ワークショップ二日目。
筋肉痛でガタガタの足を引きずりながら、俺はまたスタジオに立っていた。
昨日、自分がスマホにメモした改善点を眺めていると、扉の向こうから大和さん達が現れた。
「おはよう、ひなと君」
柔らかい声に、思わず立ち止まる。
「おはようございます……」
小さく会釈すると、大和さんはにこっと笑った。
「今日は、ペアで立ち回りの基礎をやるぞー!」
真柴さんが明るく声を張る。その隣で大和さんは腕を組み、全体を見渡していた。
ただの黒いジャージにタオルを首から下げた姿なのに、佇まいはヒーローそのものだ。
「はい、じゃあ最初は……ひなと君と俺でいこうか」
「えっ!?」
一瞬、耳を疑った。俺が、大和さんと……ペア!?
スタジオの空気が少しざわめく。
真柴さんがニヤリと笑って「お前が組みたいだけだろ」と茶化した。
「他のみんなだと、身長差があって危ないから。俺がリードするよ」
大和さんが手で軽く合図し、立ち位置に誘導する。
目の前に立っただけで、空気がピリッとする。
背の高さの違いで、顔を上げなきゃ目が合わない。
でも、俺を見るその目が――やさしくて、熱くて、俺の全身が固まった。
「じゃあ、簡単なパンチと回避から。俺が攻撃するから、教えられた通りに避けてね」
「は、はいっ!」
ごくりと唾を飲むけれど、構えた腕が微かに震える。
目の前で、憧れのヒーローが本気で拳を構えてる。
「集中して」
スッ、と風を切る音。
次の瞬間、頬のすぐ横を拳が通り過ぎた。避けたはずなのに、頬に風が当たる。
でも、不思議と怖くない。
大和さんは視線で俺の動きを追いながら、微かに口角を上げる。
「いいよ、その調子。力まずに、流れで動いて」
その声に、体が少しずつ動きを覚えていくのを感じた。
昨日よりも確実に、俺の体が動きに反応している。
次の攻撃、次の回避。全てが大和さんと通じ合っているような気がした。
「今の、いい反応だ。じゃあ次、もう少し距離を詰めて」
言われた瞬間、胸の前に手が迫ってくる気配を感じた。
本当に当たりそうなのが怖くて、思わず後ろに下がろうとしたけれど、足がもつれて体勢を崩してしまう。
「うわっ!」
背中がマットに沈み、そのまま視界が少し歪む。
次の瞬間には、大和さんが俺の後頭部を守るように手を添えて、上に覆いかぶさっていた。
片腕を支えにしたその体勢で、顔が近い。汗の匂い、熱、息づかい――全てが押し寄せて、心臓が暴れ出す。
「だ、大丈夫だった?……ごめん、ちょっと速かったかな」
声が耳元に響く。マットの上に仰向けになったまま、震える声を返すしかなかった。
「ひゃ、は、はい……」
視界いっぱいに、大和さんの顔。
額に光る汗、真剣な瞳、そしてその唇の動きまで、鮮明に見える。
「起こしてあげる」
その声で、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。息が止まり、体の芯まで熱を帯びた。
すぐに大和さんが肩を支えてくれて、差し出された手を握るだけで、全身がふわっと軽くなるような感覚。
「あ、ありがとうございます」
「動きは悪くなかった。あと、何て言えばいいのかな……俊敏?」
「え?」
「動きが速くて、小回りがきくってこと。そういう悪役がいると、ヒーローの動きも生きるんだよ」
褒められた瞬間、自己肯定感が爆上がりする。
もっと、大和さんに褒められたい。認めてほしい。
――俺、もっと頑張ろう。絶対、上達したい。
そんな気持ちで、その後は他の参加者の立ち回りを見つめていた。
実践だけじゃなくて、他の人の動きを観察するのも勉強になる。
どんなタイミングで踏み込むのか、どうやって回避しているのか。一つひとつを頭の中で反芻する。
気づいたことはメモを取り、時には「ちょっと撮ってくれる?」と動画を頼まれてスマホを構えることもあった。
少しずつ、ワークショップ全体の士気が上がっているような気がした。
そんな空気を読んだように、腕を組んで様子を見守っていた真柴さんが前に出てきた。
「じゃあ次。悪役のスーツアクターに来てもらってるから、“魅せる殺陣”を教えるよ。みんなまたペアになってね」
その声には、ほんの少し挑発的な響きが混ざっている。
俺の前でしゃがみ込み、目をじっと合わせてくる真柴さんの視線は、まるで俺の動揺を試すかのようだ。
「危なっかしいから、君は俺とマンツーマンね」
「えっ、あ、はい……!」
断る余地など微塵もない。
真柴さんの指導は的確で、次に何をどう動かすべきかが分かりやすかった。
「まず構えの姿勢をもう一度確認。腰は落として、重心は前足にかける。攻撃の威力は腕力じゃなく、全身の連動から生むんだ」
言われるままに構え、右足を斜めに踏み出し、手の動きを斬撃の軌道に合わせる。
「そのまま回転して、相手の側面を狙うイメージで。回転の軸は肩と腰で保つ」
手首を導かれるように握られて、斬撃の角度を修正される。
手首の返し方、肩の入り方、腰の回転のタイミング――ひとつずつ、真柴さんの指先が微調整してくれる。
「次はジャンプからの着地。蹴り上げて、相手の視線を逸らしたら、着地で次の攻撃につなげる」
汗を拭いながら、ふと視線を逸らす。
すると、壁際で見学していた大和さんと、目が合った。
――あれ、見られてる?
