『栞さん。グレちゃんが選んでくれたあの本、読みました! すごく良かったです。
著者が日本中をゆっくり歩いて旅した記録で、有名な観光地じゃなくて、田舎の小さな町とか、誰も知らない山道とか。写真も全然綺麗じゃないんです。ピントがずれていたり、構図が変だったり。なのに、なぜか心に残るんです。
私、ずっとインスタで映える写真ばかり撮ってました。いいねの数ばかり気にして……。この本を読んで思ったんです。私、何を撮っていたんだろうって。
「人は自分のペースで生きていい。誰かと競争する必要はない」って、本に書いてあって。
私、ずっと誰かの期待に応えようとしていたんです。本当に大切なのは、そうじゃない。自分が何を感じるか、何を大切にしたいか。それが一番大事なんだって気づきました。
これからは、自分が本当に撮りたいものを撮ります。ありがとうございました!』
私は画面を見つめた。グレが選んだ本が、また誰かの心を変えた。
嬉しかった。古書店経営者として、これ以上の喜びはない。
しかし、心の奥底にある複雑な気持ちは、拭い去れなかった。
七月も終わりに近づく頃、沙月さんの投稿はバズり、若い人たちが次々と店を訪れるようになった。
「グレちゃんに会いに来ました!」
「写真撮ってもいいですか?」
客足が増え、売上も上向いた。帳簿の数字が、初めて黒字を示した。
私は忙しくなった。客対応、在庫管理、SNS更新。やることが山積みになっていく。
夜、店を閉めてからも、パソコンに向かう。数字が上がっていく快感。「成功している」という実感。
この感覚は、六年前に経験したことと、あまりにも似ていた。
編集者時代、売上を追い、数字に追われ、「成果」を求め続けた日々。
あの頃の焦燥感が、形を変えて戻ってきている。
ある夜、グレが膝に乗ってきた。
いつもなら、その重みと体温に癒される。
だけど、今夜は──パソコンの画面から目が離せなかった。
「グレ、ちょっと待ってね」
私は片手でグレを撫でながら、もう片方の手でキーボードを叩き続けた。
グレの喉を鳴らす音が、いつもより小さく聞こえた。
翌日も、その翌日も、私はパソコンに向かい続けた。
グレが膝に乗ってきても、「ごめんね」と言って、作業を続ける。
グレが窓辺で墓地を眺めている時間が、少しずつ長くなっていった。
***
八月に入った。真夏の日差しが店内に強く差し込む。
客足は途絶えない。毎日、十人以上が訪れる。グレの写真を撮る人。本を買う人。ただ眺めるだけの人。
千鶴さんが、いつものように店を訪れた。
「栞ちゃん。最近、お客さん増えたわね」
「ええ、おかげさまで」
私は満面の笑みで答える。
千鶴さんは私をじっと見つめた。
「栞ちゃん、無理してない?」
「大丈夫ですよ」
即座に、作った笑顔で返すと、千鶴さんの表情が厳しくなった。
「あなた、目が笑ってないわよ」
その言葉が胸に突き刺さる。私は一瞬、息を止めた。
「栞ちゃん。最近、グレちゃんの様子が変わった気がするの。なんだか、寂しそうに見えるのよ」
千鶴さんの言葉が、胸に鋭く突き刺さる。まさか、千鶴さんに指摘されちゃうなんて。
「すいません。最近、忙しくて、つい……」
「忙しいのは分かるわ。でもね、大切なものを見失わないで」
千鶴さんは、厳しい瞳で私を見つめた。
「あなたのおばあさまはね、どんなに忙しくても、クロとの時間だけは大切にしていたわ」
その日、千鶴さんが帰る時、グレが動いた。
一冊の古い文庫本の前に座った。昭和三十年代の恋愛小説。タイトルは『七月の約束』。
グレは鼻を本に近づけ、瞼を閉じて、深く息を吸い込んだ。
「これ……」
千鶴さんの手が震えた。
「昔、読んだわ。夫と出会った頃、二人でこの本の話をしたの」
私はその本を差し出した。
「良かったら」
千鶴さんは本を受け取り、表紙を撫でた。
「もう一度、読んでみるわ。夫を思い出しながら」
