会場に着いた瞬間、俺の心臓はもう爆発寸前だった。
 場所は、カンパニーが持っている宿泊施設つきの大きなスタジオだった。

 「うわぁ……凄い」

 床はマットが敷き詰められ、壁際には木刀やラバー製の剣が整然と並んでいる。天井には照明機材。まさに、ヒーローショーの裏側だ。

 同じくらいの年の参加者が十人ほど集まり、ジャージ姿でストレッチをしながら談笑している。
 みんなもう顔見知りみたいに打ち解けていて、俺だけが完全に挙動不審だった。
 靴紐を結び直して、伸びをして、ペットボトルを握る。何をしても落ち着かない。
 心臓の音が、スタジオのBGMより大きく聞こえる気がした。

「それじゃあ、始めようか」

 低くて、よく通る声がスタジオに響いた。
 その一言で、ざわついていた空気がピタリと止まる。
 振り向いた瞬間、世界が一瞬止まった気がした。

 入口から入ってきたのは、長身の男性二人組。
 動きに無駄がなく、歩いても重心がぶれていない。
 ジャージ姿に、手首のテーピング。無駄な飾りは一つもないのに、自然と視線が吸い寄せられた。

「本日から四日間にわたって講師を務めます。藤堂と真柴です」

 その声は穏やかで、それでいて芯がある。
 自然と参加者達が控えめに拍手し、二人は軽く頭を下げる。
 真柴さんが、俺たちひとりひとりの顔を見てから言った。

「……では、我々の自己紹介から。龍の最大の敵・悪役の“ヴァルヌス”を演じています。スーツアクターの真柴(ましば)オウギです」

 その瞬間、スタジオが一気にざわついた。

 まさかの“中の人”バラシ。
 スーツアクターの直接指導って書いていたけれど、まさか作品のメインキャラを務める人が講師で来るなんて、誰も想像しないのが普通だ。

 真柴さんは、ヴァルヌスが登場する時のボウ・アンド・スクレープ(お辞儀)を軽く披露してみせる。
 色気のある笑みと、流れるような動き。ほんの数秒なのに、確かに“ヴァルヌス”がそこにいた。
 参加者の女性陣が悲鳴に近い歓声をあげ、スマホを向けていた。

 そして、もう一人。
 自然と視線が隣の男性へと集まる。
 それに気づいた彼は、少し照れたように笑って、軽く頭を下げた。

「えー、“龍”のスーツアクターを務めています。藤堂(とうどう)大和(やまと)です。よろしくお願いします」

 その瞬間、俺の頭は真っ白になった。

 こ、この人が――〈龍〉の中の人……⁉︎

 ずっと画面越しで、ステージ越しで見てきた龍の「中の人」が、目の前にいる。
 スーツを着ていないのに、そこに立っているだけで、ヒーローそのものだった。

 厚みのある胸板に、無駄のない肩幅。茶髪の短髪に、整った目元。真柴さんのように派手ではないけれど、清潔感と実直な雰囲気がある。
 その存在感は、男らしい「強さ」と「優しさ」の両方を纏っているようで、俺の視線は藤堂さんから離せなかった。

「今日は『初心者向けアクション体験』ってことで、怪我をしない範囲で動きを覚えてもらいます。体力に自信のない人もいると思うけど、無理はしないでね」

 淡々としているのに、なぜか安心する。
 声のトーン、話すテンポ、間の取り方……すべてが自然で心地いい。

 ……この人が、俺のヒーローなんだ。

 その現実を、改めて噛みしめる。
 夢の中に迷い込んだみたいな感覚に、息が詰まりそうだった。
 気づけば、拳を握りしめていた。

 “この四日間を、絶対に全部見逃さない”と、心の中で強く誓った。


***


「まず軽く自己紹介していこうか。順番に、名前と、志望動機をお願いします」

 藤堂さんの声がスタジオの奥まで澄んで届いた。
 その一言だけで背筋がピンと引き締まる。
 参加者たちは順番に前へ出て、明るい照明の下、少し照れながら言葉をつなぐ。
 「アクションやってみたくて」とか、「龍に憧れて」とか。
 中には、堂々と「将来スーツアクターになりたいです」と言う人もいて、その度に周りから小さな拍手が起こる。
 みんなそれぞれ真剣で、まっすぐで、眩しかった。

