~数年後~

 
 スタジオの空気は、朝から張り詰めていた。
 床を踏みしめる音、スタッフの声、照明の明滅。すべてが本番さながらの緊張を孕んでいる。

「ひなと、次のフォーメーションは左から三歩目でブリッジング。マーク通りに動ける?」

 大和さんの低く落ち着いた声が、すぐ隣から響いた。
 その声を聞くだけで、少しだけ心が落ち着く。けれど、鼓動の高鳴りは隠せない。

「はい! でも……ラスボスと被らないか、ちょっと怖いです。距離感が難しくて」
「大丈夫、俺がセーフティで確認するから。倒れた瞬間に、顔や手に当たらないように意識して」

 その一言に、胸の奥の緊張がすっと溶けた。
 あの日、初めて「信じてる」と言ってくれた声と同じ響きだ。

「肩で受け止める感じですか?」
「そうそう」

 合図とともに、床を蹴る音が重なった。
 音響も照明もまだ入っていないのに、空気が一瞬で“戦い”に変わった。

 舞台の上で、二本の刀が閃光のように交錯する。空気が裂け、微かな埃が光を反射して舞った。
 大和さんの剣が重く振り下ろされる。その瞬間、体が自然に反応し、俺は捻りながらかわす。

 足裏から伝わる板の軋み。息を呑む静寂。そのすべてが、俺たちの動きの一部になっていく。

『貴様、ヴァルヌス様に刃向うというのか?』

 シルフが他の悪役たちに詰め寄られ、刀と刀がぶつかり合う。

『人間の命を奪うのは、私の意志ではない!』

 台詞音響に合わせて、俺は血振りの動作をした。

 数ミリのズレが命取りになる緊迫の中で、互いの呼吸を読み合い、重心を感じ取り、視線で意思を交わす。
 それは、ただの技術ではなく――時間をかけて深まった信頼そのものだった。

『ヴァルヌスに従い、人々の魂を奪うことに迷いはないのか!?』

 龍の叫びに合わせ、俺は空中で体をひねり、蹴りを放つ。
 瞬間、大和さんの剣が片腕でそれを受け止め、切り返す。
 壮絶な山場を迎え、致命傷を喰らったシルフが龍の腕の中で懇願する。

『ブレイヴ・ライダー龍、私に人間の心があるうちに……私の命を奪って……』

 大和さんが留めの一撃を喰らわせた。それに合わせて、俺は腕の中で息絶える。
 全身の毛穴が一斉に開くような感覚。息が詰まりそうなほどの緊張の中でも、どこか心地いい。
 
 この距離、この危うさ、この呼吸の重なり。
 それが、俺たちだけの世界だった。

「オーケー! リハ通し完了、ふたりとも完璧!」

 アクション監督の声が響いて、俺たちは同時に息を吐き、刀を下ろす。

「怖くなかったか?」

 低い声が耳元に届く。
 汗に濡れた頬をぬぐいながら、思わず笑った。

「っはぁ〜〜! 生きてる心地しなかったです!!」

 その勢いでへたり込むと、大和さんが苦笑いしながら、スポドリを放ってよこす。

「ひなと、俺まで焦るだろ。どんだけ跳ぶんだよ」
「だって、熱くなっちゃって!」

 大和さんも笑いながらヘルメットを床に置く。
 その笑顔を見るだけで、疲労が一瞬で消える。
 ヴァルヌスの部下役を演じる先輩アクターたちに、俺は額を小突かれた。

「動き、キレすぎだぞお前らー!」
「リハであのテンション出すなよ!」

 照れ笑いすると、大和さんも困ったように微笑みながら俺の身体を起こしてくれた。

「でも、動き良かった。空中のタイミングも、完璧だったし」
「ほんとですか!? じゃあ本番でも――」
「ダメだ。あれは俺たちのリハ専用のアレンジ」
「ははっ、ですよねぇ〜」

 近くにいた真柴さんが、俺達の頭にバサッとタオルを被せた。

「まったく……お熱いねぇー。 そういうのは、家でやってくんない?」
「は? ちゃんとリハ通したろ。見てなかったのか?」
「お前ら、お互いの命狙いながらイチャついてんだよ。俺から見たら」

