ある日の午後。グレは店内をゆっくりと歩いていた。鼻を鳴らして、本の匂いを嗅いでいる。
突然、グレの足が止まった。
古い園芸書の前。体を低くし、尻尾を真っ直ぐに伸ばす。まるで、獲物を狙う野生の猫のように。
だが、狩りの体勢ではない。これは──祈りのような姿勢だった。
「グレ?」
返事はない。琥珀色の瞳が、いつもと違う色に変わっていた。深く、暗く、まるで何かを見透かしているような──。
背筋に冷たいものが走った。
私はその本を手に取った。『都会の片隅で育てる小さな庭』。昭和五十年代の本。カバーは色褪せ、ページは黄ばんでいる。著者名を見ると、国中という苗字だった。
千鶴さんと、同じ苗字。
本を開くと、中に押し花が挟まっていた。小さな白い花。
グレは本から視線を外し、私を見上げた。そして「ニャア」と声を出すと、立ち去っていった。
それから数日後。もう一つ、不思議なことに気づいた。
時折、グレは店の窓辺に座り、外を眺めることがあった。
その視線の先には、丘の上にある墓地が見える。木々の向こうに、墓石が並んでいるのが見えた。グレの瞳は、その方向をじっと見つめている。
「外が気になるの?」
声をかけても、グレは振り向かない。瞳は深い色に変わり、遠くを見つめている。
私はグレの背中を撫でる。グレは喉を鳴らしたが、視線は墓地から離れなかった。
***
六月半ば、紫陽花が咲く頃。私は、祖母のお墓参りに行くことにした。
白い菊と、祖母が好きだった桔梗を買った。
支度をしていると、グレが足元にすり寄ってくる。いつになく甘えるような仕草で、強く体を擦りつけてくる。
その真剣な瞳を見て、私はふと思う。グレは、私がどこへ行くのか知っているのではないか?
「グレ、お留守番しててね。すぐ戻ってくるから」
私は、その瞳から逃れるように、急いで店を出た。
墓地への道は、坂道だった。初夏の日差しが強く、汗が額に滲む。
私は坂道の途中で立ち止まり、振り返る。遠くに、店が見える。小さな木造の建物。あの中に、グレがいる。
墓地に着くと、静けさに包まれた。木々が風に揺れる音だけが聞こえる。
「八重樫家之墓」と刻まれた、墓石を見つけた。
私は花を供え、手を合わせる。
「おばあちゃん。お店、頑張ってるよ。まだ上手くいってないけど、諦めないから」
風が吹いて、木々が揺れるだけ。
「グレっていう猫が来たんだ。灰色の、綺麗な猫。おばあちゃんのクロに、似てるかもしれない」
その時、祖母の墓石の隣に、石碑があることに気づいた。
『クロ』と刻まれている。
猫の石碑。クロの石碑は、祖母の墓石と並んで、まるで家族のように立っていた。
私は石碑を撫でる。石の表面は、長い年月を経て滑らかになっていた。陽の光を浴びて、温かい。
「クロ。この子が、おばあちゃんと一緒にいたんだね」
ふと、グレのことを思い出す。グレが窓辺で墓地の方を眺めていたこと。園芸書の前で見せた、あの異様な様子。
すべての点が、急に繋がりそうになる。
まさか──。グレとクロに、何か繋がりがあるのだろうか。
考えても、分からない。
私は再び手を合わせた。祖母に、クロに。
「おばあちゃん。私、頑張るね。お店を守るから」
強い風が吹いて、紫陽花が揺れた。
***
店に戻ると、グレが窓辺で待っていた。
扉を開けると、グレは床に降りて、私の足元にすり寄ってきた。いつもより甘えるような仕草で、頭を私の足に押し付けてくる。
「ただいま、グレ」
グレは「ニャア」と返事をして、私の後をついてくる。可愛いな、と思わず微笑んでしまう。
私はレジの椅子に座り、グレを膝に乗せた。グレの重み。温かさ。喉を震わせる音の振動。
グレは、私を見上げた。澄んだ瞳。深くて、穏やかな色。
「ねえ、グレ。君は、どこから来たの?」
グレは答えない。ただ、満足げに喉を鳴らし続ける。
夕暮れのオレンジ色の光が、店内を染めていく。
グレは私の膝で丸くなり、眠り始めた。規則正しい呼吸、上下する体。
私はグレの背中を撫で続けた。
***
その夜。グレが眠った後、私は一人でパソコンに向かっていた。
ふと、グレが選んだ本のことが気になった。あの園芸書。『都会の片隅で育てる小さな庭』。著者は『国中』──千鶴さんと同じ苗字。
偶然だろうか。
私は本棚から、その本を取り出した。ページをめくると、また押し花が挟まっていた。そして、本の最後のページに、小さな文字で何かが書かれているのに気づいた。
それは、本の内容とは異なる、別の書き込みだった。
『この本を手に取ってくれた方へ。
あなたは今、一人で頑張っていませんか。
私も長い間、そうでした。夫を亡くし、娘を病気で失い、生きる意味を見失いかけました。
でも、友人が私に言ってくれたのです。
「一人で抱え込まないで」と。
この本を書いた夫も、同じことを言っていました。
小さな庭は、一人では育てられない。雨が降り、太陽が照り、虫が訪れ、風が種を運ぶ。
すべてが繋がって、命が育つのだと。
あなたも、誰かに支えられている。
気づいていないだけで、きっと、そばにいる。
八重樫書店で、この本に出会ったあなたへ。
友より、心を込めて。
国中千鶴』
視界がぼやけた。
『一人で抱え込まないで』
千鶴さんが、葬儀の日に言った言葉だ。
グレが、低く鳴いた。
振り返ると、窓辺から私を見つめている。琥珀色の瞳。深くて、穏やかな色。
「そばにいる……?」
グレは瞬きをして、またゆっくりと目を閉じた。
私は本を抱きしめた。冷たいはずのページが、まるで体温を持っているように温かかった。
窓の外では、風が強く吹いている。木々が揺れ、夜の闇が深まっていく。
私は、もう一度グレの方を見つめた。
「グレ……君は、いったい何者なの?」
グレは答えない。ただ、静かに眠り続けている。
だが、私の心の中で、一つの予感が芽生え始めていた。
この猫は、ただの猫ではない。
この子はきっと、何かを伝えようとしている。でも、いったい何を──?