 俺はといえば、ただ緊張の渦中にいた。
 胸の奥が熱くて、喉がカラカラで、手汗が止まらない。指先がじんじんするほど冷たいのに、背中は汗ばむ。
 心臓の鼓動が耳のすぐ横でドクドク鳴って、他の人の声がほとんど入ってこない。順番が近づくたびに、足元の床が遠ざかるような感覚がする。

「じゃあ次、そこの君」

 ……俺だ。
 真柴さんに呼ばれた瞬間、胃のあたりがキュッと縮んだ。
 声を出そうとしたのに、息がうまく入らない。
 目の前の照明がやけに眩しくて、顔が火照る。
 藤堂さんが優しく視線を向けてくれているのが分かるのに、その優しさが逆に緊張を加速させる。

「あ、あのっ……! えっと……!」

 スタジオにいた全員の視線が、ふっと俺に集まる。
 その瞬間、頭の中が真っ白になって、用意していた言葉がどこかに逃げていった。
 息を吸って、もう一度だけ勇気を振り絞る。

「桜井ひなとです。ブレイヴ・ライダー龍の大ファンです……いつか自分が悪役になって、龍に倒されるのが夢です!よろしくお願いします」

 スタジオ全体が、静まり返った。
 参加者も、奥で稽古の準備をしているスタッフさんも皆固まっている。
 さっきまで響いていた空調の音すら、遠くに感じる。

 ……や、やばい。やっちゃったかもしれない。

 同い年くらいの男子たちが「助けてほしいんじゃなくて、倒されたいってどういうこと?」って小声で笑い合うのが聞こえた。
 頬が一気に熱くなる。

 そんな中で、藤堂さんは驚いたように目を丸くして、ほんのわずかに息を止めたような表情をした後、ゆっくりと唇の端を上げて言った。

「……なるほど。じゃあ、ヒーロー側も気合い入れないとな!」

 その声は穏やかで、からかいなんて一切なかった。
 むしろ、まっすぐで、嬉しそうな響きがあった。
 冗談でもなく、曖昧な答えでもなく、俺の言葉をちゃんと受け取ってくれた返事だった。

 その瞬間、鼓動が一気に跳ね上がり、気づけば俺は小さく頭を下げていた。
 震える声で「ありがとうございます」と呟くと、藤堂さんが軽く頷き、笑いかけてくれた。
 けれど、それまで黙って様子を見ていた真柴さんが、腕を組んだまま近づいてきた。

「……へぇ。面白い子が来たじゃん、ちょっとストップ」

 俺の頭のてっぺんから爪先までをじろりと眺めて、視線がまるでスキャナーみたいにゆっくり上下する。
 何か言われる予感がして、喉がきゅっと鳴った。

「うーん……ざっと見た感じ、165の55くらい? ひなと君の身長と体重」

「えっと、その通りです」

 その瞬間、スタジオの空気が少し変わった気がした。
 何でピッタリ当てられるんだろう。それよりも、痛いところを突かれたと思った。
 アクションスーツの中で役を演じるには、ある程度の体格と身長が必要だ。
 分かっていても、目の前で言われると、胸の奥がチクリとした。

「うーん、向いてない。悪役には最低でも170以上は欲しいからなぁ」

 真柴さんが肩をすくめて苦笑する。
 その笑い方が少し挑発的で、冗談にも本気にも取れない。
 周りの空気が少しピリついた瞬間、藤堂さんが一歩前に出た。

「身長が低くても女形のスーツアクターで活躍してる人、いるだろ。動きのキレとか、立ち姿で十分カバーできる」

 その言葉に真柴さんが眉を上げ、苦笑いのまま視線を返す。

「でも、ひなと君は大分細くない? スーツ着たら中で泳ぐよ。“立ち回り”は体格でバランス取るものだろ」
「……その“細さ”を、別の形でアクションの武器にできるかもしれないだろ」

 二人の間の空気が一瞬で張り詰めた。
 言葉を交わすたび、ピンと糸が引き合うみたいに緊張が走る。
 俺はその真ん中で、どうして良いか分からず立ち尽くした。怒られてるわけじゃないのに、息をするのが少し怖い。