 周囲から笑い声が上がる。
 俺と大和さんの交際は、今やカンパニーの中でも公然の事実として知られていた。

 あのワークショップで大和さんと出会い、大学を卒業した俺は、「ブレイヴシャイン・カンパニー」に正式なスーツアクターとして入団した。

 最初の頃は、立ち方ひとつとっても注意されっぱなしだった。
 重心の置き方、拳の角度、視線の高さ――何もかもが素人。稽古場では、ひたすら「基礎」に戻される日々。
 ストレッチ、受け身、ステップワーク、フォームの確認。それでも、舞台で動ける体を作るため、毎日限界まで自分を追い込んだ。

 そんなある日、〈初代シルフ〉を演じていた朝倉さんが結婚と妊娠を機に、現役を引退した。ヴァルヌスの右腕という重要な悪役キャラだし、誰もが「シルフは朝倉さんじゃないと」と口を揃えるほど、絶対的な存在だったからこそ、大きな痛手だった。
 
 その座を継ぐよう、代表に指名されたときは正直、恐ろしくて「絶対に無理です、出来ません」と何度も俺は答えた。
 けれど、大和さんは俺を見て、ただ一言だけ言った。

 “ひなとなら、出来る”

 だけど、それからの一年は、まさに地獄だった。
 朝倉さんの映像を何十回も見返し、女性らしい所作や重心の流れ、腕の振り幅、動きの癖まで徹底的に研究した。
 失敗すれば夜遅くまでやり直し、痛みも疲労も日常の一部になっていた。

 そして今、二十四歳になった俺は〈二代目シルフ〉として、悪役を演じている。
 大和さん演じる“龍”と、真柴さんの“ヴァルヌス”と同じ舞台に立ちながら――あの日のワークショップで胸を高鳴らせた自分を、少しだけ誇らしく思えるほどに。


 ***


 全国巡業を締めくくる一大イベント「ブレイブライダー龍・スーパーライブ」が大成功で幕を下ろした夜。
 カンパニーの面々は、恒例の打ち上げに集まっていた。
 テーブルにはアクター陣、スーツメンテ担当、演出助手、カンパニースタッフまでずらりと揃い、笑い声とグラスのぶつかる音が絶えない。
 各々の表情は達成感で輝いていた。

「それでは! 本日の立役者、ひなとの大成功を祝して乾杯ー!」

 俺は、大和さんの隣で少し緊張しながら座っていた。
 昼間、俺は大和さん演じる〈龍〉と戦った悪役幹部シルフとして、公演で大歓声を浴びたばかりだ。
 まだ興奮が冷めやらず、手元のグラスを無意識に回しながら、笑顔を作るのに必死だった。

「いやー、ひなとくん、最初にワークショップに来たときは、もやしみたいだったのになぁ!」

 周囲のベテラン陣の冗談に、スタッフ達が大爆笑する。

「も、もやしですか……!」
「でも、確かにそうだった。 最初の頃は怪我ばっかりだったし、俺も心配してたよ」

 大和さんは優しく笑い、皆から見えないように、さりげなく俺の手をテーブルの下で握った。
 その温もりだけで、緊張と疲れがふっとほどける。

「ホントにな。今年のシルフ、人気すごかったぞ! 客席に“シルフ推しうちわ”の人も居たし!」
「見た見た! SNSでも“堕ちても美しいシルフ様”って呟かれてたし」
「最後の撮影会でもすごかったよ。 “悪役なのに泣けた”って感想ばっかりで」
「俺なんか“中の人って女性なんですか?”って、親子に聞かれたよ。ウチは基本、演者の名前を出さないんですーって断ったけど」

