桜井ひなと、二十歳。
 平凡な大学生活を送る、どこにでも居るごく普通の大学生だ。授業に出て、友達と遊んで、課題をこなす毎日は、淡々と過ぎていく。
 特別な趣味も、取り柄もなく、何に夢中になればいいのかもわからない。

 そんな俺の生活を、一瞬で変えたのが〈ブレイヴ・ライダー龍〉との出会いだった。

 場所は、地元のショッピングモール。
 偶然通りかかったイベント広場に、「ご当地ヒーローショー」の立て看板が立っていた。
 好奇心半分、暇つぶし半分で足を踏み入れたその瞬間、俺の心はすっかり龍に奪われていた。

『みなさん、こんにちは! 岩手県のご当地ヒーロー、ブレイヴ・ライダー龍のショーが始まります!』

 MCのお姉さんの声が響き、ステージに一人のヒーローが現れた。赤と黒のスーツは光を反射し、まるで生きているかのように煌めいている。
 一歩、また一歩と踏み出すたび、会場の空気が変わる。動きが軽やかで、同時に圧倒的な力強さを帯びている。
 連続技と、剣を振るたびに宙を切り裂くような動き。敵をかわす動作のひとつひとつまで、計算され尽くした美しさがあった。

「か、かっこいい……」

 思わず声が漏れた。胸の奥が震えている。ご当地ヒーローのクオリティに留まらないアクションの数々に、俺はすっかり心を奪われていた。

 ショーが終わると、龍はMCのお姉さんと並んで、子どもたちに笑顔で握手をしていた。ファンサービスも厚く、親がスマホを構えてカメラで写真撮影している。
 大学生の俺がその列に並ぶのはさすがに場違いで、足を止めたままその光景を眺めていた。
 けれど、どうしても心が離れなかった。

 帰りの電車の中で、〈ブレイヴ・ライダー龍〉の公式アカウントを検索する。
 そこには、「地域の子どもたちに夢を届けるため活動しています」と書かれていた。ショーの運営費はチケットやグッズの売上で賄われ、その一部は社会福祉に寄付されているらしい。
 ただカッコいいだけじゃない。誰かのために戦っている姿勢に、ますます心を掴まれた。

 その日から、俺の日常は少しずつ変わり始めた。
 最初は「また見たいな」――ただ、それだけの軽い気持ちだったのが、龍の出演スケジュールを調べるのが習慣になっていた。
 授業が終わると電車に飛び乗り、隣町のショッピングモールへ向かう。ショーの終盤に、更なるフォームチェンジを遂げる「変身」ポーズの瞬間、思わず膝の上で拳を作る俺は、子どもたちとなんら変わらなかった。

 やがて撮影会にも足を運ぶようになった。
 カメラ越しに見る龍は、ただ立っているだけでも、どこから撮っても画になる。しかも、一人一人に合わせてポーズまで変えてくれるのだ。その凛とした立ち姿に、シャッターを切るたび胸が高鳴った。

 やがて俺はMCのお姉さんに顔を覚えられ、「今日も来てくれたんですね〜!」と笑いかけられたときは、照れくさいのに、どうしようもなく嬉しかった。

 そしてある日のショーのあと。ついに、握手の順番が回ってきた。
 会場にはもう子どもたちの姿はなく、残っていたのは数人の“大きなお友達”たち。
 大量の缶バッチをつけた女性や、龍のイメージカラーの服を着用している男性。みんな、それぞれの形で龍の活動を応援しているのが伝わった。

「いつも応援、ありがとう!」

 その声は、事前に用意された声優さんのものだと分かってる。それでも、目の前に立つ龍は、客席から想像していたよりも大きくて、圧倒的な存在感があった。
 照明に照らされた赤と黒のスーツ、分厚いグローブをした手。ぎゅっと力強く握られて、その一瞬の触れ合いに、全身が痺れるような感覚が走った。

 ショーを追いかけるたびに、スマホのフォルダは龍の写真で埋まり、待ち受け画面に設定するようになった。
 課題や試験勉強の合間には、主題歌を聴いて気合を入れるのが日課になった。布教したくて友達たちに龍の格好良さを力説して、「お前、本当に大学生かよ」と失笑されることもあった。

 でも、俺は何も恥ずかしくなかった。これは単なるヒーローショーじゃない。龍の信念は、俺にとって“生き方”の象徴だった。
 ぶれずに戦うこと。弱くてもいいこと。時には逃げてもいい――でも、何度でも立ち上がること。

 その姿に、俺は何度も救われた。
 そして、全力で応援したいと、心の底から思うようになった。


 ***


 そんなある日。

 大学帰りの電車の中で、いつものようにSNSをなんとなく眺めていた。眠い頭でタイムラインを流していると、ふと――ひとつの投稿が目に飛び込んできた。

 ◆初心者向けアクションワークショップ開催決定!
 ◆龍のアクションを監修した、スーツアクターによる直接指導!
 ◆未経験可/体験型・三泊四日プログラム!

 瞬間、心臓が跳ねた。
 目が冴えるなんてレベルじゃない。
 体がそわそわして、何度もその投稿を見返す。

「運動経験が無くても、大丈夫なのかな……」

 小さくつぶやいて、詳細画面をタップした。

 場所は郊外の研修施設。対象は二十歳以上の男女。
 体験内容には「基本の立ち回り」「殺陣」「模擬戦」「発表形式のミニショー体験」――どれも聞くだけで胸が躍る。
 運営元は、ブレイヴライダーの公式。つまり、“龍”を抱えるアクションカンパニーだ。

 別に、スーツアクターになりたい訳ではない。
 身長も低いし、運動神経が良いわけでもない自分が参加するのは、場違いかもしれない。
 
 けど、あの“龍”に、いつか倒されてみたい。
 非現実の世界に、飛び込みたくて仕方なかった。
 舞台に立つ瞬間、自分が“推しの世界”に少しだけ溶け込むんじゃないかって思った。

 想像するだけで、胸がドキドキする。
 倒される瞬間の空気、風圧、そしてステージ上で見下ろす龍の姿。
 その圧倒的な存在感に押し潰されるのを、体験したくて仕方なかった。

 ――なんだろう、この変な感覚。
 「憧れ」とはちょっと違うし、「ファン心」とも少し違う。
 ただ、あの舞台で“負けたい”。倒されてみたい、という願望。
 きっと、普通の人には理解されないだろう。

 気づいた時には、もう応募フォームを開いていた。
 名前、年齢、運動経験。
 手が震えて文字が打ちづらくて、何度も入力し直す。
 「送信」ボタンを押した瞬間、胸の奥で心臓がひときわ大きくドクンと鳴った。

 スマホのスケジュールアプリを開き、ワークショップの日程にラベルを付けた。
 その日付を何度も見返して、頬がゆるむのを止められない。
 電車の窓に映る自分の顔が、思っていたよりも嬉しそうで、ちょっと照れくさかった。

 当日まで、一ヶ月。自分の知らない世界に飛び込めるのを、待ちきれないほどワクワクしていた。