翌朝。目が覚めると、枕元にグレはいなかった。
 いつもなら、温かい重みがあるはずの場所が、今日は冷たい。
「グレ?」
 私はベッドから飛び起きた。店内を見回す。窓辺、本棚の間、レジの横。しかし、どこにも灰色の影はない。
 昨夜、本棚の奥に隠れたグレは、まだそこにいるのだろうか。
 本棚の奥を覗き込むが……いない。
 心臓がドクン、ドクンと早鐘を打ち始める。不安が、津波のように押し寄せてきた。
「グレ? グレ!?」
 声が大きくなるが、返事はない。静寂だけが、冷たく返ってくる。
 二階の住居スペースも、全て探したけれど、やっぱりいない。
「まさか……」
 嫌な予感がして、一階へ駆け下りる。窓は閉まっている。
 私は慌てて裏口へ向かう。
 ドアノブに手をかけた瞬間、気づいた。
 鍵がかかっていない……。
 昨夜、在庫の整理で遅くなって、裏口から段ボールを出した時──。
 鍵をかけ忘れたんだ。
「うそ……」
 声が震える。目の前が真っ暗になった。
 どうしよう……私のせいだ。私が、鍵をかけ忘れたせいで。
「グレ……どこなの……?」
 靴を履き、私は店の外へと飛び出した。

 ***

 まだ朝早く、人通りはほとんどない。空気はひんやりと湿り気を帯びていたが、走るとすぐに汗が滲んだ。
「グレ! グレッ!」
 私は必死で探し回った。路地、駐車場、公園。だけど、グレはいない。
「グレー!」
 私は、何度も声を張り上げる。喉が痛い。通りすがりの人が振り返るが、恥ずかしいという感情はもう消えていた。ただ、グレを見つけたい一心だった。
 ごめん、グレ。
 心の中で、その言葉を叫びながら、私はひたすら走り続ける。住宅街の路地を抜け、商店街を通り過ぎて、駅前へ。
「はあっ、はあっ……」
 息が上がり、足は鉛のように重い。
 もし、二度と会えなかったらどうしよう。もし、私のせいでグレが家を嫌いになっていたら……。
 一時間ほど探し続けたが、グレの姿はどこにもなかった。
 私は息を切らして、店に戻る。

 扉を開けると、朝と変わらずしんと静まり返っている。
 もしかしたら、戻ってきているかもしれないという、最後の小さな期待が、音を立てて砕けた。
 私は、糸が切れたように、店の床に崩れ落ちる。
 窓辺には、グレの毛が少し残っていた。それを震える指で手に取る。柔らかい、灰色の細い毛。
 グレは、いつもそばにいてくれた。疲れた夜、膝に乗ってきてくれた。その重みが、どれほど私を支えてくれていたか。
 それなのに私は、その存在を邪魔に感じて……冷たくしてしまった。
 昨夜も、グレが本棚の奥に隠れていた時、私は何をしていた?
 パソコンに向かって、数字を追いかけていた。
 グレを探そうともしなかった。
「ごめん……ごめんね……グレ」
 私は震える手で、スマホを手に取った。SNSを開く。
『迷い猫を探しています。灰色の雑種猫、オス、推定5歳。名前はグレ。八重樫書店付近で行方不明』
 写真を添付して、投稿する。指が震えて、何度も打ち間違えてしまった。

 動物病院にも電話し、警察にも届け出た。だけど、心のどこかで分かっていた。
 グレは、迷子になったわけじゃない。きっと、自分の意志で出て行ったのだと。
 グレは、私がもうグレを必要としていないと思ったのかもしれない。
「……っう」
 嗚咽が漏れ、涙が止まらない。
 その時、電話が鳴った。千鶴さんだった。
「栞ちゃん? お店のSNSを見たんだけど……」
「千鶴さん……グレが、いないんです……」
 声が震えて、言葉にならない。
「今すぐ行くわ」