でも、真柴さんはその視界を遮るようにさっと間に入り、ニヤリと笑った。
「……よそ見しちゃだめだよ?」
顎を軽く掴まれ、真柴さんの方を向かされる。
女性陣が「出た! ヴァルヌス様の、顎クイ~!」と後ろで騒ぐ声が聞こえて、つい意識してしまう。
俺は必死に集中しようとするけれど、視界の端に映る大和さんの顔が、どうしても気になった。
なんだか、眉が少し寄っているような……怒ってる? いや、そんなはずはないんだけど……。
でも、柔らかい笑みばかり見ていた俺には、何か違う感情が混ざっているのが分かる。
腕の軌道を修正されるたび、心臓が跳ねる。
「次の斬りはもっと腰を回して」
後ろから腰に手を回しながら、真柴さんが指示する。
体は動くのに、頭の中は大和さんの表情でいっぱいだった。
***
練習が終わるころには、参加者全員が床に伸びていた。
「も、もう無理……動けない」
「俺も……こんなん毎日やってるって、化け物じゃね……?」
山内くんと川合くんが、寝転がったまま呟いた。
俺も汗で髪が額に張りつき、Tシャツの背中も湿っていて、息はまだ整わない。
気配に気づいて振り返ると、大和さんがタオルを手に立っていた。
「頑張ってたね」
その声は低く、でも真っ直ぐに俺の胸に届いた。
「……見ててくれたんですか?」
思わず声が震えて、心臓が早鐘を打つ。体格の大きさに圧迫されつつも、なぜか安心感もある。
「うん。ずっと」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。ずっと見てくれていた──たった一言なのに、心臓がドクドク鳴る。
「ひなと君。 真柴のこと、どう思ってる?」
「えっ?」
「ああ、ごめん。言い方間違えた。真柴の指導、どうだった?」
「ええと……すごく上手くて……教え方も丁寧で……」
首筋の汗をタオルで拭きながら、小さな声で答える。
「……そう」
短く返された声が、冷たく響く。
大和さんの目が俺を捉えている。でも、その目には少しだけ影があるように見えた。
「や、大和さん?」
「……なんでもない。俺たちは打ち合わせがあるから、また夜の懇親会でね」
息を整えようと深呼吸するも、まだ体の芯が熱い。
視線の奥にある微妙な冷たさと温かさの揺れに、胸がざわざわしていた。
***
自分の部屋でシャワーと着替えを済ませて、ラフな格好で四階に向かった。
畳の上に並べられた長机には、おつまみが雑然と置かれ、思い思いにグラスを手に談笑している。
笑い声や箸の音、氷がカランとグラスに当たる音が混ざって、心地よいざわめきが場を満たしていた。
「ひなと君、こっち」
大和さんの声に振り向くと、いつものようにやさしい笑顔で手を差し伸べていた。
胸が少し高鳴る――けれど、次の瞬間だった。
「おーっと、ひなとは俺の隣だよ?」
真柴さんが軽快な声と共に、急に後ろから腕を引いた。思わず体が固まる。
よろけそうになるのを肩を抱かれるように受け止められて、そのまま隣に座らされた。
「今日の殺陣、ちゃんと出来てたじゃん。偉いぞ」
ぽんぽんと頭を撫でられて、俯く。
視界の端で、大和さんがこちらを見ているのが分かる。
腕を組み、眉をひそめた顔。明らかに不機嫌そうだった。
なのに俺は、その視線に気づかないふりをして、ただ真柴さんに愛想笑いを返すことしか出来ない。
「悪役に育てるの楽しみだわ。細いけど、吸収速いしセンスがあると思う」
背中に手が触れ、ドキドキが止まらない。
「このあと、俺の部屋で飲み直そうよ。悪役のあれこれ教えてあげるから」
言葉と同時に、肘同士が軽く触れ、膝に手を置かれる。
思わず視線を逸らすが、真柴さんは楽しそうに笑っている。
「おーい真柴ぁ、セクハラだぞ! 誰か止めろよ」
「ひなと君、ソイツのこと殴っていいよ~」
スタッフさんたちの席から、茶化す声が聞こえる。
その隣に座る女子達が「真柴さんの色気、えぐいです!」と笑い、場が一層盛り上がる。
俺は顔から火が出そうになりつつ、手元のグラスに視線を落とす。
周囲が笑い、冗談を飛ばすたびに、誰かに助けてほしい気持ちになる。
縋るような思いで大和さんの方を見ると、無言で席を立つ背中が見えた。
