ワークショップ最終日。
 スタジオには、これまで練習してきた成果を発表する「ミニショー」の舞台が用意されていた。

 参加者全員が自分の役を演じる形式で、照明や音響まで整っている本格的な舞台。
 今までの練習とはまったく違う、本番さながらの雰囲気。
 胸の奥が小さく高鳴り、自然と背筋が伸びる。照明が少しずつ点灯し、低い重厚な音が音響機器から流れ始めた。

 周囲を見渡すと、緊張で硬くなっている参加者の表情や、深呼吸を繰り返す姿が目に入る。
 俺も負けてはいられない、と心の中で拳を握る。
 しかし正直に言えば、心臓はバクバクして手のひらまで汗でじっとりと濡れていた。

 俺の役は、朝倉さんという女性アクターが演じる悪役の部下、〈シルフ〉。
 元々は人間だったが、真柴さん演じる〈ヴァルヌス〉に騙され、ダークサイドに堕ちてしまった存在。
 心の奥底では「元の自分を取り戻したい」と願いながらも、悪の命令に従い殺戮を繰り返す。
 そしてクライマックスでは、大和さん演じる龍に「人間の心を持ったまま死にたい」と願いながら討たれる。
 感情を込める必要があるラストシーンは、今日の自分にとって最大の山場だった。

 スニーカーの紐をきつく結び直していると、楽屋入り直前の大和さんが俺の腕を軽く掴んだ。

「大和さん……」

 目を合わせると、優しい微笑みとともに言葉をくれる。

「ごめんね、打ち合わせがあって全然声かけられなかった。……ひなと君なら大丈夫。全力で俺を討ちに来てね」

 その眼差しには、龍としての凛々しさと、確かな信頼があった。

「はいっ。よろしくお願いします」

 緊張で荒れていた心の波が、凪になる。

『それでは、ミニライブ形式の本番を行います!』

 シオリさんの声と共に龍のテーマソングが大きな音量で流れ、照明がステージを照らした。
 スーツにヘルメットを着けた大和さんが颯爽と現れて、ポーズを決める。

 龍を追い詰めるように俺と先輩アクターが剣を向け、腕を払いのける、避ける……これまでの練習で身につけたすべてを動員する。
 全てが計算されていて、大和さんの演技には何一つ無駄がない。
 プロとして手加減はしてくれているけれど、妥協は一切感じさせなくて、俺もこの期間中に学んだすべての知識と技術を、フルで出し切る。

 そしてついに、ラストシーン。
 大和さん演じる龍が、俺に近づく。もうとっくに息切れしていて、胸が苦しい。全身の力を振り絞り、感情を込めて身体の動きを台詞に合わせた。

『人間の心があるうちに……私の命を奪って……』

 大和さんは柔らかく、でも確実に剣を振るい、俺を討つ。
 マットに倒れる瞬間、全身に鳥肌が立った。
 汗と疲労が全身を包むけれど、心は不思議なほど澄み渡っていた。

 静かな間のあと、拍手が湧き上がる。仲間もスタッフも、皆が笑顔で拍手を送ってくれる。
 その中で、大和さんは静かに立ち上がり、俺の肩に軽く手を置いた。

「最高だった。よくやったな」

 その言葉だけで、涙が出そうになる。

「ありがとうございました……!」

 達成感と、胸の奥に秘めていた想いが一気に溢れ出す。
 笑顔と涙を浮かべる仲間たちとスタッフに囲まれ、ワークショップは幕を閉じた。


 ***


 盛大な打ち上げの最後に、ワークショップの参加者とカンパニースタッフの全員で集合写真を撮影した。
 俺は山内くん、川合くんと連絡先を交換して、今度は三人で龍のショーを観に行く約束をして別れた。

