五月の雨の夜、店の裏口を叩く音で振り返った。扉を開けると、ずぶ濡れの灰色の猫が座っていた。
 琥珀色の瞳で私を見上げている。
「クロ……?」
 思わず、亡くなった祖母の猫の名を呼んでいた。
まさか。クロはもう、いない。でも、この瞳の色。この毛並み。
 猫は答えず、静かに店内へ入ってくる。
 天井まで届く本棚を見回し、レジを確かめ、
まるで帰ってきた場所を確認するように──。

 この子は、いったい?

 ***

 二ヶ月前の三月の朝。雨音で目が覚めた。
葬儀場の窓を、冷たい雨が打ちつけている。
祖母の遺影が目に入った。膝に灰色の猫を抱いて、笑っている写真。
「クロ……」
 小学生の頃、夏休みにはいつも祖母の古本屋で遊んでいた。あの猫は、いつも私の隣にいた。柔らかい毛並み。琥珀色の瞳。本を読んでいると、膝に乗ってきて喉を鳴らした。

 葬儀の参列者たちが、次々と声をかけてくれる。
「おばあさんに本を薦めてもらって、救われました」
「あの本がなければ、今の私はいなかった」
 何人もの人が、涙ぐみながら祖母の話をしてくれた。何度も頭を下げて礼を言ううちに、喉が締め付けられるように苦しくなった。

「栞ちゃん、久しぶり。大きくなったわね」
 国中千鶴さんが、私の手を握った。祖母とは六十年来の友人だという、七十六歳の女性。白髪を綺麗に束ね、喪服姿でも背筋の伸びた人。
「最後にお会いしたのは、あなたが小学生の頃だったかしら」
「覚えていてくださったんですか」
「もちろんよ」
 千鶴さんは、握っている手に力を込めた。
「あなたのおばあさまは、本を通して人の心に寄り添える人だった。誰かが悩んでいる時、その人にぴったりの本を差し出せる。そんな才能を持っていたわ」
 千鶴さんの目が潤む。
「きっと、あなたもおばあさまと同じものを持っているわ。一人で抱え込まないでね」
 その言葉の意味が、私にはまだ分からなかった。

 ***

 葬儀の後、私は一人で「八重樫(やえがし)書店」に戻った。祖母が五十年営んできた古本屋。木造二階建ての、小さな店。子供の頃、夏休みになると、いつも遊びに来ていた場所。
 鍵を開けて中に入る。電気をつけると、古い紙とインクの匂いに包まれた。子供の頃から慣れ親しんだ匂い。
 天井まで届く書架が、壁一面に並んでいる。文学、歴史、哲学、詩集、絵本。祖母が一冊一冊、丁寧に選んできた本たち。
 レジの横には、祖母の老眼鏡が置かれたまま。読みかけの本も開かれたまま、淡い黄色の栞が挟まれている。
 だが、祖母はもう戻ってこない。
 棚の端に、写真立てを見つけた。祖母が笑っている写真。店内で撮られたもので、背景に本棚が写っている。祖母の膝には、灰色の猫が座っていた。クロだ。
 祖母は、心から幸せそうに微笑んでいる。
 その時、決めた。この場所を守りたい。私がこの店を継ぐ、と。

 その時、ふわりと、足元に温かい重みを感じた。
 思わず息を飲んで下を見たが、そこには何もいない。
 ただ、かすかに、古い紙の匂いに混じって、獣のような、柔らかく懐かしい匂いがした。
「クロ……?」
 窓の外で、雨が強くなっていく。雨音だけが、静かな店内に響いていた。

 翌日、私は都内の出版社に退職届を出した。
 上司の安藤さんは目を丸くした。
「八重樫さん、急にどうしたんですか」
「突然すみません。でも、もう決めたんです」
「せっかく編集者として成長してきたのに、もったいないですよ」
 もったいない。その言葉が、頭の中で何度も反響する。
 二十八歳、編集者として六年働いてきた。やりがいはあったし、充実感もあった。けれど、いつからか違和感があった。
 半年前の企画会議。私が推薦した新人作家の静かな物語は、採用されなかった。
「八重樫さん、これじゃ数字取れないよ」
 営業部長は企画書を机に置いた。
「SNSでバズる要素がない。タイトルも地味。もっとキャッチーなものを」
 求められるのは、売れる本ではなく、売れそうな本。
 祖母の店は違った。祖母は「売れる本」じゃなくて、「その人に必要な本」を届けてきた。

  数日後。居酒屋での送別会で、同期の麻衣が心配そうに言った。
「もったいないよ、栞。せっかくここまでやってきたのに」
「そうそう。古本屋なんて、今の時代厳しいよ」
 拓也の言葉は事実だった。でも、未咲が優しく微笑んでくれた。
「私は、栞が決めたことなら応援するよ」
 同期のみんなから、寄せ書きや花束をもらって、心が温かくなった。
「ありがとう。頑張るから」
 私は笑顔で答えたが、本当に大丈夫なのか、自分にも分からなかった。

 ***

 それから二ヶ月が経った。五月の半ば。
 私は、現実の重さを知った。
 客足はまばらで、一日に数人しか来ない日も珍しくなかった。売上は目標の半分以下。大型書店やネット通販には到底敵わない現実が、数字となって毎日突きつけられる。
 ある日、ついに一冊も売れなかった。開店から閉店まで、レジが一度も鳴らなかった。