 真柴さんが片眉を上げて、少し笑った。

「フォローのつもり? 藤堂、優しいな」
「別に優しさじゃない。俺は“向いてない”って言葉がいちばん嫌いなだけだよ」

 言葉が静かに落ちた。
 けれどその低い声には、揺るぎない芯があった。
 真柴さんが「へぇ」とだけ呟き、少し視線を外した。
 と、そこにパチン、と軽い拍手の音が響く。

「はいはい! 藤堂と真柴、そこまで!」

 場の空気を一瞬で変えたのは、いつものMCのシオリお姉さんだった。
 ステージでは子どもたちを笑顔にしていたあの明るい声が、今は少しだけ厳しくて、でも不思議と安心感がある。

「参加者の皆さんが、怖がっちゃうでしょ。二人とも、“教える側”なんだからしっかりして」

 その言葉に、二人とも一瞬顔を見合わせる。
 真柴さんは苦笑いしながら首の後ろをかいた。

「……ごめんね。悪役になりたいって言われたの初めてだったから、つい」

 藤堂さんも軽く頭を下げて、「俺も」と小さく呟いた。
 その姿を見て、お姉さんはふっと笑った。

「そろそろ本題いこうか! ストレッチの後に、最初は基本のフォーム。鏡を見ながら“構え”だけ確認してみましょう」

 明るい声が再び響く。
 さっきまで張り詰めていた空気が少しずつほどけて、みんながストレッチを始めた。
 俺も慌てて列に戻りながら、こっそり深呼吸をした。

 心臓はまだ早鐘みたいに鳴っている。
 でも怖さより、大好きなあの〈龍〉を演じている藤堂さんに、フォローしてもらった嬉しさの方が勝っていた。


 ***


 基礎練習が始まった。まずはストレッチ、受け身、構え。
 一つ一つの動きがシンプルなはずなのに、息が上がる。
 鏡に映る自分の姿が、どこかぎこちなく見えて情けない。

 その横で藤堂さんは、まるで重力の影響を受けてないみたいに軽やかだった。
 足を踏み出すたび、床が静かに鳴る。
 呼吸のリズムも、姿勢も、隙がない。
 ああ、同じ人間なのに、なんでこうも違うんだろう。

「ひなと君、だっけ。手をもう少し内側に」
「あ、はい!」

 俺の腕を軽く支えながら、藤堂さんが後ろから姿勢を直してくれる。
 指先で肩を押されただけなのに、全身の血が一気に巡った気がした。
 藤堂さんの匂い。石鹸と汗が混ざったような……でも全然、嫌じゃない。

「そう。そうやって、腰を入れて。力は抜いて、動きで流す」

 低い声が、耳のすぐ横で響く。
 教え方は穏やかなのに、言葉の奥に芯がある。
 ほんの数秒のやり取りなのに、時間がゆっくり流れているように感じた。

「動きが素直で良いね。スーツアクターは体感が大切だから、意識してみて」
「分かりました!」
「……焦らなくていいよ。最初はみんなそうだから」

 その優しい言い方と控えめな微笑みに、胸がぎゅっと締めつけられた。

「じゃあ、一旦休憩かな。水分補給してくださいねー」

 真柴さんの掛け声を合図に、皆が水筒を取りに行く。
 「結構しんどいね」「ついていくのが大変」と会話する参加者達の輪の外で、俺は水を飲んだ。
 
 まだ始まって一時間くらいしか経っていないのに、腕と脚が軽く震えてる。
 さっき教わった姿勢を頭の中で何度も反復しながら、こっそりスマホのメモ帳に“手は内側・腰を入れる”と打ち込んだ。

 ふと、手元のスマホに人影が重なって、驚いて俺は顔を上げた。

「……大丈夫? 疲れてない?」

 目の前に藤堂さん。タオルで汗を拭きながら、ペットボトルを片手に立ってる。
 距離、近い。話しかけられてる、どうしよう。

「あ、あの……! はいっ、大丈夫です!!」

 慌てて立ち上がり、噛みそうになりながら返事をした。
 また声が裏返って、さらに恥ずかしくなる。

「そっか。さっきの構え、悪くなかったよ。ちゃんと腰が落ちてた」
「ほ、ほんとですか!?」
「うん。あとは……もうちょっと自信持って、堂々と立てば完璧かな」

 堂々と立つ……それは、龍みたいにってことなのかな。
 俺より20センチ近く背が大きい藤堂さんを見上げると、目が合って爽やかに微笑んでくれた。

「でも、“倒されたい”って発想は、初めて聞いたなー」
「う、うわぁぁぁっ、それは忘れてください!!」

 両手で頭を抱えて叫んだ。顔が熱いし、今の俺は耳まで真っ赤だと思う。
 藤堂さんは、「ひなと君、声でかいな」と言って大きな声で笑った。
 龍の推しフィルターがあるとはいえ、めちゃくちゃカッコよく見えてしまう。