「あれ? 藤堂、どこ行くのー?」
「関係ないだろ」
真柴さんを一蹴するように返事をすると、大和さんは後ろ手でドアを閉めた。胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気持ちになる。
笑い声やグラスの音が遠くなり、なんだか急に静かに思える。
「す、すみません。俺、ちょっとお手洗いに……」
小声で告げて席を離れようとすると、ガシッと二の腕を掴まれた。
「……藤堂に、ずいぶんお熱みたいだね?」
耳元で、真柴さんが囁いた。
周りのみんなが舞台監督の話に夢中になっているのを一瞥すると、真柴さんが俺を見てせせら笑う。
「俺のことも、もっと見て欲しいなぁ」
一度ぐっと手に力を込められてから、そっと力を抜いて離された。
心の中で何度も小さな悲鳴をあげながら、俺は「失礼します!」と急いで懇親会の会場を出た。
踏み外さないように階段を下りながら、心臓は不自然に早く打っている。
真柴さん、俺でからかいすぎじゃないか? 一つ一つの行動が挑発的で、意味深で、大人の色気がある。
まるで掌の上で転がされているようで、どう反応したらいいのか分からない。
大和さんの姿を探す。宿泊棟の廊下を見渡しても、ロビーをちらっと確認しても、見当たらない。
もしかして、もう部屋に戻ってしまったのかな。
入口の自動ドアの前で外に目をやると、暗い外に、あの背中が見えた。夜の空気に溶け込むシルエット。
思わず息を飲み、走り出す。
「……大和さん!」
駆け寄ると、大和さんはゆっくり振り向いた。
「……ひなと君」
声が低く、少し硬い。
その瞬間、胸の奥が一気に熱くなる。鼓動が耳まで響くようで、息が止まりそうだ。
俺は慌てて作り笑いを浮かべる。
「俺も、抜け出してきちゃいました」
大和さんは少し眉をひそめたけれど、すぐに視線を逸らす。
「……隣に座ってもいいですか?」
「……うん」
俺が膝を抱えて隣にしゃがむと、不自然な沈黙が流れた。
大和さんは稽古の時とは違う、張りのない声で呟くように言った。
「……真柴にすごく気に入られて、大変だね」
否定できない。
でも俺の中では、真柴さんに気に入られている、というより弄られている感覚に近かった。
「悪役になりたいって言ったから、ですかね……」
その返事に大和さんは小さく息をつき、夜風に吹かれながら真剣な表情で俺を見た。
「ひなと君は、ずっと俺の演技を見てたんじゃなかった? ファンになったのも、ワークショップに参加したのも、龍が好きだからなんだよね?」
「は、はい……」
「そう言ってくれたのに、真柴にばっかり構うのは、正直面白くないんだよね」
え……どういう意味だろう。首を傾げて、眉間に皺を寄せた。
構ってなんかいない。むしろ、俺が一方的に真柴さんから、ちょっかいを出されているだけなのに。
俺の顔を見た大和さんは、その皺を見て笑うと、足元に視線を落としたまま言った。
「実は俺、ひなと君のこと……前から認知してたんだよね」
「え、ええっ……!?」
動揺で足元がフラつき、膝の力が抜けそうになる。
認知されてた実感なんて、全くない。
講師として初対面した時ですら、そんな雰囲気を大和さんは一切匂わせなかったのに。
「握手会に来てる時から、名前は知らなかったけど、ちゃんと顔だけは認知してた」
「な、なんで……!」
「いや、普通にスタッフの間では有名だったよ。“すんごい可愛い男の子ファンがいる”って。俺も初めて見た時、そう思った。……握手する時も、今みたいに真っ赤だったよね」
思わず、袖口で口元を隠した。
どうしよう、どうしよう。認知されていたことは嬉しいけれど、めちゃくちゃ恥ずかしい。
「シオリなんて、『もしかしたらアイドルがお忍びで推し活なのかな!?』って楽屋で大騒ぎしてたし。……あと、ひなと君のSNSも見たことあるよ。これって、ひなと君のアカウントだよね?」
大和さんは自分のスマホを取り出し、俺のアカウントのページを見せてくれた。
ヘッダーは龍のグッズを集めた写真。フォロワーはそんなに多くないけれど、ちまちまと撮影会での写真や心の叫びを投稿していた。
“#今日の現場 2ステージ完遂しました! 龍の飛び蹴り、最高に格好良かった!”