 参加者たちが帰宅していくのを、スタッフたちが見送る中で、俺は大和さんの姿を探していた。

「おい、ひなと」

「……真柴さん」

 近づいてくる真柴さんに、咄嗟に警戒心が湧く。
 けれど、真柴さんは俺の表情を見て、肩を震わせて吹き出した。

「悪かったよ。そんな警戒させるほどお前をオモチャにしちゃって。……大和なら、さっき楽屋に戻ってたぞ」

「……本当ですか?」

 その言葉に、胸の奥がきゅっと痛む。
 ちゃんと、さよならの挨拶も出来ないまま突然終わりを告げられたようで、急に虚しさが押し寄せる。
 もう関係者じゃないし、あの建物には入ることが出来ない。
 こんな形で、大和さんと別れることになるのは想像していなかった。

「捨て犬みたいな顔すんな。 一緒に来い、俺のパスでロック解除してやるから」
 
 “一緒に”という言葉が引っかかって、俺が露骨に眉間に皺を寄せると、真柴さんは苦笑いして言った。

「安心しろって。何もしないし、連れ込まないから」

 その言葉を信じて、真柴さんの後ろをついていく。
 
「……大和に気持ちは伝えた?」

「えっと……正確には、伝えるより先にバレて……断られたと言うか……」

 俺の言葉に真柴さんは目を丸くして、深いため息をついた。

「何やってんのかねぇ、アイツ。カッコつけちゃってさ。流石、ヒーロー様だ」

「それってどういうことですか?」

「……君との別れが耐え難くて先に帰ったんだと思うよ」

 真柴さんの言葉に、頭が真っ白になる。
 嘘か本当かどうかは、分からない。
 でも今は、その言葉を信じたい――そうであってほしい、と願ってしまった。

「これは俺とお前の秘密。悪役同盟の絆だ」

 そう言うと、真柴さんは建物の入り口にパスをかざす。
 ピピッと音が鳴り、ロックが解除された。

「俺らのモットーは『転んでも何度だって立ち上がること』だよ。それは龍も、悪役も、俺たちアクターの精神にも通じること」

「真柴さん、ありがとうございます! すごく意地悪だけど、嫌いじゃないです!」

「おい、一言多いぞ」

 笑いながらも、俺は足早に大和さんの楽屋に向かう。
 どうしても、離れる前に伝えたい想いがあった。

 廊下の角を曲がる前に深呼吸をひとつ。
 胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、恐る恐るドアの前に立つ。
 ノックする手がわずかに震える。指先に伝わる扉の感触に、心臓が跳ねる。

「ひなと君……」

 ドアを開けた大和さんが、驚いた表情で立ち尽くす。

「あのっ、急に押しかけてごめんなさい。どうしても最後に伝えたいことがあって……」

 周囲を確認するように廊下を見渡して、大和さんは俺を楽屋に入れてくれた。
 緊張したけれど、気持ちをちゃんと伝えようと決めて、俺は唇にきゅっと力を込めた。
 向き直って、深々と頭を下げる。

「短い間でしたけど、本当にありがとうございました」

 緊張で声が震えないよう、ゆっくりと口を動かして言葉にする。

「……夢が叶った感想は?」

 大和さんが俺を見下ろして、その言葉の続きを待ってる。
 俺は一度深呼吸し、笑みを浮かべながら答えた。

「最高でした。大和さんが本気でぶつかってきてくれて、嬉しかったです」

 一瞬の沈黙。心臓の鼓動が耳まで響くように感じる。
 次にいつ会えるか分からないのなら、精一杯、自分の気持ちを伝えたい。

「……なら良かった。ひなと君、なんだか初日より頼もしくなったね」
「そうですか? だとしたら、このワークショップのおかげです」

 笑ってみせるも、大和さんの視線がどこか遠く、いつもとは違う色を帯びている。
 何か様子がおかしい。

「大和さん?」

「もう終わったのに、なんで帰らないでここに来たの?」

 大和さんはドアに片手をつき、もう片方の手で壁際に立つ俺の肩を軽く押さえる。

「えっと……それは」

 自然と体が壁に挟まれ、逃げ場のない狭い空間に閉じ込められた。
 俺を見下ろす形で大和さんが近づき、胸の奥に熱が流れ込む。
 鼓動が早くなるのを感じながら、意識せずとも背筋がピンと伸びる。
 胸の奥が張り裂けそうで、咄嗟に大きな声で言った。