 「悪役も立派な役の一つだからな。……期待してるよ、ひなと君」

 名前を呼ばれた瞬間、まるでそこに火をつけられたみたいに胸の奥が熱かった。


***


 初日のワークショップを終えて、参加者たちはそのまま関係者用の宿泊棟に泊まることになった。
 慣れない動きで、全身が筋肉痛。階段を上がるだけでもふくらはぎが悲鳴を上げていた。

「ひなと君、このあと参加者向けの懇親会があるんだって。一緒に行く?」

 参加者の男の子たちが声をかけてくれる。
 人付き合いが得意なほうじゃないけど、断る理由もなくて、俺はぎこちなく頷いた。

「俺、山内。 ひなと君と同じで龍のファンなんだ! 短い間だけど、よろしくね」
「うん! こちらこそ」
「僕は川合です。 ブレイブ・ライダーにハマってまだ短いけど、ヴァルヌス様推しなんだ」

 みんなで握手をして、初めて出来た「推し友達」と龍の話題で盛り上がった。

「まさかヴァルヌスと、龍の“中の人”が講師だなんて、夢みたいだよな」
「しかも、ふたりともめっちゃイケメン。スーアクなのが勿体なくね⁉︎」

 二人の話を聞きながら、相槌を打つ。確かに真柴さんも、藤堂さんもイケメンだ。
 しかも、顔立ちや雰囲気がヴァルヌスと龍のイメージそのもの。ギャップが全くない。

「さっきシオリさんに聞いたんだけど、真柴さんと藤堂さんも懇親会に参加するって言ってた!」
「てか、ひなと君ってお酒飲める? 見た目ぜんぜん飲めなさそう」
「あー……お酒はあんまりかな」

 というか、普段はほとんど飲まない。
 でも、もしかしたら藤堂さんと話せるかもしれない。そんな淡い期待が、背中を押していた。

「ここかな? あ、やっぱりそうだ。ひなと君、川合君。一緒に行こう!」

 会場は、宿泊施設の四階にある大広間だった。
 畳の上に並べられた長机の上には、唐揚げや枝豆、焼きそばの皿がずらり。
 グラスにはビールやジュースが注がれ、湯気と笑い声が混じる。
 “龍”のショーのスタッフさんや監督、音響さんのほか、他のスーツアクターたちも顔を出していて、
 真柴さんと藤堂さんもその輪の中にいた。

「座る場所って決まってますか?」
「決まってないよ。でも、“悪役志望”のひなと君はこっちね」

 真柴さんがからかいながら、俺の手首を掴んで座らせた。
 左隣に真柴さん、右隣りには藤堂さん。悪役とヒーローに挟まれて、俺の脳は処理落ちしそうなくらい緊張していた。

「あはは、顔真っ赤になってる。可愛い~」
 
 真柴さんが明るく冗談を飛ばして、参加者の笑いを誘う。
 その隣で、藤堂さんは静かに微笑んでいた。
 派手なことは何もしていないのに、どこにいても目が引かれる。藤堂さんのオーラなのかもしれない。

「真柴さんと藤堂さんって、普段から仲良いんですか?」

 小さな声で挙手した参加者に、真柴さんは少し驚いたような顔をしてから、ジョッキを持ち上げて一口飲む。

「え、悪いよ。最悪。本番が終わっても、ヒーローと悪役のままだね」

 その回答に、周りの参加者たちは笑いながら二人を交互に見た。
 俺も思わず、ふたりの姿を見比べた。
 藤堂さんは穏やかに微笑み、真柴さんは腕を組んで豪快に笑っている。