“ヴァルヌス様も、シルフ様も綺麗だった! 顎クイ大サービス回でやばかった”
オタク丸出しの呟きの数々。羞恥心でいっぱいになり、俺は両手で顔を隠した。
「あの、恥ずかしすぎて、頭がパンクしそうです……」
大和さんは吐息混じりに笑って、スマホをスクロールしながら言った。
「……だから、ワークショップに来てくれて嬉しかったよ。まさか、悪役志望だとは思わなかったけど」
その言葉を聞くだけで、胸の奥がぎゅうっと満たされる。
大和さんが自分に話しかけてくれているだけで、夜なのに世界が光に満ちたみたいだ。
「あ…あの、確かに今日は真柴さんのレッスンの方にウエイトを置いたんですけど、改めて大和さんの偉大さが分かりました!」
「え?」
「だって、大和さんの演じる龍って、全く肩で息してないんですもん。それって本当にすごいことなんだなって、自分もやってみて実感したと言うか」
「……それは、経験と計算でコントロールしてるだけだよ」
「だとしても、大和さんがやっぱり最高にカッコイイです!」
胸の奥から熱があふれ、言葉が勝手に出る。
夜の静けさの中で、大和さんの目がじっと俺を見つめていた。
「……ありがとう、ひなと君」
「はいっ」
小さく答えて、でも心のどこかで安心感が湧く。
こうして夜空の下で二人きりになれたことが、信じられないほど特別に感じられる。
大和さんは少し間を置き、静かに口を開いた。
「実は……俺がスーツアクターになったのは、理由があってね」
俺は息を飲む。大和さんは小さく息を吐いて、微笑みながら話を続けた。
「子どもの頃、俺もヒーローに憧れてた。でも、自分が演じる側に回るなんて、想像もしてなかった。大学生のとき、偶然舞台裏で動かせてもらう機会があって――その時に気づいたんだ。ヒーローの演技は、ただ舞台に立つだけじゃなくて、子どもたちに生きた光を届けるものだって」
少し目を伏せ、遠くを見つめる瞳には、少年時代の憧れと決意が混ざっているみたいだった。
俺は息をのむ。胸の奥が熱く、涙腺までぎゅっと刺激される。
「ただの俳優じゃ、あの光は届けられない。スタントマンでも、ただ技を見せるだけなら意味がない。スーツアクターは中に入って、動きで感情と物語を伝え、ヒーローそのものになれる。それは、この職業だけの魅力だって俺は思ってる」
言葉が染み渡る。
こんな情熱と誇りを持った人が、目の前にいる。
俺の憧れの人――心臓がバクバクして、息が荒くなる。
「俺はそれにすべてを懸けた。演技だけじゃなく、体力も、感情も、すべてをスーツの中に込める。そうして初めて、子どもたちやファンに、本物のヒーローを届けられるんだ。だから……ひなと君が初代と俺の演技の違いに気付いてくれて、しかも一目ぼれしたって言ってくれたのは、本当に嬉しかった」
大和さんからそんな言葉をかけてもらえるなんて、思っても見なかった。
嬉しくて、心の中ではめちゃくちゃ舞い上がっていた。
「これからも、ひなと君みたいに熱心に見てくれる人に、応えたいと思ってる。動きでも、演技でも、全力で」
俺は小さく頷く。胸の奥は、まだざわついて、歓喜と興奮でいっぱいだ。
「……でも、まだまだ俺も未熟だ。毎回、もっと上手くなりたい、もっとヒーローらしくありたいって思ってる。スーツアクターとして、ヒーローとして、誇れる自分でいるために……ひなと君が気づいてくれた“初代との差”も、俺には宝物なんだ」
夜風が冷たく吹いているのに、大和さんの隣を歩くだけで、心は暖かいままだった。
憧れだけじゃない。この人のことを、もっと知りたい。
もっと近くで、一緒にスーツアクターの世界を見たい。
そして、いつか――その隣で、同じ景色を感じたい。
「ごめん、語り過ぎたね。そろそろ戻ろうか」
「……はい」
大和さんの声に従い、二人で宿泊棟の中へ歩き出す。
懇親会の賑やかさから離れ、静かになった夜の空気の中。
――俺の心は確かに、大和さんの存在で満たされていた。
筋肉痛でガタガタの足を引きずりながら、俺はまたスタジオに立っていた。
昨日、自分がスマホにメモした改善点を眺めていると、扉の向こうから大和さん達が現れた。
「おはよう、ひなと君」
柔らかい声に、思わず立ち止まる。
「おはようございます……」
小さく会釈すると、大和さんはにこっと笑った。
「今日は、ペアで立ち回りの基礎をやるぞー!」
真柴さんが明るく声を張る。その隣で大和さんは腕を組み、全体を見渡していた。
ただの黒いジャージにタオルを首から下げた姿なのに、佇まいはヒーローそのものだ。
「はい、じゃあ最初は……ひなと君と俺でいこうか」
「えっ!?」
一瞬、耳を疑った。俺が、大和さんと……ペア!?