 ***

 三十分後、千鶴さんが駆けつけてくれた。
 息を切らしながら、店に入ってくる。白い髪が少し乱れている。私の涙に濡れた顔を見て、千鶴さんは抱きしめてくれた。
「栞ちゃん……!」
「千鶴さん……私……私のせいなんです。鍵をかけ忘れて……冷たくして……」
 千鶴さんの胸に顔を埋める。温かい。
「大丈夫よ。一人で抱え込まないで」
 しばらくして、坂本さんも来てくれた。
「栞さん、SNS見ました。一緒に探しましょう」
 坂本さんは地図を広げながら言った。作業服姿だった。畑仕事の途中で来てくれたのだろう。
「僕、この辺りの地理は詳しいんです。探すべき場所、リストアップしましょう」
 坂本さんはペンを取り出し、地図に印をつけ始めた。
 沙月さんも、友人たちを連れてきてくれた。
「栞さん! 私たちも手伝います!」
 沙月さんは自転車にまたがりながら、友人たちに指示を出している。
 私は、ただ呆然と立っていた。
 みんなが、私のために動いてくれている。
 千鶴さんが私の肩に手を置いた。
「栞ちゃん、あなたは一人じゃないのよ」
 その言葉に、また涙が溢れた。
「さあ、みんなで探しましょう」

 ***

 午前中いっぱい、みんなで町中を探し回った。
 坂本さんは車で隣町まで範囲を広げ、沙月さんたちは自転車で川沿いを何度も往復した。千鶴さんは、近所を一軒一軒回って、声をかけてくれた。
 私も必死で探した。住宅街、商店街、駅前。人が集まる場所、猫が隠れそうな場所。

 見知らぬ人にも、声をかけた。
「すみません、猫を探しているんです。灰色の猫、見ませんでしたか」
 多くの人が親切に答えてくれた。
「見てないけど、気をつけて見とくわ」
「うちの庭も見ていっていいわよ」
「写真、撮らせてもらっていい? うちのLINEグループで回すから」
 人の優しさが、胸に沁みた。

 昼過ぎ。一度店に戻ると、千鶴さんが温かいスープを作って待っていてくれた。
「栞ちゃん、食べなさい。体力つけないと」
「ありがとうございます……」
 スープを口に運ぶ。野菜の味がして、美味しい。けれど、喉を通らない。
 千鶴さんが私の手を握った。
「栞ちゃん、見て。あんなにたくさんの人が、あなたのために動いてくれてる」
 窓の外では、坂本さんが地図を広げて、沙月さんたちと相談している。
「あなたね、助けてもらうことを怖がっているけど、それは決して恥ずかしいことじゃないのよ」
 千鶴さんの言葉が、熱い湯気のように胸に沁み込む。
「誰かに頼ることは、その人を信頼するということなのよ。私たちは、互いに手を差し伸べ合って生きている」
 千鶴さんの瞳に涙が浮かぶ。
「あなたやグレに助けられて、私もやっと分かったの。弱さを見せることは、強さでもあるのよ」
「……っ」
 私は千鶴さんに抱きしめられ、声を上げて泣いた。初めて、自分の心を解放した気がした。

 午後も、日が暮れるまでみんなでグレを探し続けた。けれど、夕闇が迫っても、グレは見つからなかった。
「ほんと、どこに行ったんだろう……」
 私は、涙で濡れた顔を手で覆った。
 夕暮れの空が、オレンジ色から深い青へと染まっていく。
「明日も探しましょう」
 坂本さんが、力強く言った。
「そうそう! 絶対見つかりますから!」
 沙月さんも笑顔で頷いた。
「みなさん、本当に、本当にありがとうございます」
 私は深く頭を下げた。

 みんなが帰った後、私は一人で窓辺に座った。
 グレがいつも座っていた場所。
 その視線の先には、丘の上の墓地が見える。月明かりに照らされて、墓石がぼんやりと白い影となって浮かび上がっている。
 その時、私はあることを思い出した。