「藤堂とはアクタースクールからの同期で、身長も体格もほぼ同じ。同じ役のオーディションで何度も競い合ったし……」

 真柴さんは唐揚げを口に運び、ビールを一気に流し込むと、ジョッキを机にドンと置いた。
 その仕草一つで、周囲の視線が自然と真柴さんに集まる。

「なんやかんやあって、あいつは武道の経験があるから、龍の役にすごく合っててさ。俺はクラシックバレエの経験があって、それがヴァルヌスの動きにぴったりだった。……だから最終的に配役はこうなった、って感じかな?」

 周囲の参加者は興味津々で耳を傾け、ところどころ頷いたり、笑みをこぼしたりしている。
 俺は、真柴さんの手や表情、話し方の一つ一つに目を奪われていた。
 その視線に気づいたように、真柴さんが話を止めて俺の顔を見つめた。

「熱心に聞いてるね。二人きりになれたら、もっと教えてあげたいことが沢山あるんだけどなぁー」

 そのとき、会場の片隅からシオリさんの声が飛んできた。

「真柴! アンタ、何でひなと君を囲おうとしてんの、シッシッ!」

 仕草で追い払うように手を振るシオリさん。
 スタッフさんたちも口々に笑いながら、「参加者は狙うなよー」「真柴の遊び人モード、全開だな」とヤジを飛ばす。
 その流れを断ち切るように、同い年くらいの参加者の女子が挙手しながら、質問を投げかけた。

「あのー、質問してもいいですか。 藤堂さんって、龍を演じる時にどんなこと意識してるんですか?」

 周囲の会話がすっと静まって、藤堂さんは少しだけ考えてから答えた。

「“子どもにとっての現実”になること、かな。嘘のない動きをする。そこに本気があれば、スーツの中でも伝わると思うから」

 淡々としてるのに、言葉の奥に信念があった。
 その瞬間、俺の中で“龍”と“藤堂さん”の輪郭が重なった気がした。
 まっすぐで、嘘がない――ああ、この人が、俺の憧れの“正体”なんだ。

 気づけば、また視線が止まっていた。
 その時、藤堂さんと視線が一瞬ぶつかった。心臓がドクンと一際大きく鳴って、慌てて目を逸らしながらグラスを持ち上げる。

「藤堂さん、めっちゃカッコイイ~! 真柴さんは?」

 川合くんの一声で場が再び賑やかになり、真柴さんが「頭が高い人間どもめ」とヴァルヌスになりきって答えると、笑い声が広がった。
 でも俺の意識の半分は、まだ藤堂さんに引き寄せられていた。
 どんなに周りが盛り上がっていても、藤堂さんは一歩引いたところに居てみんなを見ている気がした。

 時間が経って、ビールの泡も少なくなってきた頃。
 それまで黙って隣の席にいた藤堂さんが、ふと俺の方へ体を傾けた。

「さっきの話、続きを聞かせてくれる?」
「えっ?」
「倒されたいって話。詳しく教えてよ」

 周りが盛り上がっている中、低い声が耳元の近くで響いた。
 藤堂さんがぐっと床に手のひらをつくと、偶然、小指同士が触れた。
 それだけで呼吸が浅くなる。

「あの……俺にとって倒されるのは……“愛”なんです」

 口に出した瞬間、自分でも何を言ってるのか分からなくなった。
 結構、酔ってる。うまく話せる自信はない。でも伝えたかった。

「だって、ヒーローが本気で戦ってくれる証拠じゃないですか。全力でぶつかってくれるって、すごく嬉しいことです。……だから、いつか龍に思いっきり倒されてみたいなって」

 俺、また変なことを言ってる気がする。でも、頭がふわふわして制止できない。アルコールのせいもあって、体は熱い。
 けど、大和さんは怒るでも引くでもなく、ふっと笑った。

