息を立て続けた。
***
数日後。私は、店の看板の下に小さな札を取り付けた。
『本と人をつなぐ場所』
グレが窓辺から、私を見つめている。琥珀色の瞳が、朝日を浴びて優しく輝いていた。
その瞳は、まるで「よくやった」と言っているようだった。
その日の午後。私は、レジの横に置いてあった椅子を、カウンターの前に移動させる。お客さんが座って、ゆっくり話せるように。
私は変わろうとしていた。
数字を追うのではなく、人と向き合う。
売上を上げるのではなく、誰かの心に寄り添う。
一人で頑張るのではなく、手を差し伸べ合う。
グレが窓辺から降りて、私の足元にすり寄ってきた。
「グレ、ありがとうね」
私はグレを抱き上げた。グレは喉を鳴らし始めた。その振動が、温かい電流のように、私の胸に伝わってくる。
これが、どれほど大切なことか。
***
翌日。坂本さんが、畑で採れたばかりの野菜を持ってきてくれた。
その後、沙月さんも店を訪れた。
「栞さん、見てください。私、写真展を開くことになったんです」
チラシを見せてくれた。『日常の中の光』というタイトル。
「写真展なんて、すごいですね! 絶対、見に行きます」
「グレちゃんとあの本がなければ、私、今もいいねばかり追いかけてました」
沙月さんは、グレの頭を撫でた。グレは気持ちよさそうに瞼を閉じる。
千鶴さんも来てくれた。
「栞ちゃん、新しい看板、素敵ね」
「ありがとうございます」
「あなたのおばあさまも、きっと喜んでいるわ」
千鶴さんは、店内を見回す。
「そうだ、栞ちゃん。来月、読書会を開かない? 私、何人か誘えるわよ」
「読書会……」
「ええ。本を読んで、語り合う会。あなたのおばあさまも、昔やっていたのよ」
千鶴さんの提案に、私の心が動いた。
「ぜひ、お願いします」
「じゃあ、準備しましょう。楽しみね」
千鶴さんは嬉しそうに笑った。
みんなと話す時間が、何よりも大切だと思えるようになった。
***
ある日の夕方、一人の若い男性が店にやって来た。
疲れた顔。重そうな足取り。どこか、最初に来た頃の坂本さんに似ていた。
男性は、ぼんやりと本棚を眺めている。
その時、グレが動いた。本棚の前に座り、じっと一冊の本を見つめている。
男性がグレに気づく。
「……猫?」
グレは男性を見上げて、短く声を出した。
私は微笑む。
また、誰かの物語が始まろうとしている。
「いらっしゃいませ。この子、時々本を選ぶことがあるんですよ」
私は男性に声をかけた。
「そうなんですか」
男性は少し驚いたように、グレと本を交互に見つめている。
「良かったら、手に取ってみてください。お茶でも淹れますよ。ゆっくりしていってください」
男性は少し戸惑ったように、だけど、嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます」
男性は本を手に取り、ページをめくり始めた。
私は麦茶を淹れて、男性の前に置く。
「何か困っていることがあれば、聞きますよ」
男性は驚いたように私を見つめて、そして小さく笑った。
「実は……最近、仕事がつらくて。何のために働いているのか、分からなくなってしまって」
私は頷いた。
「そうですか。大変でしたね」
私は、ただ聞く。男性の話を。
男性は少しずつ、自分の状況を話し始めた。私は相槌を打ち、時々質問をする。
グレは男性の足元に座って、静かに見守っている。
三十分ほど話した後、男性はわずかに表情が明るくなっていた。
「話を聞いてくださって、ありがとうございました。少し、楽になりました」
「いえ。また、いつでもいらしてください」
男性は本を購入して、店を出ていった。その足取りは、来た時よりも軽やかだった。
グレが窓辺に戻り、外を眺めている。今は、墓地の方ではなく、通りを歩く人々を眺めている。
私はグレの隣に座った。
「グレ、ありがとうね。あなたがいてくれて良かった」
グレは私の方を向いて、短く声を出した。
私はグレを膝に乗せる。その重み、温かさ。喉を鳴らす音の振動。全てが、愛おしかった。
窓の外では、風が吹いている。
木々が揺れ、夏の終わりの気配が漂っている。
空を見上げると、雲の切れ間から陽の光が差し込んでいた。
まだ夏の暑さは残っているけれど、空気の中に秋の気配を感じる。
もうすぐ、秋が来る。そして冬が来て、また春が巡ってくる。祖母が好きだった桜を、来年の春はグレと一緒に見ることができる。
私は、グレの背中を撫で続ける。
店内には、静かな時間が流れている。
本のページをめくる音。グレの寝息。窓の外を通り過ぎる人々の足音。
全てが、かけがえのないものだった。
私は、この場所を守っていく。
本と人を繋ぐ場所。手を差し伸べ合う場所。一人じゃない、と思える場所。
グレは私の膝の上で、安らかに眠っている。
私はふわりと微笑む。
これから先もずっと、グレと一緒に。
私たちは、寄り添い合っている。一人じゃない。
店内には、グレの寝息が静かに響いていた。
【完】