「あの! 実は、新しい夢が出来ちゃったんです!」

 大和さんは目を丸くして、すぐに穏やかに聞き返した。

「新しい夢……?」
「次は、俺が大和さんを倒したいんです!」

 口に出した瞬間、時間が止まったように感じた。
 息を飲む音さえも大きく響く。

「それは、物理的に……悪役として?」
「恋愛的にです!」

 咄嗟に大声になり、赤面して言葉を引っ込めることはできなかった。
 胸の奥が熱く、動悸が止まらない。
 大和さんは一瞬、目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑む。

「今はまだ大和さんに好きになってもらえなくても、絶対に振り向かせます!
 誰よりもかっこいいスーツアクターになって、今度は恋愛的に、あなたを倒します!」

 馬鹿みたいに、熱烈な告白。目の前で、大和さんは固まっている。
 キモいって思われたらどうしよう。心の中で叫ぶが、もう時間は巻き戻せない。

「……それなら、もうとっくに白旗かな」

 大和さんは苦笑しながら、ゆっくり手を伸ばす。
 その手が頭に触れた瞬間、全身がビリッと痺れる。
 指先の温かさ、髪をかき上げる柔らかさ……身体がどんどん熱を帯びる。

「俺の方が先に諦めてたよ。プロとして一線を引かなきゃとか……この気持ちはなかったことにしようって」

 優しい声。耳元で囁かれるように、心がふわりと浮かぶ。
 視線が重なる。大和さんの瞳は、ヒーローとしての鋭さがなく、柔らかく温かい。
 そこに映る自分を、逃さず見つめられているようで、息が詰まる。

「……ひなと君」

 呼びかけに体がぴくりと震える。

「好きだ。 君にすごく惹かれてる」

 短く、でも確実に響くその言葉。
 胸の奥が熱く、目頭も熱くなる。顔を覆う手をゆっくり下ろすと、視界の中心にあるのは、大和さんの表情だけ。
 ゆっくりと距離が詰まり、互いの息遣いを感じる。全ての時間が止まったかのように濃密な空間だ。

「俺も、大和さんのことが――」

 小さな声で告白しようとした瞬間、俺を腕の中で閉じ込めるように壁へ押し付けたまま、大和さんの唇がそっと触れた。

 唇が離れたと思ったら、また軽く重なり、一度だけ下唇を()まれる。
 ゆっくり瞼を上げると、そこにはこれまで見たことのない、余裕の無さそうな大和さんの表情があった。
 顔は熱く、呼吸は荒くなる。心臓が跳ね、全身の感覚が研ぎ澄まされるようだった。

「っ……倒す前に、本当に倒れちゃいそうです……」

 手で顔を覆うと、大和さんは思わず吹き出し、低く柔らかく笑った。
 目を細めて微笑むその表情に、胸の奥が締めつけられる。
 全身の力が抜け、立っているのが精いっぱいの感覚。

「……これからも、俺に本気でぶつかってくれる?」

 頷くと、自然に力が入る。
 これからの関係は、舞台だけでなく、俺と大和さんの間でも続いていくんだ。
 互いの気持ちを確認し合ったこの瞬間、世界が少しだけ輝きを増したようだった。

 楽屋の静寂の中、二人だけの時間はまだ終わらない。
 身体は疲れていても、心は熱く、未来への期待で満ちている。

「ふ、不束者(ふつつかもの)ですが、よろしくお願いしますっ!」

 大和さんは微笑み、軽く頷き、腕を差し伸べてくれる。
 俺がその手を取ると、自然に強く抱きしめられた。
 その暖かい腕の中には、これからのすべてを約束してくれるかのような、圧倒的な包容力があった。

 しばらく抱き合ったまま、互いの呼吸を感じていると、大和さんがまた顔を近づけてきた。

「……ごめんね、帰してあげる前に、もう一回だけさせて?」

 そして、もう一度、唇が重なる。軽く、確かに触れるその感触は、温かくて、柔らかくて、全身の熱をさらに引き立てた。
 唇を離した後も、俺の胸にはじんわりと余韻が残り、心臓はまだ高鳴っている。

 この時間、感覚、距離のすべてが、ずっと続けばいいのに――と願わずにはいられなかった。