千鶴さんは会計をしようとしたが、私は首を横に振った。
「これは、プレゼントです」
「栞ちゃん……」
千鶴さんは本を胸に抱いたまま、涙を拭った。
「ありがとう。あなたのおばあさまも、きっと喜んでいるわ」
千鶴さんは本を撫でながら、ふと言った。
「グレとクロ、本当によく似ているわね」
「あの……クロのこと、もっと教えていただけませんか」
私が聞くと、千鶴さんは懐かしそうに目を細めた。
「クロもね、人の心が分かる子だった。誰かが悩んでいると、その人に必要な本の前に座るの。グレとそっくりよ」
千鶴さんの声が、少し震えた。
「クロが亡くなった時、おばあさまはこう言ってたの」
千鶴さんは私の手を握った。
「『私が癒してあげてたつもりだったけど、本当は私の方が癒されていたのね』って。涙を流しながら、笑っていたわ」
その言葉が、まるで電流のように私の胸を貫いた。
私が、あの子を癒してあげていたつもりだった。
雨の夜。ずぶ濡れで震えていたグレを、私が助けてあげた。
タオルで拭いて、ご飯をあげて……違う、違う。
あの夜から、私の孤独を消してくれたのは、グレだった。
膝に乗ってきてくれた重み。喉を鳴らす振動。温かい体温。
それが、どれほど私を支えてくれていたか。
それなのに……。
先日、私はグレを邪魔に感じた。相手にしなかった。
指先が冷たくなり、息が浅くなる。
「私……」
声が震えた。
千鶴さんは続けた。
「グレはね、きっとクロと同じ役割を持って、あなたの元に来たのよ。誰かを癒すために。誰かに寄り添うために」
千鶴さんの瞳が、私を見つめる。
「大切にしてあげてね」
「はい」
***
その夜。私は、初めて自分の行いに気づいた。
グレが来てから、私は一度もグレのことを考えなかった。
グレが何を求めているのか。グレが何を思っているのか。グレは幸せなのか。
私は、自分のことばかり考えていた。
店を守ること。売上を上げること。祖母の期待に応えること。成功すること。
グレは、私のために来てくれたのに。私は、あの子に何も返せていない。
私は久しぶりにグレを膝に乗せようとした。けれど、グレは少し躊躇った。まるで、遠慮しているように。
その仕草に、胸が痛んだ。
けれど、キーボードを叩く手を止められなかった。やることが、あまりにも多すぎた。
グレは静かに窓辺へ向かった。そして、じっと外を眺め始める。丘の上の墓地の方を。
その琥珀色の瞳は、以前よりもずっと深い色に沈んでいた。
その小さな背中が、だんだんと私の心から遠ざかっていくように感じた。
***
翌朝。店を開けると、いつもより多くのお客さんが来た。
「グレちゃんに会いに来ました!」
「写真撮ってもいいですか?」
賑やかな声。スマホを向ける人々。
グレは窓辺で身を縮めていた。
いつもなら、適度な距離を保ちながらも、お客の存在を受け入れていたのに。
今日は違った。グレの体が小刻みに震えている。
「グレ?」
どうしたんだろう……。
私が近づこうとした瞬間、グレが窓から飛び降りた。
そして、本棚の奥深く、誰も手が届かない場所へ逃げ込んだ。
「あれ、猫ちゃんどこ行った?」
「もう見えないね」
お客さんたちは、残念そうに店を出ていった。
私は本棚の奥を覗き込んだ。暗闇の中で、琥珀色の瞳が光っている。
その瞳は、もう私を見ていなかった。墓地の方を、じっと見つめていた。
「グレ……」
返事はない。
その時、私は気づいた。
もしかしたらグレは、もうここにいたくないのかもしれない。
私の元に、いたくないのかもしれない。
夕方。閉店後、私はグレを探した。
「グレー?」
だが、グレは姿を現さなかった。
店内のどこかに隠れているのか、それとも──。
私は、裏口の扉を見た。雨の夜、グレが入ってきたあの扉。嫌な予感が、背筋を凍らせた。
外では、虫の声が響いている。夏の終わりを告げる、寂しい音色だった。