「……なるほど。倒されるのが誉れ、ってことか」
「はいっ!」
「やっぱり変わってるな、ひなと君」
「それは、よく言われます……」

 恥ずかしくて視線を床に落とすと、さっきまで触れていた指はもう離れていた。
 少し勇気を出して、前から気になっていたことを聞いてみることにした。

「あの、違ってたらごめんなさい。龍の初期って、藤堂さんじゃないアクターさんが演じてませんでしたか?」

 藤堂さんの目が、わずかに見開かれる。

「……え?」

「動画サイトで過去のショーを見てたら、俺が藤堂さんの演じている龍を見た時とは、体格は変わらないのに動きが違うなって思って……」

 数秒の沈黙。
 それから、藤堂さんは小さく笑った。

「……実は、初期は先輩のアクターが演じてた。途中で腰を痛めて降板してからは、ずっと俺が演じてる。よく気づいたね」

「そうだったんですね。俺、藤堂さんの演じてる龍に一目惚れしたので……」

 言ってから、自分で恥ずかしくなって、言葉を飲み込む。
 その照れ隠しを見て、大和さんは優しく笑った。

「……ひなと君、“大和”でいいよ。呼びにくいでしょ?」
「え、いいんですか?」
「うん。いいよ」

 “藤堂さん”じゃなくて、“大和さん”。
 たったそれだけの呼び方の違いが、胸の奥で波紋みたいに広がっていった。
 憧れの人が、少しだけ近くなる――そんな錯覚に、息が詰まりそうなほどドキドキしていた。

「じゃあ……大和さん?」

 試しに呼んでみた。自分の声が少し震えたのを誤魔化すように、グラスを持ち上げる。
 大和さんは、ふっと目を細めて笑った。

「うん。そうやって呼ばれるの、なんか新鮮」

 その笑顔を見て、胸の鼓動が一段と速くなる。
 何気ない会話なのに、まるで世界に二人しかいないみたいだった。
 周りの喧騒が、遠のいていく――その時だった。

「おっと~、なにイイ雰囲気出してんの?」

 突然、軽い声が割り込んできた。
 視線を向けると、真柴さんがグラスを片手に顔を近づけていた。
 頬は少し赤い。どうやら真柴さんも、結構酔っているらしい。

「ま、真柴さん……」

「いやぁ、さっきから気になってたんだよねぇ。うちの“龍”が、こんな可愛い子と何ふたりで話し込んでんのかな〜って」

 軽く肩を叩かれて、思わず背筋が伸びた。
 空気が一気に変わる。

「やめろよ、真柴」

 大和さんが眉をひそめる。
 けど、真柴さんは意に介さない。むしろ、その反応を楽しんでいるようだった。

「いやいや、俺だって興味あるさ。だって、悪役になりたいんだろ?」
「は、はい。龍に倒されるのが俺の夢なので……」
「明日さぁ、俺がマンツーで教えてあげようか?」

 真柴さんが笑いながら、俺のグラスにビールを注ぎ足す。
 泡が勢いよく立って、少し溢れた。

「あっ、あの……俺、もう――」
「いーじゃん。今日は懇親会だろ? 飲め飲め」

 周囲は笑っているが、大和さんだけが俺を間に挟んで真柴さんを制止した。

「真柴、飲みすぎだって」
「ん〜? 藤堂、何焦ってんだ? 俺がこの子と話すの、そんなに気になる?」

 挑発めいた口調。
 大和さんがあからさまに不愉快そうな顔をしている。

「別に。俺は、ただ――」
「ただ?」
「……ひなと君が困ってるから」

 その一言に、真柴さんの笑みが止まった。
 数秒の沈黙。
 やがて真柴さんは、ふっと肩をすくめて笑い直した。

「はいはい、ヒーロー様は優しいね。……でも本当にそれだけ?」

 その言葉は、冗談のようで、どこか棘があった。
 大和さんが何か言いかけたけど、真柴さんはグラスを掲げて立ち上がる。

「――ま、ほどほどに楽しめよ、若者」

 そう言って、ひらひらと手を振りながら別のテーブルへ歩いていった。
 周囲の笑い声に紛れていく背中を見送りながら、俺は息を吐く。

「……すみません。俺のせいで」

 言うと、大和さんは首を振った。

「いや。あいつ、悪いやつじゃないんだ。ただ、ちょっと……口と態度がな」

 そう言いつつも、声の奥にほんの少しの苛立ちが混じっていた。
 さっきまでの柔らかい空気が、わずかに緊張を帯びる。

「……大和さん、怒ってます?」
「いや、怒ってないけど」

 一呼吸置いて、大和さんは視線を俺に戻した。

「誰かに茶化されるの、あんまり好きじゃなくてさ」

 その目が一瞬、真っすぐに俺を射抜く。
 冗談じゃない、真剣な目だった。

「ひなと君が俺の隣にいて、そういう風に言われるの……嫌だったから」

 息が止まった。周囲のざわめきが一瞬で遠のく。
 大和さんの声だけが、耳の奥で響いている。

 そのあと、大和さんは軽く息をつき、いつもの優しい笑顔を取り戻した。

「ごめん、変なこと言ったな。ほら、食べな。唐揚げとか……明日の稽古もハードだし」
「は、はいっ」

 大和さんは二杯目のビールを飲み干して、俺に背中を向けて他の参加者と話し始めた。
 ドッドッ、と胸の奥で激しく暴れている心臓のせいで、冷めた唐揚げの味なんて、全然分からなかった。