スタジオの空気が少しざわめく。
真柴さんがニヤリと笑って「お前が組みたいだけだろ」と茶化した。
「他のみんなだと、身長差があって危ないから。俺がリードするよ」
大和さんが手で軽く合図し、立ち位置に誘導する。
目の前に立っただけで、空気がピリッとする。
背の高さの違いで、顔を上げなきゃ目が合わない。
でも、俺を見るその目が――やさしくて、熱くて、俺の全身が固まった。
「じゃあ、簡単なパンチと回避から。俺が攻撃するから、教えられた通りに避けてね」
「は、はいっ!」
ごくりと唾を飲むけれど、構えた腕が微かに震える。
目の前で、憧れのヒーローが本気で拳を構えてる。
「集中して」
スッ、と風を切る音。
次の瞬間、頬のすぐ横を拳が通り過ぎた。避けたはずなのに、頬に風が当たる。
でも、不思議と怖くない。
大和さんは視線で俺の動きを追いながら、微かに口角を上げる。
「いいよ、その調子。力まずに、流れで動いて」
その声に、体が少しずつ動きを覚えていくのを感じた。
昨日よりも確実に、俺の体が動きに反応している。
次の攻撃、次の回避。全てが大和さんと通じ合っているような気がした。
「今の、いい反応だ。じゃあ次、もう少し距離を詰めて」
言われた瞬間、胸の前に手が迫ってくる気配を感じた。
本当に当たりそうなのが怖くて、思わず後ろに下がろうとしたけれど、足がもつれて体勢を崩してしまう。
「うわっ!」
背中がマットに沈み、そのまま視界が少し歪む。
次の瞬間には、大和さんが俺の後頭部を守るように手を添えて、上に覆いかぶさっていた。
片腕を支えにしたその体勢で、顔が近い。汗の匂い、熱、息づかい――全てが押し寄せて、心臓が暴れ出す。
「だ、大丈夫だった?……ごめん、ちょっと速かったかな」
声が耳元に響く。マットの上に仰向けになったまま、震える声を返すしかなかった。
「ひゃ、は、はい……」
視界いっぱいに、大和さんの顔。
額に光る汗、真剣な瞳、そしてその唇の動きまで、鮮明に見える。
「起こしてあげる」
その声で、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。息が止まり、体の芯まで熱を帯びた。
すぐに大和さんが肩を支えてくれて、差し出された手を握るだけで、全身がふわっと軽くなるような感覚。
「あ、ありがとうございます」
「動きは悪くなかった。あと、何て言えばいいのかな……俊敏?」
「え?」
「動きが速くて、小回りがきくってこと。そういう悪役がいると、ヒーローの動きも生きるんだよ」
褒められた瞬間、自己肯定感が爆上がりする。
もっと、大和さんに褒められたい。認めてほしい。
――俺、もっと頑張ろう。絶対、上達したい。
そんな気持ちで、その後は他の参加者の立ち回りを見つめていた。
実践だけじゃなくて、他の人の動きを観察するのも勉強になる。
どんなタイミングで踏み込むのか、どうやって回避しているのか。一つひとつを頭の中で反芻する。
気づいたことはメモを取り、時には「ちょっと撮ってくれる?」と動画を頼まれてスマホを構えることもあった。
少しずつ、ワークショップ全体の士気が上がっているような気がした。
そんな空気を読んだように、腕を組んで様子を見守っていた真柴さんが前に出てきた。
「じゃあ次。悪役のスーツアクターに来てもらってるから、“魅せる殺陣”を教えるよ。みんなまたペアになってね」
その声には、ほんの少し挑発的な響きが混ざっている。
俺の前でしゃがみ込み、目をじっと合わせてくる真柴さんの視線は、まるで俺の動揺を試すかのようだ。
「危なっかしいから、君は俺とマンツーマンね」
「えっ、あ、はい……!」
断る余地など微塵もない。
真柴さんの指導は的確で、次に何をどう動かすべきかが分かりやすかった。
「まず構えの姿勢をもう一度確認。腰は落として、重心は前足にかける。攻撃の威力は腕力じゃなく、全身の連動から生むんだ」
言われるままに構え、右足を斜めに踏み出し、手の動きを斬撃の軌道に合わせる。
「そのまま回転して、相手の側面を狙うイメージで。回転の軸は肩と腰で保つ」
手首を導かれるように握られて、斬撃の角度を修正される。
手首の返し方、肩の入り方、腰の回転のタイミング――ひとつずつ、真柴さんの指先が微調整してくれる。
「次はジャンプからの着地。蹴り上げて、相手の視線を逸らしたら、着地で次の攻撃につなげる」
汗を拭いながら、ふと視線を逸らす。
すると、壁際で見学していた大和さんと、目が合った。
――あれ、見られてる?