 その夜、帳簿を見ながら電卓を叩く。指先が冷たく、震えていた。このままでは、半年も持たない。
 私は、祖母の遺した帳簿を見返す。几帳面な字で、毎日の売上が記録されている。昭和、平成、令和。時代が変わっても、祖母は毎日この帳簿に向かっていた。
 祖母の時代も決して楽ではなかったはずだ。それでも店が続いたのは、なぜだろう?
 私は、営業戦略を練った。SNSのアカウントを作り、イベントを企画した。チラシを作って、近所に配った。
 それでも「いいね」はほとんどつかず、イベントの参加者は数人だけ。虚しい努力だけが、積み重なっていくように感じた。
「頑張らなければ」
「祖母の店を潰すわけにはいかない」
 そう、自分に言い聞かせ、歯を食いしばる。
 夜、一人で店番をしていると、孤独と不安で胸が張り裂けそうになった。涙腺が熱くなるが、すぐに首を横に振る。泣いている暇はない。
 パソコンを開き、売上データを分析する。どの本が動いているか、どの本が滞留しているか。在庫を整理し、仕入れを検討する。
 気づけば深夜一時。目が霞んで、頭が割れそうに痛かった。

 ***

 千鶴さんは週に一度、店を訪れてくれた。
 ある日の午後、千鶴さんは詩集のコーナで立ち止まった。
「これ、懐かしいわ。昭和の詩人の作品。おばあさまに薦められたの。私が恋に破れて泣いていた時にね」
 千鶴さんは本を閉じて、私を見つめた。
「ねえ、栞ちゃん。無理してない?」
「大丈夫です。順調ですよ」
 精一杯の笑顔を作って答える。
 千鶴さんは、少し悲しそうな表情を浮かべた。
「あなた、おばあさまに似ているわね。あの人も、いつも笑顔で『大丈夫』って言うの。本当は、一人で抱え込んでいたのに」
 千鶴さんは私の肩にそっと手を置いた。
「あなたのおばあさまは、一人で頑張る人じゃなかった。いつも誰かに支えられて、誰かを支えていたのよ」
 千鶴さんは穏やかに微笑んで、店を後にした。
 一人残された私は、レジの前に座り込む。千鶴さんの言葉が、頭の中で繰り返されていた。

 ***

 五月の終わり、雨の夜。店じまいをしていると、裏口から音が聞こえた。
 カリカリと、何かが扉を引っ掻く音。雨音に混じって、か細い声も聞こえる。
 扉を開けると、ずぶ濡れの灰色の猫が座っていた。
 琥珀色の瞳で私を見上げている。濡れた毛は体に張り付き、体が小刻みに震えていた。
「クロ……?」
 思わず、亡くなった祖母の猫の名を呼んでいた。
 まさか。クロはもう、いない。でも、この瞳の色。この毛並み。
「寒かったね。入る?」
 猫は答えず、静かに店内へ入ってくる。静かに。濡れた足跡を残しながら。

 店内に入った猫は、周囲を見回した。本棚を、レジを、窓辺を。その動きは、初めて来た場所を探索する様子ではなく、どこか懐かしいものを確かめているようだった。
 そして、その琥珀色の瞳は、真っ直ぐ私を見つめ返してくる。
 私の孤独と不安を、すべて見透かしているかのように。
 私はタオルを持ってきて、猫の体を拭く。灰色の毛は、乾くとふわりと柔らかかった。
「君、名前は……? 首輪もないね」
 猫の頭を撫でた瞬間、喉の奥が熱くなった。
 いつから、誰かの温もりに触れていなかっただろう。
 猫は瞼を閉じて、喉を震わせ始めた。その振動が、手のひらに伝わってくる。

 その夜、猫は店に留まった。窓辺のクッションに丸くなり、眠り始めた。だが私は、ある違和感に気づいていた。
 この猫の歩き方。本棚を見る目線。まるで、この店を「知っている」ように見えたのだ。

 ***

 翌朝、猫を動物病院へ連れて行った。
「健康状態は良好ですね。推定五歳くらいのオス猫です」
 獣医の木村先生が言った。
「マイクロチップは入っていませんね。首輪の跡もない。人懐っこい子ですね。誰かが大切にしていた子ですよ」
「そうですか……」
「飼い主を探しますか? それとも、保護されますか?」
 私は猫を見つめた。琥珀色の瞳が、視線を返してくる。
「……保護します」
 迷いはなかった。
「そうですか。では、ワクチン接種と健康診断をしておきましょう」
 木村先生は笑った。

 会計を済ませて外に出ると、雨は上がっていた。空には薄い青が広がっている。
 キャリーケースの中で、猫が「ニャア」と声を出した。
「ねえ。グレ、って呼んでいい? 灰色だから、グレ」
 猫は瞼を閉じた。それは、了承の合図のように見えた。

 ***

 それから、グレは店に住み着いた。
 午後、陽の光が差し込む窓辺に座って日向ぼっこをする。私が本棚の整理をしていると、足元で座って見守っている。でも、決して邪魔はしない。ただ、そばにいる。
 三日目の朝、グレが私の膝に飛び乗ってきた。丸くなり、低い音を響かせ始める。その振動が、膝に伝わってくる。
 グレの重み。体温。振動。それがどれほど心地よいか。
 私はグレの頭を撫でる。
 編集者時代、こんな風に「何もしない時間」を持ったことがあっただろうか。
 あの頃は、いつも何かに追われていた。締め切り、企画会議、営業との打ち合わせ、著者との連絡。
 今、この瞬間は、何もしていない。グレを撫でているだけ。それだけで、心が満たされていく。

 ***

 グレが来てから一週間が経った頃、私は不思議なことに気づいた。
 グレは時々、特定の本の前に座り込むのだ。