***


 初日の夜は、興奮でなかなか寝付けなかった。
 脳裏に焼きついて離れないのは、藤堂さんの動き。
 あの受け身、あのキック、そして、今までは知らなかったヘルメットの中の、笑顔。
 映像で何度も見てきたけど――やっぱり、生は違う。

 ベッドの上で何度も寝返りを打つ。
 スマホを見ても、時間はまだてっぺんを少し過ぎたところだった。……眠れそうにない。
 喉が渇いて、俺は静かにベッドを抜け出した。

 宿泊棟の廊下の先にあるロビーには、白い蛍光灯がひとつだけ灯っていた。
 自販機に小銭を入れてボタンを押す。ガゴン、とペットボトルが落ちる音が妙に大きく響いた。
 しゃがんで取り出した瞬間、背後から声がした。

「……おチビちゃん、まだ起きてたの?」
「わっ……! び、びっくりした……」

 振り返ると、真柴さんがいた。
 ジャージ姿で、片手にタオルを持っている。どうやら風呂上がりらしい。
 髪がまだ少し濡れていて、蛍光灯の光を反射している。

「あ、あの……ちょっと、喉が渇いてて」
「ふーん」

 そう言いながら、真柴さんは自販機に寄りかかった。
 その目が、さっきの懇親会の時よりもずっと静かで、酔いはもう醒めているようだった。

「結構、頑張ってたじゃん。……初日であれだけ動けりゃ上等」
「え? 見てたんですか」
「そりゃ見るさ。悪役だけじゃなくて、全員チェックするのも俺の仕事だから」

 穏やかな声なのに、どこか探るような響きが混じっている。
 俺はペットボトルを持ったまま、どう返していいかわからずに立ち尽くした。

「……あの、さっきはすみませんでした。俺、変な空気にしちゃって」
「別にいいよ。俺が余計なこと言っただけだし」

 真柴さんはふっと笑って、自販機に硬貨を入れた。
 結構酔っていたように見えたけれど、そうでもないらしい。
 落ちてきた缶を片手で受け取って、プシュ、と開ける。

「ただ――」

 小さく一口飲んで、彼は俺に視線を向けた。

「藤堂、優しいだろ?」
「はい」
「だから気をつけた方がいいよ。 あいつ、誰にでもあんな感じだから」

 まるで冗談みたいな口調なのに、その裏に何かが滲んでいる。
 胸の奥がざらりとした。

「……えっと、それはどういう……」

「あいつ、昔から正義感強くてさ。
 でも、優しさって、勘違いさせるんだよ。 特に、君みたいなタイプには」

 “君みたいなタイプ”
 その言い方に、少しだけ刺があった。

「まっすぐで、目がきれいな子。見てて危なっかしい。誰かがちょっと優しくしたら、簡単に惹かれちゃいそうな感じ?」

 一瞬、言葉を失った。すぐに否定しようとして、できなかった。
 図星を突かれた気がして、視線を逸らす。

「あの……」
「いいんだよ。悪いことじゃない」

 真柴さんは遮るように言った後、少し笑いながら手の中の缶をくるくる回した。

「ただ、現場の人間関係って、思ってるより複雑だから。……誰かを好きになるとアクションにも影響が出るから、気をつけろよ」

 その声は、脅しではなく、どこか優しさが混じっていた。
 でも、それが余計に怖かった。

「……ありがとうございます」

 そう答えると、真柴さんは満足そうに頷いて、缶をゴミ箱に投げ入れた。
 軽い音を立てて、見事に中に入る。

「いい返事。……じゃ、おやすみ」

 そのまま背を向けて、ゆっくりと廊下の奥に消えていった。
 残されたロビーには、蛍光灯の音と、俺の鼓動だけが響いている。
 
 胸の奥で、小さな不安が静かに芽を出したような気がした。