でも、真柴さんはその視界を遮るようにさっと間に入り、ニヤリと笑った。
「……よそ見しちゃだめだよ?」
顎を軽く掴まれ、真柴さんの方を向かされる。
女性陣が「出た! ヴァルヌス様の、顎クイ~!」と後ろで騒ぐ声が聞こえて、つい意識してしまう。
俺は必死に集中しようとするけれど、視界の端に映る大和さんの顔が、どうしても気になった。
なんだか、眉が少し寄っているような……怒ってる? いや、そんなはずはないんだけど……。
でも、柔らかい笑みばかり見ていた俺には、何か違う感情が混ざっているのが分かる。
腕の軌道を修正されるたび、心臓が跳ねる。
「次の斬りはもっと腰を回して」
後ろから腰に手を回しながら、真柴さんが指示する。
体は動くのに、頭の中は大和さんの表情でいっぱいだった。
***
練習が終わるころには、参加者全員が床に伸びていた。
「も、もう無理……動けない」
「俺も……こんなん毎日やってるって、化け物じゃね……?」
山内くんと川合くんが、寝転がったまま呟いた。
俺も汗で髪が額に張りつき、Tシャツの背中も湿っていて、息はまだ整わない。
気配に気づいて振り返ると、大和さんがタオルを手に立っていた。
「頑張ってたね」
その声は低く、でも真っ直ぐに俺の胸に届いた。
「……見ててくれたんですか?」
思わず声が震えて、心臓が早鐘を打つ。体格の大きさに圧迫されつつも、なぜか安心感もある。
「うん。ずっと」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。ずっと見てくれていた──たった一言なのに、心臓がドクドク鳴る。
「ひなと君。 真柴のこと、どう思ってる?」
「えっ?」
「ああ、ごめん。言い方間違えた。真柴の指導、どうだった?」
「ええと……すごく上手くて……教え方も丁寧で……」
首筋の汗をタオルで拭きながら、小さな声で答える。
「……そう」
短く返された声が、冷たく響く。
大和さんの目が俺を捉えている。でも、その目には少しだけ影があるように見えた。
「や、大和さん?」
「……なんでもない。俺たちは打ち合わせがあるから、また夜の懇親会でね」
息を整えようと深呼吸するも、まだ体の芯が熱い。
視線の奥にある微妙な冷たさと温かさの揺れに、胸がざわざわしていた。
***
自分の部屋でシャワーと着替えを済ませて、ラフな格好で四階に向かった。
畳の上に並べられた長机には、おつまみが雑然と置かれ、思い思いにグラスを手に談笑している。
笑い声や箸の音、氷がカランとグラスに当たる音が混ざって、心地よいざわめきが場を満たしていた。
「ひなと君、こっち」
大和さんの声に振り向くと、いつものようにやさしい笑顔で手を差し伸べていた。
胸が少し高鳴る――けれど、次の瞬間だった。
「おーっと、ひなとは俺の隣だよ?」
真柴さんが軽快な声と共に、急に後ろから腕を引いた。思わず体が固まる。
よろけそうになるのを肩を抱かれるように受け止められて、そのまま隣に座らされた。
「今日の殺陣、ちゃんと出来てたじゃん。偉いぞ」
ぽんぽんと頭を撫でられて、俯く。
視界の端で、大和さんがこちらを見ているのが分かる。
腕を組み、眉をひそめた顔。明らかに不機嫌そうだった。
なのに俺は、その視線に気づかないふりをして、ただ真柴さんに愛想笑いを返すことしか出来ない。
「悪役に育てるの楽しみだわ。細いけど、吸収速いしセンスがあると思う」
背中に手が触れ、ドキドキが止まらない。
「このあと、俺の部屋で飲み直そうよ。悪役のあれこれ教えてあげるから」
言葉と同時に、肘同士が軽く触れ、膝に手を置かれる。
思わず視線を逸らすが、真柴さんは楽しそうに笑っている。
「おーい真柴ぁ、セクハラだぞ! 誰か止めろよ」
「ひなと君、ソイツのこと殴っていいよ~」
スタッフさんたちの席から、茶化す声が聞こえる。
その隣に座る女子達が「真柴さんの色気、えぐいです!」と笑い、場が一層盛り上がる。
俺は顔から火が出そうになりつつ、手元のグラスに視線を落とす。
周囲が笑い、冗談を飛ばすたびに、誰かに助けてほしい気持ちになる。
縋るような思いで大和さんの方を見ると、無言で席を立つ背中が見えた。
