六月も終わりに近づいた頃。
 グレが来てから、一ヶ月が経とうとしていた。
 あの夜から、私はグレの行動を注意深く観察するようになった。
 窓辺で墓地を眺める時の、あの深い瞳の色。特定の本の前に座る時の、祈りのような姿勢。
 千鶴さんのメッセージ──『あなたも、誰かに支えられている。気づいていないだけで、きっと、そばにいる』
 グレは、ただの猫ではない。その予感は、確信に変わりつつあった。

 ***

 ある朝、スーツ姿の男性が来店した。三十代半ばくらい。目の下に隈があり、肩は落ちている。
 彼は本棚の間をゆっくりと歩いているが、手は動かない。本を探しているというより、ただ時間をやり過ごしているように見えた。
 その時、グレが動いた。
 普段なら私以外の人には近づかないグレが、まるで何かを感じ取ったように、静かに男性の足元まで歩み寄った。
 そして、古い園芸書の前で、ぴたりと座った。
 背筋を伸ばし、尻尾を足元に巻きつけ、視線を本に固定する。琥珀色の瞳が、いつもより深い色に変わる。
 男性がグレに気づき、わずかに目を見開いた。
「……猫?」
「ニャア」
 グレは短く声を出した。男性はゆっくりと膝を曲げ、グレの目線に合わせた。張り詰めていた彼の表情が、ほんの少しだけ緩む。
「この子、その本が気になるみたいですね」
 私が声をかけると、男性は苦笑した。
「猫に選んでもらうのも、悪くないかもしれませんね」
 男性はその本を手に取った。『小さな庭の作り方』という、昭和四十年代に出版された園芸書。
 男性がページをめくると、プランターに植えられたバジルの写真で手を止めた。
「……バジル。子どもの頃、母が育てていたな」
 呟きには、懐かしさと、わずかな悲しみが混じっていた。
「良かったら、育ててみませんか?」
 私が言うと、男性は驚いたように顔を上げた。
「僕が、ですか?」
「ええ。バジルは育てやすいですよ。種を蒔いて、水をやって。一週間もすれば芽が出ます」
「でも、僕、時間がないというか、そういう余裕が……」
 男性の声は、消え入りそうだった。
「少しの時間でいいんです。朝、水をやるだけで。五分もかかりません」
 私は微笑んだ。
「朝の五分が、一日を変えることもありますから」
 男性は本を見つめ、指先でページの紙質を確かめた。そして、何かを決意したように頷いた。
「……これ、いただきます」
 会計を済ませると、男性は本を抱えて店を出た。背中は重そうだったが、本を持つ手が、どこか大切そうに見えた。
 私は嬉しかった。グレが選んだ本が、誰かの役に立った。だけど──。
 私はレジに手をついた。指先が冷たい。
 グレが窓辺で日向ぼっこをしている。満足げに瞼を閉じて。
 さっき、私は何をした? レジを打っただけだ。本を選んだのはグレ。言葉をかけたのも、ほんの一言二言。
 祖母なら、もっと深く、その人の心に寄り添えたはずだ。

 私は、この猫の力に、ただ乗っかっているだけなのではないか。

 ***

 二週間後、この間の男性客が再訪した。
 日焼けした顔、作業服姿。以前のような隈はなく、瞳に確かな光が宿っていた。
「あの……覚えていらっしゃいますか。バジルの本を」
「もちろんです」
「あれから、いろいろありまして」
 男性の名前は、坂本透といった。大手IT企業に勤めていたが、先週、退職したという。
「バジルの種を蒔いた朝、ベランダに出たら空気が違って感じたんです。土の匂い。朝の風。母が生きていた頃のことを思い出しました」
 坂本さんは深く息を吸った。
「芽が出て、葉が育って。毎朝ベランダに出るのが楽しみになって。気づいたら、仕事のことを考える時間より、植物のことを考える時間の方が長くなっていました」
私は、坂本さんの話に耳を傾ける。
「芽が出るのを待つ時間。葉が育つのを見守る時間。そういう時間が、本当は一番大事なんじゃないかって」
 坂本さんは、心から笑った。
「僕、来月から農業法人で働くことにしたんです。あの本が、背中を押してくれました。ありがとうございました」
 坂本さんは深く頭を下げて、店を後にした。彼の背中は、確かな自信と解放感に満ちていた。
 私は嬉しかった。グレが選んだ本が、誰かの人生を変えた。
 でも、心の奥底にある複雑な気持ちは、拭い去れなかった。
 グレの力で人が救われている。私の力じゃない。
 私は、祖母が持っていた「人を見抜く目」も、「心を救う言葉」も持っていない。
 ただ、グレという要素を「利用」しているだけではないかという、拭いきれない罪悪感が澱のように沈んでいた。

 ***

 七月に入ると、ある若い女性客がSNSに店の写真を投稿した。
『猫が本を選んでくれる古本屋』というキャプションとともに、グレの写真がアップされた。瞬く間に「いいね」が増えていった。
 その数は、私がこれまで試みたどの営業努力よりも圧倒的だった。

 数日後、その女性──森下沙月さんからDMが届いた。私は、メールを読み始める。