 次々に贈られる讃辞に、俺は両手を軽く振って恐縮する。

「そ、そんな……! 皆さんの支えがあってこそです」

 真柴さんがジョッキを掲げ、からかうように笑う。

「いやぁ、でもマジで成長したよな。“ラスボスの部下役”でここまで魅せられるの、なかなか居ないぜ。正直、立ち回り中に視線持っていかれたもん」

 それを聞いた大和さんは、俺を見つめて頭を撫でながら言った。

「ひなとの、動きの芯が安定してきたんだ。受けの重心がずれないと、攻撃する時こっちも安心する」

「ほら出た、“藤堂講師”の真面目コメント〜!」

 再び笑いが起きる。大和さんは少し照れくさそうに笑い、ビールを飲み干した。

「握手会に来てたファンが、今や龍と並ぶ人気キャラだ! 藤堂も鼻が高いだろ?」
「……ああ、誇らしいよ。もう誰に見られても恥ずかしくない“相棒”だから」

 大和さんが少し照れくさそうに微笑む。隣に座る俺は、無言で手を握り返した。

「うわー、あっちぃ」

 それを見つけた真柴さんが俺達を指差し、ニヤリとテーブルの下で俺の脚を軽く爪先でつつく。
 大和さんは眉をひそめ、低く釘を刺した。

「おい、真柴。ひなとに触んな」

 そのやり取りに、酔った監督たちは「真柴、藤堂、お前らここで最終決戦すんなよ!」と大爆笑していた。
 俺は、手元のグラスを見つめながらも、胸の奥にじんわりと温かい余韻を感じる。
 大和さんと隣り合わせで笑い、冗談を交わし、支え合った時間のすべてが、今夜の輝きに溶けている。
 あたたかで幸せな、笑いと祝福の中、俺は小さく息をついた。


***


 夜も更け、宴会の喧騒が遠くなる頃、俺たちはタクシーに乗り込み、同棲しているアパートへと向かった。
 車内で大和さんは隣で少し肩を伸ばし、窓の外を眺めている。
 俺は隣で、今日の舞台や打ち上げでの出来事を思い返しながら、自然と笑みが浮かんでいた。

「今日のシルフ役、過去一で輝いてた」

 大和さんがぽつりと言う。その声に、胸がじんわり熱くなる。

「ありがとうございます。大和さんが、本気で龍を演じてくれたお陰です」

 視線を横に向けると、少し恥ずかしそうに微笑む大和さんの横顔。
 手元を見ると、そっと自分の手に触れる指先。握り返すと、柔らかい力で返される感触に思わず息を呑む。

「……ひなとの成長を、今日は改めて感じたよ」

 その言葉に、思わず顔が熱くなる。少しの沈黙の後、車はアパート前に着いた。
 
 静かに階段を上がり、二人で部屋に入ると、大和さんが軽やかにドアを閉める。
 そのまま、玄関のシュークロークの扉に俺の肩を押し付けるようにして、大和さんが体を寄せた。
 そっと両手首をつかまれ、俺の顔の横で優しく固定する。

「大和さん、鍵……」

 俺の言葉にため息をついて、両手首を大和さんが片手でまとめあげる。
 普段は決して見せない、余裕のない表情を浮かべて、面倒くさそうに鍵をかけた。

「やっと帰って来られた。 おかえり、って言って」
「……おかえりなさい」

 息が重なり、近くにいるだけで胸の奥が熱くなる。

「……ただいま」

 その言葉の後、唇が触れた。いつもより温かく感じる大和さんの体温に、心臓が跳ねる。
 甘くて、落ち着いた距離感――それだけで幸せな、二人の世界に浸れる瞬間だった。

「掴まってて」

 次の瞬間、俺は持ち上げられ、全身が大和さんの腕に預けられる。
 脚は宙に浮いて、体の重みはすべて大和さんが支えてくれる。
 胸に触れる胸板のぬくもりに、思わず小さく息を漏らす。

「……過激ファンサだ」
「悪役は舞台の上だけ。家に帰ったら、恋人はお姫様扱いしたいもんなの。俺は」

 腕を首筋に回すと、自然に体が密着し、全身で抱きしめられている感覚が胸を満たす。
 廊下の先からソファまでの距離は短いはずなのに、心臓は高鳴りっぱなしだ。
 ソファに着くと、大和さんはそっと俺を下ろし、膝の上に座らせた。

「ひなと」

 大和さんが自分の手をそっと差し出し、指先が触れ合う。
 そっと握り返すと、大和さんが俺の頬に手を添える。
 自然と顔が近づき、唇が触れる。軽く、柔らかいキス。

「……足りないので、もう一回してください」

「うわ、やられた……。ずるいぞマジで」

 微笑む大和さん。頬が熱くなるが、安心感も同時に押し寄せる。
 ちゅ、と軽いくちづけから、少しだけ押し付け合うようなキスになる。
 その気持ち応えるように手を握り返すと、頭を撫でられて、心の中は幸せで満たされた。

「……明日は休みだけど、週明けにはショーも入ってる。頑張ろうな」

「はいっ! 昼夜公演、何回でも倒して下さい」

「覚悟しておけよ。俺は全力で行くからな?」

 大和さんの声は低く、でも楽しそうで、甘く響く。
 その柔らかい笑顔に、膝の上で体を寄せるだけで、心が満たされる。
 夜の静かな部屋には、二人だけの甘い空気が流れ、未来への期待がそっと揺れていた。

 今日という日も、
 これからも、何度も、何度でも、


 俺は、大和さんに倒されたい。




 fin.