「あれ? 藤堂、どこ行くのー?」
「関係ないだろ」
真柴さんを一蹴するように返事をすると、大和さんは後ろ手でドアを閉めた。胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気持ちになる。
笑い声やグラスの音が遠くなり、なんだか急に静かに思える。
「す、すみません。俺、ちょっとお手洗いに……」
小声で告げて席を離れようとすると、ガシッと二の腕を掴まれた。
「……藤堂に、ずいぶんお熱みたいだね?」
耳元で、真柴さんが囁いた。
周りのみんなが舞台監督の話に夢中になっているのを一瞥すると、真柴さんが俺を見てせせら笑う。
「俺のことも、もっと見て欲しいなぁ」
一度ぐっと手に力を込められてから、そっと力を抜いて離された。
心の中で何度も小さな悲鳴をあげながら、俺は「失礼します!」と急いで懇親会の会場を出た。
踏み外さないように階段を下りながら、心臓は不自然に早く打っている。
真柴さん、俺でからかいすぎじゃないか? 一つ一つの行動が挑発的で、意味深で、大人の色気がある。
まるで掌の上で転がされているようで、どう反応したらいいのか分からない。
大和さんの姿を探す。宿泊棟の廊下を見渡しても、ロビーをちらっと確認しても、見当たらない。
もしかして、もう部屋に戻ってしまったのかな。
入口の自動ドアの前で外に目をやると、暗い外に、あの背中が見えた。夜の空気に溶け込むシルエット。
思わず息を飲み、走り出す。
「……大和さん!」
駆け寄ると、大和さんはゆっくり振り向いた。
「……ひなと君」
声が低く、少し硬い。
その瞬間、胸の奥が一気に熱くなる。鼓動が耳まで響くようで、息が止まりそうだ。
俺は慌てて作り笑いを浮かべる。
「俺も、抜け出してきちゃいました」
大和さんは少し眉をひそめたけれど、すぐに視線を逸らす。
「……隣に座ってもいいですか?」
「……うん」
俺が膝を抱えて隣にしゃがむと、不自然な沈黙が流れた。
大和さんは稽古の時とは違う、張りのない声で呟くように言った。
「……真柴にすごく気に入られて、大変だね」
否定できない。
でも俺の中では、真柴さんに気に入られている、というより弄られている感覚に近かった。
「悪役になりたいって言ったから、ですかね……」
その返事に大和さんは小さく息をつき、夜風に吹かれながら真剣な表情で俺を見た。
「ひなと君は、ずっと俺の演技を見てたんじゃなかった? ファンになったのも、ワークショップに参加したのも、龍が好きだからなんだよね?」
「は、はい……」
「そう言ってくれたのに、真柴にばっかり構うのは、正直面白くないんだよね」
え……どういう意味だろう。首を傾げて、眉間に皺を寄せた。
構ってなんかいない。むしろ、俺が一方的に真柴さんから、ちょっかいを出されているだけなのに。
俺の顔を見た大和さんは、その皺を見て笑うと、足元に視線を落としたまま言った。
「実は俺、ひなと君のこと……前から認知してたんだよね」
「え、ええっ……!?」
動揺で足元がフラつき、膝の力が抜けそうになる。
認知されてた実感なんて、全くない。
講師として初対面した時ですら、そんな雰囲気を大和さんは一切匂わせなかったのに。
「握手会に来てる時から、名前は知らなかったけど、ちゃんと顔だけは認知してた」
「な、なんで……!」
「いや、普通にスタッフの間では有名だったよ。“すんごい可愛い男の子ファンがいる”って。俺も初めて見た時、そう思った。……握手する時も、今みたいに真っ赤だったよね」
思わず、袖口で口元を隠した。
どうしよう、どうしよう。認知されていたことは嬉しいけれど、めちゃくちゃ恥ずかしい。
「シオリなんて、『もしかしたらアイドルがお忍びで推し活なのかな!?』って楽屋で大騒ぎしてたし。……あと、ひなと君のSNSも見たことあるよ。これって、ひなと君のアカウントだよね?」
大和さんは自分のスマホを取り出し、俺のアカウントのページを見せてくれた。
ヘッダーは龍のグッズを集めた写真。フォロワーはそんなに多くないけれど、ちまちまと撮影会での写真や心の叫びを投稿していた。
“#今日の現場 2ステージ完遂しました! 龍の飛び蹴り、最高に格好良かった!”
“ヴァルヌス様も、シルフ様も綺麗だった! 顎クイ大サービス回でやばかった”
オタク丸出しの呟きの数々。羞恥心でいっぱいになり、俺は両手で顔を隠した。
「あの、恥ずかしすぎて、頭がパンクしそうです……」
大和さんは吐息混じりに笑って、スマホをスクロールしながら言った。
「……だから、ワークショップに来てくれて嬉しかったよ。まさか、悪役志望だとは思わなかったけど」
その言葉を聞くだけで、胸の奥がぎゅうっと満たされる。
大和さんが自分に話しかけてくれているだけで、夜なのに世界が光に満ちたみたいだ。
「あ…あの、確かに今日は真柴さんのレッスンの方にウエイトを置いたんですけど、改めて大和さんの偉大さが分かりました!」
「え?」
「だって、大和さんの演じる龍って、全く肩で息してないんですもん。それって本当にすごいことなんだなって、自分もやってみて実感したと言うか」
「……それは、経験と計算でコントロールしてるだけだよ」
「だとしても、大和さんがやっぱり最高にカッコイイです!」
胸の奥から熱があふれ、言葉が勝手に出る。
夜の静けさの中で、大和さんの目がじっと俺を見つめていた。
「……ありがとう、ひなと君」
「はいっ」
小さく答えて、でも心のどこかで安心感が湧く。
こうして夜空の下で二人きりになれたことが、信じられないほど特別に感じられる。
大和さんは少し間を置き、静かに口を開いた。
「実は……俺がスーツアクターになったのは、理由があってね」
俺は息を飲む。大和さんは小さく息を吐いて、微笑みながら話を続けた。
「子どもの頃、俺もヒーローに憧れてた。でも、自分が演じる側に回るなんて、想像もしてなかった。大学生のとき、偶然舞台裏で動かせてもらう機会があって――その時に気づいたんだ。ヒーローの演技は、ただ舞台に立つだけじゃなくて、子どもたちに生きた光を届けるものだって」
少し目を伏せ、遠くを見つめる瞳には、少年時代の憧れと決意が混ざっているみたいだった。
俺は息をのむ。胸の奥が熱く、涙腺までぎゅっと刺激される。
「ただの俳優じゃ、あの光は届けられない。スタントマンでも、ただ技を見せるだけなら意味がない。スーツアクターは中に入って、動きで感情と物語を伝え、ヒーローそのものになれる。それは、この職業だけの魅力だって俺は思ってる」
言葉が染み渡る。
こんな情熱と誇りを持った人が、目の前にいる。
俺の憧れの人――心臓がバクバクして、息が荒くなる。
「俺はそれにすべてを懸けた。演技だけじゃなく、体力も、感情も、すべてをスーツの中に込める。そうして初めて、子どもたちやファンに、本物のヒーローを届けられるんだ。だから……ひなと君が初代と俺の演技の違いに気付いてくれて、しかも一目ぼれしたって言ってくれたのは、本当に嬉しかった」
大和さんからそんな言葉をかけてもらえるなんて、思っても見なかった。
嬉しくて、心の中ではめちゃくちゃ舞い上がっていた。
「これからも、ひなと君みたいに熱心に見てくれる人に、応えたいと思ってる。動きでも、演技でも、全力で」
俺は小さく頷く。胸の奥は、まだざわついて、歓喜と興奮でいっぱいだ。
「……でも、まだまだ俺も未熟だ。毎回、もっと上手くなりたい、もっとヒーローらしくありたいって思ってる。スーツアクターとして、ヒーローとして、誇れる自分でいるために……ひなと君が気づいてくれた“初代との差”も、俺には宝物なんだ」
夜風が冷たく吹いているのに、大和さんの隣を歩くだけで、心は暖かいままだった。
憧れだけじゃない。この人のことを、もっと知りたい。
もっと近くで、一緒にスーツアクターの世界を見たい。
そして、いつか――その隣で、同じ景色を感じたい。
「ごめん、語り過ぎたね。そろそろ戻ろうか」
「……はい」
大和さんの声に従い、二人で宿泊棟の中へ歩き出す。
懇親会の賑やかさから離れ、静かになった夜の空気の中。
――俺の心は確かに、大和さんの存在で満たされていた。



